八重山のムラ・シマ トップヘ
【石垣島の東側のムラ】(2014年10月30日)
石垣島の東側から北上してみた。市街地の新川から名蔵、元名蔵、崎枝、川平へ。そこまでは報告したので、そこから北側のムラ。吉原→米原→富野→太田→伊土名→多良間→下地→野底→兼城→伊原間→明石→久宇良→吉野→平久保→平野まで。伊原間が研修地。吉原から伊原間までは、研修が始まる前に。新川から川平は前日の研修会前に(報告済)。明石から平野までは伊原間での研究会が終わってからの踏査。
【仲間サカイ之墓】(川平)
【吉原】
【米原】
【富野】
公民館前の方と立ち話。付近の様子を伺う。
【辺土名】
以下工事中
【石垣市街地】
2005年3 月23日(水)午後、小浜島から石垣の離島桟橋に着くと、さっそく石垣市街地をゆく。石垣市の公設市場を通り裏通りへと抜ける。以前より大部減っているが、まだ赤瓦屋根と石垣囲い福木の屋敷を見ることができる。
2005年3 月23日(水)午後、小浜島から石垣の離島桟橋に着くと、さっそく石垣市街地をゆく。石垣市の公設市場を通り裏通りへと抜ける。以前より大部減っているが、まだ赤瓦屋根と石垣囲い福木の屋敷を見ることができる。
今回歩いたのはゆいロードと4号線沿い。特に新川から石垣・大川にかけてである。市街地の地理感覚がつかめず、場所を特定するのが精一杯である。集落と御嶽などの関わりを知るには相当な情報を必要としそう。それと明和の津波の影響がマチの変遷に大きく影響を及ぼしていそう。今年の夏には、再度石垣のマチを歩くことにしたい。最後は棒になった足をひきずって八重山博物館の発掘調査展をみる。それと南方から漂着したという舟を何隻か。
事務所でコーヒーをいただき、博物館の近況を窺う。どの機関も財政的に厳しいようだ。博物館のT氏から八重山における土地制度や明和の大津波などの影響についても窺う。ここで、まとめができるほどの知識をもっていない。市街地の裏通りを通ってみると、まだしっかりつかんではいないが、マチの展開がなかなか面白い。これまで集落を中心に見てきたがマチの展開の事例として興味がある。
▲旧前石垣殿内の庭園の一部を・・・ ▲桃林寺の入口
▲桃林寺の隣にある拝所 ▲真乙姥御嶽(マイツバオン)
▲ウーニカー(別名:真乙姥井戸) ▲宮鳥御嶽(メートゥリーオン)
▲宮良殿内 ▲唐真組近くにある大木(チンマーサー?)
▲マージィヤーの井戸 ▲人頭税廃止百周年碑(博物館前)
【大 浜】(石垣市字大浜)
・黒石御嶽(クルセオン)・・・黒石村の御嶽
・大石御嶽(ウイヌオン)・・・波照間島から移住、故郷の名石村の大石御嶽に因むという。
・火の神御嶽(ピィナカンオン)鎮の村?・・・村番所の火神を御嶽にした例
・崎原御嶽(サキバルオン)・・・・・・・・・崎原村の御嶽
▲黒石御嶽 ▲大石嶽
▲火の神御嶽 ▲崎原御嶽
D石垣市内(登野城・大川・石垣・新川)
小浜島を後にすると石垣市内をゆく。市内には登野城・大川・石垣・新川があり四カと呼ばれている。四ケは連続した市街地をなし、境界線は理解しがたい。
2006年12月19日(火)
今回の八重山ゆきは、シマを見るキーワードが見つかればとの思いで・・・。まだ定まらないキーワードを見つけることが目的。ゆく前に「沖縄本島から海路で439km、台湾のキールンまで200km。そして沖縄県で最高峰の於茂登岳が477.4m」程度の予備知識。それでも胸騒ぎがしてくる。市内で車を借りると、まずは宮良から白保へのコースをとる。
2006年12月16日は雨である。登野城→平得→真栄里→大浜へと車を走らせたのであるが、その境界が全くわからず。ということもあるが、石垣の空気に馴染んでいず、キーワードが定まっていず、足慣らしから。宮良の浜川原(ハマンガー)だろうか、道路沿いにヤラブの老木の並木があり車を降りてみた。大浜と宮良の集落をつなぐ道筋だったのであろう。
▲雨の中、空港から石垣市街地へ ▲宮良のヤラブの並木道
@【白保の集落と村建と御嶽】
宮良の集落を飛ばし白保の集落へ(宮良は三日目にゆく)。白保小学校を左手に見ながら通り過ぎ、右手の白保の集落内へはいる。
・宮良間切しらほ村(1647年頃:『宮古八重山両島絵図帳』)
・宮良・白保弐ヶ村(1651年:『八重山島年来記』)
・『琉球国由来記』(1713年)には白保村は宮良村内となっている。
・明和の大津波で白保村壊滅状態(1,574人の内28人が生き残る)(1771年)
・波照間島から418人が白保に移住(大津波後)
・八重山村字白保(明治41年)
・大浜村字白保(大正3年)
・大浜町字白保(昭和22年)
・石垣市字白保(昭和39年〜現在)
【白 保】(石垣市)
・嘉手刈御嶽(カチガラオン)・・・嘉手刈原から
・真謝御嶽(マジャオン)・・・村中にあり。
・多原御嶽(タバリオン)
・波照間御嶽(アスクオン)・・・波照間島から移住。故郷の阿底御嶽を勘請。
各御嶽はムラが移動した時、故地の名の御嶽を作っている。波照間島から白保(石垣島)に移り住んだ時、故地の名の御嶽を作っている。八重山では、そのことは当たり前のようである。人々が移動してムラをなした時、まず御嶽を置く習性、それと故地に因んだ名称をつけ、自分たちの足跡を刻み込もうとする習性がある。
▲嘉手刈御嶽 ▲波照間御嶽
▲多原御嶽
白保村は隣の宮良村とで宮良間切をなし、規模の大きな村であったようである。明和の大津波当時の人口が1,574人、八重山群島内で最大規模の人口を擁していたという。明和の大津波で人口の98%を失い、たった28人が生き残るという大惨事である。そこで関心をもったのはその後の村の復興と御嶽である。
・『琉球国由来記』(1713年)に嘉手苅御嶽・真和謝御嶽・田原御嶽が出てくる
が宮良村となっている。それらの御嶽は現在白保内にある。
・波照間島から418人を移住させてウイヌージィ(上の地)に村を再建。
・近接していた真謝村も合併(あるいは真謝原にあった御嶽?)
・真謝村があったかどうかは不明。
・小字嘉手苅にあった御嶽(嘉手苅御嶽)
そこで御嶽と集落の関係がはっきりしているのは明和の大津波の後、波照間島から418名を移住させたことである。移住すると、新地に御嶽をつくり故郷の村名や御嶽名をつけていることに注目した。それと、移住と関係なく御嶽あり、それら複数の御嶽は行政村になる以前の集団の御嶽と見ることができ、ムラが壊滅しても再び御嶽を復興させている。集団をなし住みはじめると御嶽をつくる習性をもつ集団ではないか。それだけのムラの人々の減少は税制度(土地制度)そのものが崩壊した。
(白保から後は、御嶽と集落との関わりで見ていくことになる。ときどき、八重山のムラ(集落)を見ると山原のムラがよく見えてくると言ってきた。今回もそうである。八重山の御嶽の構造は、森そのものが御嶽で鳥居・拝殿・イビの前・本殿・イビとする)。
▲嘉手苅御嶽の拝殿 ▲嘉手苅御嶽の本殿とイベ
▲真謝御嶽の拝殿 ▲真謝御嶽の拝殿にある扁額
▲多原御嶽の鳥居と拝殿 ▲拝殿にある「多原嶽」の扁額
▲波照間御嶽の拝殿 ▲拝殿の「波照間嶽」の扁額
【参考文献】
・「明治・大正・昭和初期―思い出のまち・むら―」石垣市史編集室(平成2年)
・「いしがきの地名(1)」石垣市史編集室(平成元年)
・『石垣市史―各論 民俗上』石垣市史編集室(平成6年)
A【石垣市伊野田】2006年12月20日(水)
白保を後にして北上し伊野田で車を降りる。入植した集落だということは前から知っていた。鳥居を目にしたとき、「八重山の御嶽にしては変だな。山原の御嶽に似ているな」との印象をもった。これまで見てきた八重山の御嶽は平坦地にあり、鳥居や拝殿や本殿、そしてイベが明確にある。伊野田は鳥居の後方の森全体が御嶽、鳥居をくぐり登っていくと御嶽のイビにあたる場所に祠が設置されている。火の神(三個の石)ではなく一個の石と香炉が置かれている。これまで見てきた山原(沖縄本島)の御嶽の構造である。
伊野田への集団入植者は、以下の通りである(『八重山開拓移民』金城朝夫による)。
第一次が大宜味村田嘉里(21戸)と喜如嘉(1戸)(昭和26年)
第二次が大宜味村田嘉里(9戸)
伊野田の御嶽内の三つの祠(イベ)がどのような観念で設置されたか未調査だが、田嘉里は親田・屋嘉比・美里の三つのムラの合併(明治36年)なので三つの村(ムラ)のイベを想定したものか。それとも三つの系統の一門、あるいは田嘉里・喜如嘉ともう一字としてのイベなのか。御嶽を造った経緯については改めて確認することに。
いずれにしろ、白保でもそうであったが、ここ伊野田でも他の地域から集団で移住してくると、新地に信仰の対象として御嶽をつくる性格をもっている。八重山でも沖縄本島でも。沖縄本島での鳥居は昭和初期からで、八重山の御嶽の鳥居は明治初期(廃藩置県以前)からあるので、両者の性格は異なる。
「大波之時各村之形行書」(1771〜1776年)で白保村の被害状況が以下のように記されている(『大波之時各村之形行書』石垣史料叢書12:現代語訳より)。
(略)
▲伊野田の御嶽の前の鳥居 ▲御嶽のイベに祠を設置
『琉球国由来記』(1713年)の八重山島(石垣島)には石垣村・登野城村・名蔵村・崎枝村・平得村・大浜村・宮良村・本宮良村・川平村・中筋村・桴海村・平久保村が登場する。何故か白保村が登場しない。白保にある御嶽は宮良村内となっている。由来記に登場する石垣島の村々を訪ねてみたいのだが。
白保から大里→星野→伊野田→伊原間→明石→久宇良→平久保→平野まで行ったのであるが、車を降りるたびに雨。そのため集落内の踏査は諦めることに。平野から伊原間まで戻り、そこから西海岸沿いを寄り道せず川平へ。川平で大雨と闇となる(1日目)。
B【石垣市川平】2006年12月21日(木)
川平は川平間切の中心となった村である。1771年頃の人口が951人である。川平は仲間・大口・仲栄・久場川・西・慶田城・平得・内原・田多の9つの小さい集落からなっているという。それらの集落と御嶽との関わりを見ていく必要がある。行政村となる以前の小集落はそれぞれ御嶽を持ち、それが行政村として一つにされたとき、御嶽を一つにしたり祭祀を村祭祀として整理できなかった痕跡として見ることができそう。
『琉球国由来記』(1713年)の川平村に赤イロ目宮島御嶽・山川御嶽・稲ホシ御嶽・浜崎御嶽・シコゼ御嶽がある。本島では神名を・・・イベとしているが、八重山では御イベ名として名称がつけられている。記録の方法が異なっている。神名は御嶽と同じ名とし、神名とは別に御イベ名が記されている。
「大波之時各村之形行書」(1771〜1776年)で川平村の被害状況が以下のように記されている(『大波之時各村之形行書』石垣史料叢書12:現代語訳より)。川平村出身者32人の溺死者が出ているが、石垣に出かけての被害なので川平村内での死者はでなかったようである。作物や田に被害がでたものの村や御嶽には被害がなかった。
住民は男465人、女486人、合計951人いたが、大津波が掲がり、男14人、女18人、合計32人が 溺死した。磯辺の所々に被害が出たが、男451人、女468人、合計919人が生き残った。村や御嶽
は別状ない。男女32人は、公務で石垣に出掛けていて溺死。
▲ヤマオン(山川御嶽)の鳥居と拝殿 ▲ヤマオンの本殿とイベ
▲ンニブシオン(稲干御嶽・群星御嶽)の鳥居 ▲ンニブシオンの拝殿
▲ンニブシオン(群星御嶽)の庭 ▲シニブシオンの本殿とイベ
▲アーラオン(赤イロ目宮鳥御嶽) ▲アーラオンの拝殿
▲川平にある観音堂 ▲キファオン(浜崎御嶽)
E石垣市名蔵
F石垣市宮良
【川 平】(石垣市字川平)(9つのムラがあったという)
(仲間村・大口村・仲栄村・田多村・久場川村・西村・慶田城村・玉得村・大津原村)→久場川村(上の村:上の村)と大津原村(シチャムヌムラ)へ
・浜崎御嶽(キファオン)
・赤イロ目宮鳥御嶽(アーラオン)
・群星御嶽(ユブシィオン・ンニブシオン)
・山川御嶽(ヤマオン)
・底地御嶽(スクジオン)
(観音堂あり)
【その他】
【小浜島】
2006年12月22日(金)
一日目(16日)は雨と風。二日目(17日)、曇なので石垣島周辺の島に渡ることに。どの島にするか少し迷ってしまった。竹富島は来年の研修会で訪れる予定なので避けることに。風があり波が高いので黒島は厳しい。ならば小浜島へ。小浜島は竹富町である。石垣港から約11kmである。小浜島では今でも水田があり、保水力のある土壌のようである。小浜島で山原の御嶽と祭祀、そして近世以降の行政村(ムラ)との関係を明確にできればと考えている。
『琉球国由来記』(1713年)の「八重山島嶽名並同由来」に、小浜村の御嶽は以下の通りである。
・テダクシ御嶽(神名:テダクシ神花、御イベ名:イセルヨフンハユ)
・仲山御嶽(神名:同、御イベ名:モモキヤネ)
・サクヒ御嶽(神名:サクヒ神花、御イベ名:マカコ大アルジ)
・東御嶽(神名:スタタラ神本、御イベ名:根春神本)
今回小浜島で確信を持ちたいと考えていたことが、「八重山小浜島の聖地祭祀」(『神・共同体・豊穣』所収:村武精一)で詳細な研究がある。それによると小浜島のオンは特定の祭祀集団と結びついている。五つの集団がありカーフニ・カーター・ナカヤマ・コーキー・サクピジである。どの集団がどの御嶽と結びついているかは、祭祀の日にどの御嶽での祭祀に関わっているかでわかる(何故その御嶽を関わっているかの理由は複雑である。代々そうしてきたとの答えが返ってくる)。ここで確認したかったのは、御嶽と祭祀集団と密接に関わっていること。近世の行政村(ムラ)になる以前の小集落(御嶽と関わる)が行政村となったとき、複数の御嶽を一つにまとめることなく、それぞれの御嶽と関わる祭祀集団のままで行政村に、それが今につながっているのではないか。
そのことを沖縄本島北部の古宇利島の七森七嶽と結びつけて考えると、タキヌウガンのときほとんどの神人が参加するが、それぞれの御嶽を管理?する神人がいて、神人の継承はその系統が継承され続けている。御嶽と祭祀集団、そして行政村(ムラ)との関係が見えてくる。
▲波のたつ石垣港(小浜島へ) ▲大岳へ登る階段
▲大岳の頂上部(標高約95.5m) ▲大岳にある「小浜節の歌碑」
▲佐久伊御嶽(サクイワン)・仲山御嶽(ナカヤマワン) ▲拝殿の扁額
▲嘉保根御嶽(カブニワン)の拝殿 ▲嘉保根御嶽の本殿とイベ
▲拝殿の扁額「嘉保根」 ▲御嶽の庭隅にある石二個
▲ナカンドー御嶽 ▲ナカンドー御嶽のイベ
▲大嶽の麓に一本松がある ▲大嶽の麓一帯で稲作が行われている
【小浜島】
一日目(16日)は雨と風。二日目(17日)、曇りなので石垣島周辺の島に渡ることに。どの島にするか少し迷ってしまった。竹富島は来年の研修会で訪れる予定なので避けることに。風があり波が高いので黒島は厳しい。ならば小浜島へと。小浜島は竹富町である。石垣港から約11kmである。小浜島では今でも水田があり、保水力のある土壌のようである。小浜島で山原の御嶽と祭祀、そして近世以降の行政村(ムラ)との関係を明確にできればと考えている。
今回訪れたムラやシマはそう多くはない。目的は「古琉球のムラ・シマ」の成り立ちを八重山に確かめるためである。これまで、山原で「古琉球のムラ・シマ」の成り立ちを、御嶽(ウタキ)と集落との関係で見てきた。おぼろげながらその姿が見えてきた。山原でのおぼろげに見えるムラ・シマの姿が先島ではどうなのだろうか。山原でおぼろげな「古琉球のムラ・シマの姿」を見たキーワードがウタキと集落、そしてムラ・シマで行われる祭祀である。
・新設されたムラ
・合併したムラ
・移動したムラ
・消滅したムラ
それらのムラが、移動・合併・消滅した後どうなったのか、何を継承しているのか。移動先でウタキはどうしたか。合併したとき祭祀はどうなったのか。ノロ管轄の変更はどうなのか。移動したら故地に何を残しているか。などなど。山原の集落とウタキとの関係は古琉球から根強く引きづっている。行政は一つになっても祭祀は一体化しない。神人は一族(一門)から出すのはなぜか。それは近世の村(ムラ)以前の小さな集団(マキやマキヨ)が行政村にされるが、祭祀や神人の制度が編成されるが、古琉球の祭祀形態を根強く継承している姿とみられる。1500年代のノロ制度、あるいは近世の村制度は、古琉球、あるいはグスク時代からの祭祀を、首里王府はムラやシマの末端まで統治する手段として巧みに取り入れたものだと見ている。
石垣島、小浜島、竹富島の嶽(オン)と集落との関係で見ていくと、山原のムラ・シマより八重山には濃厚に残っているのではないか。今回は特に竹富島と小浜島の嶽(オン)を中心にみてきたが、その印象が強い。まず気づくことは、一つの村(ムラ)島(シマ)に嶽(オン)の多さに驚かされる。そのことが、嶽と集落が切り離すことのできない関係にあることがわかる。具体的に、あるいは詳細について見ることはできないが、山原でみる集落とウタキとの関係で見える法則性は八重山ではどうだろうか。崩れ去るのか。今回訪れた御嶽(オン)は以下の通りである。
※御嶽の呼称、御嶽と集落との関わりは『石垣市史』(各論編民俗 上)を参照。
【竹富町小浜島】
2005年3 月23日(水)午前中小浜島へ。小浜島も竹富町の一島である。23日の夜中から未明にかけて稲光、そして大雨となる。そのため、小浜島ゆくはあきらめ石垣島内をまわる予定にした。午前7時過ぎ、宿から於茂登嶽を見ると、雨はあがっており真っ白な雲が帯状にたなびいていた。もしかしたら晴れるかも。8時の便。急ぐと間に合いそうだ。夕方の便で帰るので荷物をバックに入れ、港のロッカーに預けることにした。宿の朝食を飲み込んで急げ! 港で船を待っていると大雨。近くの店で傘を買い、おじい歩きの杖がわりとする。小浜島は二度目である。
船はちゅらさん。こはぐら家もあったが、あとで「テレビでやっていたな」と気づいた。そのため画像はなし。ここでも御嶽を集落との関わりをみてみたいと拝所めぐりである。集落の景観を見るため、まずは大岳(標高99.4m)の展望台へ。海の向こうの島々(西表・石垣・竹富・黒島など)は見えるが集落の景観ははっきりと見えない。小浜島の集落は島の中央部にあり、北と南に分かれる。1771年の明和の大津波で320人が移住させられたという。
雨が降った後だったので、保水のよい地質のように見える。細崎への途中に広い面積の湿地帯の跡らしい畑地がある。かつて迫田として利用されていたのかもしれない。大岳の回りに水田(迫田)があり、田植えがなされたばかりの田があった。小浜島はタングン(田の国)の島のひとつである。水田が行なわれているため稲作にまつわる祭祀が根強く行われている。
御嶽を回っていると小浜島の区長さんがやってきて御嶽の説明をしてくれた。「御嶽を回るような観光客はいないからな」と。何カ所かの御嶽の場所を教えてもらう(感謝)。
『琉球国由来記』(1713年)に小浜村(島)の御嶽は以下の四つ御嶽である。ほかに五つの御嶽がある。集落は島の中央部にあるが、四つの御嶽は集落から離れたところに位置している。現在の集落に少なくとも四つの集落は移動し、現在地に統合している。しかし、御嶽や祭祀は統合されず、御嶽ごとに行われている。各御嶽ごとに行われる祭祀と統合された形で行われる部分がある。
・テダクシ御嶽 ・仲山御嶽 ・サクヒ御嶽 ・東御嶽
▲小字名と御嶽の位置図は『町制三十年のあゆみ』より
▲山川御嶽 ▲群星御嶽 ▲底地御嶽
▲未明の雷と大雨がやみそうだ!(石垣市内) ▲小浜島への船「ちゅらさん」なり
▲小浜島の公民館 ▲小浜島の民俗資料館
▲オヤケアカハチの森? ▲小浜島の水田と大岳
▲嘉保根御嶽(カンドウラ) ▲カンドウラ御嶽にある雷石と力石
【竹富島】(竹富町竹富)
竹富島の12の御嶽を歩いて回ってみた。沖縄本島北部では、御嶽(ウタキ)と集落との関係が希薄になり論として??のつく場面が多いのであるが、竹富島の御嶽(オン)と集落の関係は明白であり、古琉球のムラ・シマの成り立ちが、今に息づいているのには驚きである。
『琉球国由来記』(1713年)に登場する竹富村(島)の御嶽は6、根所が1。6つの御嶽の由来について興味深いことが記してある。
・波座間御嶽←(屋久島から)
・仲筋御嶽←(沖縄から)
・幸本御嶽←(久米島から)
・久間原御嶽←(沖縄から)
・花城御嶽←(沖縄から)
・波レ若御嶽←(徳島:徳之島から)
・国仲根所←(悪鬼納:沖縄から)
昔、竹富島に波座真村、中筋村、幸本村、久間原村、花城村、波レ若村があり、6人の酋長がいたこと。そのことが、今に根強く継承されている。6人の酋長が「心を合せ」たが、どの御嶽も拝むことにしている。そこに御嶽と集落(マク・マキヨ規模の集団)との関係が見えてくる。マキ・マキヨ規模のムラを一つにするが、祭祀は一体化せず、尊重している。山原の御嶽(ウタキ)と集落、そして祭祀(特に神人)の関係が、竹富島の御嶽と集落との関わりから、より明らかにできそうである。西塘御嶽は人物の住居跡地を御嶽にしたもののようである。
まずは、竹富島の御嶽(オン)の場所の確認からする。『竹富町誌』をみると28の御嶽があげられている。今回確認できたのは12である。島に28の御嶽があるのは、御嶽を中心とした集団が血族、あるいは何代もたった一門なのか、近世以前(古琉球)のムラ・シマの規模、それ以前の集落な形なのか興味深い。
▲小字名と御嶽の位置図は『町制三十年のあゆみ』より
竹富島の現在の集落は島の中央部に集まっているが、それでも東屋敷(アイノッタ)と西屋敷(インノッタ)、仲筋(ナージ)に分れている。御嶽のいくつかは、現集落から離れた場所に位置している。それは御嶽付近にあった集落が移動したと見られる。それからすると、そう遠くない場所に集落が移動した場合、御嶽はその場所に置いたままにし、祭祀は御嶽まで行って行う。
B世持御嶽(ユームチオン)
R真知御嶽
P東パイザーシ御嶽(アイパイザーシオン)
G国仲御嶽(フイナーオン)
H久間原御嶽(クェーラオン)
J波利若御嶽(バイヤーオン)
I花城御嶽(バナツクオン)
E仲筋御嶽(サージオン)
D清明御嶽(マイヌオン)
F幸本御嶽(コントゥオン)
A玻座間御嶽(ウーリャオン)
C西塘御嶽(ニシトウオン)
(※番号は上の図に合わせた)
C西塘御嶽(ニシトウオン) P東パイザーシ御嶽(アイパイザーシオン)
G国仲御嶽(フイナーオン) H久間原御嶽(クェーラオン)
J波利若御嶽(バイヤーオン) I花城御嶽(バナツクオン)
E仲筋御嶽(サージオン) D清明御嶽(マイヌオン)
F幸本御嶽(小波本:コントゥオン) B世持御嶽(ユームチオン)
A玻座間御嶽(ウーリャオン) O真知御嶽
▲皆治御嶽(移動?) ▲ンブフル
【竹富町西表島】 2005.03.26(土)
2005年3月22日(火)、一日西表島を予定にいれた。地図を見ると西表という島に10余の集落(字?区?)がある。一周線が開通しているわけではないので、白浜港にたどりついたら、同じ道筋を戻ることになる。行けなかったところは、帰り道寄ることができる(時間があれば)。まずは、白浜までゆくことにする。
竹富町は石垣島の南西にある島々からなり、人が住んでいる島は10である。その一つが西表島である。西表島に以下の集落がある。西表島は沖縄本島に次ぐ大きな島(面積289.27平方キロ)である。
・大原 ・大富 ・古見 ・美原 ・船浦(港) ・上原(港) ・中野 ・浦内 ・星立(干立) ・祖納 ・白浜
▲後良川の橋 ▲サキシマスオウの群落のある森にある御嶽〈兼真嶽と三離嶽)
▲西表美原の集落 ▲高那手前の水田(田植え中)
▲西表の上原公民館 ▲デンサ節が行なわれる舞台(上原)
▲星立の祭が行なわれる御嶽 ▲星立の御嶽の前の鳥居
▲上村遺跡の遠景 ▲上村遺跡内にある旧道
▲上村遺跡にある建物(租納)ヨハタケ根所? ▲同遺跡内にある碑
▲西表租納の前泊御嶽 ▲屋敷跡の石垣の門
西表島報告は、途中まで(星立と租内については随時追加)。アルバムを見ると、西表島には1989年8月と1999年10月に訪れている(沖地協の研修会)。今回で三度目の西表入りである。数年ぶりの訪問で、記憶が定かではないことを実感する。記憶を呼び起こすためにアルバムから何枚か(十数年前の皆さんの若いことよ)。
租納の集落の展開は上村遺跡との関係で興味深いものがある。御嶽の領域に集落が形成され、御嶽の中枢部となるイベにあたる部分(二カ所)があること。それと上村とは別に大竹御嶽と呼ばれていること。上村(西租納)に対して下村(東租納)があるようだ。租納は上村遺跡を中心とした集落の展開、そして祭祀に関わる御嶽、さらに司を出す一門との関わりを整理してみる必要がある。
その視点での研究が『沖縄祭祀の研究―西表島租納のシツ:武藤美也子・宮井由未子』と『沖縄の祭祀―西表島の租納プーリヨイ:武藤美也子』でなされている。山原の御嶽と集落の展開、そして神役との関係を推し進める手がかりとなる。
▲沖地協研修会(西表租納公民館:1989年) ▲鞴の口と鉄さい
▲西表星立の節祭(シチ)(1999年10月)
▲西表租納の節祭(シチ)前泊の浜 ▲黒朝の衣装の女性を先頭に踊るアンガー踊 (1999年10月:沖地協の研修会)
【竹富町竹富島】
2005年3月21日(月)11時の便で与那国空港から石垣空港へ。宿に荷物を置き、すぐ港へ。どの島にしようか?黒島は二年前に行っているし、小浜島への便は出ている。すぐ出航するのは竹富島か。ならば13時30分の便で竹富島へ渡ることに。船底の客席はほぼ満席。しかたなく後方部一段高い客席へ。眺めがいいだろうと。船が走り出すと、エンジンの音と跳ね上げていく潮しぶきが、激しくぶつかってゆく。また、車が石ころ道を猛スピードで走ってゆく様。後方部の上段には、二度と座るまい。所要時間10分ばかりであるが。
少し説明をすると、竹富町は10数ヶ島からなる。その中で人が住んでいるのは10島である。大正3年にこれらの島々(大字)を竹富村とし、竹富島に役場を置いた。島々多く不便なので役場(当初は出張所)は現在の石垣市内に置いた。転々として現在は竹富町役場は石垣市美崎町にある。
西桟橋で船を下りると数名乗りの車(島内バス?)に乗り集落入口まで。「喜宝院近くで降りたいのですが」、もう一人の島の方でしょうか「やらぼまで」とさりげなく。最初にとまったバス停が「やらぼ」であり喜宝院前であった。島のことを知らないということはと、一人苦笑してしまった。
喜宝院蒐集館(民俗資料館)へ。入口の大きな甕に「蒐集館」とあり、石垣に「報恩」と掘られた石版がはめ込まれている。その石垣の上に十二支が置かれている。来館者が産まれ年の十二支の前に小銭を置いていくのであろう。蒐集館のドアを開けると上勢頭芳徳氏が。何度か訪ねているが上勢頭氏が館にいたのははじめてある。
与那国島を行ったことを告げ、久部良バリとトゥングダの話になると、館内のワラザンや秤や拷問道具、納税を示す板札、御用布箱など人頭税に関わる道具について、説明いただいた。人頭税の実態を知った思いである。山原とは異なる貯蔵や運搬用具。それと「嫁波伊津 孫加那思 母男子一會 乾隆三十六年三月十日」と彫られた甕の前に。「これは明和の津波の時のものです」と、いきさつを語ってくれた。どうも先島の人頭税は、山原における地割制における税の取立とは大部異なっているのかも。話は尽きず。
「昼食まだでしょう?」
「どこか食事できるところありますか?」
「すぐ隣、やらぼ」
車海老ソバまで御馳走になりました。車海老が数尾。おいしい車海老とソバでした。話題になった人頭税に関する最新の研究論文集『あさぱな』(人頭税廃止百年記念誌)の寄贈を受けた。感謝(早速、目を通しています。興味深いこと多い)。
水田のない島であるが、西表島や石垣島に渡って稲作を行なっていたという。竹富島と黒島、そして新城島は隆起サンゴ礁からなる低い島で、水田のある島(高島:石垣島・西表島・小浜島など)などがタングン(田の国)と呼ばれるのに対してヌングン(野の国)と呼ばれているようだ。
▲なごみの塔 ▲なごみの塔から集落をみる
▲喜宝院蒐集館の舟 ▲喜宝院蒐集館の道具類
▲クスクモリ〈小城盛) ▲盛の上部にある方位石
▲集落内にある西塘御嶽 ▲清明御嶽
竹富島の集落は島のほぼ中央部に位置し、北側を玻座真(東屋敷・西屋敷)と仲筋に分かれている。島の中の村の歴史を辿ると、どうも御嶽を中心とした村が一つの集落(現在は集落内を三つに区分される)にまとまっている。そこで見えてくるのは御嶽を中心とした集落が行政村(島)にされるが、祭祀は一体化せず要(カナメ)となる御嶽が今でも形を残している。
竹富島一島が一村になるのは崇禎元年(1628年)頃。集落の発祥とは別に西塘御嶽のような貢献した人物を祀った御嶽もある。
@新里村(移動→花城村)(竹富島へ発祥の村) 花城(パナツク)御嶽
A玻座真村 波座真(ハザマ)御嶽
B仲筋村(統合←幸本村) .仲筋(ナージ)御嶽
C幸本村 (幸本御嶽)
D波利若村(統合←花城・久間原村) 波利若(バイヤー)御嶽
E久間原村 久間原(クマーラ)御嶽
【与那国島】
行く前から久部良バリとトゥングダ(人升田)が気になっていた。これまで見てきた山原の土地制度(地割)と矛盾を感じるからである。与那国島における人減らし(口減らし)。人減らしのため女性が久部良バリ、男性がトゥングダを人減らし手段として使われたという。与那国島ゆきの気が重かったのはそれがある。
【与那国島】
特に近世から明治にかけての土地制度の中で、山原では「人口を増やせよである」(一族の繁盛と村の繁栄と祈願する)。もう少し山原の地割制度や先島でいう人頭税について調べてみることにする。与那国島、竹富島、石垣市(博物館前)の三カ所に「人頭税廃止百年記念碑」が建立されていた。まだ目を通していないが、『あさぱな』(人頭税廃止百年記念)が出版されている。山原の土地制度を実態はどうか、何か手がかりをつかんだような気でいる。
与那国島の水田にも関心がある。谷間などにある天水田、それとやはり田原川沿いが気になっていた。川沿いは湿地帯ではないか。予想通り、今でも手付かずの湿地帯(沼地)が広い面積を占めている。近世の絵図を見ると入江である。与那国島の稲作の盛衰は山原(特に今帰仁村)の水田の消滅とことは重なってきそうである。
与那国島を二日足らずで駆け回っての土地制度と稲作についての印象である。集落の成立ちを知るには、山原とは異なった物差しを必要とする。
海底遺跡、その証明は陸上部のサンニヌ台や軍艦岩や久部良バリあたりの特殊な地形が「人工的なものだ」と言える程の説明が必要ではないか。それ程大変なことだ。全くの素人の印象。
【与那国島での確認すること】
・沖縄最後に見える夕日が丘/久部良バリ/久部良の集落/久部良漁港/久部良公民館の後方の久部良御嶽
/太陽の碑/沖縄県最西端の地(碑)/久部良ミトゥ(池:湿地帯)/久部良岳/比川の集落/比川の浜
/比川の学校/ハマシタンの群落/立神岩/立神岩展望台/サンニヌ台/軍艦岩/サンニヌ展望台
/東崎展望台/ダティクチヂイ(1664年)/浦野墓地/ナンタ浜(祖納港)/祖納の集落/田原川と湿地帯と水田/水源地(田原水園 1952年7月竣工碑:コンクリート)/与那国民俗資料館/人頭税廃止100周年記念碑
/十山御嶽/ティンダハナタ(サンアイ・イソバ、インガン、伊波南哲の詩碑、泉)/トゥングダ(人升田)
/水田地帯/人頭税廃止百周年碑/(大和墓と各遺跡は行けず)
▲ティンダハナタから祖内集落を眺める
▲ティンダハナタの崖
▲ダティクチデイの石積み
▲石垣の内部にある方位石
▲久部良バリの様子 ▲下方から見た久部良バリ
▲田原川か流域からみたティンダハナタ ▲トゥングダ近くにある水田
▲十山神社(御嶽) ▲久部良御嶽
2005.03.19(土)
明日から与那国島と石垣島へゆく。与那国島ははじめてである。これから与那国についての下調べ。地図を広げてみると、沖縄本島北部から直線距離にして与那国島までと、鹿児島県の開門岳あたりに相当する。そう見ると、沖縄県ではあるが与那国島は遠い。今回、与那国島に足を向けた理由の一つに、『慶来慶田城由来記』(嘉慶25年の奥書:1820 宮良殿内本)や『中山世譜』(附巻)の嘉慶25年条、そして『具志川家家譜』の記事である。
○『慶来慶田城由来記』(嘉慶25年の奥書:1820 宮良殿内本)
右嘉慶弐拾四卯九月、与那国島江今帰仁按司様
大和船より被成御漂着候付、諸事為見届渡海之時、
西表村潮懸滞留ニ而先祖由来より書写、如斯御座
候、以上
辰二月 用庸
右錦芳氏石垣親雲上用能御所持之写よ里写候也
用紙弐拾五枚 松茂氏
當整
○『中山世譜』(附巻)の嘉慶25年条に、与那国島へ漂着した概略が記されている。
本年。為慶賀 太守様。陞中将位事。遣向氏玉城按司朝昆。六月十一日。
到薩州。十一月二十三日。回国。(去年為此事。遣向氏今帰仁按司朝英。
前赴薩州。但其所坐船隻。在洋遭風。漂到八重山。与那国島。不ー慶賀使
之期。故今行改遣焉)
○『具志川家家譜』十二世鴻基(朝英)の嘉慶24年に詳細な記述がある(省略)。
薩州の太守様が中将になったときに、向氏今帰仁按司朝英(鴻基)が派遣されたが、薩州に着く前に、船は逆風に逢い八重山の与那国島に流されてしまった。翌嘉慶25年向玉城按司(朝昆)を派遣した。今帰仁按司鴻基は1816年に琉球を訪れたバジル・ホールと交渉した人物である。那覇港を出航したが、逆風にあい運天港に乗り入れ風待ちをし、運天港から出航したが与那国島へ漂着する。
与那国のことを調べている(『与那国島』(町史第一巻参照)と、膨大な情報があるが頭に入れ込めず。島に行って島の人々の個性と接することができれば幸いである。
与那国のことを島の人々は「どぅなん」と呼び、石垣では「ゆのおん」と呼ぶという。そのこと確認できれば、それでいい…。ついでに言うなら音として確認できないが、『成宗実録』(1477年)に与那国島に漂着した朝鮮済州島民の見聞録では「閏伊是麼」(ゆいんしま)、おもろさうしでは「いにやくに」、『中山伝信録』(1719年)には「由那姑尼」とある。近世になると「与那国」と表記される。
与那国島近海が黒潮の玄関口だという。大正13年に西表島の北方沖で起きた海底火山。そのときの軽石が黒潮に乗って日本海側と太平洋側の海岸に流れ着いた様子を気象庁に勤めていた正木譲氏が紹介されている。与那国島近海を北流する黒潮本流と、与那国島にぶち当たり反流する黒潮支流があるようだ。そのことが、与那国島の祭祀や言語などに影響及ぼしているのであろう。
与那国島について、乏しい知識で渡ることになった。すでに多くの研究がなされているであろう。それらに目を通すことなく渡ることになるが、帰ってから学ぶことにする。まずは島に渡ることから。与那国島から石垣島に渡る予定。