【糸数城跡】
2003.1.30(木)記録                      トップへ

 島添大里城の予定が道を間違って玉城村(現南城市)の糸数城へ。糸数城の琉球石灰岩の野面積みと布積みが組み合わせがいい。地山の方も琉球石灰岩がところどころ露出し、琉球石灰岩の上にのっかったグスクである。南山地域では大里城(島添)もそうであるが大型のグスクの一つである。規模や石積みに往時の勢いがうかがえる。文化財担当者が城壁の石積みの実測をしていた。また中央部では草刈作業の方々が数人。作業小屋の後方に窪地があり「井戸ですか?抜け穴ですか?」と聞いてみた。おばさんたちは口々に「実際抜けたことはないが、抜けられるようですよ」と。

 糸数城の歴史は、全くうといので解説できないが報告書などによると、築城は14世紀頃とある。玉城按司の三男の糸数按司が築城したという。出土した遺物に青磁・白磁・カムィヤキ・土器片・武具類・玉類など、主に13世紀以降のもののようだ。

 今回確認しておきたかったのはグスク内にある石灯籠であった。4基ほどあり「奉寄進」や「年号」が刻まれていた。「嘉慶十九年・・・奉寄進 知念仁屋」「・・・巳卯年九月吉日」「壬申九月吉日」の字が読める。石灯籠や香炉のある場所は『琉球国由来記』(1713年)にある「糸数城之嶽 神名:モリテル御イベ」のことか。

 一基に、
       玉城按司御上国付御供
        糸数村太田仁屋
        嘉慶二十五年七月」

の石灯籠があり、『中山世譜附巻』に「嘉慶二十五(1820)年に慶賀に玉城按司朝昆が六月十一日薩州に到り、十一月二十二日に帰国した記事がある。それは糸数村の太田仁屋が玉城按司の上国に御供し、帰国に際し糸数城内に石灯籠を寄進している。文献と石灯籠の年月日からすると出発するにあたり寄進する場合と、無事帰国した後に寄進する場合がありそうだ。太田仁屋は糸数村出身だったのか、糸数城に関わる人物だったことで寄進したのであろう。この石灯籠やその記事は、グスク本来の統治したり防御的な機能を失った後の祭祀に関わる一面と、首里王府の上国(年頭慶賀)を記念することと、その大和めきものの弁明には中国対応の対策をみることができる。


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        ▲糸数グスクの布積みと野面積みの城壁(右は門口)

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 ▲糸数グスクの琉球石灰岩の野面積み  ▲糸数グスク内のイベの前の石灯籠

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   ▲糸数グスク内の「奉寄進」や「年号」のある石灯籠