久米島のムラ・シマを踏査
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2014年5月29日30日
久米島を踏査
する。まずは久米島町のムラ・シマを頭にと説き込むことから。29日の午前中、30日は午後からムラ・シマを一気に踏査する。29日の午後と30日の午前中は研修会。踏査した順に整理することで記憶にとどめることに。
(工事中)
【1日目】
@鳥 島(旧具志川村)
A大 田(旧具志川村)
B兼 城(旧具志川村)
C嘉手刈(旧具志川村)
2009年2月3日(火)メモ
『琉球国由来記』(1713年)から「ヲヒヤ」や「ヒヤ」を拾ってもらった。ヒヤが出てくるのは沖縄本島では少なく、伊是名・伊平屋島、久米島、さらには与論島や沖永良部島で多く登場する。ヒヤは役職や住居の跡(火神や殿)、村の当主、あるいは尊称として使われている。分布や与論島以北に根強く残っているのは、近世の行政村となる以前の、古琉球の集落形態の痕跡が反映しているのではないか。1700年代の『琉球国由来記』の頃にはヒヤ制度(?)が希薄になっていたのであろう。ここでヒヤ制度に視点をあてているのは、古琉球の首里王府と地方との関わり、地方を統治する制度としてヒヤ制度があったのではないか。
山ノオヒヤは山を取り締まる役人、惣山当の次の役。
「久米具志川間切例帳」にも、@嘉手刈のひや火神、A仲地村俣江田のひや火の神の前、B西銘のひや火の神の前、C兼城のひや火の神の前、D山里のひや火の神の前、E西平のひや火の神の前、F玉那覇のひや火神、G新垣のひや火の神の前と、具志川間切に七名の「ひや」が登場する。「火の神の前」とあるのでヒヤの住居もあるであろうが、ヒヤそのものはいなく、拝所として祀っているのであろう。ヒヤが役人として、あるいは一門の頭として王府と関わる役目をしていたのが、廃止となり祭祀場として遺されているのではないか。
D儀間(旧仲里村)
E山城(旧仲里村)
F仲 泊(旧具志川村)
G西 銘(旧具志川村)
H上江洲(旧具志川村)
2009年2月2日(月)
メモ
久米島の西銘に「上江洲御嶽」(あらかきの杜)の標柱と出会う。標柱に「あらかき村のコシアテ(腰当)、あらかきのもり、あらかきのみや、あらかきのいなみね、などと謡われているとある。「あらかき」も「いなみね」も西銘村内にある地名(マキヨ)のようである。
『琉球国由来記』(1713年)の西目村に、
・上江洲御嶽 神名:コシアテ森大ツカサ若ツカサガナシ
・富祖古御嶽 神名:ソノキヤジノ大ツカサ若ツカサガナシ
・シラシ御嶽 神名:ヨキノタケ大ツカサ若ツカサガナシ
・ヲルヽ御嶽 神名:セノク森ヲモヒ君ガナシ
・西目ノロ 火神名:ヲシワキノアカゴチヤガナシ
・西目ヲヒヤ 火神名:ヲモヤケノアカゴチヤガナシ
・西平ヲヒヤ 火神名:ヲモヤケノアカゴチヤガナシ
・新垣ヲヒヤ 火神名:ミヤカノ森アカゴチヤガナシ
とある。
そこでの関心は、西目村に複数の御嶽があること。それと三人のヲヒヤの存在である。西銘だけでなく、久米島では俣枝ヲヒヤ(仲地村か)、兼城ヲヒヤ(兼城村)、山城ヲヒヤ(山城村)、久根城ヲヒヤ(山城村)がいる。火の神が祭られているので「ヲヒヤ」の住居あるいは住居跡の拝所とみられる。山原ではヲヒヤは見られないが、与論島や沖永良部島、伊是名・伊平屋島で見られる。ヲヒヤについて確認していないが、根人(ムラあるいは一門の男神人)と同様な役割を担っていたのだろうか。
これまで山原のウタキと集落との関係で何度も触れてきたが、複数のウタキがあることは、行政村になる以前のいくつかのマキ・マキヨクラスの集落を行政村にした痕跡だとみている。久米島にも同様な、マキ・マキヨクラスの集落を行政村にしたが、それの以前の姿の痕跡ではないか。古琉球から近世の村へ移行するが、行政村になる以前の集落形態と近世の神人との関わりが見えてきそうである。もう少し、久米島の村を丁寧に見ていく必要がありそうだ。そこでも神名は神の存在というより、ウタキのイベの名称(地名)ととらえた方がよさそうである。
▲上江洲御嶽(あらかき杜)と記した標柱 ▲ウタキの内部(イベは未確認)
▲上江洲御嶽(あらかき杜)をクサテとした現在の集落
I山 里(旧具志川村)
J仲 地(旧具志川村)
K具志川(旧具志川村)
L仲村渠(旧具志川村)
2009年2月4日(水)
メモ
【久米島具志川グスクと具志川村】(グスクと移動集落)
現在の久米島具志川間切具志川村は、具志川グスクから離れた場所にある。古くは具志川村の集落は具志川グスクのすぐ近くにあったはずである。字仲村渠のクシメ原にある。字具志川は具志川グスクとの間に字仲村渠を挟んでいる。具志川村(集落部分)が、現在地に移動していく過程は、他のグスクでもグスクの機能と集落の移動の関係を見ていく手がかりを与えてくれそうである。
昭和30年代の具志川グスク一帯の写真をみると、棚田がありグスクが機能していた時代の地形を保っている。それからすると、グスクの手前の斜面に集落があったのではないか。
・旧具志川部落(集落)は具志川グスクの南側の窪地(前兼久・後兼久)にあった。
・具志川グスクの麓の海岸(大和泊)
・『琉球国由来記』(1713年)に「具志川城内御イベ」は具志川村(城内に三つのイベ)(具志川ノロ)
(仲村渠村はでてこないが仲村渠掟と仲村渠目指は出てくる。1700年代には具志川城は具志川村地内)
・仲村渠村は具志川城の東側の米須原に上村渠・仲村渠・前村渠の集落があった。それらが一つになって中村渠村となるか。
(具志川村だけでなく、仲村渠村も具志川グスクと密接にかかわっていた集落ではないか)
・具志川グスクは元はウタキ
・グスクは青名崎に造りかける。
・按司の入った棺に「正徳元年丙寅」(1506年)とあり。
・築城者は他からきた者
・城内に転がっている切石に「天正八年」(1580年?)とある。.
・今帰仁按司十世宣謨は乾隆22年(1757)に久米具志川間切総地頭職を賜る。
・1750年に具志川集落は「松の口」(現在の字具志川地内)に移動する。
▲現在の久米島具志川グスクの様子 ▲昭和30年代の具志川グスクの様子
▲グスク内にある「天正九年」と掘られた石 ▲修復されている外壁の様子
※
今回の踏査で具志川グスク内の第三と第二テラスとの間の門の切石とみられるサンゴ石灰岩がいくつもある。
【2日目】
@島 尻(旧仲里村)
A銭 田(旧仲里村)
B真我理(旧仲里村)
C宇江城(旧仲里村)
D比屋定(旧仲里村)
E上阿嘉(旧仲里村)
F下阿嘉(旧仲里村)
G泊(旧仲里村)
H真 謝(旧仲里村)
I宇 根(旧仲里村)
J真 泊(旧仲里村)
K謝名堂(旧仲里村)
L比嘉(旧仲里村)