宜野座村松田
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・松田のウタキ
2004年10月25日(月)
沖縄本島東海岸の宜野座村松田をゆく。もう少し、山原のウタキを見ておきたい。松田は古知屋(クチャ)から戦後(昭和21年)宜野座村松田となる。終戦直後、古知屋内に古知屋市と高松市が置かれるが、しばらくして古知屋市に統合された。松田にしたのはコザ(現沖縄市)と古知屋の音が似ているので間違うからだという。現在の松田は近世には金武間切古知屋(こちや)村である。
松田にメーヌウタキとクシヌウタキを確認することができた。『琉球国由来記』(1713年)に古知屋村(久志間切)にオシアゲ嶽(神名:トヨミノ御イベ)とカナフヤゴ嶽(神名:ヨミチヨノ御イベ)がある。沖縄県文化財調査報告書第59集「御嶽」ではクシノウタキはカナヒヤゴ嶽、メーヌウタキはオシアゲ嶽と想定してある。
宜野座ノロの管轄である。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治15年頃)には字前ノ御嶽と後ノ御嶽・トスノ御嶽の三つが記載。
古知屋の集落はクシヌウタキを背に南側に展開している。もう一つメーヌウタキを背に展開している部分がある。クシヌウタキとメーヌウタキとの間に二つの集落(マク・マキヨ)があったと見ることができるのではないか。外にもウタキがあるので、二つに限らず複数の集団が一つのムラにまとめられたとみることができそう。クシヌウタキの管理はネーブヤ、メーヌウタキはニーガミウタキとも呼ばれニーガミ(根神)の管理である(『国頭の村落』)。(クシヌウタキ付近の集落は、別のところからの移動伝承があるがそこでは扱わない。
また、二つのウタキはどっちが古い、あるいは分かれたとの議論もあるが、ここでは二つの集落がムラ(村)へ集約され古知屋村になったとの仮説をもっている。それがクシヌウタキはニーブヤ、メーヌウタキはネガミヤ、それぞれの神役が管理しているのはその痕跡ではないか)。
古知屋村は『琉球国由来記』(1713年)の頃は久志間切の内。ところが、ノロ管轄は金武間切の宜野座ノロである。間切の編成はノロ管轄の変更はもたらしていない。
▲宜野座村松田のウタキと集落
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▲松田のメーヌウタキ ▲メーヌウタキのイベの祠
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▲松田のクシヌウタキ ▲ウタキの中のイベの祠
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▲クシヌウタキの麓にある旧家と拝所 ▲松田(古知屋)の神アサギ