【今帰仁村仲尾次】(2009年5月16日)
仲尾次はいくつも歴史を読み取っていくキーワードを提示してくれる。仲尾次の集落とウタキの関係を見ていくと「移動村である」こと。仲尾次は1600年代まで仲城村であったこと。それと中城ノロを排出した村であり、『琉球国由来記』(1713年)の頃には、中城と仲尾次が登場する。中城ノロは中城村がでたが、継承者がなく中城村→与那嶺村、さらに諸喜田村(現在の諸志)へ移動している。しかし、名称は中城ノロを今に伝えている。
中城ノロ家(現在諸志)には戦前9枚の辞令書があった。戦争で失っているが、幸いにして記録や写真(2枚)に残されている。写真で残されたのは「中城ノロ」の辞令書である。一枚は1605年の発給なので北山監守(今帰仁按司)五世克祉、もう一枚は六世縄祖の時代のものである。中城村が仲尾次になるのは、寛文8年(1668)の布令「中城と申名字衆中百姓下々迄も、御法度にて候間、別名に替申様可被申渡候」に沿ったのであれば、中城村を名乗ることが禁止されたので仲尾次村に改称したということになる。しかし、その後も中城ノロはそのまま使うし、村名も『琉球国由来記』(1713年)では両方が出てくる。下の二枚の辞令書は1668年以前なので布令の前である。
崎山にヌルドゥンチ跡がある。中城ノロが関わる祭祀の時、必ず拝む場所である。下の辞令書が発給された頃は、そこに居住していたことが想定される(今帰仁ノロ火神やアオリヤエノロ火神の例からしても)。中城村の集落も崎山にあるノロドゥンチ跡地から中尾次之嶽に至る地域にあったと見られる。それは中城巫火神(現在崎山地内にある)は中城村にあり、現在地への集落の移動は、『琉球国由来記』(1713年)より後のこととみられる。同書にある「ギネンサ嶽御イベ」を中尾次村とあるが、崎山村ではないか。崎山のウタキはジンニンサガーラの後方にあるウタキである。詳細に触れないが、『琉球国由来記』(1713年)の村の並び、そして中城之嶽(スガーウタキ)の地番が平敷地番であることなど。
仲尾次の村移動や集落移動、崎山を含めて検討を必要とし、その手掛かりがつかめそうである。
・今帰仁間切中城ノロ職j叙任辞令書(万暦33年:1605)
しよりの御ミ事
ミやきせんまきりの
中くすくのろハ
もとののろのくわ
一人まうしに
たまわり申候
しよりよりまうしが方へまいゐる
万暦三十三年九月十八日
・今帰仁間切中城ノロ職j叙任辞令書(隆武8年:1652)
首里乃御美事
今帰仁間切之
中城のろハ
一人かなに
たまわり申候
隆武八年二月五日
▲「中城ノロ辞令書」(1605年) ▲「中城ノロ辞令書」(1652年)
仲尾次の概況(2009年5月16日)
・仲尾次は方言でナコーシやノホーシとよぶ。
・現在の仲尾次は11の小字からなる(当原・水溜原・仲道原・前原・神里原・バナ原・前平
原・新石原・立石原・上原・尾山原)。
・当原(アタイバル)は、その村(ムラ)の中心となる。今帰仁グスクの前もハタイ原という。そこ
はかつての集落の中心であった。
・仲尾次は1600年代には「中城村」とある。
・今帰仁村に玉城と兼次がある。玉城はタモーシ、兼次(兼城)はハニーシという。中城は?
・仲尾次はスガーウタキ(ナカグスク)あたりからの移動村である。
・今でもウタキ(グスク)にウガン(祈願)にいく。(旧1月1日、五月ウマチー、七月最後の亥の
日、九月ウマチー)
・もともと「中城ノロ」を出す村(ムラ)だった。
・中城ノロは崎山・仲尾次(中城)・諸志(諸喜田)・兼次の祭祀(さいし)をつかさどる。
・農村構造センター(公民館)前に神ハサギあり、神道(ヌル道)が残されている。
・仲尾次は山手から海岸に細長くのびる。
・豊年祭のスタートは崎山のウドゥイバンタでの御願踊り(ウガンウドゥイ)を行う。
・北山高等学校がある。
・ハウス栽培のスイカや野菜栽培がさかん。
・仲尾次に数か所に石橋があった。その一つが残っている。
・現存する石橋の近くは水溜原(ミンタマイバル)といい、池があった。
・イリガーと呼ばれる井戸がある。そのような井戸はチンジャという。吊るカーのことか。
(石柱がある)
・海岸に石柱を切り出した石切り場がある。
・イジヌイヤーヤ(岩屋)、竜宮の神様をまつってあるとか。鍾乳洞(しょうにゅうどう)の洞窟(どう
くつ)になっている。あるユタが1971年に設置した「酉龍宮権現」の碑がある。
【調査コース】
・仲尾次の神ハサギ
・仲尾次の石橋
・掘り込み井戸(チンジャ)と石柱
・泰山石敢當
・戦没者の慰霊塔
・石切り場
・竜宮(洞窟)(どうくつ)(イジュヌイヤーヤ)(今回、満潮でいくことできず)
▲仲尾次の神ハサギ
▲石
橋
▲仲尾次の井戸(イリヌハー:チンジャ) ▲海岸の石切り場
▲仲尾次のナカグスク(ウタキ) ▲グスクの中の石積み