【竹富町小浜島】        トップヘ


【小浜島】

 小浜島の一番高い大岳から島全体、そして集落の位置を確認することからスタート。小浜の集落はムラウチと呼ばれ、島の中央部に位置している。「大波之時各村之形行書」(1771〜6年)による小浜村の人口は約900人である。大津波でなくなったのは9人である。それは石垣島に出掛けていて溺死したものである。村や御嶽や井戸には影響なかったようだ。津波で被害の大きかった石垣島の宮良村へ320人を移住させている。宮良に今でも小浜御嶽がある。


2006年12月22日(金)

 一日目(16日)は雨と風。二日目(17日)、曇なので石垣島周辺の島に渡ることに。どの島にするか少し迷ってしまった。竹富島は来年の研修会で訪れる予定なので避けることに。風があり波が高いので黒島は厳しい。ならば小浜島へ。小浜島は竹富町である。石垣港から約11kmである。小浜島では今でも水田があり、保水力のある土壌のようである。小浜島で山原の御嶽と祭祀、そして近世以降の行政村(ムラ)との関係を明確にできればと考えている。

 『琉球国由来記』(1713年)の「八重山島嶽名並同由来」に、小浜村の御嶽は以下の通りである。
  ・テダクシ御嶽(神名:テダクシ神花、御イベ名:イセルヨフンハユ)
  ・仲山御嶽(神名:同、御イベ名:モモキヤネ)
  ・サクヒ御嶽(神名:サクヒ神花、御イベ名:マカコ大アルジ)
  ・東御嶽(神名:スタタラ神本、御イベ名:根春神本)

 今回小浜島で確信を持ちたいと考えていたことが、「八重山小浜島の聖地祭祀」(『神・共同体・豊穣』所収:村武精一)で詳細な研究がある。それによると小浜島のオンは特定の祭祀集団と結びついている。五つの集団がありカーフニ・カーター・ナカヤマ・コーキー・サクピジである。どの集団がどの御嶽と結びついているかは、祭祀の日にどの御嶽での祭祀に関わっているかでわかる(何故その御嶽を関わっているかの理由は複雑である。代々そうしてきたとの答えが返ってくる)。ここで確認したかったのは、御嶽と祭祀集団と密接に関わっていること。近世の行政村(ムラ)になる以前の小集落(御嶽と関わる)が行政村となったとき、複数の御嶽を一つにまとめることなく、それぞれの御嶽と関わる祭祀集団のままで行政村に、それが今につながっているのではないか。
 そのことを沖縄本島北部の古宇利島の七森七嶽と結びつけて考えると、タキヌウガンのときほとんどの神人が参加するが、それぞれの御嶽を管理?する神人がいて、神人の継承はその系統が継承され続けている。御嶽と祭祀集団、そして行政村(ムラ)との関係が見えてくる。

 
   ▲波のたつ石垣港(小浜島へ)         ▲大岳へ登る階段

 
   ▲大岳の頂上部(標高約95.5m)    ▲大岳にある「小浜節の歌碑」

  
  ▲後照御嶽(ティダクシワン)鳥居と拝殿            ▲拝殿の扁額(川田・照後)

   
 ▲佐久伊御嶽(サクイワン)・仲山御嶽(ナカヤマワン)          ▲拝殿の扁額

  
   ▲嘉保根御嶽(カブニワン)の拝殿       ▲嘉保根御嶽の本殿とイベ

   
 
 ▲拝殿の扁額「嘉保根」                 ▲御嶽の庭隅にある石二個

 
         ▲ナカンドー御嶽               ▲ナカンドー御嶽のイベ
 
      ▲大嶽の麓に一本松がある    ▲大嶽の麓一帯で稲作が行われている


【竹富町小浜島】

 2005年3 月23日(水)午前中小浜島へ。小浜島も竹富町の一島である。23日の夜中から未明にかけて稲光、そして大雨となる。そのため、小浜島ゆくはあきらめ石垣島内をまわる予定にした。午前7時過ぎ、宿から於茂登嶽を見ると、雨はあがっており真っ白な雲が帯状にたなびいていた。もしかしたら晴れるかも。8時の便。急ぐと間に合いそうだ。夕方の便で帰るので荷物をバックに入れ、港のロッカーに預けることにした。宿の朝食を飲み込んで急げ! 港で船を待っていると大雨。近くの店で傘を買い、おじい歩きの杖がわりとする。小浜島は二度目である。

 船はちゅらさん。こはぐら家もあったが、あとで「テレビでやっていたな」と気づいた。そのため画像はなし。ここでも御嶽を集落との関わりをみてみたいと拝所めぐりである。集落の景観を見るため、まずは大岳(標高99.4m)の展望台へ。海の向こうの島々(西表・石垣・竹富・黒島など)は見えるが集落の景観ははっきりと見えない。小浜島の集落は島の中央部にあり、北と南に分かれる。1771年の明和の大津波で320人が移住させられたという。

 雨が降った後だったので、保水のよい地質のように見える。細崎への途中に広い面積の湿地帯の跡らしい畑地がある。かつて迫田として利用されていたのかもしれない。大岳の回りに水田(迫田)があり、田植えがなされたばかりの田があった。小浜島はタングン(田の国)の島のひとつである。水田が行なわれているため稲作にまつわる祭祀が根強く行われている。
 御嶽を回っていると小浜島の区長さんがやってきて御嶽の説明をしてくれた。「御嶽を回るような観光客はいないからな」と。何カ所かの御嶽の場所を教えてもらう(感謝)。

 小浜島には2006年12月にも訪れている。その時も御嶽を中心に踏査している。そのことは、2006年12月に訪れまとめてある。今回の踏査でどこまで深めることができたか。


 ▲小字名と御嶽の位置図は『町制三十年のあゆみ』より

 『琉球国由来記』(1713年)に小浜村(島)の御嶽は以下の四つ御嶽である。ほかに五つの御嶽がある。集落は島の中央部にあるが、四つの御嶽は集落から離れたところに位置している。現在の集落に少なくとも四つの集落は移動し、現在地に統合している。しかし、御嶽や祭祀は統合されず、御嶽ごとに行われている。各御嶽ごとに行われる祭祀と統合された形で行われる部分がある。


 
        ・テダクシ御嶽  ・仲山御嶽  ・サクヒ御嶽  ・東御嶽

  
 
    ▲山川御嶽                    ▲群星御嶽              ▲底地御嶽

 

 
  
▲未明の雷と大雨がやみそうだ!(石垣市内) ▲小浜島への船「ちゅらさん」なり
 
 
         
 ▲小浜島の公民館           ▲小浜島の民俗資料館
 
     ▲オヤケアカハチの森?         ▲小浜島の水田と大岳

 

 

 
    ▲嘉保根御嶽(カンドウラ)      ▲カンドウラ御嶽にある雷石と力石