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・本部間切の役人
【本部間切の役人】(2004年3月5日)
『琉球国由来記』(1713年)に本部間切の役人層を知ることができる。今年は閏年なので墓の移転や新築が多いことが予測される。墓を開けたり、移葬するとき、厨子甕やその蓋に書かれた文字(銘書)を散見する。銘書に死亡年月日や洗骨日、あるいは死者の名や役職などが書かれている。また年号(ほとんどが中国年号)もある。何も書かれていない場合もある。
『琉球国由来記』(1713年)当時の本部間切の役職を記すと、以下の通りである。天底掟とあるが、天底村は1719年まで本部間切の村である。
地頭代・・・・・・健堅大屋子
夫地頭・・・・・・渡真利大屋子・満名大屋子・石嘉波大屋子
辺名知大屋子・並里大屋子
首里大屋子・大掟・南風掟・西掟・辺名知掟・謝花掟・浦崎掟
崎浜掟・伊豆味掟・天底掟・瀬底掟・備瀬掟・
具志堅掟・渡久地掟・嘉津宇掟
本部間切の地頭代(現在の村長や町長)は健堅大屋子、1750年頃から健堅親雲上を名乗るようになる。本部間切瀬底村の上間家(アガーリ)から地頭代が四名出ている。二世の童名加名は1759年に地頭代になる。その頃には、すでに健堅親雲上を名乗っている。
本部間切では地頭代を努めると「健堅屋」の屋号がつく。同村に地頭代が何名も出てくると「上」や「下」をつけて「上ノ健堅屋」や「下の健堅屋」と区別している。