喜界島空港に降りると、早速車を借りる。空港近くは市街地を形成しているので、またそこに宿泊するので5月2日の朝の調査が可能である。それで反時計周りに喜界島を回ることにした。湾のマチを抜け、中里へ。中里・荒木・手久津久・上嘉鉄・先山・蒲原・花良治・蒲生・阿伝とゆく。阿伝で日が暮れる。嘉鈍から先は5月1日(二日目)に回ることにした。戻ることのできない性格なので、二日目にゆく嘉鈍より先の村々は、素通りしながら宿のとってある湾まで。宿に着いたのは午後7時過ぎである。島の一周道路沿いに集落がある。喜界島の集落の成り立ちの特徴なのかもしれない。それと一周線沿いの集落のいくつかは、台地あるいは台地の麓からの移動集落ではないかと予想している。が、まずは集落にある公民館と港(今では漁港)を確認することから。公民館は防災連絡用のマイクを見つければいい。
琉球と喜界島との関わりは、どのようなことから見ていけばいいのか。確固たるキーワードを持っての喜界島行きではない。島の村々の集落に足を置いてみることで見えてくるのはなんだろうか。そんな単純な渡島であった。島の数ヵ村の集落を見ていくうちに、喜界島と琉球との関わりを見るには漂着船の記事ではないか。というのは、今では整備された漁港であるが、それでも岩瀬が多いところである。そのような岩瀬の多い所への舟の出入りはなかなか困難である。よほどの事情がないと入れないのである。よほどの事情というのが、琉球から薩摩へ向かう船。あるいは逆の薩摩から琉球へ向かう途中、嵐にあい、喜界島に漂着したことが予測できる(特に近世)。
それから西郷隆盛や名越左源太などのような道之島への流人である。島に与えた流人(特に薩摩からの流人)の影響も大きかったであろう。近世であるが琉球からの喜界島への流人の例もみられる。もちろん大きな影響を与えたのは薩摩からの役人達である。そんなことを思いふけながら、二時間ばかりの数ヶ所の集落めぐりである(一日目)。
【喜界島の野呂(ノロ)】
『大島 喜界 両島史料雑纂』に「喜界島史料―藩庁よりの布令論達掟規定約等」(明治41年中旬調査:読み下し文と訳文)がある。その中に「野呂久目」について何条かある。その条文は安永7年(1778)のようである。1611年に与論以北は薩摩の支配下に組み込まれ、薩摩化させられていったが、この野呂は古琉球から近世に渡って根強く残ってきたものである。この段階でも、いろいろ禁止されるが、その後までひきづり、ノロ関係の遺品が遺されている。
一 野呂久目春秋の祭一度づつ花束一升づつ、その外の神事はさしとめ候
ただし村々みき造り候義さしとめ候
一 野呂久目、湾間切入付而は所物入用これある由候間、以来さしとめ候
一 右湾方え野呂以下代合の節、ふくろ物と名付け、米相拂い来り由候得ども、向候得ども、
向後差とめ候
一 野呂久目神がかりの節、前晩より右湾えさしこし来る由候得ども、向後さしとめ候
※ノロの弾圧
喜界島のノロも大島群島同様、安政7年の禁止令があり、弾圧された。ノロもフドンガナシも隠れて、明治に至る。
赤連の「新山家系図は明治になって不明。
【喜界島の主な出来事】
・1441年 大島は琉球に従う。
・1429年 琉球国は三山が統一される。
・1450年 尚徳、喜界島を攻略する。琉球王国の支配下に置かれる。
・1466年 尚徳、互弘肇に命じ、泊地頭職を任じ、(泊村)及び大島諸島を管轄させる。
その頃、米須里主之子を喜界島大屋子として派遣する?・1472年『海東諸国紀』の「琉球国
之図」に「鬼界島属琉球 去上松二百九十八里去大島三十里」とある。
・『中山世譜』に「琉球三十六島」のうちとして「奇界」とある。
・『球陽』に「鬼界」とある。
・「琉球時代」以前は大宰府の管轄にあったとの認識がある。
・12世紀保元の乱で敗れた源為朝が伊豆大島を経て喜界島北部の小野津に漂着した伝承がある。
・12世紀平資盛らが豊後国から船を出して屋久島、喜界島、奄美大島へ逃げて行った伝承がある。
・七城・・・島の最北端にあり、平資盛が13世紀初めに築城したという。あるいは15世紀後半に琉球の
尚徳王が築いたともいう。
・1266年に琉球王国に朝貢したという?
・1450年朝鮮人が臥蛇島(トカララ列島)に漂着し、二人は薩摩へ、二人は琉球へ。
・1456年琉球に漂着した朝鮮人の見聞。池蘇と岐浦はききゃ?
・「おもろさうし」に「ききゃ」(喜界島)と謡われる。
・琉球国王尚泰久のとき(1454~61年)諸島を統治した後、「鬼界ガ島」に派兵(『琉球神神記』)。
・喜界島が琉球国に朝貢がないので兵を派遣して攻める(『中山世鑑』)。
・1466年尚徳王自ら大将として2000名の兵で喜界島を攻撃する(『中山世鑑』)(『中山世譜』)。
・1537年 奥渡より上の捌が初めて任命される。・1554年「きヽきのしとおけまきりの大くすく」(辞令書)
(間切・大城大屋子の役職)
・1569年「きヽやのひかまきりのあてんのろ」(辞令書)(間切・ノロ)
(ノロに関する伝世島:バシャ衣・ハブラ玉)
・1611年 大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島が薩摩藩の直轄とされる。
・1613年島津氏は奄美五島(与論・沖永良部・徳之島・奄美大島・喜界島)を直轄領とする。
・「正保琉球国絵図」に喜界島の石高6932石余、志戸桶間切・東間切・西目間切・わん間切・荒木間切の
五間切)
・「大御支配次第帳」によると「荒木間切・伊砂間切・東間切・志戸桶間切・西間切・湾間切の六間切)
(間切のもとに村々がある)
・1837年琉球国王の即位につき清国から冊封使がくると喜界島からも米11石を納めている。
(豚・鶏・玉子・塩魚・きのこ・海苔・あおさ・白菜など)
【喜界島の集落】
一日目、中里(ナカザト)→荒木(アラキ)→手久津久(テクツク)→上嘉鉄(カミカテツ)→先山(サキヤマ)→蒲原(ウラハラ)→花良治(ケラジ)→蒲生(カモー)→阿伝(アデン)までゆく。まずは、各村々の情報を整理することから。一気に整理しないと、どこのことか混乱を起こしてしまう。
▲中里公民館 ▲中里地区公民館
▲荒木公民館 ▲保食神社の由来の碑
▲荒木漁港 ▲保食神社(荒木)
▲手久津久公民館 ▲公民館の前は広場になっている
▲手久津久集落の山手で田芋栽培 ▲集落の山手に湧泉がある
▲上嘉鉄中地区公民館 ▲プナンデー石
▲上嘉鉄の集落 ▲上嘉鉄地区復興センターの前庭
▲上嘉鉄地区復興センター
▲先山地区公民館 ▲先山漁港(現在の様子)
▲先山集落と港
【鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令書】(1569年)
しよりの御ミ事 首里之御ミ事
▲日本復帰記念碑(昭和28年) ▲末吉神社
1765年御用船の出入りを早町のみから湾港も認められる。1767年湾に白嶺神社を創建する。
・坊主前の墓
・仮屋の跡
・御殿の鼻
グスクは村名の示す通り、グスクがあった集落の印象がある。現在の集落のあるところは、標高■mの高台にあり、祭りをするハンジャーがある。ハンジャーは崖にあるジャー(湧泉)に因んだ名称か。
1697年 代官城久村に八幡宮建立する。
明治5年(1872)7月25日、明治政府に対する初の琉球の使者、維新慶賀使節の正使伊江王子らが那覇を出発し7月25日に鹿児島に、9月3日東京に到着する。帰りは10月25日鹿児島に到着するが、那覇に着いたのは翌年の2月5日であった(『那覇市史』)。鹿児島からの帰途、嵐に会い喜界島へ漂着する。早町の東尾昌宅に一ヶ月余逗留する。
・涙石
1826年塩道村に唐船が漂着する。14人全員生存。翌年、14人を琉球へ送致する。
1646年に「琉球王の使者として、薩摩へ上る途中、嵐の為乗船が遭難し志戸桶に漂着、そのまま土着して一家をした(319)。1843年5月志戸桶沖(沖名泊)に異国船、29人ほどが上陸する。牛を煮て食べたい様子であったが許可せず、お粥を食べさせた。国はイギリスのようであった(『喜界町誌』310頁)。
【喜界の志戸桶間切の大城大屋子職補任辞令書】
しよりの御ミ事 首里の御詔
きゝやのしとおけまきりの 喜界の志戸桶間切の
大くすくの大やこは 大城の大屋子は
ちやくにとみかひきの 謝国富がひきの
一人さわのおきてに 一人さわの掟に
たまわり申候 給わり申候
しよりよりさわのおきての方へまいる 首里よりさわの掟の方へまいる
嘉靖三十三年八月二十九日 嘉靖三十三年八月二十九日(1554年)
1746年志戸桶の喜美治、藩主宗信より褒賞として馬を拝領した。
・沖名泊(ウチニャートマイ)
・七城跡
・平家森
・平家上陸の跡
▲神宮地区公民館 ▲神宮漁港
▲大朝戸地区公民館
▲住吉神社
弘化年間(1844~48年)に北方から異国船の数名が赤連海岸の一里鼻に来たので、牛と水を与えて立ち去らせたという(『喜界町誌』310)。
赤連の「新山家系図」からノロの任命?
初代の新山思三郎は東間切塩道村半田に住み、嘉靖14年(1535)に西目の大屋子となり、長峰大屋子となる。