山原の歴史と芸能と祭祀
                                           地域地域研究(もくじへ)

                     仲原 弘哲(今帰仁村歴史文化センター館長) 
                                        (肩書きは当時のまま)

1.山原の歴史的素描

 沖縄県本島の北部には国頭村・大宜味村・東村・名護市(屋我地村・羽地村・名護町・屋部村・久志村我合併)・今帰仁村・本部町・恩納村・宜野座村・金武町、離島に伊江村・伊是名村・伊平屋村がある。北部市町村の人口は約13万人である。

 沖縄本島北部のことを山原(やんばる)と呼ぶ。歴史的には1112世紀頃から各地のグスクが次第に勢力をのばし、統括されていく時代があった。沖縄本島北部は根謝銘グスク(現在の大宜味村謝名城)、親川グスク(別名羽地グスク、旧羽地村で現在名護市)、名護グスク(現在名護市)、金武グスク(現在金武町)、今帰仁グスク(現在今帰仁村)の五つのグループにまとまった。

さらに五つのグループをまとめたのが今帰仁グスク(別名北山ともいう)である。北山王を頂点とした小国家が形成され、山原(北山)を統治した。沖縄本島は北山・中山・南山の三山が鼎立した時代である。その頃、沖縄本島の中部地域は浦添グスク(後に首里グスク)、南の方は南山グスク(大里グスクと高嶺グスク)にまとまっていった。三山鼎立時代の北山は、根謝名グスク、親川(羽地)グスク、名護グスク、今帰仁グスク、金武グスクの五つのグループ(後の間切)にまとまっていたと見られる。さらに、五つをまとめたのが北山王で今帰仁グスクを居城として、北山(山原)全域を領地とし支配していった。

1416年(あるいは1422年)に北山は中山の尚巴志の連合軍に亡ぼされ、1429年に南山が亡ぼされ、琉球は中山に統一され琉球国は統一された。その後の北山(山原)は、今帰仁グスクに第一尚氏、第二尚氏の監守が派遣され、監守制度が敷かれた。この制度は監守(今帰仁按司)一族が首里に引き揚げた1665年にまで続いた。

山原の五つのグループは、1500年代になると国頭間切、羽地間切、名護間切、今帰仁間切、金武間切となる。小規模のグスクから、中規模の五つの領域にまとまり、さらに北山に統一されていった過程で形成されたのが山原の文化の底を流れているものであろう。その上に琉球が一国として統治され、首里王府を中心とした文化が地方へ広がりを見せる。三山時代に形成された山原の文化の上に首里王府(中央部)の文化が重なり、あるいは移入されていった。歴史を踏まえると、三山統一跡の山原の芸能や文化は中央部からの移入文化とみた方がよさそうである。

近世になると本部半島の大半を占めていた今帰仁間切は1666年伊野波(本部)間切とに二分された。国頭間切と羽地間切の一部ずつ分割して大宜味間切(1672年)、名護間切と金武間切を分割して久志間切(1672年)、金武間切と読谷山間切の一部を分割して恩納間切(1672年)が創設された。山原は五つの間切から、分割され九つの間切となり、明治まで続いた(伊江島、伊平屋島を除く)。

 昭和21年に名護町の一部から屋部村、羽地村の一部から屋我地村が分離するが、昭和45年に名護町・屋部村・羽地村・屋我地村・久志村が合併し名護市となる。大正12年に久志村の北側が分離し東村となる。本部半島では昭和22年に本部町の一部を分割して上本部村が独立するが、昭和46年に再び統合し現在に至っている。

 そのような行政の変遷を辿る山原(北山)の市町村や村(ムラ:字)の芸能や祭祀がどのようなものがあるのか、全ては網羅できないが、いくつか紹介することにする。

 
 ▲北山王の居城となった今帰仁グスク               ▲今帰仁グスクの大隅の城壁 

 
▲国頭地方の拠点となった根謝銘グスク内の神アサギ ▲羽地地域の拠点となった羽地(親川)グスク遠景 

2.山原へ移入された伝統芸能

 そのような歴史を歩む山原であるが、そこにどのような伝統芸能や文化があるのか。山原独自の伝統芸能や文化を見出すことは非常に困難である。ここでは山原独自の文化が何かという視点ではなく、首里王府を中心とした芸能や文化が山原にどう流れ移入され定着していったのか。その視点で見ていくことにする。山原独自の文化がどういうものなのか、踏み込んで述べることができないので、各地で行われている村踊(ムラウドゥイ)での組踊や操り獅子(アヤーチ)やミャークニー、琉歌、あるいは村(ムラ)の祭祀について紹介することにする。

 各地の豊年祭で行われている「組踊」は、冊封使を歓待するための余興として創作され出発したものであるという。玉城朝薫が組踊を創作し、1719年の冊封の式典のあと、重陽の宴で正式演目として演じられた。能・狂言・人形浄瑠璃・歌舞伎など様式や演出を取りいれてあるようである(『沖縄大百科百事典』)。

 組踊は玉城朝薫の創作にはじまるが、その後に組踊を創作した人物として平敷屋朝敏はじめ、田里朝直、高宮城親雲上、久手堅親雲上、平敷屋親雲上、辺士名親雲上があげられている。

 【玉城朝薫】(16841734年)
  ・鶴亀二児復父仇故事(二童敵討)
  ・鐘魔事(執心鐘入)
  ・銘刈子
  ・女物狂
  ・孝行の巻

【敷屋朝敏】

  ・手水の縁

【田里朝直】(17031773年)

  ・義臣物語

  ・万歳敵討

  ・大城崩

【高宮城親雲上】

  ・花売の縁

【久手堅親雲上】

  ・大川敵討

【辺士名親雲上】

  ・忠臣身替の巻

 組踊は当初御冠船踊の演目として、首里王府を中心として、一部支配層のものであったのが、近世末頃から各地へ伝わり、村(現在の字や区)の村踊(豊年祭)に組み込まれるようになった。山原の村(字)の村踊で行われている「組踊」は、まさに移入された芸能を定着させたものである。それが村踊に組み込まれ100年余り継承され、定着した伝統芸能の一つと言えそうである。各地の村に、それを受け入れる風土、土壌を持っていたということである。多くの村(ムラ)で行われていた組踊であるが、今では演じることができなくなったところもある。

 本部町でも組踊が豊年祭の演目として今でも行われている。各字特徴ある芸能を持っている(恒例となっている演目:棒や衆巻き、長者の大主、獅子舞、狂言喜劇など)が、ここでは組踊のタイトルをあげてみる。

・瀬 底・・・組踊の伏山敵討と大川敵討(交互に行う)
 ・崎本部・・・万歳敵討や伏敵討など(以前は本部大主や久志の若按司)
 ・渡久地・・・本部大主や高山敵討
 ・並 里・・・大川敵討・久志若按司
 ・伊豆味・・・伏山敵討
 ・浜 元・・・久志若按司・伏山敵討
  ・備 瀬・・・久志若按司・護佐丸誠忠録
  ・具志堅・・・大川敵討・万歳敵討・久志若按司・花売の縁 

3.山原の各地の組踊

 宜野座村は組踊など芸能が盛んな地域である。松田で行われている組踊「本部大主」は1818年の台本によるという。本部大主は北山敵討とも呼ばれ、宜野座村松田の他、数ヶ所で行われているという。また、宜野座村宜野座で行われる「京太郎(チョンダラー)も、もともと地元のものではなく、大和(京)から来た芸人太郎のようであるが、首里を拠点に各地に広がっていったようである。宜野座村松田(古知屋)で行うようになったのは、寒水川芝居の役者の渡久地武恭の指導により、明治33年の村踊で上映されたのが始まりだという。このように組踊や京太郎など、首里を中心としたものが地方へ流れ受容されている。受容される土壌があったにちがいない。

 宜野座村だけでなく、かつては今帰仁村湧川でも組踊(志慶真父子)が行われていた(脚本は『今帰仁村史』に収録)。また本部部町伊豆味でも組踊が行われている。平成15年には「伏山敵討」が行われている。まだ、組踊が盛んなところについて調査したわけではないが、いくつか見てみると寄留人が村に寄留していることが、村の村踊に組踊や路次楽など中央の芸を導入していくきっかけとなっているのではないか。今帰仁村湧川や本部町伊豆味は寄留士族の比率の高い地域である。それと同時に、その村に他からのものを受け入れる土壌があるということでもある。

 宜野座村だけでなく、各地の村踊の演目の中に首里を中心とした芸能をはじめ、他地域から受容された芸能があり、山原の芸能を見ていくとき、山原で生まれ継承された芸能が何か。そのような視点で芸能を拾っていくことができないか。

 山原の文化や伝統芸能は、首里を中心とした外からの導入継承されたものの他に、地元から生まれたものが村踊の演目のなかにあるに違いない。外から来て、定着していく芸能と地元で生まれ継承されてきた芸能が、対等の芸能として捉える視点で山原の伝統芸能をみていくと「山原の芸能」あるいは山原の文化として位置づけることが可能ではないか。それと外来の文化や芸能を村踊に組み入れていく土壌があることも見逃してはならないのではない。豊年祭は今では独立した形で行われているように見えるが祭祀と一体のものである。 

 
 ▲古宇利島の道ジュネー(豊年祭)                   ▲豊年祭の舞台を見守る神人達 

「組踊」とは別であるが、各字で行われる豊年祭での「長者大主」は豊年祭の道ジュネーに続き、
  舞台の幕開けでもあるため継承されている。
 

4.山原の三地区の操り獅子(アヤーチ)

 アヤーチは操り獅子のことである。獅子舞は全島各地で盛んに行われているが、この操り獅子は、沖縄本島北部の三地区(名護市川上・今帰仁村謝名・本部町伊豆味)でしか行われていない。それも豊年祭のプログラムのトリーを飾っている。山原の三地区(字)で行われているが、今帰仁村謝名のアヤーチは300年とも言われている。

 今帰仁村字謝名のアヤーチは豊年祭(五年マール)の演目の一つである。かつては旧暦の8月9日(庭出し)、11日(仕込み)、13日(正日)、15日(別れ遊び)の5日にわたって行われていた。今では1日で終わっている。豊年祭は道ジュネー、舞台は長者の大主に始まりアヤーチで閉じる。アヤーチが舞台の最終に終わるのには、アヤーチが単なる豊年祭の一演目ではなく、また豊年祭全体、さらには年中祭祀と深く結びついたものである。最大の目的は豊年祈願、村の繁盛などの予祝を祈願するものであろう。

 舞台の上に獅子が舞うもう一つの舞台を設置し、かつては天井に竹棒をわたし、糸を頭部と尻尾の付け根に結わえ、二頭の糸は幕の後ろで操る。二頭の中央部に黄金色の球を吊るし、二頭の獅子がじゃれつくような動きをする。操り手は獅子にそれぞれ一人ずつ。球に一人、計三人で操る。獅子の舞いは三味線に合わせて舞う。三味線の緩やかに、しだいにテンポが速くなる。二頭の獅子は生き物のようにうずくまったり、球に飛びついたりする。つま先の古銭や口と球の中の鈴が飛び跳ねたり、動いたりすると軽い音がでるようになっている。

 本部町伊豆味の操り獅子はシーサーモーイと呼び、豊年祭は五年マーイである。豊年祭は旧8月7日(ナーイヂあるいはナーイジャシ)、9日はスクミ、11日がショウニチ、15日が最終日である。シーサーモーイは豊年祭の最終日の最後の演目として演じられる。本部町伊豆味の操り獅子は今帰仁村謝名に習ったものだという。

 名護市川上(旧羽地村)でも操り獅子が行われている。川上の豊年祭は旧暦8月8日から10日までの三日間である。8日がスクミ(仕込み)、9日がショウニチ、10日がワカリである。川上には親獅子と呼ばれる人が入る獅子がある。この親獅子は8日に川上アサギ、9日は谷田神アサギ、10日はハンカジョウで舞う。操り獅子が舞うのは最終日最終演目である。操り獅子の前に親獅子の舞がある。川上の豊年祭でも操り獅子は演目の最後である。やはり、操り獅子が最後を閉めるところに意義があるのであろう。

 操り獅子の導入は明治以降のことであるが、どこの系譜を持つものか、まだ検証されているわけではない。しかし、地元から湧き上がってきたものではないであろう。また、三区にしか導入されていないことも特徴である。三区にしかないことが、また山原の外来の操り獅子を組み入れる土壌があったことも特徴なのかもしれない。 

5.今帰仁村湧川の路次楽

 路次楽は琉球国の国王の行列や江戸上りのとき、道中奏でられたもので、特に江戸上りの道中、吹奏され異国的なところ注目を浴びたという。その路次楽が今帰仁村湧川では今でも行われている。もともと今帰仁村のものではなく、中国から琉球に伝わったのは1522年に中国に渡った沢岻盛里が習い、哨吶(ツオナ)と鼓を持ち帰り、導入されたようである(『沖縄大百科事典』)。

 今帰仁村湧川と今泊に伝わるが、今泊は今では行われていない。湧川では路次楽のことをガクブラやガクと呼んでいる。湧川への導入の時期ははっきりしていないが、江戸上のとき、路次楽の担当を担っていた一族が湧川に寄留し、村踊(ムラウドゥイ)に組み込まれたのであろう。湧川の村踊に組み込まれる要素は持っている。湧川の村の創設は1738年で祭温の山林政策によるである。村の創設に至って、首里・那覇からの寄留人が住みつくようになり、村の大半が士族である。そのため、江戸上の路次楽が山原の村(湧川)の村踊の主要な演目として導入されたのであろう。

 毎年旧暦6月15日がハチガクでガクの吹き始めである。八月遊びは一ヶ月前から稽古にはいる。メーンピャは踊りの練習で一杯なので、棒シンカはウタキの下で稽古したので、路次楽も棒シンカと一緒に練習する。ガクの演奏は八月九日(スクミ)、十一日(ショウニチ)、十日の獅子御願のときに演奏する。ガクの演奏狂句目は三曲あり、上句と下句があり、前段と後段に分れる(『今帰仁村史』)。

湧川の路次楽は与儀家が継承し、湧川の豊年祭で吹奏される。与義家の先祖は真和志間切与義村出身者だという。進貢船で唐に渡り、首里から下ってきた与義銀太郎(七代目)からだという。唐楽のガク吹きだとして回りを驚かせたという。そのような存在だったので湧川村の豊年祭や祭祀への路次楽の導入があったのだという(『今帰仁村史』)。

今帰仁村今泊(グスクの麓)でも行われていたが、今ではガクを奏でることのできる人がいないためテープを流して、棒や獅子舞いや道ジュネーをしている。 

6.山原の文化や伝統をささえた方言

 山原の文化を捉えるとき、言葉の問題がでてくる。山原方言で組踊や史劇ができるのか。やってきたかどうかである。琉球方言は大別すると奄美・沖縄方言、宮古・八重山方言、与那国方言に分けられる。奄美・沖縄方言は奄美方言と沖縄方言、沖縄方言は沖縄北部方言と沖縄南部方言に分けられる(『日本語の世界』外間守善著)。沖縄本島の方言が北部と南部方言に二分される。その北部方言の領域が山原である。

 沖縄本島の方言を二分する北部方言地域の文化を考えるとき、言葉を二分するだけの要因があるに違いない。その違いが、文化の違いに大きく影響さえているのではないか。北部が南部と言葉が二分されることは、北山の歴史と流れてと無縁ではないと考えている。北山・中山・南山と三山が鼎立していた時代が、中南部と異なる文化を形成したのではないか。三山が統一されるが、山原は三山鼎立時代に形成された文化は、追いかぶさってくる首里王府を中心とした文化の波に押し流される部分、ガンと強固に引きずってきたのではないか。山原人(ヤンバラー)と言われる気質や生活習慣、言葉など。それと神アサギという祭祀場の分布が北山の領域と重なっている。それと集落を区分する山原の・・・バール、バーイ、中南部の・・・ダカリの分布の重なり。

 このように、方言や集落区分の呼称、それと祭祀場の神アサギと殿(トゥン)の分布に山原の文化を築いた風土、土壌が見え隠れする。

現在行われている芸能のほとんどが、移入され継承されているものがほとんどである。山原の文化の根底に流れているものは、各村々で行われている祭祀ではないかと考えている。移入され継承されている芸能や古典にしても、底流を流れているもの、外の文化を受け入れる土壌について一つひとつ掘り下げて見る必要がある。山原の文化を考えるとき、その作業がまだ不十分だと痛感している。 

7.今帰仁・本部ミャークニー

 ミャークニーやナークニーと呼ばれる民謡がある。沖縄本島や周辺離島とでも謡われているようであるが、特に今帰仁ミャークニーや本部ナークニーが知られている。本部間切は1666年以前今帰仁間切のうちなので、ひっくるめて今帰仁ミャークニーとみてもよさそうである。各字異なると言われ、歌い手一人ひとりの微妙な節回しの差が聴き手の胸をうち、また味深いものがある。

 歌詞は村名やカーなど地名をいれ、人々の情けや風土を織り込んで謳いあげている。ミャークニーも首里に奉公した今帰仁の若者が宮古の歌(アーグ)を聴いて、それを今帰仁で定着させたという。ニャークニーの起源が、そうであれば外からのものを取り入れ、発展させていったものと言えそうである。次の歌詞は今帰仁ミャークニーと本部ミャークニーで謡われる代表的な歌詞である。 

   今帰仁ぬ城  霜成いぬ九年母

     志慶真乙樽が ぬちゃいはちゃい 

渡久地から上り 花ぬ本辺名地

遊び健堅に 恋し崎本部

 
 ▲今帰仁ミャークニーに聴き入る観衆                   ▲今帰仁ミャークニーを熱唱する二人  

8.琉歌碑が建立される国頭村

 国頭村の村(字)に琉歌碑が建立されている。それは国頭村の人々の琉歌への想いの反映であろう。 

【安波節】

 安波の真はんたや  肝すかれ所  宇久の松下や  ねなしところ

  (安波の真はんたは心を交わすところ。宇久の松下は恋人と愛しあうところである) 

 
▲国頭村安波のマハンタからみた安波川の下流域          ▲安波集落の上の方にある神アサギ 

【辺野喜節】

   伊集の木の花や  あん美らさ咲ちゅい  わ身ん伊集やとて  真白咲かな

   (伊集の花は、あんなに清らかに咲いている。私も伊集の花のように白く美しく咲きたいものだ)

【謝敷節】

   謝敷いたびしに  うちやい引く波や  ざじち美童の  み笑れはぐち

   (謝敷の海岸の板瀬に打ち寄せる白波は、謝敷乙女の微笑む白い歯並びのようだ)

 
   ▲国頭村謝敷の琉歌碑              ▲神アサギミャーから海の方をみる

【与那節】

   与那の高ひらや  汗はてどのぼる  無蔵と二人なりば  一足なから

   (与那の汗果てるほどきつい坂は、愛しいあなたと一緒なら一足で越えてしまう)


    ▲国頭村与那の集落                     ▲与那の集落内にある湧泉(ハー)

 

8.山原の村(ムラ)の祭祀(神行事)

 山原の村々(現在の字)で行われている祭祀(神行事)がある。豊年祭も年中祭祀の一つである。主なものに以下のような祭祀がある。本来ノロはじめ神人が中心となって行ってきたが、今では神人の継承者がなく数少ない神人や村人達で行っている。豊年祭は各地で開催されているが、祭祀部分は衰退しつつある。山原の歴史や文化、伝統芸能などを見ていく場合、村(ムラ)の祭祀が背景にあり、豊年祭そして豊年祭の演目も祭祀(祈願は五穀豊穣・ムラの繁盛・航海安全など)と関わっていることも忘れてはならない。ここで山原の祭祀をあげるのは、豊年祭(村踊)は本来年中祭祀の一つであり、豊年祭の演目は移入されたものがほとんどである。長者の大主や組踊や路次楽など外からの芸能を村踊に組み込まれているが、そのバックに村の祭祀があるということも念頭にいれる必要があると考えている。そのこともあって、ここに村の祭祀(神行事)を掲げておいた。

  ・1月・・・若水くみ、ハチウクシー

 ・2月・・・二月ウマチー

  ・3月・・・三月ウマチー、サンガチサンニチ

  ・4月・・・アブシバレー(ムシバレー)

  ・5月・・・五月ウマチー

  ・6月・・・ウマチー、ウユミ(ウイミ)

  ・7月・・・シヌグ、ウンジャミ(ウンガミ)、獅子舞

  ・8月・・・柴指、ヨーカビー(豊年祭、綱引き)

  ・9月・・・菊酒

  ・10月・・・種取り

  ・11月・・・プーチウガン(鞴)、ウンネー

  ・12月・・・フトゥチウガン、オニモチ

 祭祀や豊年祭が行われる会場は、集落の中心となるアサギミャー(アサギ庭)と神アサギである。神アサギは山原のほとんどの村(現在の字)にあり、神アサギの分布が北山の領域とほぼ重なっている。かつて年中祭祀は村の人々にとっての休息日であったこと。それが祭祀を継承してきた要因でもある。

 祭祀の中のウンジャミ(ウンガミ)とシニグが山原地域に分布し、シニグは与論島、沖永良部島に明治の初期まで継承されていたようである。ウンジャミは国頭村安田、安波、比地、大宜味村謝名城、塩屋、今帰仁村古宇利などで継承されている。

 今帰仁村古宇利の海神祭(ウンジャミ)は旧盆明けの最初の亥の日に行われる。午後から神人達が神アサギに三々五々と集まり、弓(ヌミ)を持つ神人とアサギ内に座って見守る神人にわかれる。弓を持つ神人はアサギミャーのロ型に引かれた線上を七回往来する。その後、フンシヤー→神道→シチャバアサギ→シラサ→シチャバアサギの順で動く。古宇利のウンジャミの祈願は山・海・農に対する祈願が一体となって行われている。シラサの岬での神送りは塩屋に向かっての祈りだという。ウンジャミの翌日に豊年祭が行われる。豊年祭が祭祀の一連のものであることがよくわかる。神人達はアサギミャーの舞台の前で演目のすべてみ、演目がすべて終わると舞台にあがり祈願をして終わる。古宇利島では、豊年祭と祭祀が一体のものとしての姿を今に伝えている。

 大宜味村塩屋のウンガミ(海神祭)もよく知られている。古宇利島と同様、毎年旧盆明けの最初の亥の日に行われる。田港・屋古・塩屋、田港ノロ管轄の村(字)が関わっている。田港アサギ→屋古アサギ→塩屋湾へと進み、塩屋湾岸でハーリーが行われる。祭祀の流れから五穀豊穣・豊漁(航海安全)・豊猟・村の繁栄を祈願している。

 

 
  ▲古宇利島のウンジャミ(海神祭)                ▲ラサの岬で神送りをする神人たち

 

 
  ▲祭祀場となる神アサギ(国頭村安田              ▲今帰仁村崎山の神ハサギ

 
  ▲本部町具志堅のシニグ                   ▲本部町具志堅の神ハサーギ

おわりに―山原の芸能や文化をみる視点

 山原の伝統芸能や文化がなにか。山原で囲むことのできる文化、あるいは伝統芸能がどんなものか。首里・那覇・久米や大和、あるいは中国からの導入や影響などの研究が進められている。もちろん、外からの影響も見逃すことができないが、それを受け入れた土壌はなにか。それを受け入れた土壌として村の祭祀があり、祭祀のひとつとして豊年祭が行われてきた。その中に演目として外来のものが組み込まれている。山原の文化の底流には村(ムラ)の祭祀があり、祈願は繁栄や五穀豊穣、そして航海安全などの予祝がある。そこまで踏み込んでいかないと山原の独自性は見出せない。

 組踊などで、物語の登場人物や今帰仁グスクや森川子の塩屋、手水の縁の許田の手水などが、登場してくる場所について、作品を生み出した北山の歴史や村(ムラ)、登場する場所などについて見ていくことも必要であろう。最初に「山原の歴史的素描」をしてみたが、文化・言語・伝統芸能などをみていく場合、特に山原は自分達が住んでいるムラから生まれたもの、そして外から導入されたもの、それを受け入れどう継承してきたか。外からのものを受け入れる風土、それが芸能や祭祀を文化として継承していく力添えになっている。受け入れた村(ムラ)や継承してきた人々についても視野にいれた山原の文化論へと議論が展開できればと考えている。