【中城ノロが関わる祭祀】(ウチマチと五月ウマチー)(中間まとめ:仲原)
中城ノロの祭祀場を見て行くことは、崎山・中城(仲尾次)・(上間)のかつてのムラの位置やムラの領域をみていく作業である。例えば、崎山ノロドゥンチと呼ばれる祠は、現在崎山の地に位置する。それと中城ムラのウタキは崎山を越えた平敷地内にある。それを整理すると、崎山・仲尾次・上間の三つのムラが短冊状ではなく、海岸から並行にあったのではないか。崎山ノロドゥンチのある場所は、中城ノロが任命された頃(16世紀後半)は中城ムラの地であった。中城ムラの領域は現在の仲尾次あたりから崎山ノロドゥンチ、そしてスガーウタキ(ナカグスク)に延びていたとみられる。
そのことは、拝所の位置と上間・中城・崎山(ヒチャマ)の関係が海岸から短冊状ではなく、並行にあったように見られる。それは古琉球の辞令書(戦前まであった中城ノロ家の辞令書)からも伺える。つまり、現在のムラの形(今帰仁間切の短冊状の形)は近世のムラの線引きであり、海岸から並行のムラの形は古琉球のムラの様子を示しているようだ。
【諸志の年中祭祀】
(旧暦)(○は今回の調査)
・2月15日 二月ウマチー
・3月13日 ウカタビ
・3月15日 ウチマチ
・4月15日 アブシバレー
○5月13日
ウカタビ
○5月15日
五月ウマチー
(同日) ウガヌー
・6月23日 ウカタビ
・6月25日 ウンジャナシー
●
7月後ろの亥の日 ウプユミ
・8月吉日 ウカタビ
●
8月10日 トゥハヌウガン
・9月15日 ウガヌー
・10月1日 ピーマチガナシーヌウガン
・(新)12月24日 プトゥチウガン
(同日) ミチグイ
【中城ノロの御願】
(城間系統日記:中城ノロ家)
一、御正月には
崎山殿内
に於いて新年の御飾をなし、年中の首尾御願を立てて、西南下の
ギギチ
御河
まで。「供物は瓶酒御花米、肉(ウヮジシ)、昔は素麺の吸物もありましたが、現在(昭和25
年)は廃止。
一、五月定期御願として廿九日に定日、御願所は、
仲尾次御嶽
(スガーウタキ・ナカグスク)・
南下
の御河
・
スクジャ御河
・
ギギチ御河
・
崎山御嶽
、それから南七、八町東に下りて
グミ御河
ま
で。(元諸喜田御殿より御米は出せり)
一、九月定期御願廿九日定日、ノロ殿内庭前だけ(元志慶真、津波屋より御米は出せり。但し両
御願共自弁当と瓶酒、御花米持参の事)
一、崎山ノロ殿内の新築、建築は兼次より崎山まで部落割当のことを付記して置く。
一、十二月二十四日は御解御願とて子孫揃ってノロ殿内に集まり一年中の立ち御願の首尾を神
前に述べること。
一、八月十五日は毎年望月祭(御重並びに弁当を持参して月望みをなせり。
一、七月陰暦、後ろ亥の日は大弓の祭。ノロクモイ勤務
一、八月十日は怪火の祭。ノロクモイ勤務
右七、八月の其の日はノロクモイ年中行事の最大なる勤めなれば、
正装して馬に乗り
、下司
は馬の手縄を引張って
五ケ部落、神アシアゲ
を廻ります。
御供の神人も氏神以下崎守も同道します。昔は壮観でしたが、現在は略式で馬上に乗りませ
ん(馬の鞍は現存している)。
一、その他三月内祭(ウチマチ)、六月内祭(ウチマチ)、六月廿五日稲束の御祭(稲穂祭。麦の
穂祭、五月御祭、二月御祭)大弓八月尾十日を合わせて
七々折目
と云う。
今では五つの神ハサギは廻らないが、かつては各神ハサギを廻っている。諸喜田ウタキのイベまでい
く。イベが川の中にあるのでハーウガンの声が聞かれる。ハーウガンは旧5月4日で門中の行事である。
▲中城ノロのスガー御嶽(中城御嶽)でのウプユミのウガン(平成3年頃)
・ウカタビ(旧5月13日)
・五月ウマチーの三日前に行う。
(崎山・仲尾次・与那嶺・諸志(諸喜田)・兼次の代表者・ノロ・神人が崎山のノロ殿内に集まる)
・酒と米を一升を供えて七、五、三のサイをつくり、ヌル殿内と御嶽に豊穣の報告と子孫繁栄のウガンをする。
・仲尾次と崎山の代表者は中城御嶽(スガーウタキ)とジニンサ御嶽に向ってウガンをする。
各字の神アサギに行って知念村百名に向ってウガンをする。稲穂三本をお碗の上においてウガンをしていた
が、花米に代わっている。
(ニブサジ(男の神役)がワラザンを持ってのウガンがあった)
・グンガチウマチー(五月ウマチー)
(旧5月15日)(稲穂祭)
【祭祀の経路】
(今回)
・崎山ノロ殿内
・崎山/仲尾次/与那嶺/諸志/兼次の五ヶ字(アザ)の区長・書記が集まる。
・ノロ殿内の中の火神を拝む。
・ノロ殿内のトゥバシリでの拝みあり(百名のウキンジュハイジュへの遥拝)(五ヶ全員)
・崎山と仲尾次の区長・書記さん、両字出身の参加者が残り、仲尾次ムラの中城御嶽
(スガー御嶽)とジンンサ御嶽(崎山の御嶽)に遥拝する。
▲崎山のろ殿内の火神へのウガン ▲稲作発祥の百名への遥拝
▲崎山のろ殿内でのウガン(平成3年頃)
・崎山の神ハサギ/仲尾次の神ハサギ
・両御嶽への遥拝が終ると、崎山は崎山のハサーギへ。仲尾次は仲尾次のハサーギへ。
(それぞれの神ハサーギには、ムラの方々が参加し、揃ってウガンをし直会(ナオライ)を
する。)
▲崎山の神ハアーギ ▲仲尾次神ハサギ ▲仲尾次神アサギでのウガン(平成3年頃)
・与那嶺の神ハサギ
・与那嶺の方々が神ハサギで区長・書記、諸志のウガンに参加された与那嶺の方々が戻ると合流し、
神ハサギでのウガンを済ませて直会をする。
▲与那嶺の神ハサギ
・諸志のウガミ(ウタキ)のイベとイベの前
・崎山のノロ殿内でのウガンが終ると、与那嶺と諸志の区長・書記達が諸志のウガミへ行く。
・諸志のウガミには諸志と与那嶺の方々が崎山のノロ殿内でのウガンを済ませた両字の
区長・書記達が来るのを待機している。
・両字の区長・書記が到着すると諸志のウガミのイベ(香炉)でウガンをする。それに合わ
せて両字の参加者がウガンをする。
・諸志のウガンでのウガミが終ると与那嶺の方々は与那嶺の神ハサーギへ。
▲諸志(諸喜田)のウガミ(ウタキ) ▲諸志と与那嶺の人々が参加
・諸志の両神ハサギ
・諸志のウガミでのウガンが済むと、諸志の区長・書記はじめ、ウガミまで来た諸志の方々は
諸志の神ハサギへ。アサギミャに待機している方々と合流する。まず、諸喜田神アサギでの
ウガミをし、その次に志慶真神ハサギでウガンをする。両神ハサギでのウガンに参加者全員
がウガンをする。その後に飲み物や菓子類が配られ直会をする。
▲諸志の神ハサギミャー(広場)でのウガン ▲志慶真神ハサギでのウガン ▲諸喜田神ハサギでのウガン
・兼次のカニマン殿内(アサギ跡?)と兼次のウタキ
・四時前、兼次の人々がカニマン殿内の前に集まる。兼次の区長と書記が崎山から戻って
くると、区長・書記と一緒になってウガンをする。カニマン殿内でのウガンが済むと、ウタキ
の中へ。男性群はウタキのイビの前の広場で、書記はじめ数名の女性達がイビまで行っ
てウガミをする。イビの方から声をかけるとイビの前に待機する方々も手を合わせる。
・イビでウガミを済ませた女性達がイビの前の広場の二つの石に線香をたてウガンをする。
一ヶ所は今帰仁グスクへの遥拝、もう一ヶ所は百名への遥拝。
・イビの前のウガミが終ると、来た道を戻るのではなく、反時計廻りにウタキをでて、集落
内の神ハサギへ向う。
・神ハサギに待機していた方々と合流し、神ハサギ内の香炉に線香やお米を供えウガンを
する。それが済むとアサギミャーで、飲み物や菓子類がでて直会がはじまる。
▲兼次の古島のカニマン殿内でのウガン ▲ウタキの前の広場でのウガン ▲兼次神ハサギでの直会
【フプユミ】(大折目)(旧暦7月最後の亥の日)
中城ノロが中心となるフプユミ(大折目)、まだ調査のまとめをしたことがないので、今年のフプユミ調査をする
予定にしている。その前に20年前の記録を整理し、その後どのように変貌しているのか。以前の形を整理して
みる。
・旧暦7月最後の亥の日
・フプユミやウプユミという。
・ノロはじめ神人は仲尾次の神ハサギに集る。そこで支度をする。
・白サージを頭にしめて後ろに垂らす。
・白衣装を着ける。
・六尺棒・弓・槍を持つ。
・神人の中にサチムイ神人がいて、先頭になって太鼓をたたきながら神道をいく。
・スガーウタキ(中城ウタキ)へ向う。
・スガーウタキへは男神人とノロはじめ女神人のみはいることができる(一般の男女は入れない)。
・ウタキ内でノロや掟神がウガンをする後ろで外の神人が、各自持参してきた弓・棒・槍を七回上げたり下げたりする
(現在なし)。
・スガーウガキから再び仲尾次神ハサギへ戻る。
・ノロ以下の神人は崎山・与那嶺・諸志・兼次の順に神ハサギを回る。
・各神ハサギではその字の神人がフプユミ神を招き入れる。
【中城ノロが廻ったかつての径路(ヌル道)】
@中城のろ殿内(仲尾次の御嶽・崎山の御嶽)
A崎山神ハサギ
B仲尾次神ハサギ
C与那嶺神ハサギ
D諸志御嶽
E諸喜田神ハサギ(志慶真の神ハサギは廻っていない)
F兼次神ハサギ
明治から戦前にかけての中城ノロ管轄の祭祀(五月ウマチーと八月後の亥の日)の祭祀を復元することが可能である。逆に明治から戦前にかけての祭祀がどう変化し、またその痕跡をどう遺しているのか。それを知る手掛かりをとなる。
※諸志・兼次の神人は高良屋の前からジブガー屋の後の小路を通って帰った。歩いての往復だったのでハーラマイアジマで
休憩して帰る。
・ウマチーとウガンは別々に行っていた。一緒に行うようになってウガンガナシという。
(下の五月ウマチーの唱えをみると、稲穂に対するウガンより、子供や村の繁栄や村を出た方々の繁栄を祈っている。
ウマチーとウガンが別々に行っていたのを一つにしたことによるものかもしれない。稲については六月ウマチーで
唱えられている。ウガンは一門が集まって祖霊神を拝むもの。家庭の安全と繁栄、豊作の祈願である。一部の
家庭で行われている)。
平成3年頃に調査したことがある。当時のアルバムが見つからないので『仲尾次誌』で使った画像などで整理してみる。
【与那嶺の祭祀】
・1月1日 ハチウガン(初御願)
・2月15日 二月ウマチー
・3月15日 ウチマチ(ミヤーヌウガン)
・4月15日 アブシバレー
●5月15日 ウチマチ
・6月25日 ヒチュマ
・8月15日 豊年祭(5年に1回)
・9月15日 ウマチー
・11月15日 ウンネ
・12月(新暦) プトゥチウガン
※『琉球国由来記』(1713年)の与那嶺村のウタキは「ムコリガワ嶽イベ」とあり、『琉球国旧記』(1731
年)で、「酬川嶽威部」と漢字があてられている。諸喜田村には御嶽は記されていない。今回の祭祀
をみると、諸喜田村と与那嶺村は諸志のウガンで行っている。諸志のウガン(ウガミ)は両村のウタ
キと見てよさそうである。
【諸志ウガン附近図】
(故山内昌藤氏作図)(昭和62年:1987)
以下の図とメモは故山内昌藤氏が唱和62年に作成されたものである(村内19枚)。調査に故玉城三郎氏
も同行。当時村の文化財保存調査委員をされる(後に歴史文化センターの運営委員)。
メ モ
・曲玉(現存) ・馬鞍(現存) ・辞令書(戦争で焼失) ・カンザシ(破損:破片あり)
・ハーム(カカンのことか) ・ウプイショウ(草色の着物) ・ウフユミは色物を着る
諸志ウガミ:神名ムクリガワ
諸志ウガミの祭
5月15日、9月15日 ウガンガナシーという。
中城殿内……崎山(ジニンサ) 仲尾次(スガー)
与那嶺、諸志(ムコリガワ)
兼次(兼次御嶽)
中城ノロのお願
○3月・6月のウマチー
諸志から順次拝む
その他のお願は仲尾次から3日前に中城殿内にノロがいく。ウマチーの当日はノロはいかない。
○7月ウフユミ(順路)
仲尾次→スガー御嶽→仲尾次→中城殿内→与那嶺→諸志→兼次
○8月10日(順路)
仲尾次→諸志→兼次→与那嶺→中城
【中城ノロの唱え】(五月ウマチー)
グンガチ、ウガヌヤ (五月のウガミは)
ムカシ、クヮーヌナシグルセーヌ チュウヤ(昔、子供が産まれにくい人は)
ビンス、ヒサギラチ(瓶子を持たせて)
メーナイシみてぃクヮーナシ(先頭をさせて、子供を産むことを)
ニゲーステンバーエビシガ(お願いしたのであるが)
ムカシユーヤ(昔の世は)
七五三ヌ サイアゲヤビティ クヮウマガ(七五三のサイを揚げて、子や孫)
ディキヤビタンリチヌ(出来たという事での)
ニゲーエービタシガ(お願いであったが)
クリヤムル ハイシヒチネイビラン(これは皆、廃止してありません)
マタ、フトゥチヌウガンヤ(解きのお願いは)
三十三ペーヌ、フトゥチウガン、(三十三拝の解きのお願い)
ティーチ、ターチ、ミーチ、三十三ペーヤ(一、二、三、三十三拝は)
フトゥチヌウガンデービル(解きのお願いです)
また、タテウガンや ティーチ、ターチ、ミーチ、イチチ、ムーチ、六十三ペーヌ
(また、立ちお願は、一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、六十三拝の)
タテウガンデービル、クリンニブサジヌ(立お願いです。これはニブサジの)
ウタヤビティ、ウサギヤビィテーシガ(ウタを唱えて、お供えしたが)
ナー、クヌユヤ、マタ アンシスル、クヮウマガン、ウヤビラングトゥ
(もう、この世に そうする子や孫がおりませんので)
クリヤ、ハイシシチー、ネービラングトゥ(これは廃止してありませんので)
クヮマーガビーニ、フスクン、カキミソーラングトゥニ(子や孫に不足がかかりませんように)
クヮーマーガビーデキマサイ、ムラザカイ、シミミソーチュティ(子や孫達が出来、村が栄える
ようにさせてくださいまして)マタ、ウガミガナシーチィ ジンミン クヮウガンマムイ ミソーチ
ュティ(またウガミナガシ (神様)が人民、子や孫みな、お出でなので)
ウトコジン ウンナジン タビヤマヌクヮウマガヌ(男も女も、旅のものの子や孫の)
ケンコウミーマムイ シミソーチュティ サカイトラシミソーリヨ(健康を見守っておきますので、
栄えさせてください)
【研 究】
中城のろの関わる祭祀調査をしていると、これまで疑問に思っていたことがいくつも解決の糸口を与えて
くれる。祭祀は「ムラの歴史を描くのに欠かせないキーワードである」。そのことを念頭に入れて史料を読み
取っていくと、それまでの疑問を解決してくれる。
@崎山のろ殿内が中城のろ殿内ではなく崎山のろ殿内なのか。
A中城(仲尾次)のウタキ(スガー御嶽、ナカグスク)が何故、崎山地を越えた場所にあるのか。
B『琉球国由来記』(1713年)に与那嶺村にはウタキがあるが、諸喜田村にはないのか。
C古琉球の辞令書の中城ノロ家にあった辞令書に「よなみね」が何ヶ所かに登場してくる?
D『琉球国由来記』(1713年)での村の配列が不自然である。(中城村は崎山村と平敷村との間に位
置している。それと中城村のウタキは平敷地にある)(村の境界の変更がなされている。それが、現
在与那嶺・仲尾次・崎山・平敷など、山手から海岸への短冊形になっているが、古琉球から近世初
期まで一帯の村は海岸沿い、中間地、山手となっていた可能性が高い。そのことは上間村・中城村
・下間(崎山:ヒチャマ)の村名に反映している。中城の中は上間・中間(中城)・シチャマ(下間・崎
山)の上・中・下の関係から名付けられたと見られる。
E『琉球国由来記』(1713年)で「中城巫火神」は「中城村」に位置している。ところが、中城巫殿内
(現在の崎山のろ殿内と呼ばれる)は現在崎山地に位置している。
F『琉球国由来記』(1713年)で中尾次(中城)の御嶽は中尾次村、ギネンサ御御(崎山の御嶽)も
中尾次村とあり、18世紀初期の頃は村境界の過渡期だったと見られる。
G中城を使うことを禁止(1647年?)された後で、中城と中尾次の両方使っての表記がなされている。
H「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治17年頃か)に「諸喜田村」と「与那嶺村」にそれぞれウタキが一
つ記されている。ただし、『琉球国由来記』(1713年)では与那嶺村にはウタキが記されているが、
諸喜田村にはウタキは記されていない。今回の祭祀調査をしてみると、与那嶺と諸志が一緒にな
ってウガミ(諸志に位置する)でウガンをしている。諸志のウガミ(御嶽)は両村のウタキであるこ
とがわかる。(祭祀がムラの歴史を紐解くカギとなるというのは、そのことである。それと祭祀を
歴史で扱うのはそのためでもある)
I五月ウマチーの時、村人達が仕事を休んで参加する。祭祀日は休息日(神遊び)、かつての公
休日であると見ているが、今でもウマチーなので休みます。それは今も継承されていることを実
感させられた。
(まだまだ続く・・・)
【
2009.11.14調査メモ
】
「ムラ・シマ講座」は今帰仁村崎山。そこは手ごわい村。崎山だけでは説明できないムラ。崎山はヒチャマと呼び下間の義か。ならば上間があるのではないか。『琉球国由来記』(1713年)以降に上間村が登場する。その場所はジニンサウタキのある付近(崎山村のウタキ。但し由来記でギネンサ御嶽を中尾次村に記してあるため誤解を招いている。『
沖縄島諸祭神祝女類別表』】
(田代安定撰録)(明治17年?)には「崎山村ジ子ンサ嶽」とあり、また今でも崎山のウタキとして遥拝している。
ヒチャマ(上間)あれば、ウイマ(上間)あって、それに対応した村名と見られる。これまで説明のつかなかった中城のウタキ(スガーウタキやナカグスク)の中はどこに対しての中なのか、いつもどこのグスクに対してのナカグスクなのか説明がつかずにいた。地理的に上間村―中城(仲尾次)村―下間(崎山)の関係に位置している。ナカグスクはウタキやグスクになっているが、付近に集落があった頃は中間村となってもよかったのではないか。ところがウタキを残して集落は現在地に移動している。そのためナカグスクやスガーウタキとして今に伝えて祭祀のときは仲尾次の神人や有志の方々が拝んでいる。
今の崎山を見るとき、上間村、下間(崎山)村、それと中城(仲尾次)村の位置関係、そして故地にあったムラでの拝所、集落移動、上間村と下間(崎山)村の統合、移動、村の境の変更などを合わせみる必要がある。それらを踏まえてジニンサ御嶽や中城(スガーウタキ)、さらに村の祭祀やお宮への拝所などの統合。下間から移動してきた一門、上間から移ってきた一門、それぞれの一門一門から神人を出している姿が見られる。現在の崎山以外から移り住んだ一門の方々はお宮での祭祀とは関わらない。などなど。崎山の村の歴史的な動きが姿をみせつつある。
(これまで見てきた法則性をいくつも駆使しないと説明がつかない。故地でのウタキや集落やカーの関係。集落が移動した場所での拝所と故地との関係、集落が移動し統合、村の境界線が引かれると仲尾次村のウタキ(グスク)が崎山を越えた場所に位置するようになり、さらにそこは平敷村の地番となっている。そこはまた別の村の境界線の変更や地理的な要因が重なってくる)
【中城ノロクモイ御解御願並に立願】
(俗に申ます進退の御願の意味。故宮城仙三郎氏)
ノロクモイは日本時代に於ては県知事(昔は藩主)の辞令に依りましてノロ神職が定まりましたのです。今後は如何なる事情の基に確定するか。現在軍政下の吾々としては見透しも出来ませんが、若しも米利加式でノロ職を廃止になっても従来幾百年の慣習に依って粘ったのを廃止出来得ると考えられません。勤めてノロ職の継続を希望する故を以って其の立願の実情を委しく記録して後世の参考とするものなり。
ノロクモイが死亡したら直に新らしく、ノロクモイを立てる事です。其の身替り御願は兼次、諸志、与那嶺、仲尾次、崎山の各アシヤギ、シュガー御嶽、崎山御嶽、諸志御嶽、兼次御嶽、崎山ノロ殿内で初めて御願立、前記箇所を洩れなく(身替何生の人)と親類中で御願することになって居ります。是等は当島ノロクモイの掛島と申して他のノロクモイが犯す事の出来ない神域になって居ります。
然るに当地の神様の前丈で、其の曰、職の進退は定まるものでありません。其の昔国頭郡、中頭郡、島尻郡と三箇所に別かれて其の郡内総締元がありました。国頭は儀保殿内、中頭は首里殿内、島尻は真壁殿内となって居ります。廃藩に於きまして其の三ヶ所も合祀にない、現在(戦前)三殿内と云いまして一ヶ所に御願所があります。
戦前首里城(現琉球大学)前師範学校祈念運動場西真下に其の殿内があったのでありあます。其の頃に於いて沖縄県のノロクモイ職の進退は定まるのであります。と申しますのは其の頃に御常結びの方が大あむしたれと申まして世にも珍しき神人が居ります。御小使婆其の婆様は(産名あむ)とか申ます。小使婆が万事世話人になって居ります。それで其所に行き来意を取次ますと。婆が挨拶に出ます。宮城マツと宮城トミ(仙三郎)との進退の時でした。
余りよく解りません事で第一日目は失敗しました。と申ますのは普通吾々の地方の習わしと致しましたのは御解御願には鏡ウチャノコ、御花米、御酒、御香を以て行ひましたので行きました御話すると、そんな事では当初の御願い出来ない。第一ノロ職の「玉と御衣装」と御供物は豚肉十二斤卵六十九ヶ御菓子当時二□のもの一円五〇銭分御米三升御酒三升御香御土産、山原なれば芭蕉布等。なければ香片茶箱入二ヶ等を持参して参らねば通りませんと申された時、私は「あー、そうですか」と泣々其の所を立ち去り考えれば、考える程現代の世の申しで、そんな馬鹿げた事があるものかと一意考へましたのです。俗に云う「ト井ズク」と誤解したのです。
処がよく考え見ますと後になって初めて理解され合点が行きました。其れで其の日は其の儘帰り翌朝、役場に平清氏が居るを幸いに玉と御衣装を早急自動車便より送って呉れと電話で頼み十二時半に那覇で受取ったのです。それで昨日言付けられた品物は半々買求めて午後から首里へと出直したのです。それで色々と自己のノロクモイの立場を委しく申述べ、門中々でやるのでなく今では個人で来々次第も話、昨日のお詫びも丁寧に申し訳したので向うも同情の色が見えたのです。そして婆さんから大あむしたりの前に行き斯如き事情で来た意思を御伝へますと、八十余と見える方が手を引かれて宿を御立直ぐ前の三殿内まで行き、ノロクモイ進退の御願を初めたのです。
其の実況を一寸書きますと、第一玉と御衣は神前に返します。そして死亡になった人の御解を上げます。次に用意の品物を上げて今日身替わりのノロクモイが生まれたのですから、玉と御衣装を御拝領御授けとなります。そして一段落御願が済み次第に宿屋に引き返して前記品物で御馳走を拵らへ新らしく生れたノロ祝杯を上げる段取にあるのです。それで三殿内側からは拾人も行けばそれぞれノロクモイを中心に御土産、当時は日本手拭二筋、清明茶二ヶ、親迄では其の通り順次に各人に手渡さします。そして初めて成程当を得た也。置と感心申しました。昭和九年八月でした。御供物と御土産に注意を乞う。
【中城ノロドゥンチの遺品】
中城ノロ家の辞令書は10点確認
(但し、現物は戦争で焼失)(二枚が写真で残る)
「城間系統日記」(宮城仙三郎:1950年5月6日))には11点とある。
@与那嶺の大屋子宛辞令書(嘉靖42年:1562)
A浦崎目差宛て辞令書(万暦14年:1586)
B玉城の大屋子宛辞令書(万暦20年:1592)
C中城ノロ職叙任辞令書(万暦33年:1605)
D与那嶺の大屋子叙任辞令書(万暦40年:1612)
E与那嶺の大屋子叙任辞令書(崇禎16年:1643)
F中城ノロ叙任辞令書(隆武8年:1652)
G本部目差叙任辞令書(順治13年:1654)
H西目差叙任辞令書(康煕3年:1664)
I上間大屋子叙任辞令書(寛文7年:1667)
【ノロクモイ地】(『共産村落の研究』240頁)
旧藩に於いてノロクモイの役俸地として百姓地より交付せしものなるも、明治14年12月沖縄県甲第百三十号を以てノロクモイの役俸は官給となりしにより、従来のノロクモイ地は引上げ旨を達し、當時既に百姓地に編入せられしものの、処分其の手続きの了らざりし地なり、ノロクモイは自作し地割替をならさざるも売買・譲与・質入・抵当を許さず、本地に対する貢租はノロクムイ之を負担し該當村に於いて取り纒め上納す。
【根神地】(『共産村落の研究』239頁)
村の創建者の大屋根所の私有世襲せしものにして、開墾によりたる村の寄進によりたるとあり。而して百姓地の共有とんりたる以前より存し原始的基礎を有する古来の私有世襲地にして、慶長検地後一般共有チに編入せられたるもの多きも、尚旧来の私有は持続せられ私有地として割替をなさす。根神地の多くは旧門中の居所の近傍にありて共有百姓地中にあるもの殆どなし。今日一般にノロ地と混同して観念せられ来れるもの、其の性質全くノロ地と異なれり。
【中城ノロクモイ本筋歎願書】(与那嶺門中)
今帰仁間切中城ノロクムノ儀、基私大宗湧川親雲上亡娘始テ相勤二代迄ハ順々相続相勤三代目ノノロクムイニハ勤ナカラ仝間切諸喜田村六十六番地平民島袋礒之丞元祖名不明妻ニ相成其の而来此方子孫ニハ可勤者罷居候ニ付是非ナク彼娘子孫エ相勤サセ中頃ニ至りテハ島袋礒之丞方ニモ可勤者無之候ニ付當今仝村六番地
中城ノロが関わる祭祀
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