中城間切中城村(伊舎堂村)            トップヘ


 中城間切に中城村の名の村があった時代があった。『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』に「中城村」と登場する。ところが、『琉球国由来記』(1713年)には前著に登場してこない「伊舎堂村」が登場する。『南島風土記』(東恩納寛惇著)で「寛文8年(1668)の布達で中城村は禁止され伊舎堂村に改称された」という。同様な事例は羽地間切の中城村と今帰仁間切の中城村は仲尾次村、久米島の中城間切は仲里間切へ改称される。

 中城間切の番所は同村(主村)であった伊舎堂村ではなく添石村の中城城跡に置かれる。村名の変遷のみでなく、中城(伊舎堂)村と添石村のウタキや祭祀などから村(ムラ)の形から見ていく必要がありそう。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年)の中城間切拝所に「添石村 十一ヶ所 ・神アシヤギ一ヶ所・ノロクモイ火神一ヶ所・番所内嶽九ヶ所」とあり、『琉球国由来記』(1713年)でいう殿を含めた九ヶ所にほぼ相当する。

 

   (まだまだ調査中)


            
▲『沖縄島諸祭祝女類別表』(田代安定)より

2006.03.27(月)メモ

 各間切の番所は、間切の同村に置かれるのがほとんどである。同村に置かれないのは、間切分割や番所の移動など、同村から移動した理由がわかる。中城城跡と中城間切番所の関係は、行政区分の間切と各地のグスクに居住していた按司が首里に集められ、按司掟を配置し統治したという。さらに按司掟を廃止(1611年)して地頭代を置いた。城跡内に番所が置かれた中城城跡と周辺の村(泊・久場・伊舎堂)を訪ねてみた。

【中城間切番所と中城跡】

 中城城跡は中城間切の番所が置かれた場所である。中城間切の同村は初期中城村であったのが、後に伊舎堂村となる。中城城のある場所は『琉球国由来記』(1713年)では添石村と泊村となっている。1731年の『琉球国旧記』でも駅(番所)は添石村にある。同村(中城村)に番所が置かれなかったのは例外なのかもしれない。資料の整理は十分していないのではっきりしないが、当初中城番所は中城村(1644年頃伊舎堂村と改称)にあったのを中城城内(添石村)に移動したのかもしれない。伊舎堂村や添石村は近世になって中城城付近から集落が、現在地に移動したようなので、中城跡があった場所は当初中城村だった可能性がある(その辺り調査確認が必要なり)。

 『琉球国由来記』(1713年)の「年中祭祀」を見ると、中城城は添石と泊の二か村と関わっている。城内における祭祀に中城御殿、惣地頭、添石の脇地頭が関わっている。同村であった伊舎堂村の祭祀に惣地頭が関わる。中城城の周辺の村と城の祭祀が複雑に関わっている。

 伊舎堂の集落は久場集落の後方の台グスク付近から移動したようだ。伊舎堂村はかつて中城村であったのが、寛文8年(1668)に「中城」を字の使用が禁止され、当時中城は他の名称に変更した。今帰仁間切や羽地間切の中城村は仲尾次村、久米島中城間切は仲里間切と改称される。国王の世子が中城王子と呼ばれることから「中城」の使用が禁止されたという。

   「中城と申名字衆中百姓下々迄も、御法度にて候間、別名に替申候様可被申渡候」(寛文8年)

 中城城は添石村に位置し、城内に中城間切番所が置かれた。添石村と照屋村の集落は、泊村の古島原にあったようで、丘陵地から次第に現在地に移動しているという。

 詳細な資料の確認や集落移動の調査が必要であるが、中城間切ができ、同村の中城城内に番所を設置した可能性が高いとみている。そのことが説明できると今帰仁グスクや根謝銘(国頭?)グスク内に、間切設立当初(間切分割以前)の今帰仁間切番所と国頭間切番所はグスク内に設置したとみることができる。各地の按司を首里に集め、そして按司掟を各間切に配置し、間切の行政の拠点を番所にしたとき、空いたグスクに番所を置くことは自然であるが・・・。

 『球陽』尚敬王17条(1729年)「始めて知念城、仲城城内の殿を裁す」
   畴昔ノ時ヨリ、知念城内ニ一殿ヲ修造シ、世重修ヲ致シ以テ行礼ノ所トナス。今年風ノ為メニ壊レル。
  是レニ由ッテ其殿ヲ裁去ス。且ツ仲城城内ニ亦一殿ヲ修造シ、以テ旧蹟トナス。コノ年ニ至リ、亦其
  殿ヲ裁ス。但シ郡内ノ人民、仍ホ一瓦屋ヲ造リ仲城ノ郡駅ヲ以テス。
 


     ▲中城城の正門         ▲中城城正門近くにあるカンジャーヤー跡


▲中城間切番所があった中城城跡の一の郭       ▲中城城跡の裏門

 中城城内の拝所と村との関係を『琉球国由来記』(1713年)に見ると、城内に8つの拝所がある。城内の殿も含めて9。

  @中森ノ御イベ    添石村
  Aシライ富ノ御イベ  同 村
  B雨乞ノ御イベ    同 村
  C小城ノ御イベ    同 村
  Dナミナミノ御イベ   同 村
  Eカワヤグラノ御イベ  同 村
  Fトモヤグラノ御イベ  同 村
  G御當蔵火神     同 村
  H中城城内之殿   添石・泊村

 これらの拝所は中城御殿の祈願である。中城城内での祭祀は今帰仁グスクの祭祀を復元する手がかりにもなる。『琉球国由来記』(1713年)の頃、今帰仁グスクの祭祀は今帰仁ノロが執り行っているが、その頃、今帰仁阿応理屋恵ノロが廃止されていた時期である。そのため、今帰仁グスク内の祭祀は今帰仁ノロが肩代わりしていたとみている。つまり、中城城内での祭祀は中城御殿が行っている。今帰仁グスク内の祭祀は今帰仁阿応理屋恵(オーレーウドゥン)が行っていたが、廃止されたため今帰仁ノロが引き継ぎ現在に至っている。そういう意味で、中城城内での祭祀は今帰仁阿応理屋恵が行っていた祭祀を復元する手がかりとなると考えている。城と密接に関わる村もあわせ見ると、集落(後の行政村)・祭祀・ウタキ・グスクの議論が展開できそうである。
 
 「琉球勾玉考」(島田貞彦「歴史と地理」(31巻1号 1933)に、ノロについての記述がある。「島袋(源一郎)は数日間の見学として主なるもの十数ヶ所を指示せられたが、其の十三ヶ所を訪問するを得た」とあり、訪れたノロ家の当時のノロの名前をあげてある。

  ・首里市桃原小録按司(那覇市松原熊五郎氏蔵)(小録按司所蔵大型勾玉写真)
  ・島尻郡高峰村大里のろ(玉城うし女)(玉城家とのろの写真)
  ・中頭郡浦添村仲間のろ(宮城かな女)
  ・
  同  読谷山喜名のろ(與久田かまど女)
  ・国頭郡 喜瀬のろ(比嘉かな女)(勾玉着装写真)
  ・  同  本部村浜元のろ(仲村まつ女)
  ・  同       謝花のろ(仲村かな女)
  ・  同  今帰仁村今泊のろ(仲尾次たま女)
  ・  同        阿応理屋恵按司(勾玉の写真)
  ・  同 名護町名護城のろ(山里きく女)
  ・  同      屋部のろ(吉元かめ女)(勾玉などの写真)
  ・  同 恩納村恩納のろ(大城とだ女)
  ・  同      山田のろ(比嘉まか女)

【ノロの任命】(辞令書:御印かなし)

    しょり(首里)の御み事
  みやきせんまきり(今帰仁間切)の中くすく(中城)のろは
  一人もとののろのくわ(元ののろの子)まうし(真牛)に たまわり申候
   しょり(首里)よりまうし(真牛)が方へまいる
  萬暦三十三年九月十八日

【ノロが奉仕する職掌する年中行事】あげてある。(公義のろは全ての祭祀に関わるのではない)
 ・正月元旦(国王の民衆の太平、五穀豊穣の祈願)
 ・二月、三月(麦穂祭)
 ・五月(稲の穂祭)
 ・六月(大祭)
 ・七月(大弓)
 ・八月(柴とり)
 ・九月(種撒)
 ・十一月(芋祭)