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・明治に上京した人物
羽地間切稲嶺村2010年1月29日(金)
羽地間切稲嶺村の惣山當の履歴書に以下のような記事がある(「名護市史資料編5」地方役人関連資料96頁)。宮里清助は羽地間切稲嶺村の人物で、この「御願書」は明治30年2月に羽地間切の地頭代へ採用願いの履歴書である。詳細には触れないが、真喜屋と稲嶺の「奉寄進」の香炉の人物達と重なる人物の一人である。
光緒元年(明治8)の真喜屋掟嶋袋仁屋、明治廿八年の真喜屋村の上地福重、そして稲嶺村の宮里清助、三人が上京している。それは羽地間切の御殿と殿内へ奉公した羽地間切の村の人物との関わりを示すものである。明治九年の池城親方は三司官の池城安規で、上京中亡くなった人物で、その時葬式などを執り行っている。三司官池城親方の上京は、「琉球国の存続と清国との国交の継続」などの案件である。
一 (明治)九年旧惣地頭亡池城親方東京御使者之時、旅供拝命、上京仕候事
仝九年九月廿七日ヨリ仝十年七月廿日迄
一 於東京屋我村掟拝命、早速帰帆之筈候處、檀那事明治九年五月ヨリ重病相煩ヒ看病方彼是手
不足ニ付滞京拝命、仝十年三月ニ至テハ不慮及死亡、葬式並跡香儀向等相済シ、仝年七月十二
日帰帆、檀那方役人方荷物付届向、仝月十三日ヨリ仝廿日迄首尾能相勤申候
一 旧惣地頭で亡き池城親方が、東京への御使者の時、旅のお供を拝命し上京いたしました。
明治九年(1876)年九月二十七日から同十(1877)年九月二十日まで
一 東京において、屋我村掟を拝命し早速、帰帆の筈だったのですが、檀那である池城親方が
明治九(1875)年五月から重病となり、看病にあたって、あれこれ人手不足なので、東京に
留まれとの命を受け、明治十(1876)年三月になって、思っても見なかったことですが、死亡
され、葬式と跡香儀などをすまし、明治十年七月十二日に帰帆し、檀那(惣地頭池城親方)
及び役人方への荷物を付け届けるなどの仕事を、七月十三日から二十日まで首尾よく勤め
ました。
上記三人とは別に、羽地間切真喜屋村振慶名掟上里にやの人物がいる。上京はしていないが、三司官池城安規が上京した際、旅行の「御立願」として、光緒元年(明治8、1875)八月十一日に国頭間切辺戸村へ出かけて「御立願」をし、十五日に帰ってきて間切の役人などに報告している。「口上覚」(羽地間切真喜屋村振慶名掟上里にや」に、以下のようにある。その時、立願をした上里にやは上京していないが、「光緒元年上京之時 奉寄進 真喜屋村掟嶋袋仁屋」(香炉)の嶋袋j仁屋が上京している。
一 光緒元亥年八月十一日、檀那様御旅立願ニ付、国頭間切辺戸村江御立願仕、同十五日罷
帰、間切役々衆江申上候
一 同年十二月御旅御立願ニ付、主之前前様御下之時、今帰仁間切親泊迄御供相勤申候