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〔本部町健堅〕(2003.4.16)

 本部町健堅(けんけん)までいく。健堅の対岸に瀬底島がある。その間、約600mの海峡は瀬底二仲(シーク・タナカ)と呼んばれ、台風時などに船が風を避けるため停泊した場所でもある。現在は本部新港として伊江島、あるいは与論・沖永良部・奄美大島などを経由する大型汽船が寄稿する港でもある。健堅から対岸の瀬底島に瀬底大橋が架かっている。

 健堅のムラ名は『球陽』(察度王43条)でいう、今帰仁間切健堅村(現本部町)の健堅大親の名馬にまつわる伝承があり、崇拝されている。人物の生誕地あるいは住居地であったことに因んでの村名であろう。つまり、村名の呼称は、そのような伝承に因んだのがいくつか見られる。(具志堅の上間村(上間大親)、謝花の謝花大主、伊豆味の小豆按司、本部(現崎本部)の本部大主など)

 健堅の集落は東側の山手から西側の海岸への斜面に発達している。ムラウチ(一班)は下の写真の中腹に見えるブルーの建物(健堅分校の体育館の屋根)より上の方である。そこには御嶽・神アサギ・ムラヤー・旧家などがあり、ムラの発達は御嶽を背にして発達している。
 
 海岸沿いに浜崎とカキバルの集落が発達している。それらの集落は寄留人と大浜からの人たちで形成している。ムラウチ集落がもともとの健堅の人たちで他の集落は寄留人や、特にカキバルは大浜からの人たちが移り住んでいるという。

 山手にもう一つ集落がある。そこは健堅の石川(2班)で、イッチャファ(石川)と呼ばれる。集会所の近くに宇座茂神社があり、昭和5年月21日(旧7月26日)に改築されている。

 健堅は本部ノロ(崎本部)の管轄である(『琉球国由来記』(1713年)。本部ノロが祭祀を管轄していた村(ムラ)は崎本部村・健堅村の二つの村である。御嶽の中にイベがあり、『琉球国由来記』(1713年)に登場するイシャラ嶽のことか?神名はワカマツノ御イベとなっている。イベの祠の中に香炉があり、古い香炉に銘が彫られているが磨耗して判読ができない。コンクリートの香炉に「土地役場」(?)と記されている。


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   ▲瀬底大橋からみた健堅の集落    ▲健堅の御嶽(イシャラ嶽?)のイベ

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  ▲健堅の神アサギ(新しい場所)    ▲石垣の残る屋敷跡(ムラウチ集落)


本部町具志堅(2003.5.31)

 
山原のあちこち(数ヶ所)の畑にたわわに実った黍(マージン)を見かけた。山原のは収穫までもう少し先かな。特に今帰仁村のは、収穫までまだ間がありそうだ(下の画像)。立ち寄った本部町渡久地の市場には黄色い粒のはいった八重山産(竹富)だというマージンが袋に入れて並べてあった。すでに収穫されているようだ。

 本部町具志堅や備瀬のは収穫が間近のようだ。具志堅のは穂に袋がかぶせてあり、台風対策だろうか。

 『西村外間筑登之親雲上農書』(道光18年:1838)に「黍の作り方」がある。現在の黍作りにあっているか心もとないが掲げておく(『日本農書全集』34:現代語訳の一部)。

    きびは12月から1月までに二尺間隔で穴を掘って撒き、水肥をかけて
    薄く覆土して押さえる。二、三寸になったころ二本立てにし、その他は
    間引いてしまう。同時にヘラ?で除草をし、間に小豆を播く。きびを刈り
    取ったら小豆を土の中へうない込んで、あつまいもを植えつける。

    雑穀のうちでも、きびは収量が多く、さつまいもの倍ほどの収入になる
    ものだから、手広く作るべきである。そうすれば、盆や正月に使う分も
    用意でき、余ったものを売れば家計がうるおうことはいうまでもない。   
 
 
   
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   ▲今帰仁村今泊ネクン原にある黍畑と実った黍(マージン)(2003.5.31)