今帰仁ノロ
トップヘ
・今帰仁ノロ
【今帰仁ノロ】
(2009年4月18日)
今帰仁ノロ家の調査にはいる。今帰仁ノロは親泊村・今帰仁村・志慶真村の三ヶ村の祭祀を司っていた。志慶真村が今帰仁グスクの後方から移動し、諸喜田村へ移動し統合されたため故地での祭祀は今では行われていず、中城ノロが諸志としての祭祀を行っている。今帰仁ノロ管轄の志慶真村の祭祀との関わりは今では見られない。ただし、今帰仁グスク内で行われる旧盆明けの亥の日(ウブユミ:城ウイミ)の時、志慶真村出の神役志慶真乙樽の参加(代理)あったが、今では参加が見られない。
今帰仁ノロは今帰仁グスクの城壁の外側に旧今帰仁ノロ殿内の火神の祠がある。そこから麓へ移動している。現在は今泊の東側に位置してヌンドゥンチがある。今帰仁グスクの前にあった今帰仁村の集落が移動した後の『琉球国由来記』(1713年)には「今帰仁巫火神」は今帰仁村にある。移動前の今帰仁グスク前にある火神の祠を指しているのか。ならば、今帰仁ノロ家の移動は1700年代になって移動したとも考えられる。ノロ墓に20基近い厨子甕があるという。ノロ墓はノロのみ葬られているとのこと。ならば20名のノロが葬られていることになり、単純に400年前からのノロということになる。近年のノロさんは代理ノロなのでノロ墓にはいることはないとのこと。
今帰仁ノロ家に簪と勾玉(ガラス:水晶玉)が伝世品として残っている。それらの品々の調査をすることができた。勾玉1個にガラス(水晶玉?94個、4個紛失とのこと))、簪1本、香炉2、のろくむいの位牌(1代〜6代まであり、それより古い位牌があった可能性あり)、仲尾次家の位牌などの確認。また、仲尾次家の墓とノロの墓は別々にあり。ノロ墓には20基余りの厨子甕があるという(詳細については別に報告)。簪と勾玉(水晶玉)が祭祀でまつられるのは旧暦の正月と旧8月10日の城ウイミ(大折目)のときのみである。戦前まで楕円形の勾玉(水晶玉一連)と簪を納める箱があったようである。
今帰仁ノロ位牌
上段 (文字あり、判読できず。計八枚)
下段 六代のろくもい 仲尾次タマ
大正十五年寅十月十五日(二十五才)死去
吉岩嘉妙信女
霊 位
寿林妙室信女
心安妙嘉信女
四代のろくもい 明治五年寅五月二十二日
歳三十九
五代のろくもひ 明治三十八年巳正月二十二日
歳四十一
(※七代、八代、九代と続くが代理ノロのため、この位牌には記されない)
(七代:代理ノロ:仲尾次タマ 昭和初期〜昭和十五年。六代と七代は同じ名前です
が別人。また、代理ノロは仲尾次家の墓にはいり、ノロ墓には葬られないとのこと。
ノロ墓は本ノロがでるまで開けないとのこと。)
ノロ墓には20余りの厨子甕や石逗子があるようなので、位牌の六代以前のノロが葬られているとみられる。位牌の上段にあるのは、それ以前の「のろくもい」だろうか。そうであれば、墓との連続性がある。それと、仲尾次家がノロを継承はじめたのは下段の六代前のノロからだろうか。もう少し調査資料が必要なり。というのは、『琉球国由来記』(1713年)の頃は、今帰仁ノロも今帰仁グスク前から麓に移動しているとみられる。由来記では「今帰仁巫火神」は「今帰仁村」に移動しているが、現在のヌンドゥルチ(仲尾次家)は親泊村地内である。その説明に窮しているところである。(今帰仁グスク前から今帰仁村側の集落に移動し、さらに現在地に移動したのではないかの仮説を立てていたが、今帰仁村側の集落内に今帰仁ノロ(ヌンドゥルチ)があった痕跡が今のところみあたらない。その問題は今帰仁アオリヤエでも生じてくる)。
今帰仁グスクや今帰仁ノロと名付けられたことと、グスクや今帰仁ノロ火神のある場所が、当初今帰仁(村:ムラ)地内にあったことを示している。つまり『琉球国由来記』(1713年)頃は、それらは今帰仁村にある。ところが、明治36年に合併するまでグスクやノロ火神のある地域(ハンタ原とハタイ原)は親泊村地内である。もし、グスクやノロ火神のある地域が親泊村域であったのであれば、親泊グスクや親泊ノロと名づけられたであろう。そうではないので、どうも1700年中頃以降、今帰仁村と親泊村との境界線の間で変更がなされている。因みにグスクとノロ火神のある場所は、ハンタ原とハタイ原で親泊村の小字である)。
▲今帰仁ノロの勾玉と水晶玉(ガラス) ▲今帰仁ノロの簪(カンザシ)
▲仲尾次家の位牌 ▲今帰仁ノロ代々の位牌
▲仲尾次家の位牌の前の香炉 ▲今帰仁ノロ代々の位牌の前の香炉