羽地の語義は(名護市羽地)        トップへ

【羽地域の歴史とムラ】(講演原稿構成の一部)


 羽地は現在名護市域である。名護市に合併される以前は羽地間切、羽地村であった。その羽地域を流れる羽地大川があり、その川名に由来しているとの誤解がありそうだ。羽地大川と呼ばれるのは蔡温の「羽地大川修補日記」(1735年)で「羽地間切大浦川」を「向後羽地大川と唱え」ると申し渡しがなされている。そこでの大浦川が大川であるとするのは、別に疑問とするものではない。その時、大浦川を羽地大川としたため、羽地(間切)の由来を大川(ハンジャー)に因んだものと解されている。

 羽地の登場は、羽地大川とされる1735年以前から登場する。「おもろさうし」で「まはねち」「まはねぢ」と謡われている。古琉球から近世の過渡期の二枚の辞令書で「はねしまきり」(羽地間切)とあり、『琉球国絵図郷村帳』(1648年)と『琉球国高究帳』(1648年)で「はねし」に「羽地」と漢字が充てられている。羽地の語義は「はねち」「はねぢ」あるいは「はねじ」に求められるべきであろう。

 「はねぢ」「はねち」「はにし」の方音は、ハニヂ、ハニジ、パニヂ、ハニシとみてよさそうである。ヂやジは地の漢字が充てられ土地や場所である。問題はハニである。ハニは金である。名護市伊差川を流れる金川(カニガー:ハニガー)がある。そこは明治から昭和の初期に銅を発掘した場所である。その山一帯から流れる川がハニガー(金川)である。明治以降に発掘されていた記録があるが、いつ頃から発掘されたのかは不明である。

 おもろさうしで「まはねぢ」「まはねち」と謡われるその「はねぢ」地名がどこから来ているか。大川ではなく、ハニチ(金地:銅を産する地)に求めるべきであろう。そこから流れ出るハニガー(金川)は羽地間切の中心となる田井等村(主村)へ向かって流れているのである。

 
   ▲「金川銅山跡之碑」                ▲銅山の説明文

 
         ▲碑の回りに銅の鉱石が数多く置かれている

 
▲碑の近く(後方)にある坑口  ▲第二金川橋付近の金川(ハニガー)

 「金川銅山跡之碑」に以下のように説明されている。

  西暦1496年(尚真20年)に首里円覚寺の大鐘はこの銅山から出た銅で
   錆造したものと伝えられ、その後尚侯爵家が中心とした株式組織で明治
   20年9月試掘認可を受け採掘製錬し好成績を収め22年3月借区許可
   其の後十数年継続せしが一時中断せり、明治34年経営者が変わって再掘
   大正5年更に経営者が変わり数年も待たずして放棄して廃坑となり現在
   に至る


 明治以後については記録がある。そこで史実かどうかを問いたいのは「西暦1496年(尚真20年)に首里円覚寺の大鐘はこの銅山から出た銅で錆造したものと伝えられ」る部分である。

 1500年頃、「おもろさうし」で「まはねぢ」(真羽地)と謡われるほどに、この地域が中央に知られていたのは銅の産出地であった可能性がある。「ハネヂ」「ハネシ」の語義を大浦川(1735年に羽地大川と改称)に求めるのではなく、銅の産地と、そこを流れる金川に羽地地名の語義を求めてよさそうである。

 金川は銅山のある山の麓から流れている。金川は田井等(羽地小学校)方面に向かって流れ、我部祖川となる。田井等村は羽地間切の主村で、番所や羽地(親川)グスクのある地である。そのように見てくるとハニヂ(ハニチ)は「金(銅)の産出する地」とみてよさそうである。1500年代以前から金(銅)の産出する地として知られていたことから、「おもろ」に「まはねち」(真羽地)と謡われたとみてよさそうである。そこから流れ出るハニガー(金川)は羽地間切最大の羽地(親川)グスクや主村となった田井等村(1750年頃親川村が分立)に流れ、当時の大浦川(羽地大川)と並流し古我知(呉我)へと流れ出る。


2004.6.15(火)

【羽地大川】

 羽地大川の上流に羽地大川ダムが建設されている。台風の接近もあった満杯状態である。放水されているので普段の羽地大川とは違い川らしく水が流れている。「放水しています。増水に気をつけてください」との注意報が聞こえる。

 羽地大川は蔡温による改修工事はよく知られている。現在の大川の川筋は直線的で田井等の集落あたりで東側に注いでいる。それは大正から昭和初期にかけて開鑿して水路を変えたものである。それまでの旧水路は西側に大きく曲がり振慶名、我部祖河、古我知を通り、呉我の奈佐田川と合流し羽地内海に流れ込んでいた。旧川筋は部分的に曲がった様子が古い写真に見ることができる。

 最近名護市史から「羽地大川修補日記」が刊行された。1735年の改修以前の大浦川(羽地大川)の川筋の復元が試みられている。なかなか興味深い。一つに羽地大川流域と村(ムラ)との関わりである。それと今帰仁間切の村であった呉我村が羽地間切にくみこまれ、さらに1736年に現在地に移動させられる。呉我村が羽地大川の下流域に移動させられた理由は、川流域の開拓にあったに違いないと考えているからである。

 今帰仁間切の村移動を見ると志慶真村が諸喜田村の下流域へ、天底村が大井川の流域、本部間切の渡久地村(具志川村から分村か)は満名川の河口に創設されている。このように近世の村移動と規模の比較的大きい川流域の湿地帯の開拓と無関係ではなさそうである。湿地帯が地割の対象外の土地が多かったため、そこに村が移動できたのであろう。

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    ▲現在の羽地大川                ▲満杯になった羽地ダム 

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   ▲羽地ダムからみた現在の川筋      ▲現在でも水田がみられる 

2004.3.2(火)

【羽地(親川)グスク】  
 
ちょっと、時間をみて羽地地域(後の羽地間切:現在名護市)を統括したと見られる羽地(親川)グスクまでいく。親川グスクとも呼ばれるが、このグスクのある地域は、かつての親川村である。ただし、親川村の創設は近世中頃以降のこと。田井等村から分割した村である。

 親川グスクの名称は、親川村にあることに由来するのか。そうであれば近世中頃からの呼び方になる。もともと一帯が親川と呼ばれていて、それに因んで親川村や親川グスクと名づけられたのかもしれない。『琉球国由来記』(1713年)をみると、「池城里主所(火)神」や「池城神アシアゲ」とあるので、親川グスクの名称は、親川村が創設された後に名づけられた可能性が強い。羽地地域(後に羽地間切)全体を統括したグスクとみるならば羽地グスクの呼び方がいいかもしれない。

 「山原のグスク」(仮称)で「グスクと御嶽と神アサギ」のテーマでまとめるので、ここでは省略する。


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 ▲羽地(親川)グスクの遠景         ▲グスクの側にある神アサギ


2004.3.5(金)
【真喜屋のノロ墓】
 『子孫
伝書』(同治11:1878年、旧羽地間切仲尾次村)(『羽地落穂集』所収 小川徹 法政大学沖縄文化研究所)に「のろ墓之図」がある(下の図)。それに「板形ノ門」「今焼」「合葬」「白木箱之板作」「朱塗棚入箱」「大和かめ」「真塗箱」「赤焼絵」など興味深いことが記録されている。この墓の記録に関心があるのは、百按司墓の木棺の件があるからである。「銘書無之候」とあり、銘書がないのが残念である。墓を開けた時のは1878年頃で、墓に納められているのは、それ以前である(18世紀前半まで遡れるか)。

 墓全体の構造について「のろ墓相開候處、左図之通、墓内ニ別段木板之御殿を構ひ、其内朱塗真塗箱其外美厨子数々有之候得共、銘書無之候」と記録してある。どうも今帰仁村運天の崖の中腹にある木製の家型の墓の外観に似ている(正確な図面をおこしてみる必要あり)。

  ・墓門の高さ 四尺程(約120cm)
  ・横 一間九尺(約4m50cm)
  ・板 二寸(屋根の板幅か?約6cm)
  ・? 一尺二寸程にて四方次立て(約36cm)
  ・上は鳥の羽合 前四枚 後は三枚にて葺く
  ・いりきや(屋根・棟木?) 四寸角の木(約12cmの角材)

 のろ墓に安置されている白木箱と朱塗箱が、百按司墓の木棺に類するものなのかどうかということ。朱塗箱が、それまた朱色の漆塗りの木棺のことだろうか。それと真塗箱はなんだろうか?

 「のろ墓修甫料取立帳」の原本は乾隆48年(1783)なので、その年代に修理したということなので、もっと古くまで遡ることができそう。

 小川先生は「解題」で、以下のように記してある。

   
この墓の所在はいまでは分明しない。諸説のうち一つによると、真喜屋との
   対岸に当る奥武島の崖葬墓のうちにある。海崖を堀込み、前面を板門(イタシ
   ョウ)とした古墓の一つがそれであるという。海岸から階段を上ると狭い墓庭が
   あって、板門の内側には巨大な木郭を納めていた。見取り図ともよく符号す
   る。残念ながら近年の暴風で全壊してしまった。

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       ▲真喜屋ノロ墓の見取り図(同図の朱塗箱に色をつけてみた)