今帰仁のムラ・シマ
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・今帰仁村―移動集落―
・天底のアブシバレーとタキヌウガン ・おもろさうし:せりかく ・勢理客の御嶽
・今帰仁グスク内のウタキとイベ ・津屋口墓
【今帰仁グスク内のウタキとイベ】(2004.7.3)メモ
『琉球国由来記』の今帰仁間切の御嶽の記し方から、御嶽(嶽)とイベ、そして神を認めていることがわかる。御嶽名を「・・・嶽」と報告したところは「神名・・・御イベ」とある。ところが御嶽名を「・・・御イベ」と報告したところは「神名不伝」としている。このように不統一の報告であるが、御嶽(森)と御嶽の中のイベ、そしてイベに神の存在(降臨)を認めていることがわかる。
今帰仁グスク内にある二つの御嶽は村(ムラ)レベルの御嶽と異にしている。城内上之嶽は「此嶽、阿摩美久、作リ玉フトナリ」とあり、国レベルあるいはグスクレベルの御嶽と見ることができる。『中山世鑑』にの「琉球国開闢之事」で「先ヅ一番ニ、国頭ニ、辺土ノ安須森、次ニ今鬼神ノ、カナヒヤブ、・・・」とある。城内上之嶽の神名がテンツギノカナヒヤブノ御イベとあるので、開闢のカナヒヤブと同一の御嶽とみなすことができる。今帰仁グスクのカナヒヤブ(御嶽)はムラレベルの御嶽から国レベルの御嶽となり、さらに村レベルの御嶽としての祭祀場として残されている。阿応理屋恵の廃止、復活と関わりがあり、今帰仁ノロが阿応理屋恵が行っていた国レベルの祭祀も肩代わりしている部分があり複雑である。つまり村レベルの祭祀と国レベルの祭祀が、村祭祀を行うべき今帰仁ノロが国の祭祀も行っているということ。
それとグスクに近いコバウノ嶽も国レベルの御嶽であるが、阿応理屋恵ノロの廃止、復興などの経過があり、『琉球国由来記』では今帰仁村(ムラ)にあり今帰仁ノロの管轄となっている。国頭間切辺戸村のアフリ嶽(安須森か)に君真物出現の時、冷傘(ウランサン・リャンサン)が立ち、首里王府に伝え、王殿で儀式が行われる。村レベルの御嶽と異なり、国と関わる御嶽と位置づけることができるが、阿応理屋恵の廃止にともなって今帰仁ノロが肩代わりしたため、本来の祭祀の管轄に戻すことができなかった。今では村レベルの祭祀(フプウグヮン)として年二回(6月と9月)として村の人たちと今帰仁ノロが行っている。
今帰仁グスクのある標高約110mの森を御嶽と見なすことができるのではないか。すると御嶽の中に二つのイベ(イビともいう)がある。御嶽に石垣を積み上げてグスクとして機能し、限られた支配者が住むようになる。森全体が御嶽だったのが、本来のイベの部分とその周辺を囲って小さな御嶽にしてしまう。今帰仁グスクの場合は、1665年に今帰仁按司一族が首里に引き上げてしまう。その際、グスクには御嶽やイベはそのまま残し、さらに一族の火神を祠を城内に設けて(今帰仁里主所火神)引き上げてしまう。『琉球国由来記』(1713年)には首里に引き上げて50年近く経った頃の記録である。
名護グスクでの祭祀同様、今帰仁グスク内(今帰仁里主所火神や今帰仁城内神アシアゲ)での祭祀に首里に引き上げた、あるいは首里に居住している惣地頭や按司などの参加がみられる。本来、グスク内での祭祀は阿応理屋恵(オーレー)ノロの役目ではなかったか。前に述べたように、この頃は今帰仁阿応理屋恵は廃止されている時期である。そのため『琉球国由来記』には今帰仁巫(ノロ)とトモノカネ巫(ノロ)の祭祀として記録されている。
今帰仁グスクの御嶽とグスクとの関係をみると、今帰仁グスクのある森に人々が住み、小規模の集落を形成し御嶽をつくる。地域を統括する按司(世の主)の出現で石囲いのグスクを形成する。支配者を除いた人々はグスクの周辺に中心に住み集落を形成する。今帰仁グスクでは、近世初期までグスク周辺にあった今帰仁村と親泊村と志慶真村の三カ村である。山北王の時代、第一監守、第二監守(七世のとき首里に引き上げ)はグスク内で按司と一族は住む。今帰仁グスク内での惣地頭や按司の祭祀への参加に、引き上げ前の姿が見え隠れする。
グスク内には大正時代まで「城内の神ハサギ」があったが、今では建物はない。神ハサギ跡に祭祀を行う目印として香炉が一基置かれていて、海神祭のとき、その香炉に線香を置き祈りをする。『琉球国由来記』(1713年)に「毎年七月、大折目(海神祭)のとき、両惣地頭(惣地頭・按司)も参加する」ことになっている。城内のヨウオスイで行われるようだが、その場所はまだ特定できていない。城内に海神祭の時、餅を配る広場(店の前)があるがそこか。それともシマの人たちが集まる神アサギ跡の広場か。
・毎年7月大折目(海神祭ともいう)
・ノロ・大根神・居神・など二十人余りの神人が参加
・ヨウオスイ?にタモト(たもと木か)を置く。
・花(米)、五水(神酒)などをお供えする。
・アワシ川(アーシージャーか)から水をとりノロや大根神は浴びる。
・アザナを七回まわる。
・縄をはり舟こぎの真似をする。
・惣様(惣地頭?)馬に乗り弓箭を持ってナガレ庭(シバンティーナ
の浜か)へゆく。
・塩(潮か)撫でをする。
・親川で水撫でをする。
・再び城内のヨウオスイで祭祀をする。
グスクにおける祭祀と御嶽、そして首里に住む按司との関わりなど、ウタキをめぐって祭祀だけでなく、国を頂点とした祭祀を通した地方支配の形態が見えてくる。
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▲今帰仁グスクの城内上之嶽(カナヒヤブ) ▲上之嶽のイベ部分
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▲城内下之嶽のイベ ▲城内の神ハサギ跡の広場
今帰仁村―移動集落―
(2003.5.16)
17世紀初頭まで今帰仁グスクの前方にあった今帰仁村(ムラ)の集落が海岸に近い場所に移動している。今帰仁村(ムラ)の集落部分は現在の今泊の西側半分だとみられる。現在、ハタイ原で発掘調査がスタートしている。そのハタイ原域にあった集落がどの範囲まで広がり、そしてどのようなプランになっていたのか。現在の地籍図から見ると、碁盤状といわれているような方形状の区画ではないので、城下へ移動したときに碁盤(方形)状の区画がなされたのであろう。
集落が碁盤状といわれる方形状であったのか。それとも塊状であったのか。あるいは不規則な形だったのか。ハタイ原にあった集落がどのようなプランになっていたかは、移動後の集落のプランがほぼ方形状なので、その起源について考える手がかりとなりそうである。(現在のハンタ原とハタイ原の地籍からすると方形状ではないので、移動時に計画的に区画された可能性がある)。
城下に移動した集落が方形状に区画されていると見ると、17世紀初頭に方形状の集落の区画があったと考えることが可能となってくる。今帰仁グスク前方の集落のあったハンタ原とハタイ原の集落のプランの形式によっては、いろいろな議論ができそうである。
今帰仁村(ムラ)に限定して言うならば17世紀初頭には方形の集落のプランの出現をみることができそうである。今帰仁グスク前方のハンタ原とハタイ原に方形状の集落が確認できたなら、方形状の集落の出現は17世紀以前の古い時期にさかのぼることもできそうである。果たしてどうであろうか。
現在の今泊の集落プランをもう少し丁寧に見る必要がありそうである。移動してからの集落が、どう展開していったのか。今帰仁グスクの前方にあるトゥムヌハーニー火神の祠や今帰仁ノロ火神の祠、そして阿応理屋恵ノロ火神の祠などが、移動したとき、集落のどのような場所に移ったのか。さらに神ハサギや旧家などの位置を含めてみると、そこに法則性が見出されるのか。なかなか興味深いものがありそうだ。
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▲道や福木で方形に区画された集落が見られる
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▲集落移動の根拠とされる応理屋恵ノロドゥンチの祠とその内部
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▲祠の内部にある位牌(左が順治十五年) ▲今泊のシルバマ(白浜)
津屋口墓
(2004.5.1メモ)
麓の今泊集落の東側にある津屋口墓まで行ってみた。この墓は今帰仁按司三世和賢(宗真)が葬られている。墓の前の石の香炉に「大正元年壬子」、中央部に「奉」、左側に「本部村字浦崎 仲宗根門中 嘉数□五郎 寄進」とある。明治45年4月(7月30日大正元年)島袋源一郎は今帰仁村運天にある大北墓の修理の際、大北墓の内部を調査している。津屋口墓の香炉の寄進は大正元年とあり、それからすると大正元年の香炉の寄進は大北墓の修理に伴い、同族の一人である三世和賢の墓も修復もしくは香炉の寄進をしたにちがいない。
墓の庭(ミャー)に「墳墓記」と刻まれた碑が立っている。碑の建立は「大清康煕十七年戊午仲秋二十二日」(1678年)である。碑文にある「万暦辛卯」(1591年)は宗真(今帰仁按司三世和賢)の没年である。その時に墓を作ったけれど歳月が経って風雨で壊れたので87年後の1678年に修築し「墳墓記」を建立したのであろう。「墳墓記」の文面の解読は今のところ困難なり。
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▲三世和賢が葬られた津屋口墓 ▲大正元年寄進の香炉
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▲墓の庭にある墳墓記の碑 ▲今帰仁村今泊の福木のある集落
【天底のアブシバレーとタキヌウガン】
(2003.5.13)
明日は旧暦4月14日でアブシ(ムシ)バレーの日。15日のところもある。字(ムラ)によってはタキノウガン(嶽の御願)をする。天底が14日にタキヌウガンをするので説明をして欲しいとの依頼が先日あり。少し整理して臨むことにする(『今帰仁村史』参照)。以下の予備知識を頭にいれて臨むが、できるだけ天底の方々から教えを請うことにする。
〔天底のアブシバレー〕と〔タキヌウガン〕
天底のアブシバレーは旧暦の4月14日か15日に行われる。タキヌウガンは亥(ゐ)の日に行われていたようだ。今年の旧暦4月14日がゐの日にあたるため、ムシバレーとタキヌウガンをまとめたのかもしれない。天底からタキヌウガンだからと連絡があったのでゐの日だから、今年はアブシバレーとタキヌウガンを一緒にやる形なのかもしれない。ムラ人達にとって休息日でもあった。
〔天底のアブシバレー〕
アブシバレーが行われる旧暦の4月5月は稲の結実のころである。本来アブシバレーは田の草を除き、畦の草を刈り、虫(特にイナゴ)を駆除し豊作を祈願する祭祀であったであろう。古宇利島(今でも行っている)や今泊などでは害虫を集めて海に流す行事があった。
その日はインジュミをつくったという。インジュミは大麦を煎って石臼で粉にし、それに黒糖を混ぜ、おわんや皿などに入れてユシン木の葉をサジがわりにして食べたという。アブシバレーの日にはマーパラセー(馬走らし)があり、会場は仲原馬場・天底馬場・親泊馬場がる。相撲もやったようだ。マーウイの会場では俄か店ができ、
・雑炊飯(ジューシーメー)
・カーカシドーフ(乾燥豆腐・焼き豆腐)
・クルアミグァー(黒飴小)
・シルアミグァー(白飴小)
・松葉菓子(松葉の形をした焼き菓子)
・グンジューピャーガー(一厘菓子)
のようなものがでたという。(インジュミや雑炊飯はわかるが、他のものは知りません)
食べ物の他に、つぎのようなものが売られたという。
・指輪
・ベル
・オージナ(扇子)
〔天底のタキヌウガン〕
このタキヌウガンに天底の多くの方々が参加するという。天底の神アサギに集まり、神アサギの中に神人が座り、アサギに向って右側の一段下がったところに男衆、左側に女性が座る。
現在は区長がムラの行政の報告をし、持参した重箱のご馳走を食べながら昔話や世間話をする場になっているようだ。
天底(アメソコ)のタキヌウガン(アブシバレー)
(2003.5.14)
午後2時から天底(アメソコ)のタキヌウガン(アブシバレー)に参加してきた。二時に村の人たち(約30名)が神アサギの庭に集まってきた。今日のタキヌウガンの参与観察記録を簡単に報告する。(新城さんと松田さんから、いろいろとご教示いただいた。それは本報告に収録する予定)。ターガミ(田神)はシチャウガンでした。
村の人たちが揃うと、まず根神屋(ニガミヤー)に向う。今日ウガン(御願=祈り)をしているのは新城栄一さん。供え物は区長と書記さんが手伝う。
@神アサギ
村の人たちが午後2時に神アサギに集まる。
Aニガミヤー(根神屋)
根神屋の祠にはいてウガンをするのは新城さん。線香(平線香)に火をつけたり、泡盛と神酒(ミチ)とお米を供える準備をするのは区長と書記。参加者の数の線香に火をつけると村人に一本づつ渡し、また集めて祠の中の新城さんが火神の前の香炉に線香を立てる。合図をするとみんなで手を合わせてウガン(祈り)をする。前方に女性、後方に男性が座って祈りをする。ニガミヤーが済むとヌルドゥンチの祠へ。
Bヌルドゥンチ
ヌルドゥンチは、かつて天底ノロの住宅。供え物はニガミヤーと同じように線香・泡盛・神酒・お米である。区長が線香に火を付けてみんなに一本づつ配り、再びあつめて祠の中の新城さんが四ヶ所の香炉に分けて立てる。手を合わせてウガンをする合図をすると参加者も手を合わせる。ニガミヤーやヌルドゥンチでの神酒のウサンデーはなかった。ヌルドゥンチでのウガンが済むと御嶽(ウタキ)へ。
Cウタキ(ウイウガンともいう。オミヤ)
ウタキは森になっていて、頂上部のイベまで綺麗に草刈がなされていた。ウタキの中の途中から神人を掌っている新城さんと区長、そして女性の参加者が階段を登ってイビの祠まで。男性はウタキの途中まで行き、そこでウガンをする。そこから奥は男子禁制の場として入ることを慎む。イベの祠からウガンの合図があると下の方で待機している男性たちも手を合わせてウガンをする。
Dシチャウガン
アミスガーの近くの森。ウタキのウイウガン(上のウタキ)に対してシチャウガン(下のウタキ)という。そこはターガミ(田神)でない。その森の中にコンクリートの祠がある。そこでも他の拝所と同様、線香・泡盛・神酒・米が供えられる。そこでのウガンが終ると神アサギに戻る。
E神アサギ
神アサギのナー(庭:広場)にゴザが敷かれ、そこで車座になって飲みもの(ビール・お茶など)・オードブルが出される。かつては重箱にご馳走をつめ、区長の報告のあと談笑しながら飲んだり食べたりする。今日のウガンが通ったのかポツリポツリの雨になりかけたので神アサギから公民館に移動(私はそこで退散するなり)。
(神アサギで天底のアブシバレーとタキヌウガンを中心に説明)
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@神アサギに集まり出発 A根神屋で線香に火をつける
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B根神屋に向ってウガンをする Cヌルヤーの祠に向ってウガンをする
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Cウタキに向って進む Dウタキの中程でウガンをする男性たち
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Eシチャウガンでのウガン F神アサギでご馳走を前に談笑をする
【おもろさうし:せりかく】
(2003.5.4
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「おもろさうし」(第14巻46 No.1027)に、次のような古謡がある。その中の「せりかく」は今帰仁村の勢理客、「うむてん」も同じく今帰仁村の運天のこと。そして「かつおうたけ」(嘉津宇岳:標高約448m)は現在は本部町伊豆味に位置している。1665年以前は今帰仁間切のうちの嘉津宇村(近世になって村を移動)にあった山である。嘉津宇村のあった場所は今でも古嘉津宇と呼ばれている。
一 せりかくの のろの (勢理客の ノロの)
あけしの のろの (蝉の ノロの)
あまくれ おろちへ (天雨 降ろして)
よるい ぬらちへ (鎧を 濡らして)
又 うむてん つけて (運天に 着けて)
こみなと つけて (小港に 着けて)
又
かつおうたけ
さがる (嘉津宇岳に 下る)
あまくれ おろちへ (天雨 降ろして)
よろい ぬらちへ (鎧を 濡らして)
又 やまとの いくさ (大和の 戦さ)
やしろの いくさ (山城の 戦さ)
「かつおうたけ」(嘉津宇岳)は麓から、あるいは遠方からいつも眺めている。六合目あたりに駐車場があるので、そこまで車で何度か来ているが、頂上部まで登ることはなかった。今回は意を決しての登頂であった。
頂上部は古生代石灰岩を中心とした岩石からなるが、ケイ岩や粘板岩も見られる。駐車場から頂上部まで結構な勾配と岩場である。若者や元気者にすれば、あるいは本土の山登りを経験した方々にとってはかわいいものかもしれない。国頭村辺戸の阿須森や今帰仁村今泊のクボウの御嶽より険しい。登り口に杖が数本置いてあった。登った経験のある方が「どうぞ」と親切心からに違いない。遠慮なく使わせてもらった。ありがたや。ありがたや。
頂上には、すでに豊見城市から来たという一家?が記念撮影で大声をあげているのが聞こえた。タイマーにしているようだが、どうもタイミングがうまくいかないようだ。「シャッターを押してくれますか」とお願いされた。今度は私に「記念に撮ってあげますよ」と。「では、ではお願いします」(画像に入れるか迷っています。上等に写っていたら・・・。先日新聞のコラムに顔写真が掲載された。すると「誤魔化していますね」ときた。それは10年前の若い頃の写真でした。気持ちは今も昔も変わりません)。
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▲豊見城市からきた一家?(頂上にて) ▲「気持ちは今も昔も一緒ですよ」
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▲嘉津宇岳からみた今帰仁方面 ▲嘉津宇岳からみた名護市街と名護湾
【勢理客の御嶽】
(2003.7.12)
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御嶽はウガミと呼ばれ、御嶽の中にイベ(イビ)がある。今では祠がつくられ、中に二つの香炉が置いてある。「奉寄進」と年号、さらに人名が刻まれている。明治以前の中国年号と奥間仁屋と上間仁屋の名前が読み取れる(年号と名前は確かめる必要あり)。イビの回りに藁の左縄(ピジャイナー)が張り巡らされ、男子禁制の場であることを今でも示している。御嶽にはクバやクロツグ、ホルトの木などが繁り神々しい。
神アサギに移りる。勢理客の神アサギはセメント瓦ふきの建物である。柱はコンクリートになっているが、茅葺の頃は4本柱だったにちがいない。建物の中にはタモト木が置かれ、御嶽に向かって拝む位置に香炉が置かれている(本来香炉はなし)。
隣接して勢理客ヌルドゥンチ跡がある。建物の中に火神とワラザン(藁算)が置かれている。ワラザンは毎年新しく作っているようだ(稲藁を手に入れるのに苦労しているようだ)。ヌルドゥンチは勢理客ノロのかつての住居跡である。本来豊年祭を行うアサギナーがあるが、今ではミャーヌヘーに常設の舞台を作ってそこで行っている。
ウイヌハーは集落の上の方にあり、ヒチャヌハーは集落の下の方にある湧泉のこと。勢理客の集落はムラウチ集落とインガの集落に大きく分けられ、ムラウチ集落は上・中・下の組に分かれる。ウイヌハーを利用したのは集落の上の方、シチャヌハーは集落の下の方が利用してのでしょう。インガは水に不便をきたしたようで、離れたウプグムイやイシガキガーを使ったという。集落の下方の家々はヨシコトガーを使った人々もいた。
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▲勢理客の御嶽(ウガミ)の中の祠 ▲ウガミの中の祠(イビ)にある香炉
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▲御嶽の中で説明を受ける。 ▲神アサギの中の説明を受ける。