中城城は添石村に位置し、城内に中城間切番所が置かれた。添石村と照屋村の集落は、泊村の古島原にあったようで、丘陵地から次第に現在地に移動しているという。
詳細な資料の確認や集落移動の調査が必要であるが、中城間切ができ、同村の中城城内に番所を設置した可能性が高いとみている。そのことが説明できると今帰仁グスクや根謝銘(国頭?)グスク内に、間切設立当初(間切分割以前)の今帰仁間切番所と国頭間切番所はグスク内に設置したとみることができる。各地の按司を首里に集め、そして按司掟を各間切に配置し、間切の行政の拠点を番所にしたとき、空いたグスクに番所を置くことは自然であるが・・・。
『球陽』尚敬王17条(1729年)「始めて知念城、仲城城内の殿を裁す」
畴昔ノ時ヨリ、知念城内ニ一殿ヲ修造シ、世重修ヲ致シ以テ行礼ノ所トナス。今年風ノ為メニ壊レル。
是レニ由ッテ其殿ヲ裁去ス。且ツ仲城城内ニ亦一殿ヲ修造シ、以テ旧蹟トナス。コノ年ニ至リ、亦其
殿ヲ裁ス。但シ郡内ノ人民、仍ホ一瓦屋ヲ造リ仲城ノ郡駅ヲ以テス。
▲中城城の正門 ▲中城城正門近くにあるカンジャーヤー跡
▲中城間切番所があった中城城跡の一の郭 ▲中城城跡の裏門