本部町嘉津宇
(移動村)
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本部町嘉津宇は1719年に伊豆味(古嘉津宇原)から移動してきた村(ムラ)である。移動村の一つである。『琉球国由来記』(1713年)にも登場し、移動する前である。ノロ管轄は天底ノロである。移動後、天底ノロが祭祀をしていたかは不明である。
同じ頃、今帰仁間切へ伊豆味から移動した天底ノロは大正まで同ノロ管轄の村であった伊豆味村に出向いて祭祀を行っている。嘉津宇村はどうであろうか。
移動先で神アサギを創設し、同じく祭祀を行っている。村が移動しても神アサギを創設し、祭祀を行わなければならなかった理由は何かである。首里王府が村移動を許可するには、理由が必要である。天底村(今帰仁間切勢理客村と呉我村地内)と嘉津宇村(本部間切具志堅村地内)の移動は、村が疲弊し、納税ができなかったからであった。村移動の許可は納税を免れるのではなく、これまで以上の納税ができるとの確約が必要である(羽地間切の仲尾の集落移動参照)。
祭祀を行うというのは休息日の確保であり、公事帳にあるように各祭祀を行う日にちの選定は王府から間切への達しである。神アサギが村の納税の一時集積場として利用される。
近世の村移動をみるということは、当時の土地制度、そして祭祀が首里王府と密接(作物の植える時期、収穫の時期、神遊びの日にちなど)に関わっていたことがわかる。
・移動村と御嶽(ウタキ)―本部町嘉津宇―
2004.8.6(金)メモ
本部町嘉津宇(かつう)をゆく。嘉津宇は近世の移動村の一つである。移動時期は明確ではないが、1719年に伊豆味村付近にあった本部間切天底村が今帰仁間切へ移動しているので、その頃に嘉津宇村も移動したと想定している。移動した村は御嶽(ウタキ)や祭祀をどう継承したのか。『琉球国由来記』(1713年)の嘉津宇村は移動する前である。そのときは天底ノロ管轄の村(天底・伊豆味・嘉津宇)である。伊豆味地内に古嘉津宇の小字があり、そこが嘉津宇村の故地と言われている。
嘉津宇村は明治36年に具志堅村に統合されるが、昭和18年に具志堅から分かれ現在に至る。神アサギや祭祀は具志堅に統合されることはなかった。
明治13年の嘉津宇村の戸数は51戸、人口は252名(男139、女113)の小さい村である。世帯数は変わらないが人口は激減している。昭和60年は49戸、160名である。小規模の移動村でありながら、御嶽や神アサギや祭祀をしっかりと継承している。御嶽や神アサギの設置や祭祀を行う理由、行わなければならない理由が何かである。その視点で拝所は祭祀を捉える必要がある。御嶽に入いたり、牛馬を踏み入れて咎めを受ける(ヤマサレル)からだけの理由ではないであろう。
嘉津宇のタキ(御嶽)のイベは故地の反対に向けて設けてある。ただし、イベに向って祈った後は、振り返って故地に向って祈りをする。移動した村は、必ずしも故地に向けて御嶽(イベと集落の軸線)は設けていない(天底や振慶名など他の移動村でも)。どうも集落の高いところに御嶽を設ける習性(本質的に持っている)があるようだ。
ウドゥンゲヮー(祠)の中にある七つの石は神人の数だという。今では神人はいないようだが、昭和30年代には神人達が祭祀を行っている(写真)。
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▲嘉津宇のタキ(御嶽)のイベ ▲タキ(御嶽)への道
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▲ウドゥングヮーの中の七つの石 ▲神アサギとウドゥングヮー(現在)
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▲右の茅葺きが神アサギ(昭和30年頃) ▲ウドゥングヮーでの祭祀(昭和30年頃)