久米島
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・久米島具志川グスクと具志川村 ・久米島調査 ・久米島具志川グスク
【具志川グスクと具志川村】
(グスクと移動集落)(2009年2月4日メモ)
現在の久米島具志川間切具志川村は、具志川グスクから離れた場所にある。古くは具志川村の集落は具志川グスクのすぐ近くにあったはずである。字仲村渠のクシメ原にある。字具志川は具志川グスクとの間に字仲村渠を挟んでいる。具志川村(集落部分)が、現在地に移動していく過程は、他のグスクでもグスクの機能と集落の移動の関係を見ていく手がかりを与えてくれそうである。
昭和30年代の具志川グスク一帯の写真をみると、棚田がありグスクが機能していた時代の地形を保っている。それからすると、グスクの手前の斜面に集落があったのではないか。
・旧具志川部落(集落)は具志川グスクの南側の窪地(前兼久・後兼久)にあった。
・具志川グスクの麓の海岸(大和泊)
・『琉球国由来記』(1713年)に「具志川城内御イベ」は具志川村(城内に三つのイベ)(具志川ノロ)
(仲村渠村はでてこないが仲村渠掟と仲村渠目指は出てくる。1700年代には具志川城は具志川村地内)
・仲村渠村は具志川城の東側の米須原に上村渠・仲村渠・前村渠の集落があった。それらが一つ
になって中村渠村となるか。
(具志川村だけでなく、仲村渠村も具志川グスクと密接にかかわっていた集落ではないか)
・具志川グスクは元はウタキ
・グスクは青名崎に造りかける。
・按司の入った棺に「正徳元年丙寅」(1506年)とあり。
・築城者は他からきた者
・城内に転がっている切石に「天正八年」(1580年?)とある。.
・今帰仁按司十世宣謨は乾隆22年(1757)に久米具志川間切総地頭職を賜る。
・1750年に具志川集落は「松の口」(現在の字具志川地内)に移動する。
▲現在の久米島具志川グスクの様子 ▲昭和30年代の具志川グスクの様子
▲グスク内にある「天正九年」と掘られた石 ▲修復されている外壁の様子
久米島調査(
2009年1月31日)
2009年1月27日〜29日まで久米島調査。調査の目的はノロ関係の勾玉や水晶玉(ガラス)など。久米島自然文化センター寄託品、儀間ノロ関係遺品などの調査報告は別にされる。合間をぬって久米島の何カ所かを訪ねる。
@久米島仲地の君南風殿内
A久米島具志川グスク跡(仲村渠)
B島尻集落と板門墓(島尻)
C島尻のウティダ石(島尻)
Dソナミの烽火台(宇根)
E上江洲家(西銘)
F泰山石敢當(1733年)建立(西銘)
G登武那覇城跡(宇根)
H具志川間切蔵元跡
I石塘根(イシトーネ)(嘉手刈)
J兼城御嶽(兼城)
Kウティダ石(太陽石)(比屋定)
L宇江城グスク跡(宇江城)
などなど。
久米島の君南風については、今帰仁阿応理屋恵同様、三十三君の一人である。ノロ制度は、首里王府がクニを統治する手段の一つだと捉えている。久米島の君南風をクニを統治する手段とする視点でとらえてみたい。久米島には「君南風(チンベー)の配下に@具志川ノロ A仲地ノロ B西銘ノロ C兼城ノロ D儀間ノロ E山城ノロ F比嘉ノロ G宇根ノロ H城ノロ I比屋定ノロの10名のノロがいた。今回勾玉や水晶玉などを入れる櫃の大きさに注目したい。
「君南風が果たした役割」と、その男方(太氏氏・美済氏・和州氏)と首里王府との関わりについて見ていくことに。首里王府と関わる烽火台や蔵元や湊などを手がかりとする。その手がかりがつかめたらと。
▲君南風がグスクヌムイをする具志川城跡 ▲海岸側からみた具志川グスク跡
▲久米島具志川城跡 ▲グスク登り口のトートー石
▲久米島君南風殿内(久米島仲地) ▲君南風殿内の屋敷にある雨乞い石
▲島尻のウテゥダ石から東に渡名喜と座間味島が見える。ウテゥダ石(割れ目は東西)
▲ソナミの烽火台(宇根)から奥武島方面を望む ▲烽火台の頂上部
久米島具志川グスク
(2005.1.29 メモ)
琉球新報に「球美のグスク展」(久米島自然文化センター)開催の記事がある。期間中に訪れたいと思う。
入院中に「久米島ゆきノート」を作成していた。「久米島に行くと何故か山原的だなあ」と、なんとなくではあるがそう思う。ノートには「山原的だと奥深く感じるのは、わたし一人なのかもしれない。それは、なんだろう? そのことを体でつかみたいし、島の人たちの眼や声を通して見つけたい。他人の眼を通したら見えるかもしれない。そんな期待がある・・・」と記してある。そのキーワードはグスクだろうか。それとも集落だろうか。グスクと集落との関わりで見ていく。
以前から久米島の具志川グスク内にある「天正戌□・・・」の石が気になっている。天正(1573〜1591年)戌□と刻まれているのは日本年号である。削られた石なので入口あたりに積んであったものであろうか。当時、琉球は中国年号を使うのが常識である。それも大和年号を使っての記載は何を語ろうとしているのだろうか。天正年間に戌□は戌寅(1578年)と戌子(1588年)があり、どちらだろうか。
【具志川グスク周辺の地名と集落】
具志川グスク周辺の小地名を拾ってみる(『久米島の地名と民俗』仲村昌尚著)
・具志川グスク(グッチャーグシク)
・ナーグシク(中城か)
・メーガニク(前兼久)
・シリガニク(後兼久)
・ジョーンタ(門の田)
・ミーフガー(トゥーシともいう)
・グッチャーガー(具志川井)
・オーナジ(青名崎)
・大和泊
このグスクには「具志川間切城主由来之事」(『琉球国由来記』:1713年)があり、具志川グスクについて以下の築城伝説がある。
具志川グスクのあった場所は、昔は御嶽であった。仲地仁屋がこの所にやってきた。その折、
真ダブツ按司が青名崎という所にグスクを立てる計画である。石垣を築きかけた頃、仲地仁屋
が見立てたところ、此地にグスクを立てることは適当である。グスクを普請し成し遂げ移すこと
になった。その年号は伝わらず。
具志川城、昔ハ嶽ニテ有ケルニ、仲地ニヤト申者、楫作ニ、彼所ヘ参ケル。其折節、
真ダフツ按司、青名崎ト申所ニ、城立ノ企ニテ、石垣築キ掛ケル砌、仲地ニヤ、見立
ニ、此地、城立可然由ニ付、當城普請、成就イタシ、移徒セラレケルトナリ。其年ノ年
号、不相伝、世話物語有之也。
具志川グスクと関わるムラは具志川ムラであろう。集落の動きを『具志川村史』で整理してみると数回に渡って移転している(現場確認してみたいものである)。
@具志川グスクの麓の前兼久・後兼久
A具志川グスク落城後(16世紀初め頃)南側の田尻原へ移転(段丘地)
B18世紀頃仲村渠村に接した田尻に集居する。
C乾隆15(1750)年に松の口原へ移転する。
D1800年代になって疫病で村人の過半数が病死する。再び仲村渠村の西側へ移転する。
E狭いので松の口原へ移転するを願いでて明治27年から大正時代にかけて移転する。
【具志川グスクの築城】
私は上の具志川グスクについての記録(18世紀初期)に関心を持っている。
・グスクの場所は御嶽であった
・グスクを築いた人物(集落出身者ではないこと)
・グスクの場所の選定
・グスクと集落との関わり
・グスクは自然発生的に築かれたものではない事例
・御嶽と集落は自然発生的な関係にある
▲久米島の具志川グスク遠景 ▲グスクからみたミーフガーあたり
▲グスク内の崩壊したままの石垣 ▲天正□□と刻まれた石