今帰仁村仲宗根     
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 ・仲宗根のマチ展開   ・仲宗根のマチと御嶽(ウタキ)


【仲宗根のマチ展開】2004年7月14日)メモ

 仲宗根のマチの展開を図で説明すると、まずグスク(お宮)の杜(ウタキ)を背に集落が発達する。ムラウチと呼ばれ、古層の村の原型をなしている。近世になるとムラウチから分家筋がターバル一帯に集落を形成する。1700年代へのターバルへの集落の形成は人口の増加と、大井川流域の開拓にあると考えている。1719年本部間切の天底村が今帰仁間切への村移動がある。天底村の集落は台地上への移動であるが、天底の地番が仲宗根と勢理客との間に細長く割り込んでいる。大井川流域の水田開拓と仲宗根のムラウチから分離する形で形成されたターバルと村移動をしてきた天底村の割り込みと時期を同じくしているのではないか。

 明治30年代に大井川橋の架設がある。山岳から大井川橋までをミーミチ(新道)と呼ばれ、ミーミチ沿いにマチが鍛冶屋や商店などが並んでいった。また、大井川上流部の寒水村にあったマチが、橋の開通で仲宗根の前田原一帯に質屋や市場や魚店などが移動する。ミーミチ沿いから前田原にかけて仲宗根のマチが発達していった。今でもムラウチ・ターバル・ミーミチ・プルマチなどの地名にマチの歴史を読み取ることができる。マチとして展開するが、ムラウチには村の人たちが拠り所としてグスク(御嶽)やお宮など、形に遺せるものは残している。   



【仲宗根のムラ】(2004年7月16日)メモ

 沖縄の村(ムラ)を見ていくとき、『琉球国由来記』(1713年)の村や神アシアゲや御嶽などの確認をする。それは1700年頃から2000年の約300年近い歳月で、由来記にある村や神アシアゲや祭祀がどう変貌しているかの確認でもある。その中の特に山原の「神アシアゲ」はそのほとんどが今に伝えている。明治から現在まで大きく変貌する中で、300年という歳月で9割以上残っているのは、確固たる史料がなくても、歴史を読み取っていく上で無視できないものがある。仲宗根村が明治41年に字仲宗根なり、小さな集落がマチとして発達していくが、近世から継承されてきた御嶽や神アサギやカーなど祭祀に関わる空間も形として遺し続けている。執り行う神人の継承がほとんどなされることなく消えつつある。

 1700年以前の移り変わりの緩やかな時代ならば、現在まで激動の中の300年で残っているのは、変貌の緩やかな1700年より300年前にはすでにあったのではないか。少なくとも1700年から200年は遡っていいのではないかと考えている。仲松先生も「古層の村」として祭祀や御嶽や神アサギやマキ・マク・マキヨ(小集落)などの視点で見ている。

 『琉球国由来記』(1713年)を利用するのは、その記事に1609年以前の王府の統治の姿が反映していると考えている。仲宗根村の祭祀に中(仲)宗根地頭(脇地頭)が祭祀に出席している。それは、首里に住む役人と村(領村)との関係を示すものである。つまり仲宗根地頭は仲宗根村を「あつかい村」として何がしの貢租を受け取っている関係にあったのであろう。そのために祭祀になると、わざわざ首里から「あつかい村」の祭祀に参加している。

 地頭あるいは脇地頭は地頭地から給与として上納を受けていた。『法式』(1697)で地頭が「あつかい村」に行って迷惑jかけないようにの達(たっし)が出ているようであるが、明治6年調査の『琉球藩雑記』にみると、「領地 今帰仁間切仲宗根村作得四石余」とあり脇地頭仲宗根親雲上は四石余りの作得をもらっている。このように『琉球国由来記』の記事は、歴史を紐解く手掛かりとなる史料でもある。
 

【仲宗根のマチと御嶽(ウタキ)】

 仲宗根は現在マチとして発達しているが、ウタキ(グシクという)を背にした集落である。明治30年頃大井川に一本の橋が架かったことで、上流部の寒水村にあった質屋や店が仲宗根の前田原に移動し、その後プンジャーマチと発達した。それまでの仲宗根の集落はウタキ(グシクという)を背景にしたムラウチがもとの集落である。ムラウチから分かれたのがターバルの集落である。前田原一帯にマチが発達していくが、ムラウチを中心とした集落、神アサギやシシウドゥンなどの拝所はそのまま継承されている。グシクにはお宮がつくられ、中にイビが祭られている。

 『琉球国由来記』(1713年)に中(仲)宗根村に御嶽はないが神アシアゲはある。祭祀に参加するのは掟・百姓・巫(ノロ)・掟神・中宗根地頭である。中(仲)宗根地頭は脇地頭で基本的に首里居住で祭祀のときにやってきたのであろう。仲宗根の祭祀は玉城巫の管轄である。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治15年頃)に仲宗根村の御嶽を百喜名嶽を村の御嶽としている。玉城村にも百喜名嶽とあることから、スムチナ御嶽をさしている。スムチナ御嶽は村々の御嶽というより玉城・謝名・平敷・仲宗根の四村の御嶽である。明治のこの資料で仲宗根村の御嶽として扱っている(スムチナ御嶽は村の御嶽とは性格が異なる)。(画像は今朝の仲宗根の様子なり)

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▲後方の緑地の杜が仲宗根のウタキ(グスク)    ▲グスク(お宮)からマチを望む

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   ▲神アサギとシシウドゥン(後方)           ▲お宮(本来は御嶽)  

2014年8月9日(土)メモ

 今帰仁村の大井川下流域に炬港(テーミナト)がある。今帰仁村にマチの形態をなしているのは仲宗根のみである。仲宗根がマチの形になるのは明治30年代になってからである。それまで寒水村にマチがあり、プルマチと呼ばれている。「大正始めから昭和19年まで約30年の間、今帰仁の運輸の大半は炬港に頼っていた」(今帰仁村史)とある。『球陽』や『琉球国由来記』(1713年)に登場する「炬港」(中宗根湊は炬湊という)については、孟氏大里親方宗森が中国から帰国の途中、漂着し神火のお陰で助けられたので炬湊と呼ばれるようになったことについては触れてきた。仲宗根のマチの発展と炬港との関わりは切り離せないものがある。

 大正時代の「沖縄朝日新聞」の広告に「第三名護丸」や「盛安丸」が「今帰仁大井川ユキ」(大正13年)とあり、大井川下流域の炬港と定期便が往来している。それを踏まえると『今帰仁村史』の「炬港」と仲宗根のマチとしての発展と結びついてくる。

   大正のはじめ頃までは大井川橋の下まで山原船が上がってきた。サバニは古町の下まで行った

  
 伊平屋、国頭、大宜味、与論あたりの山原船がやって来た。ハミグムイにはいつでもニ、三艘が碇
   泊していたものである。
   大正三年頃、崎浜藤四郎(鹿児島指宿の人)がはじめて石油発動汽船で炬港と那覇間を航行した。
   炬港から那覇まで6時間を要した。今帰仁からは砂糖、藍、バナナ、薪炭などを積み、帰りは山岳や
   大井川の店々の商品(米、酒、大豆、麦粉、ソーメン、その他の雑貨品)を搬入した。
   汽船は炬港に錨を下ろし、満潮時を利用して伝馬船で運び、仲宗根のピサチで積み下ろしをした。

   大正8年頃、大井川、山岳などの商人たちが崎浜とっ共同出資(商人株55%、崎浜株45%)で共進組
   を作って創業した。銘刈(伊是名の人)、渡嘉敷宗育、浜崎繁などが荷役の事務を執った。

   その間、船は松島丸、第三名護丸などと変わったが、昭和19年の十・十空襲で損壊された。

【炬港の様子】(明治26,27年頃)(平成5年と画像は近年)
 炬港(テーミナト)は運天港に接近し、仝間切内謝名、仲宗根、崎山、平敷、寒水、岸本の六ヶ村に亘る。本港も旧藩(明治5〜12年)の頃右六ヶ村の税品を収納したる所なれば、那覇との往復常に絶へず、然れども港内水浅くして大船を入るヽ能はざれば、道の島往復等の船舶此所に寄港するが如きことあらず。
  ・炬港は謝名・仲宗根・崎山・平敷・寒水・岸本の6ヶ村に亘っていた。
    (寒水村と岸本村は明治36年に玉城村に統合される)
  ・琉球藩の頃(明治5〜12年)六ヶ村の税の収納場所であった。
  ・那覇との山原船?の往来が絶えることがなかった。
  ・港内は浅く大きな船が入ることはなかった。
  ・道の島往復する船が炬港に寄港することはなかった。


 ▲上空から見た炬港(河口)(平成5年)            ▲炬港の様子(平成15年)

 [中宗根湊下、炬港と云う](琉球国由来記/球陽)
  由来は、孟氏大里親方宗森、進貢使をなし、中華に至り、帰国の時、颶風に逢い、夜な夜な津岸を迷っている時、神火の炬火が燃えるのを見て、この湊に着いたため炬港というなり。

 汽船から船底の平たい伝馬船で荷の積み下ろしをしたというピサチまで足を運んでみた。現在の風景です。ピサチは帆崎の意味のようだ。


 
▲伝馬船が荷の積み下ろしをしたというピサチ   ▲マチとして発達した仲宗根