今帰仁間切番所(役場)と運天の変遷
                          
沖縄の地域調査研究(もくじ)


 今帰仁間切の番所(明治になって役場)は変遷をたどっている。1666年以前は今帰仁グスク内、1609年の薩摩軍の今帰仁グスク焼き討ち後、今帰仁村(ムラ:麓へ)、1666年にこれまでの今帰仁間切は分割し、今帰仁間切と伊野波(本武)間切となる。その時、今帰仁間切の番所は運天港へ、本部間切は伊野波村(渡久地村)へ。





20031210日(水)

 次のような文章が目についたので紹介しましょう。運天隧道(トンネル)や源為朝公上陸之跡碑などについて説明することは度々あるが、当時の様子を記した記録がほとんどない。自動車道と上陸記念碑の祝賀会や除幕式などが行われていて興味深い。除幕式は大正12年6月23日である。

    大正初期に村役場は運天から仲宗根に移され、仲宗根の大井川町から運天
    まで自動車の通れるような道路が出来、その開通式と為朝公上陸記念碑も建
    立されたので、その序幕式を兼ね盛大な祝賀式典が挙行されました。当日の
    祝賀会において源為朝公を偲ぶ歌を記して

     一、鎮西八郎為朝公 東南の勇士止み難く大海原を船出して着し所は運天港
     二、運天森の松風と 高く聳ゆる石踏は、為朝公が上陸の跡をば永久に語るらん
    三、英雄逝て七百年 うるま島の裏波は 君が功を賛えつつ調べも高く歌うなり

     斯して式典は恙なく余興としてハーリー競技に始り、夜は古典舞踊や為朝公上
    陸記念祝賀会にふさわしい余興がくりひろげられ有意義な催であった。

         「ふるさと今帰仁の思い出」諸喜田武吉(『アルゼンチン国 今帰仁
          村人会誌』)


20031211(木)
 
 今帰仁村の役場は現在字仲宗根にある。近世から大正5年まで今帰仁間切(村)の番所(役場)は今帰仁の東側の運天港にあった。大正5年に運天にあった役場が今帰仁村の中央部の仲宗根に移転する。その後押しは大正2815日の「沖縄毎日新聞」(今帰仁通信)の記事ではなかったかと考えている。

   [役場移転問題](運天から仲宗根へ)

     本村役場は旧藩当時運天港に建設せし以来巳に幾百星霜を閲
     し最西端今泊を距る二里余東端湧川より半里等交通運輸の便
     なきのみか僅にニ三十戸に過ぎざる小部落にて背後に百按司墓
     を負ひ前方屋我地島と相対して其間運天港を擁し極めて寂莫荒
     廖の一寒村に候
     予輩は何が故に数百年来敢へてかかる不便と苦痛を忍ぶの要
     あるかを怪しむ者に候 今泊在の吏員に至りては早朝家出しても
     役場到着は十時頃になるべくそれより汗を拭き去り涼を納れて卓
     に向へば時辰は十一を指すべし 一時間にして食事をなし更に
     二時より初めて二時間を経れば四時となり退散を報ずべし 然れ
     ば毎日の執務時間は僅々四時間を越えざるべくと存候
     加之人民の納税、諸願届書類の進達等学校に各字の小使派遣
     等日々一万五千の村民が如何程多大の迷惑と傷害を受け居る
     かは門外漢の想像し得ざる所に有之候
     曩に役場移転問題議に上りしも郡長と議員との意見衝突の為に
     遂に沈黙の悲運に逢着したりと 些々たる感情の為めに犠牲とな
     る村民こと不憫の至りに候 

その記事が出て三年後の大正5年今帰仁村役場は運天から中央部の仲宗根に移転する。


琉球の歴史を秘めた運天港(平成4年5月)

 今帰仁城をめぐる歴史と並び称されるのに運天港をめぐる歴史がある。その運天港は「おもろさうし」で、
 一 せりかくの のろの (勢理客のノロの)
    あけしの のろの  (あけしのノロの)
    あまくれ おろちへ (雨くれを降ろして)
    よるい ぬらちへ  (鎧を濡らして)
 又 うむてん つけて  (運天に着けて)
    こみなと つけて  (小湊につけて)

と謡われ、古くからよく知られた港であった。

 写真は昭和8年発行の「沖縄県人物風景写真帖」『望郷沖縄』(五巻)所収の一枚である。海上に浮かぶ二枚帆の三隻の舟は、山原船(馬艦船ともいう)である。その向こうに屋我地島と小さな島々がかすかに見える。運天港の海岸沿いには、コバテイシの大木の並木が三、四本あり、その下に山原の各間切の上納物が集められ、海上から船で運ばれていったという。また、番所(役場)と見られる二棟の建物があり、運天は大正5年まで今帰仁の行政の中心地であった。写真の手前に貯水タンクのようなものが見えるが、船の補給に用いられた施設のように思われる。

 運天港に寄港する船は、護岸に直接船をつけたわけではなく、写真に見るように少し沖に停泊させ、岸へは小さな舟で荷物を運んだ。戦後になって、桟橋をつくり船を直接接岸できるようになったという。写真の左上の方の崖の中腹に白く見えるのは、ザフンと呼ばれている木材を組んで作った家型の墓である。周辺の個々の墓について、まだ調査していないが、運天と関わった先人達が葬られており、調査・研究が進められていくことで秘められた運天港の歴史が、さらに展開していくものと思われる。

 運天港は、様々な歴史の場面に登場するが、運天港での歴史的な出来事の一つを紹介する(『琉球王国評定所文書』所収「漂着唐人滞在日記」)。それは、1714年に大島に漂着した唐船が翌年運天港へ回航され、そこで船の修補し本国へ送還された事件である。唐人の出身は、蘇州・福州・松江の三府である。唐人が運天に到来したので諸事締之儀を出し、御条書の通り堅固に申し渡している。勤番屋を三軒調えさせ、位衆人一人、頭一人、百姓一人ずつを昼夜詰めさせ、夜は篝火を焼き見張りをさせた。また、唐人が乗ってきた船に近寄らない、女性は浜辺を通らない、村中で大和歌をしない、唐人の乗っている船付近で漁をしない等、堅固な申し渡しが出された。

 番所の敷地内に縦十間、横二間半の小屋を二軒、縦三間、横二間の台所を一軒調え、小屋の外囲は高ススキやイノマンで内外見通しができないようにし、門の左右と後表の両角に勤番の家を調えて見張らせた。唐人の滞船中は、屋我地と運天の浜に番屋を四件作り昼夜詰めさせた。その時、具志頭親方(蔡温)をはじめ、王府の役人が運天へ検見にやってきた。薩摩役人は上運天村、琉球側の役人は直接下運天に詰めて、またその間大和船の乗り入れが禁止され、天候が悪い場合は郡(古宇利)の前に潮掛りをするように達がだされた。

 このように、薩摩支配を中国側に知られないようにとの政治的な動きがあり、琉球が薩摩に支配されていないというカモフラージュをする役目を運天港が担っていたのである。



運天港付近の古い墓(昭和十年頃) 

 運天港の周辺には大北(ウーニシ)墓や百按司墓など、歴史的によく知られた墓がある。それとは別に、崖の下や中腹に無名の古い墓が群れをなしている。それたの墓にどのような人達がいつ葬られたのか、素姓は今だ定かではない。

 これまで運天港付近の無名の古墓として扱ってきたのであるが、これら古墓はいくつかのタイプに分けることができるが、ここでは大きく二つに分ける。一つは崖を掘り抜き、そこに家型の建物をつくり、その中に木棺や甕を納めるタイプである。

紹介するの三枚の写真は『琉球建築大観』所収で、昭和9年から10年にかけての運天の墓の状況である。

一枚目の写真は、崖の中腹にある写真である。右側の墓は前面に材木で枠をつくり、それにザフンと呼ばれる板でふさいでいる。その中に、木棺が入っている。木棺からこぼれた人骨は、墓室内に散在したままである。現在、この墓は新たに板でふさいである。左側の墓も崖の中腹に作られ、崖に横穴を掘り、そこにザフンを使って家型の建物を作ってある。さらに、その中に人骨が入った木棺や甕などが納められている。また、墓室の中には竹籠を編んだような入れ物があり(現在押しつぶされている)、それに人骨が納められた形跡がある。家型の墓の正面の中央部に墓口があり開くようになっている。この墓の特色は、崖の中腹に横穴を掘り、そこに家型の建物をつくり、その中に甕や木棺を入れる形である。

 二枚目の写真も、上の写真同様崖の中腹を掘り込んで作られた墓である。中央部の墓口は丸太を使い板戸にでもなっていたのか、開いたままになっている。墓口に香炉が置かれ、左右は竹で編んだチニブでふさぎ、墓室内に甕が置かれている。

三枚目は、崖の中腹にある四つの墓である。写真の右側からチニブでふさいだ墓、木の板でふさいだ墓、三番目は石積み。そして、一番左側の墓はチニブかカヤでふさがれているように見える。

運天港付近の崖中腹の墓の外観を見たのであるが、当時の死者をどのように葬ったのか定かではない。しかし、洗骨をし、木棺あるいは甕などに人骨を納め、木の板やチニブでふさいだ墓、あるいは家型の墓の中の木棺、あるいは甕に葬っている。

これらの墓を調査をし、解明していくべきであるが、その多くが未調査のままコンクリートで閉じられている。


運天港と運天のムラウチ集落(平成2年9月号)

  運天港あるいは運天のムラウチの集落に焦点を当てた、明治後半から戦前にかけての写真、さらに昭和30年代に撮影された印象深い写真が数点ある。その中から二枚と現在の写真を中心に、運天の移り変わりをみていくことにする。       

 一番上の写真は、『望郷沖縄』に掲載された運天港の写真である。まず、目にとまるのが海上に浮かぶ帆をたてた山原船と海岸の護岸、そして数本のコバテイシである。コバテイシの一本は、現在でも健在である。画面には写っていないが、左手に今帰仁間切(村)役場(番所)が、まだ運天にあったころである。運天港とは言いながら、船をつける桟橋がない時代である。当時、運天港では船を横付けできる施設がなく、山原船や大和船は沖に停泊させ、小舟で荷の積み下ろしをしていた。船着き場の突堤ができたのは、昭和34年になってからである。また、ウッパジ付近の崖に白く見えるのはザフンで造られた墓である。現在でも、壊れかけた墓があり、その多くは調査もされないままブロックで閉じられてしまった。

  1816年に琉球を訪れたバジル・ホールは、『朝鮮・琉球航海記』で運天について「道路は整ってきれいに掃き清められ、どの家も、壁や戸口の目の目隠しの仕切りは、キビの茎を編んだこざっぱりとしたものであった。・・・

 浜に面したところには数軒の大きな家があって、多くの人々が坐って書き物をしていた・・・ 村の正面には海岸と平行して、30フィート(9メートル)の幅をもつすばらしい並木道があった。両側からさし出た木々の枝は重なりあって、歩行者をうまく日射しから守っている。そこに木のベンチが置かれ、木のそばには石の腰掛けをしつらえた場所もいくつかある」と記し、その描写と写真の風景がいつもだぶってくる。

 二番目は、運天森(源為朝公上陸跡之碑のあるところ)から撮影した『今日の琉球』(昭和34年)の写真である。中央部にトンネルへつながる道路があり、茅葺屋根と瓦葺屋根が半々に見られ、高度経済成長へと入っていく時代である。戦前に比べると、屋敷を囲む福木並木が大分少なくなっている。番所(役場)跡地には数軒の家が建ち、海上にはエンンジン付の船が見え、古宇利島との渡し船だろうか。

 三番目の写真は、昭和61年にウッパジの上にある運天公園から撮影したものである。海岸が埋め立てられ、護岸が積まれていたところは、強固なコンクリートの堤防ができ、現代的な整備がなされている。民家は、藁葺屋根から瓦屋根となり、さらにスラブの家へと移り変わっている。かつて、数本あったコバテイシの大木が一本残り、新しく植えられた木も見える。番所(役場)のあった周辺には福木の大木があり、かつての風情が僅かながら忍ばれる。

 運天のいくつかの写真をみていると、かつてあった古い風景が写し出された写真ほど胸をうつ。それは、なんだろうかといつも考えさせられる。単に懐かしさや思い出の風景があるというだけではない気がする。人工的な物が目立たない、あるいは自然がおりなす美しさ、さらには運天港が果たしてきた歴史的な背景が、語らずして私たちの胸に訴えているのではないだろうか。「開発も自然との調和だ」と叫ばれて久しいが、回りを見回すと、それとは裏腹に人工物の氾濫である。

 


イシベー(石灰)焼き、運天に始まる(平成10年1月)

 今帰仁村にペーヤ-という屋号やペーヤチガマの小地名がある。ペーヤーは石灰焼きをしていた家、ペーヤチガマは石灰を焼く窯のこと。ペーヤチ窯に入れられた真石や平珊瑚は二昼夜焼かれイシベー(石灰)になる。イシベーとワラを混ぜて、石臼でつくとムチ-(漆喰)となる。そのムチーは赤瓦のつなぎ目などに塗り防水の役割を果たす。イシベーはまた黒糖の中和剤としても利用された。

 三和土(サンワド)は、ムチーに赤土などを混ぜてこねたもので、今のセメントに相当する。溜め池や藍壷、豚小屋や牛小屋などの水肥溜めの水もれ防止として、また墓の壁や井戸の周辺の防水に使われた。

 三和土には白三和土と赤三和土がある。白三和土は石灰に食塩やスナヅルを入れて水でこねたもの。墓の表面を塗るのに使われた。赤三和土は石灰に赤土と食塩・スナヅルを水でこねたもので主に井戸や軒下などに使われた。

 『球陽』(巻十二、尚敬19年の条)は石灰について次のように記してある。「琉球の船はみな螺灰を用いていた。1731年の蘇州の商船が赤丸崎に漂着した時、運天港に引き入れた。漂着人の中に石灰の焼き方をよく知る者がおり、蔡宏謨と翁国材は石灰の焼き方を学んだ。すぐ焼き窯を運天村につくり石灰を焼いた。その後、今帰仁と本部の両郡(間切)で石灰を焼くようになった。石灰を焼き毎年公庫に納め,それから貢船や偕船は石灰を用いるようになった」。当時,今帰仁間切で赤瓦屋根の建物は番所を除けばほとんどなかった。そのため,今帰仁間切のあたりで焼かれた石灰は、公庫に納められ主に首里城や船の修復などに使われたと思われる。

 今帰仁村でペーヤチが見られなくなって久しい。赤瓦の家が多く見られた昭和30年代まで石灰を焼き漆喰を製造する風景があった。このペーヤチが今帰仁村の運天に始まり、各地に広まっていったという出来事は興味深いものがある。

 


今帰仁村役場の移り変わり(平成6年9月)

 今帰仁村の役場(番所、役所)は、大正5年まで運天港の側にあった。陸上交通が発達してくると、今帰仁村の東側に位置していた運天の役場は、西側のムラ・シマの人達にとって不便であった。しかし、海上交通が運搬の重要な役割を担っていた時代には、港に近いところに役場があることが都合がよかった。

 大正5年に運天から今帰仁村の中心にあたる仲宗根に役場が移転した。ちょうどその頃、郡道の整備が行われた時代でもある。役場移転より三年前の「沖縄毎日新聞」(大正2年)によると、今帰仁村役場は旧藩当時運天港に建設し、以来長い年月がたっている。西端の今泊から二里余り、東端の湧川から半里。交通が不便であるだけでなく、わずか二、三十戸の小さな部落である。さらに、今泊在の吏員は早朝家を出ても役場に到着するのは十時ごろとなり、それから汗を拭い取り卓に向かえば11時を指している。一時間で食事をし、更に二時よりはじめて二時間すれば四時となり退散である。そうなれば、毎日の執務時間は四時間を超えないことになるなどと述べている。その新聞記事が、役場の移転の引き金になったどうか定かではないが、村民の多くが陸上交通の発達や道路の整備とあいまって運天では不便であると感じていたであろう。

 運天から仲宗根へ移転した後の戦前の役場は、赤瓦屋根の建物であった。移転した当時(新垣源次郎村長)の役場建設ついての資料は、まだ確認していないが、昭和十年頃に撮影された写真が一枚ある(『沖縄県人物風景写真大観』昭和10年所収)。

 ここに揚げた写真は、戦後、昭和33年頃の役場前での記念写真である(謝名、大城善盛氏提供)。役場は、昭和22年に楠(くすのき)材を使って建てられた瓦葺き屋根の建物である。赤い瓦屋根の建物は、昭和22年に楠材で建てられ、十年余り経っているので屋根の所々が修理されている。入り口には「今帰仁村役場」の看板が揚げられ、窓はガラスである。写真の面々は産業共進会で入賞し、賞状と商品を前にしての記念撮影である。大城健一村長をはじめ糸数昌徳助役、山城一男氏、松田堅栄氏、諸喜田平吉氏、米須清福氏などの顔がある。

 戦後すぐは、仲宗根の事務所に仮役場を置いていたが昭和21年の7月に戦前の役場跡地にコンセットを建てて移動した。翌年の11月に楠材を使った新しい役場(総坪数785五坪)の建設がはじまった。

 当時の記録(「村政委員並びに区長会記録」)をみると、まず早急に役場を建設することが決定された。村としては大工や人夫を傭うことが困難なので、各字から人夫を出してもらい、材木運搬の日数や日にち(昭和22年2月1日から)が割り当てられた。役場の落成式は、同年1129日に行われ、式は村長、棟梁、工事監督が役場で行い、余興は記念運動場で行われた。

 現在の役場は、昭和36年に竣工し翌37年に完成した。その後、増築や改築がなされた。今帰仁村役場は大正5年から仲宗根の現在地にあり、以来戦前・戦後の村の行政の拠点として機能し続け、現在に至っている。


戦後(昭和二十二年)に建設された村役所

 戦後の今帰仁村役所(役場)は昭和22年に建設された。その年の1月、役場建設について当時の松本吉英村長は次のように述べている。

 「現在樟脳の外に資材は得られないのであります。盗伐が多いので早く切り出さなければならない。吏員でも席のないものが居ります。予算がないので村として大工や人夫を傭うことが至難であります。それで一般の負担にかけたいと思うのであります。伐採人夫賃は只今村で支払って居ります。各字から人夫を出すことにならば加動のない子供や女が出るので各字の人口に割して完全能力のあるものを出して貰いたい。各字に配馬が居りますが、今の飼主は私利に耽り村の作業等は問題にして居ないのであります。此際村政委員方の御意見を聞いて取替えをしたいと思っております」。

 会議の結果、2月1日から三ヶ月に一回出夫すること、材木の運搬や山入りの順序が抽選で決められた。

 『戦後復興期の議事録』(「すくみち」第31号)をみると、敗戦直後事務所を借りて事務をとっていた。その後、コンセントの役場を立てた。役場を建てる資材の準備ができると村政委員会で建設についての総費用、費用の拠出の方法、時期、日数、建築に要する人員、村有地の売却、余った資材の利用など、様々な議論がなされている。

 上の写真は、昭和22年頃の今帰仁村役場である。赤瓦屋根の建物は楠(クスノキ)を切り出して造った。楠の柱や板でできた建物の総面積は785坪あり、戦前の建物の60坪より広く、県内でも指折りのりっぱな建物であったという。右側の正面玄関には「今帰仁村役所」の看板が掲げられている。

 建物の後方には大木の松。前方に立っている三氏の中央が当時の村長の松本吉英氏(字謝名)である。左側が石嶺幸亮氏(当時助役、字平敷)、右側が大城健一氏(昭和33年村長、字仲宗根)である。白い漆喰がまぶしく輝いている。

 下は今帰仁村役場の玄関前で、職員の記念写真である。上の写真の三方のほかに吉田光正氏(元県議)や松田幸福氏(後の村長)や宮里政次氏(字越地)や上間カズさん(字運天)などの姿が見える。松本村長や大城収入役の格好などから見て、上の写真と同じ日に撮影されたものであろう。役所の新築を祝っての記念写真であろうか。シミのない壁を見ていると、真新しい楠の香りがしてくるようだ。

 「役場の新築」と年表では一行ですんでしまう事柄だが、写真を読み込み、当時の議事録をひもといていくとそこには様々な動きの積み重ねがあってひとつのことが成就していく流れがみえてくる。


山原の津(港)と山原船 

 昨年から津(港)と山原船の調査を続けている。山原の津々浦々を繋いでいたのは、主に山原船であった。沖縄本島北部の東海岸の村々と与那原港。西海岸の村々と泊港と那覇港とを結ぶ航路があった。大正の頃、自動車の登場で山原の道路(郡道)整備が急速になされた。物資の輸送は海運から陸上運送へ徐々に移っていくが、昭和30年代まで山原船の航行が見られる。

 今帰仁グスクと親泊、根謝銘グスクと屋嘉比港、親川(羽地)グスクと勘手納港など、グスクと港が密接に関わった時代もある。グスクから中国製の陶磁器類が出土することがうなずける。山原の主な港に運天・名護・渡久地・塩屋などがある。薩摩への仕上世(しのぼせ)米を集積する四津口(那覇・運天・勘手納・湖辺底)の内三つは山原にあった。

 調査の過程で常識が覆る場面が度々あった。船が接岸できる港や桟橋のある港がほとんどなかった。干潟の場所は船の修理にいい港である。沖に船を碇泊させ、陸地との間は小さな伝馬船で荷物を陸揚げする。源為朝の渡来伝説の運天港は、古くから良港として知られていたが、桟橋ができ船が接岸できるようになったのは戦後であることなど。

 近世には間切船で上納(穀物)の運搬があり、山原の村々からの主な積荷は薪木・木炭、藍・砂糖などである。逆に山原へは焼酎・大豆・味噌・瓦・素麺など日用雑貨が主である。故仲宗根政善先生は「与那嶺長浜(今帰仁村)に山原船が入ると、まるで宝船を迎えるように村人が浜に集まった」と表現される。

 山原の津々浦々を船が往来し、文物の流れは船を介した海上輸送が主で、数百年も続いていたことを忘れていないだろうか。

 
  近世の四津口の一つ(運天港)            明治末頃の運天港(望郷沖縄より)