今帰仁村の東側のムラ・シマ(字)の公民館を画像に納めてみた。ムラヤー(村屋)や事務所、あるいは公民館と呼んでいます。最近はセンターやサブセンターなど表示されています。ムラヤーの呼び方は、明治41年以前は今の字(アザ)や区が・・・村(ムラ)であったことにあります。

 ・・・村は薩摩の琉球侵攻以後、行政村として登場してきます。それ以前から「・・・間切」(まきり)はあります。例えば今帰仁村(ソン)は「みやきせん まきり」、17世紀になると「今帰仁間切」と表記されるようになります。

 戦後、琉球政府時代に「公民館」となります。復帰後も「・・・公民館」が踏襲され文部省の管轄に置かれています。公民館を建設する補助金の出所で「・・・公民館」の名称は使えない?のか、補助金の目的にかなっていないのか、説明が面倒くさいのか?

 詳細について触れないが、各字にある施設、かつての村屋や公民館の呼び方が今でも使われています。それも消えていくでしょう。時々、どっちが「正しいのか」との質問を受けます。どっちも「正しいです」と。きっと「何故、なの?」と聞きたいのでしょう。

 1974年の今帰仁村の「字公民館の現況」の一覧表があります。項目に公民館の「構造」があり、19字の内13ヶ字が「木造建」です。公民館を中心に幼児園、神アサギ、遊び広場などがあります。そして、その当時の公民館の写真があります。あれから38年という歳月が経った今、それらの記録と合わせ見ると、将来像を描くための調査記録(総合開発計画―基本構想)であったはずです。

 それらの調査記録に目を通していると、将来像を描いた構想と現実のひずみがいろんな面で噴き出しています。「調査記録」として10年余続けてきました。下の公民館に関わる一部の記録ですが、その時の記録の重要さを痛感させられます。そのことを意識しながら調査記録をしているのですが。

 建物は1975年頃と現在2012年を並べてみました。1974年当時の建物が利用されているのは、今泊・玉城・崎山・上運天の四軒のみです。それらも公民館も建てかえの話がでています。これまでの公民館の名称も変わっています。公民館やムラヤーの呼び方が、まだ生きています。

 
       「総合開発計画 基本構想 今帰仁村1974年10月」より



@今 泊


       ▲コンクリート二階建             ▲当時の建物が使われている


A兼 次


         ▲木造瓦葺き

B諸 志


       ▲木造瓦葺き               ▲諸志公民館


C与那嶺


         ▲木造瓦葺き           ▲与那嶺構造改善センター(公民館)

D仲尾次


        ▲木造瓦葺き             ▲仲尾次集落構造センター

E崎 山


      ▲コンクリート建て              ▲当時の建物(崎山公民館)

F平 敷


         ▲木造瓦葺き            ▲平敷公民館

G謝 名


      ▲コンクリート建て

H越 地


       ▲木造瓦葺き                  ▲越地公民館


I仲宗根


       ▲木造瓦葺き

J玉 城

 
      ▲コンクリート建て                ▲玉城公民館


K呉我山


   ▲木造瓦葺き(我呉山公民館)       ▲我呉山女性若者等活動促進施設

L湧 川


         ▲木造瓦葺き             ▲湧川集落センター

M天 底


      
 ▲木造瓦葺き                  ▲天底公民館

N勢理客


         ▲木造瓦葺き                 ▲勢理客公民館

O渡喜仁


        ▲木造瓦葺き                ▲渡喜仁地域総合施設

P上運天


        ▲コンクリート建て              ▲当時の建物(上運天公民館)

Q運 天


        ▲木造瓦葺き                ▲運天構造改善センター

R古宇利


       ▲コンクリート建て              ▲古宇利集落構造サブセンター
   今帰仁村の公民館

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