山原(やんばる)再び踏査
 トップへ                ―国頭村―


【国頭村比地】【国頭村安田辞令書】【根謝名(ウイ)グスクと村(ムラ)】
国頭村奥間】 】【国頭村の公民館


 これまでメモてきた国頭村の部分を集合させることに。年月日はまとめた当時のものである。書き改めたいが部分が多々あるが、まずは集合させてから。





2003.1.17(金)

 最近各地の石灯籠が気になっていた。国頭村の辺戸・比地、そして今帰仁グスク内の石灯籠。それと拝所の「奉寄進」と彫られている香炉。以前、触れたことがあるが、石灯籠が置かれると大和めいて沖縄(琉球)の御嶽やカーなどにはそぐわないし違和感がある。それだけでなく、近世(薩摩軍の琉球侵攻)以後、琉球は薩摩に支配されていることを隠蔽している。その中で大和風の石灯籠の設置が何故許されたのか。違和感があるのと同時に関心の引かれるところである。大和めいた石灯籠から近世の琉球の薩摩の琉球支配の一面を見ることができる。各地に石灯籠が設置できた按司や王子クラスの首里王府の役人。大和上りは誇りであり、石灯籠の設置は無事の帰国だけでなく権力の象徴でもあったのであろうか。

 『心得書』に「すべて、薩摩を琉球属島中の宝島と濁し、一切のやまとめきたるものが、万一支那人の目に留まり、詰問を受けた場合には、宝島人と交易して、手に入れたものと、弁解する事になっている」(東恩納寛淳「中山世鑑・中山世譜及び琉陽」『琉球史料叢書五巻』解説47頁)。また「一切のやまとめきたるものを撤回隠匿し、撤回しがたき、石灯爐や、手水鉢の類は、宝島人が海上安全の祈願のために、奉納したものとして弁疏させることにした」とある。なるほど・・・・
 糸数城に「玉城按司御上国付御供
        糸数村太田仁屋
        嘉慶二十五年七月」
の石灯籠がある。『中山世譜附巻』に「嘉慶二十五年に慶賀に玉城按司朝昆が六月十一日薩州に到り、十一月二十二日に帰国した記事がある。糸数村の太田仁屋が玉城按司の上国に御供し、糸数城に石灯籠を寄進している。文献と石灯籠の年月日からすると出発するにあたり寄進する場合と、無事帰国した後に寄進する場合がありそうだ(他の史料の確認が必要)。

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 ▲座喜味親方寄進灯籠  ▲今帰仁グスク内にある石灯籠の銘(拓本)
    (『金石文―歴史史料調査報告書』より沖縄県発行)
  


2003.2.18(火)

 
火曜日が歴文にとって最も忙しい日。午前中、浦添市で22日の「近世墓シンポジウム」の報告の確認と進め方の打ち合わせ。トンボ帰りで2時から今帰仁グスクの整備委員会。晩もあるが体力的に続かずパスです(失礼しました)。

 昨日は一日ぶらりゴロゴロする予定であった。ところが、ゴロゴロして9時、10時と時間が過ぎていくと体が腐ってくる感じ。どこでもいいから、それ行け!!
 結局行ったコースは、大宜味村塩屋・屋古・田港に行き、東海岸に回り東村の平良・川田(先日勾玉の件があったので)へ。さらに北上し国頭村の安波まで。

 安波は国頭村の一つで太平洋側に位置する字である。斜面に発達したシマンナハ、分家筋でできたメーダ(前田)とフクジ(福地)、離れたところに寄留人でできたチュラサク(美作)の集落からなる。シマンナハ集落は斜面に発達し、旧家や神アサギやソージガーなどの拝所があり、山原の古い集落形態を保っている。斜面に位置した集落は昭和30年代までほとんどが家が茅葺屋根であったが、今では茅葺屋根の家は一軒もない。

 安波は昨年大きく変貌した。シマンナハの集落の中をヌルドゥンチまで車が通る道がつけられ、神アサギがコンクリートから赤瓦葺きに、そしてミーヤー(新屋)や上之屋(ウヘー)、アサギナーからヒナバンタにかけて、さらにソージガーなどが整備された。かつての落ち着いた風情が大分失われている。

 安波はウンジャミとシニグが交互に行われている。これまで安波のウンジャミもシニグも部分的にしかみていず、参与観察記録はまだつくっていない(隣の安田とほぼ同時進行で行われているため)。ハナバンタにいくと80歳近い一人のおばあがベンチに腰掛けていた。「安波川の流域はたんぼがあり、その後はキビになり、だあ今は草ボウボウさ。そしてよ、あの引っ込んだところがあるさね。そこに山原船が風よけにとまっていたよ。もっと昔はよ、ムラの下まで船がきよったてよ」など、しばらくゆんたくをした。「家はすぐそこだからよ。遊びにきてよ」と。集落の一番上の家で帰りながら表札をみると「宮城ナエ」とあった。

 「おばあ、ウンジャミやシニグの時、ここも使うの?」と尋ねると、「うん、私も神人(カミンチュ)しているから知っているさ」と。「昔はよ、ヌルは安田まで行ってきよったさ。もっと昔、ヌルは安田から安波に移ってきたってよ」と。
 「おばあ、神人していますよね。神アサギにある梯子であがったのですか」
 「今は歳とって梯子ではあがらんさ」などなど。去年まで使っていた一段あがった神アサギにのぼるのに使っていた木の梯子はヌルドウンチの後ろに置かれていた。「今年のシニグにはきますね」と別れをつげた。安波のおばあとゆんたくできただけで満足じゃ。もちろん、安波の墓地地域も歩いてみた。サキシマスホウの木のある一帯や御願橋の上流部のナンザンバカ(南山墓)とヌルバカのある一帯も(「安波をゆく」で報告)

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▲安波川からシマンナハの集落をみる ▲アサギナーからメーダ(前田)集落をみる

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▲新しくつくられた神アサギと梯子     ▲上之屋の隣の家の門(空き屋敷)

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  ▲上之屋の中にある位牌          ▲ヌーガミにある祠


2003.8.6(水)

 国頭村安田をゆく。旧暦7月最初の亥の日安田でシヌグが行われた。12時頃安田に着く。会議は15時からなので、それまでシヌグを調査することにした。山降りが12時だと聞いていた。ところが山に登るのが12時頃で山降りは13時だという。ちょっと時間ができた。しめたである。早速、山降りの三箇所のスタートの場所へ。

 まずはヤマナスへ。満潮時にあたり、胸まで浸からない川は渡れない。そこは断念してササへ。

 ササには大部人が集まり、頭にガンシナーを被り体に木の枝やツタを巻いて準備中。出発前に山の神と海の神への御願が行われた。太鼓が打たれると、エーヘイホーの掛け声。一時頃になると一列に行列をなし、ササをスタート。川に突き当たり左折して川に沿っていく。県道を横切り、決まった道筋を通りトゥンチバルへ。

 アギ橋(安田橋)に行くとヤマナスが早く着いたため、メーバ組の到着を待つ。メーバ組がアギ橋に到着するのを待ってヤマナス組と合流する。アギ橋には飲み物を準備して家族や女性達が待つ。

 それから橋を渡り、道路を横切ると左折して畑の中を通りトゥンチバルへ。トゥンチバルでササのメンバーと合流する。そこに待機していた女性達を取り巻くように二重、三重に渦巻き状に円をつくる。そこで中央部の女性達に山降りしてきた男性達が持ってきた木の枝を揺らしてエーヘイホー、スクナレースクスクと呼応して掛け声をかけあう。

 今回の安田のシヌグは流れでみると同時に、いくつもの要素を引き出してみることにある。シヌグが何かではなく、安田のシヌグに含まれている見え隠れするいくつもの要素が確認できればと考えている。特に稲作と関わる部分とヤーハリコー。他の地域との祭祀を比較する上で、安田のシヌグ(シヌググァーを含めて)が一つの物差しになるのではと考えているからである。例えば、具志堅のシニグや古宇利島のウンジャミなどと比較してみると、祭祀を通した「国(クニ)と村(ムラ)」の姿が見えてくる。さらに古琉球の辞令書に登場してくるいくつかの貢租(ミカナイ)などもあわせ見ると・・・・。