名護三村
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【名護村と三つの村】(東江・城・大兼久)
▲名護が「那五」と記した『海東諸国紀』(1472年) ▲名護市の全域(『名護市史』より)
▲名護村(ムラ)が東江・城・大兼久の三か村が創設される ▲大正末頃の名護三ヶ(『共産村落之研究』
『絵図郷村帳』(1646年)の「名護間切名護村、かねく村(当時無之) 城村(当時無之)」とあるが、「当時無之」をどう解するかで、村の成り立ちの実態が大分違ってくる。それと「間切村名尽」が『琉球資料三〇と三二』にある(『那覇市史』(琉球資料上所収)。資料三〇には出てこないが、三二に「東江村・大兼久村・城むら」と出てくる。前者に今帰仁間切湧川村(1738年創設)は出てこないが、後者には出てくる。すると「名護間切の東江村と大兼久村と城村」が行政村になったのは、その頃とみてよさそうである。行政村にはなったのであるが、神アサギの創設や祭祀の分離は行われていない。そこでも祭祀は強固であるとの法則が見出される。
『琉球国由来記』(1713年)の名護間切に、以下の三ヶ所が出てくる。
テンツギノ嶽 名護村
名護巫火神 名護村
名護城神アシアゲ 名護村】
『絵図郷村帳』に「城村」と「かねく村」は「当時無之」として登場する。その後の『琉球国高究帳』には「名護村」のみ出てくる。「当時無之」は『絵図郷村帳』の時には「城村」と「かねく村」は、行政村としてなかったと解すべきか。『絵図郷村帳』はそれらの村が存在した頃に編集されたと見るべきか。「当時無之」をどう解するかで、行政の名護村の変遷に大きく影響してくる。
「御当国御高並諸上納里積記」(1743年頃か)には、名護間切の村は世富慶村・名護村・喜瀬村・幸喜村・許田村・安和村・宇茂佐村・屋部村・山入端村・宮里村・数久田村の11ヶ村である。前回のムラ・シマ講座で行った羽地間切の田井等村は登場するが親川村はまだ出てこない。分村する前の資料である。
『沖縄県統計慨表』(明治13年)を見ると、名護間切の村は13ヶ村が登場する。新しく出てきた村は城村と東江村と大兼久村の三ヶ村である。そこで名護村が消えている。流れから見ると名護村が東江・城・大兼久の三つの集落となり、それが行政村になったと見られる。
明治13年当時の東江村は147世帯(人口697人)、城村は80世帯(人口497人)、大兼久村は201世帯(1016人)である。他の地域の村規模と比較すると名護村は大規模な村であったことがわかる。分村した大兼久村と東江村も大規模な村である。
名護グスクの麓に展開していた名護村が三つの村に分かれるが、行政村として独立した村の祭祀はどうなっていったであろうか。
「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治17年)を見ると、名護間切は城村しか出てこない。名護城嶽と神アシアゲとのみ登場。東江村と大兼久村に神アサギを造らなかったのはなぜか。羽地間切の田井等村から親川村が分かれたが、祭祀は一緒に行っているのと同様なものか。そのあたり、名護村から分れた城・東江・大兼久の集落が行政村となり、再び名護村に統合されていく過程を丁寧にみていくことにする。行政村になっていく過程で祭祀や土地制度や低地の仕明など、複雑に絡んでいるようである。
▲「名護町先住地及び移住地図」(大正の頃)
『琉球共産村落之研究』(田村浩著)所収
【名護村の行政村としての変遷】
▲名護グスク(ウタキ)周辺の集落が発達して移動(16世紀頃からか)
▲1738年頃〜明治36年(行政村として成立)
▲明治36年に三つの村が統合して再び名護村
【名護グスク(ウタキ)を中心とした祭祀】
名護間切には「名護のろくもい」と「屋部のろくもい」と「喜瀬のろくもい」の三名。ノロが保有していたノロ地は一町歩内外。(一町は3000坪、一畝は300坪)(一石は約150kg)
・名護のろくもい(東江・城・大兼久・数久田・世富慶・宮里)
作得 米二石四斗三升一合四勺
・喜瀬のろくもい(喜瀬・幸喜・許田)
作得 米一石六斗八升八合
・屋部のろくもい(宇茂佐・屋部・山入端・安和)
作得 米二石四斗一合五勺二才
雑穀 七升四合二勺五才
【名護グスク内の拝所など】
▲名護グスク(ウタキ)の遠景 ▲名護グスクのイベへの道筋
▲名護グスク内の神アサギ
▲名護グスクグスク(ウタキ)のイベ
【名護グスク周辺の拝所】
▲ノロの火神を神殿と拝殿にしたという(昭和4年)
▲イジグチ ▲名幸祠一門の拝所
▲プスミヤー跡 ▲名護ヌルドゥンチ跡
▲ニガミヤーの跡地 ▲ウッチガミヤー跡