今帰仁間切のヌルドゥンチ 沖縄の地域調査研究(もくじ)
【今帰仁間切】
村内のヌンドゥンチをまわる。何度も訪ねているが、新しいテーマ(「ノロ制度の終焉」)をもっていくと不思議と、おぼろげだったノロ制度の終焉が、現在のノロが関わる祭祀とノロ家の現在の様子、そして時代の流れとの重なり、不思議と鮮明にうつり、複雑な思いがよぎる。
明治43年の「沖縄県諸禄処分法」が発令されるまでの過程、その後国がノロをどう補償していったのか。これまで目にしてきた明治のノロ関係資料。国がとった制度とどうかみ合わせながら見ていくか。それは、ノロ家(ヌンドゥンチ)のほとんどがたどりついた姿、ヌンドゥンチのノロの住んでいない神屋の祠が象徴しているのではないか。
『琉球国由来記』(1713年)にな今帰仁間切のノロは今帰仁巫(ノロ)・中城巫・玉城巫・岸本巫・勢理客巫(シマセンコ巫)・郡巫とトモノカネ巫が登場する。その頃の天底巫は本部間切(天底村)であり、まだ今帰仁間切に移動してきていない。そして湧川村の創設は1738年なので、湧川巫はまだ登場しない。当時湧川地内は羽地間切であり、そこに我部ノロが管轄する我部村・松田村・振慶名村・呉我村・(桃原村)があった頃である。当時の巫(ノロ)管轄する村を下に掲げる。その管轄は今に継承されている。
・今帰仁ノロ……今帰仁村・親泊村・志慶真村
・中城ノロ………中城(仲尾次)村・崎山村・与那嶺村・諸喜田村・兼次村
・玉城ノロ………玉城村・謝名村・平敷村・仲宗根村
・岸本ノロ………岸本村・寒水村(明治36年に合併して現玉城)
・勢理客ノロ……勢理客村・上運天村・運天村
・郡(古宇利)ノロ…古宇利村
①湧川ヌルドゥンチ跡
【湧川ノロ殿内】(明治30年頃)
火神 一社一字 境内70坪 湧川ノカネイ 社禄:26石9升7合
・湧川のろくもい
社禄の給与額(明治43年) 50円(証券) 3円94銭(現金) 計53円94銭

①湧川ヌルドゥンチ跡
・新垣マツ
②天底ヌルドゥンチ跡
【天底ノロ殿内】(明治30年頃)
火神 一社一字 25坪 天底ノカネイ 社禄:143石3升6合 銘より 氏子93戸
・天底のろくもい
社禄の給与額(明治43年) 250円(証券) 36円72銭(現金) 計286円72銭

②天底ヌルドゥンチ跡
・山城マシ(天底ノロカネイ)
③勢理客ヌルドゥンチ跡
【おもろ】
せりかくののろの あけしのろの
あまくれおろちへ よろひぬらちへ
うんてんつけて こみなとつけて
かつおたけさがる あまくれおろちへ
よろいぬらちへ やまとのいくさ やしろのいくさ
【勢理客jノロ殿内】(明治30年頃)
勢理客ノロ殿内 火神 一社一字 70坪 勢理客ノロ 社禄 16石5升5合 孫より 氏子126戸
・勢理客のろくもい
社禄の給与額(明治43年) 300円(証券) 21円12銭(現金) 計321円12銭
③勢理客ヌルドゥンチ跡 ヌルドゥンチの中(ワラザン)

・大城カマダ
④玉城ヌルドゥンチ跡
【玉城内神殿内】(明治30年頃)
火神 四字 境内77坪 玉城ノロカネイ 社禄:3石9升6合
・玉城のろくもい
社禄の給与額(明治43年) 50円(証券) 29円20銭(現金) 計79円20銭

④玉城ヌルドゥンチ跡



・平良ツル(玉城ノカネイ)
⑤岸本ヌンドゥンチ跡
【岸本ノロ殿内】(明治30年頃)
火神 二社二字 境内:150坪 岸本ノロ 社禄:43石1合 子より 氏子数:69戸
・岸本のろくもい
社禄の給与額(明治43年) 50円(証券) 36円02銭(現金) 計86円02銭

⑤岸本ヌンドゥンチ跡?
・大城カマダ(岸本のろくもい)
⑥中城ノロ家
【中城ノロ殿内】(明治30年頃)
火神 一社 境内:20坪 中城ノロ 社禄:ナシ 孫ヨリ 氏子数:469戸
・仲尾次のろくもい
社禄の給与額(明治43年) 50円(証券) 18円82銭(現金) 計68円82銭
【中城ノロ家に残っていた辞令書】(ノロ辞令書2枚)
①与那嶺の大屋子宛辞令書(嘉靖42:1563年)
②浦崎の目差宛辞令書(万暦14:1586年)
③玉城の大屋子宛辞令書(万暦20:1592年)
④中城のろ職叙任辞令書(万暦33:1605年)
⑤与那嶺の大屋子叙任辞令書(万暦40:1612年)
⑥与那嶺の大屋子叙任辞令書(崇貞16:1643年)
⑦中城のろ叙任辞令書(隆武8:1652年)(比嘉春潮全集所収)
⑧本部目差叙任辞令書(順治13:1654年)
⑨西目差叙任辞令書(康煕3:1664年)
⑩上間大屋子叙任辞令書(寛文7:1667年)
※『城間系統日記』(1950年5月6日)筆者宮城仙三郎(中城ノロ家の当主)
嘉靖(1通) 万暦(5通) 崇偵(二通) 順治(二通) 康煕(一通) (計11通)
(昭和20年まで保存したるも戦争のため焼失致せり)
【ノロクモイの年中行事】
一、御正月には崎山殿内に於いて新年の御飾りをなし年中の首尾御願を立てて西南のギギチ御河まで供物
は瓶酒御花米肉(クリジシ)昔は素?の吸い物もありましたが現在は廃止。
(略)
一、七月陰暦後亥の日は大弓の祭 ノクモイ勤務
一、八月十日は妖火の祭
右七、八月の其の日はノロクモイ年中行事の最大なる勤めなれば、正装して馬に乗り、下司は馬の手縄
を引張って五ケ部落、神アシアゲを廻ります。御供は神人も氏神以下崎守も同道します。昔は壮観でした
が、現在は略式で馬上に乗りません。(馬の鞍は現存している)
(略)
【ノロクモイ御解御願】(俗に申します進退伺いの御願)(昭和9年8月)
一 ノロクモイは日本時代に於いては県知事(昔は藩王)の辞令に依りまして、ノロ神職が定まりましたのです。
今後は如何なる事情の基に確定するか、現在軍政下の吾々としては見透しも出来ませんが、若しも米利加
式でのノロ職廃止になっても、将来幾百年の慣習に依って粘ったのを廃止の出来得るとは考えられません。
勤めてノロ職の継続を希望する故を以て、其立願と御解願の実情を委したく記録して後世の参考とするもの
なり。
一 ノロクモイが死亡したら直に新らしく、ノロクモイを立てる事です。其の身替り御願は、兼次、諸志、与那嶺、
仲尾次、崎山の各アシアゲ、シュガー御嶽、崎山御嶽、諸志御嶽、兼次御嶽、崎山ノロ殿内で初めて御願
立、前記箇所を洩れなく(身替何生の人)と親類中で御願することになって居ります。是等は当(ノロクモイ)
の掛島と申しまして他のノロクモイが犯す事の出来ない神域になって居ります。然るに当時の神様の前丈で
其のノロ職の進退は定まるものでありません。其の昔国頭郡、中頭郡、島尻郡と三個所に別れ其の郡内総
締元がありました。国頭は儀保殿内、中頭は首里殿内、島尻は真壁殿内となって居ります。
廃藩に於きまして其の三ヶ所も合祀になり、現在(戦前)三殿内と云いまして一ヶ所に御願所があります。戦
前首里城現琉球大学)前師範学校記念運動場西真下に其の殿内があったのであります。其の所に於いて
沖縄県のノロクモイ職の進退は定まるのであります。と申しますのはその所に御常結の方が大あむしたれ
と申しまして世にも珍しき神人が居ります。御小使い婆其の婆様は(産名あむ)とか申します小使婆が万事
世話人になって居ります。それで其の所に行き来意を取次ますと、婆が挨拶に出ます。宮城マツと宮城トミ
(仙三郎二女)との進退の時でした。余りよく解りません事で第一日目は失敗しました。と申しますのは普通
吾々の地方の習わしと致しましては御解御願には鏡ウチャノコ、御花米、御酒、御香を以て行ひましたので
行きまして御話すると、そんな事では当所の御願は出来ない。第一ノロ職の「玉と御衣装」と御供物は豚肉
中十二斤卵69ヶ、御菓子当時二銭のもの一円五〇銭分御米三升御酒三升御香御御土産、山原なれば芭
蕉布等。なければ香片茶箱入二ケ等を持参して参らねば通りませんと申された時、私はあーそうですかと
泣き泣き其の所を立ち去り考えれば考える程現代の世の中でそんな馬鹿げた事があるものかと一意考え
ましたのです。
俗に云う「ト井ズク」と誤解したのです。処がよく考えて見ますと後になって初めて理解もさし合点が行きまし
た。其れで其日は其の儘帰り翌朝、役場に平清氏が居るのを幸いい、玉と御衣装を早急自動車便より送っ
て呉れと電話で頼み十二時半に那覇で受取ったのです。それで昨日言い付けられた品物は半々に買い求
めて午後から首里へと出直したのです。そして色々と自己ノロコモイの立場を委しく申述べ門中々でやるの
ではなく、現在個人で来た次第も話、昨日の御詫びも丁寧に申訳したので向こうも同情の色が見えたので
す。そして婆さんから大あむしらたれの前に行き、斯如き事情で来た意志を御伝へますと。八十余と見える
方が手を引かれて、宿を御立直ぐ前の三殿内まで行き、ノロクモイ進退の御願を始めたのです。
其の実況を一寸書きますと、第一玉と御衣は神前に返します、そして死亡になった人の御解を上げます。
次に用意の品物を上げて今日、身替りのノロクモイが生まれたのですから、玉と御衣御衣拝領御授けとな
ります。そして一段落御願が済み次第に宿屋に引き返して前記品物で御馳走を拵え新らしく生まれたノロの
祝杯を上げる段取りになるのです。それで三殿内側からは拾人も行けばそれぞれノロクモイを中心に土産
物、当時は日本手拭二節、清明茶二ケ、親迄では其の通り順次に各人に手渡されます。それで初めて成
程当を得た也。とくと感心申しました。昭和九年八月でした。首里の言葉でノロクモイ、掛ける衣をミーショウ
玉をタマカワラと申します。


【ノロ殿内の位牌】
一番元祖
宗安妙意大神(雍正十二年申寅十月六日死去
法花妙道大神(乾隆十八年癸酉十二月十三日死去
覚法養心禅定門(父ノロクモイ男の親ト認ム)
安楽妙心禅定門尼
梅屋目香禅定門(上間一正宅屋号イジャカ屋へ御迎ヘナル
二番元祖
中城ノロクモイ
中城ノロクモイ
(宮城マツ) 此の方が牛宮城妻ニテ御墓所ハ崎山部落ノ東」古宇利下口ニアリ
大正六年丁巳三月二十一日屋号井ンタンチュミヤより御迎ニナル
中城ノロクモイ以上ハ字崎山東古宇利下口エ安葬ス。
二番元祖ニ宮城マツとアルハ中城ノロを相済セシ人ナリシガ御墓ハ城間小御墓
ノ西隣リニ安葬ス。筆者(宮城仙三郎)ノ叔母ニシテ養母ナリ。
・宮城マツ(中城のろくもい)ヘナル)
⑦今帰仁ヌンドゥンチ
【親泊村ノロクンモイ佩用】(沖縄島諸祭神祝女類別表:田代安定:明治17年頃)
此勾玉ハ「ジャスファルト」の如キ質ノ石ヲ以テ作レルモノニ〆色ハ濃緑ニ暗緑ノ細粒
点満布す
勾玉の総長二寸壱分
此珠糸総長さ二勺一寸□ 一側23個ヅツ 25個づつ
此珠ハ黒水晶ニ楕円形ヲ為シ長サ各八分幅七分
□キ黒水晶 長サ六分幅五分
フサ糸茶色

【遺物】(県史編纂史料 大正3年 県立図書館蔵)
今泊ノン殿内に伝わるもの
・曲玉大形一個
・水晶玉98個の内2個は旧藩時代鹿児島奉行玉の調査の名を持ち去りたりと
云う伝え、今は96個あり
・カンザシ一個君按司時代のものなりと云い伝う

⑦今帰仁ヌンドゥンチ
・今帰仁のろくもい(管轄村:今帰仁・親泊・志慶真)
作得表高 米3石8合9勺8才
雑穀物3石4斗1升4合5勺5才
社禄の給与額(明治43年) 200円(証券) 12円80銭(現金) 計212円80銭


・今帰仁村今泊:仲尾次タマ(今帰仁ノロクモイ)
【今帰仁ノロの曲玉及びかんざし】(新城徳佑ノート)
債権年二回利子十円宛で二十円なり。本金は二百円也とか。
曲玉大形 一個(黒) 水晶玉 九十四個
黄金のかんざし一個
曲玉を中心に九十四の水晶玉を連鎖し曲玉に近い丸玉程大きく次第に小さく
なっている。これは今帰仁ノロの御霊でノロの首飾りなり。
箱は外部漆、内部は朱塗りなり。其の寸法は十二寸半で深さ三寸半。

⑧古宇利ヌルヤー跡
【古宇利御嶽】(明治30年頃)
イベ 一社一字 境内:950坪 古宇利ノカネイ 孫ヨリ
・古宇利のろくもい
社禄の給与額(明治43年) 200円(証券) 6円44銭(現金) 計206円44銭

⑧古宇利ヌルヤー跡
・仲村マツ(古宇利のカネイ) 糸洲ナベ(古宇利ノカネイ)
・今帰仁阿応理屋恵按司
【阿応理恵御殿】(明治30年頃)
火神 社殿:2間方 境内:116坪 アヲリヤエ按司 社禄:13石6升 孫ヨリ 31戸
社禄の給与額(明治43年) 250円(証券) 11円28銭(現金) 計261円28銭
【遺物】(県史編纂史料 大正3年 県立図書館蔵)
王代御殿に代々伝のもの
・曲玉廿四個内一個は大形
・水晶 百拾六個
・冠一個 切れ切れになりて不十分なり
・玉の草履


オーレーノロの債権は戦前年二回利息として一回十五円五十銭なり(一四七銀行ナゴ支店)元金は二百五捨円也とか。
其の他、玉草履、冠、胸当ありて色とりどりの小玉をぬきて其の飾りとせり。
・供ノカネイ
【供ノカネイノロ殿内】(明治30年頃)
火神 社殿:一間半方 境内:67坪 供ノカネイノロ 社禄:6石5斗9升
社禄の給与額(明治43年) 100円(証券) 31円90銭(現金) 計131円90銭
今帰仁村今泊 城間ウシ(供ノカネイノロ)