中頭のムラ・シマ
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・殿(トゥン) ・与那城(うるま市) ・伊計島 ・宮城島 ・浜比嘉
【殿(トゥン)】
(2004年2月19日)
18日(水)に与那城町の伊計島・宮城島・平安座島、そして勝連町浜比嘉の島をゆく。明治17年頃の田代安定の「沖縄島諸祭神祝女類別表」に神アサギが登場する。『琉球国由来記』(1713年)では「殿」(トゥン)とある。中南部の殿は屋敷に設置されるので、山原の神アサギと大きく異なるのは屋敷に設けられていることである(山原の神アサギで屋敷内に設置されているのは本部町瀬底、国頭村宇嘉、奥間などである)。伊計島や宮城島などの村の殿は『琉球国由来記』(1713年)で以下のようにある。
・殿 伊計村(伊計巫伊英ニ設席也。アンミャト云)
・殿 宮城村(根人家ニ設席也。オエキミト云)
・殿 宮城村(宮城巫家ニ設席也。アンミヤト云)
・殿 上原村(上原巫家ニ設席也。)
・殿 平安座村(平安座巫家ニ設席也。仲程ト云所ニ有リ)
【与那城町伊計島】
伊計島は与那城町の一島で一字からなる。勝連半島から平安座島・宮城島・伊計島と続く。現在では橋が架かり、伊計島まで来るまで行くことができる。中部地域でありながら、これらの島々の村に神アサギがあること。ある意味では山原の祭祀に近い形態がみられるのかもしれない。
伊計の集落は島の南斜面に発達し、集落の最後部に学校がある。おもろで「いけのもりくすく」と謡われている。グスクは伊計島と隣接した小島の頂上部にあり、『琉球国由来記』(1713年)に伊計村が登場し、祭祀は伊計ノロの管轄である。伊計ノロの屋敷跡や祠があるが、集落の高いところに位置する。
伊計グスクが伊計ムラの御嶽となっており、御嶽と集落をつなぐ軸線を想定してみる必要がありそうだ。かつての伊計港とヌルドゥンチをつなぐ道が集落の主要道路だったであろう。学校ができた後は学校の正門と港をつなぐ線も軸線として読取ることができる。それは神アサギと旧港を結んだ線とみてよさそうである。
考えてみると、神アサギがあるので、神アサギとかつての港を結ぶ線の方が集落の展開の軸線としては自然である。このように伊計グスクと集落、あるいは神アサギや御嶽と港などをつないだ集落の展開を考えてみるのもいい。
明治17年頃の田代安定の「沖縄島諸祭神祝女類別表」の伊計村に七箇所の拝所が記されている。
@ノロ殿内 A神アサギ Bノロ殿内火神 C根屋
D浜崎ノ御嶽 E東リ御嶽 Fイリ御嶽
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▲伊計グスクからみた伊計の集落 ▲伊計のヌルドゥンチ付近
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▲伊計島の集落は石垣の垣根が目に付く
【与那城町宮城島】
与那城町の宮城島に上原・桃原・宮城・池味の集落がある。今回は上原と宮城をゆく。上原は伊計と異なりムラ名の示す通り島の標高100m程の高いところに位置し、宮城は上原に隣接している。
[上 原]
上原村には上原ノロ、隣接した宮城村には宮城ノロが存在する。上原の神アサギはノロ殿内の屋敷内にある数本の石柱がそうであろうか。ヌルドゥンチ付近は岩や古木が茂り、神々しさが漂っている。シニグドーから上原・宮城の集落全体を俯瞰することができる。
明治17年頃の田代安定の「沖縄島諸祭神祝女類別表」の上原村に六ヶ所の拝所が記されて、神アサギもある。
@ノロ殿内 Aノロ殿内火神 B神アサギ Cイリ御嶽
D根屋 E井川
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▲シニグドーから眺めた上原の集落 ▲上原集落にあるマンガー
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▲上原ノロ殿内跡 ▲ノロドゥンチの正門
[宮 城]
宮城へは今では車で行くことができるが、以前は船で屋慶名港から池味港まできて、池味の集落を通り宮城集落まで徒歩で登って行った時代があったのであろう。宮城島の「交通交易」から(沖縄民俗:宮城部落報告1969年)、昭和40年代以前の様子を知ることができる。
・島の交通は主に徒歩
・集落内の道幅は狭い
・屋慶名から定期便がある(池味港9隻、桃原港3隻)。
・定期便以前は松でできた船(人を運ぶのみ、漕ぎ手二人、乗客十名
ほど)
・貨物の運搬はフーシン(山原船)
・伊計島や平安座島はサバニを利用
・干潮時は宮城島と平安座島、そして本島へは地続きとなるので
徒歩で渡る。
・樽を買いに行くには徒歩で。
・日用雑貨や食料品は安慶名から船で運ばれる。
・平安座島が山原船の集まるところなので、宮城島からサバニで
大根や野菜類を売りにいく。
・製糖時期になると山原船で薪を売りにやってきた。
・サーターダル(砂糖樽)や肥料なども運んできた。
・久志や辺野古などの山に木を切り出しにいき、山原船を借りて運んだ。
・タルガーに入れた黒糖は池味の前の浜に運ばれ、港に仲買人(イタク)
がいて船で与那原まで運んだ。
【伊計・宮城・平安座】
(2004年2月22)
与那城町の伊計島と宮城島と平安座島、そして勝連町の浜比嘉島を訪ねてみた。これまでニ、三度訪ねている。まあ、「島に行ってみようか」とドライブ気分であるが、今回はパナリ(離れ)と呼ばれる島々の近海に山原船を浮かべてみること。そして山原船が行き交う島々の港と当時の人々生活を直に感じとりたいとの思いがあった。それは3月21日に「山原の津口(港)」をテーマで与那城町で話しをするので、その現場確認もあった。
伊計島は屋慶名港から船で渡った記憶がかすかにある。それは昭和30年代中頃である。屋慶名港から船で、どのくらいの時間かかったか定かでないが、当時の資料をみると1時間半かかっている。はりっきて乗船したのに、船酔いしかかった頃、島に到着した。船酔い気分がおさまる前に、港から坂道を学校まで駆け登っていった。その後、島でなにをしたのか全く記憶にない。40年近い歳月が経っているが、そのかすかな記憶は、今回の伊計島行きに役立っている。
伊計島の集落の上の方にあるヌルドゥンチ公園近くに車をおき、集落を通りブラリブラリ海岸まで歩いてみた。数多くの石積みの屋敷や石垣に挟まった福木や豚小屋跡や井戸などをみながら海岸まで下ってみた。途中、総合的学習をしている小学生達と先生の姿があった。声をかけることはできなかったが、きっと島の宝物探しをしているのでしょう。
まだ、海岸の岩場に橋が架かる前の船着場の跡が残っていた。岩場に剥がれたコンクリートが、辛うじて船着場の痕跡を遺している。側の岩場には竜宮の神を祭った碑が立っている。伊計島と船が行き交う様子を彷彿させる記事を拾ってみた。
・1781年 七月の盆を導入する(前仲村親雲上が位牌を各戸に分与)。
・1804年 伊計島民が久志間切の安部村の帆船を救助する。
・ 同 久志間切の嘉陽船も救助する。
・ ? 与那原の馬艦船(マーランセン)を救助する。
伊計島の男は山原船で国頭、奄美、先島との取引をしていた。
・大正のはじめころ、追い込み漁業始まる。
・昭和の初期にかつお製造所ができる。
・伊計島は半農半漁(戦前、稲作は全くなく、麦・甘蔗・粟・とうもろこしが
主に栽培される)
・正月15日は初ウマチーで伊計グスクに麦の穂を供える。供え物は
魚のサシミと五穀。伊計グスクへは白装束で、舟で渡る。
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▲伊計島のかつての船着場 ▲伊計島の石囲いの豚小屋
【伊計グスク】
伊計グスクは伊計島に行く手前にある森である。グスクは標高約48mの一番高い所にある。頂上部は平坦となっていて、貝を祭った祠と石積みの拝所がある。途中にある門中の殿がある。グスクのある場所は伊計島と離れた島ではなかったか。港の場所とビーチとの間は、水路となっていたにちがいない。『海東諸国紀』(1471年)に「池具足城」があり、伊計グスクと想定されている。
伊計の現在の集落は小字の西原(島の北側の高台)から現在地(島の南側)に移動した伝承を持っている。伊計グスクが機能していた頃は、グスクのある島と現在の伊計島とは水路で隔てられていたのであろう。そのころ、集落はグスクの麓やグスクに登る斜面あたりにあったのであろう。それはグスクへの上り口に一門の殿(住居地)があり、その名残をみせている。
グスクのある場所は伊計島のさらに離れ島ではなかったかと想定したのは、グスクでの祭祀のとき、砂浜から歩いて行くのではなく、白装束をし舟で渡っていたという。
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【勝連町浜比嘉島】
(2004年2月2.2日)
浜比嘉島には浜と比嘉の島がある。今回訪ねたのは比嘉の集落である。平安座(与那城町)から浜比嘉島(勝連町)に架かった橋を渡ると、橋詰あたりから左手にいくと比嘉につく。
勝連間切の地頭代は浜親雲上(浜大屋子)を名乗っている。浜の集落内に地頭代火神を祭った祠がある。『琉球国由来記』(1713年)にみた浜村の「殿」(トゥン)は浜里主所、比嘉村の「殿」(トゥン)は比嘉里主所に置かれている。
比嘉にはアマミチュー墓があり、アマミチュー(アマミキヨ)とシルミチュー(シネリキヨ)、そして他の神々を葬ったと伝えられる。兼久の集落のはずれにシルミチューの洞窟がある。洞窟内に祠があり、南蛮甕が置かれている。
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▲勝連町比嘉の集落 ▲比嘉集落内の家
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▲比嘉集落の端の崖の下にある湧泉 ▲比嘉の集落内にあるカー
神アサギ(殿)
(2004年2月20日)
伊計、上原、宮城の神アサギ(殿)を掲げてみる。但し、『琉球国由来記』(1713年)に出てくる「殿」と明治17年頃の明治17年頃の田代安定の「沖縄島諸祭神祝女類別表」の神アサギと、同一なのかどうかの吟味が必要である。
▲どっちが伊計の神アサギ(殿) 左??
▲上原ノロ殿内の屋敷にある神アサギ ▲宮城の神アサギ(殿)
(殿)に使われた石柱か
【シニグ】
(2004年2月24日)
シニグについて調べていたら「ノロクモイ社禄台帳」(勝連村誌)が目についた。山原ではノロはほとんどが複数のムラを管轄するが、勝連間切では一ムラ一ノロである。そこには社禄の最終支給年月日が昭和13年である。山原でも昭和10年代の史料が何点か確認できる(大宜味村田港ノロ、今帰仁村岸本ノロ、旧羽地村仲尾、真喜屋など)。山原のシニグ(具志堅)と勝連間切や与那城間切のシニグについて比較してみると興味深いことがわかるかもしれない。神アサギについても。