恩納村喜瀬武原              トップへ

 ・喜瀬武原のウマチモー

【喜瀬武原のウマチモー】(2009年2月26日メモ)

 恩納村喜瀬武原のメンバーが3月23日にやってくる。喜瀬武原にウマチモーがある。ウマチモーと番所を結びつけようとしているのかもしれません。それについての質問かと思われる。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に、以下のように記されている。御待毛と呼ばれていることから、王府の偉い方をお迎えしたのであろう。

     仲間からかいとて 久志辺野古までも 金武の美御前がなし 御掛親島(仲間節)

 是れ分割以前の詠にして、西海岸仲間より東岸久志辺野古に至る間すべて我が金武按司の御領地なるぞよとの意なり。
 当時の間切番所は恩納金武両村の間なるキシン原にありき。今同地に其旧祉遺存す。

 1673年に金武間切と読谷山間切の一部を分割して恩納間切が創設された。恩納間切が創設される以前の恩納間切は西海岸の名嘉間(仲間)・安冨祖・恩納は金武間切のうちであった。仲間節の歌詞は仲間もそうであるが、久志や辺野古までも金武按司の領地ですよと謡っているのでしょう。

 そのことは問題になるものではない。『沖縄県国頭郡志』に「当時の間切番所は恩納金武両村の間なるキシン原にありき。今同地に其旧祉遺存す」とあり、キシン原に恩納間切が創設される以前の金武間切番所があったと記されている。その記述が誤解を招いているのではないか。

 これまで他の間切番所と同村との関係をみていると、金武間切番所の所在は金武村(ムラ)である。キセン原にあった可能性は非常に薄い。「其旧祉遺存す」とあるが、旧祉は番所跡ではなくウマチモーのことではないか。それは現在でもある(あった場所は移動しているようだが)。

 ウマチモーであるが、漢字を充てると御待毛、お待ちする場所ということであろう。本部町具志堅にもウマチモーがある。今帰仁間切と本部間切の役人が文書や伝達などの受け渡し場所である。三つ土手という場所があるが、そこは名護間切と本部間切と今帰仁間切の三ヵ間切の受け渡し場所である。隣接する間切役人が受け渡し場所として待機したことに由来するのであろう。

 ウマチモーのある喜瀬武原は金武町と恩納村との境界にある。「元禄国絵図」というのがあるが、恩納間切や本部間切が創設される以前の情報の絵図である。それに「幸喜村大道より金武間切大道迄壱里三拾壱町四拾間」と記された道筋がある。幸喜村は名護間切である。喜瀬武原は大分金武間切(恩納間切)域に入るので名護間切との境界には位置していないので、名護間切と金武間切との関係ではなさそうである。ウマチモーのある場所からして、恩納間切が創設(1673年)されたことで、金武間切と恩納間切との引き継ぎの待機場所と考えた方がよさそうである。もちろん、後には島を出ていく方々の見送り場所として使われたでしょう。


▲恩納村名嘉間に建てられた仲間節の歌碑  ▲喜瀬武原にあるウマチモー(祠は昭和16年建立)

 恩納村全体で見ると、ウマチモー(御待毛)は三ヵ所にあるという。「王府時代の国頭巡検者を御待ちして、そこで籠の取次をした場所が御待毛である」と。三か所というのは恩納間切が読谷山間切と境(多幸山)、金武間切と境(喜瀬武原)、名護間切の境(名嘉間:伊武部)にあったと。