加計呂麻島(東方:旧鎮西村)
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加計呂麻島を調査していると、島の集落(字)を東西に分けてみる必要がありそう。どこでどう分けるかの境界線は行政区分の変遷をたどってみることになるが、今のところ便宜的に加計呂麻島を東方と西方に分けてみた。加計呂麻島に30近い集落(字)があるので旧鎮西村と旧実久村とに分けてみた(『南島雑話』をみると加計呂麻島島の村は、渡連方・東方・実久方の三つの方に含まれ、その変遷は複雑である)。
瀬戸内町では「瀬戸内町遺跡詳細分布調査報告書」(2005年)が発行されているので、場所の特定や現状を把握するの参考にさせてもらった。そこで、行政の変遷についてまとめられている。複雑に統廃合している。そのことが加計呂麻島の東西の違い(意識・言葉・祭祀など)に影響を及ぼしているのかもしれない。
・15世紀中頃から奄美諸島は7間切に区分
・1609年薩摩の統治下におかれる。
・1720年(享保5)区域変更を行う。
瀬戸内地方
東方(旧古仁屋地区)
西方(旧西方地区)
渡連方(旧鎮西地区)
実久方(旧実久地区)
・明治41年(1908)の島嶼町村制施行
西方地区は宇検方(現在の宇検村と合併して焼内村となる。
古仁屋地区は東方村となりなる。
加計呂麻地区は渡連方と実久方が合併して鎮西村となる。
鎮西村は再び分離して鎮西村と実久村となる。
・昭和31年に古仁屋町・西方村・鎮西村・実久村が合併して現在の瀬戸内町となる。
【南島雑話】による実久方(13ケ村)(太字が加計呂麻島)
西久見村 管鈍村 華天村 久慈村 古志村 篠川村 小名瀬村 阿鉄村
押角村 表村(志村々ともいう) 三浦村 武名村 木慈村 瀬武村
【南島雑話】による渡連方(9ケ村)(太字が加計呂麻島)
坐間村 諸数村 勝之浦村 網野子村 秋徳村 野見村 亀野子村 勝能村 嘉徳村
節子村 嘉鉄村 清水村
【南島雑話】による東方(12ケ村)(太字が加計呂麻島)
薩川村 芝村 実久村 阿多村(阿多地?) 須古茂村 嘉入村 西阿室村 華留村
於斉村 伊古茂村 請阿室村 池地村 与路村
「正保国絵図」(1644年)(「琉球国絵図史料集第一集」所収より)沖縄県教育委員会から加計呂麻島の村名を拾いだしてみる。東・西の両間切とも加計呂麻島と対岸の奄美大島側まで間切域としている。大島側の東間切にくねつ村・あきな村・かとく村がある。西間切は小名瀬村・こし村・へた村・西ノ古見村がある。加計呂麻島の両間切の村は以下の通りである。加計呂麻島そのものが一島一間切ではなく、東西の間切に分割されていたことが、また大島側に同間切の村があったことが、今に影響を与えているのではないか。
・西間切之内芝村
・西間切之内すこも村
・西間切たけな村
・西間切おさい村
・西間切おしかく村
・西間切うけ村(請島)
・西間切よろ村(与路島)
・東間切かめの川村
・東間切しょとん村
▲「正保国絵図」にみる東・西間切の村(「琉球国絵図史料集」より)
(工事中)
【諸 鈍】(しょどん)
【徳 浜】(とくはま)
【安脚場】(あんきゃば)
【渡
連】(どれん)
【生
間】(いけんま)
【本生間】(ほんいけんま)
【野見山】(のみやま)
【秋
徳】(あきとく)
【佐知克】
【勢
里】(せり)
【諸
数】(しょかず)
【勝
能】(かつゆき)