羽地(親川)グスク(現名護市)               トップヘ


【2014年6月22日】調査メモ

 羽地間切の親川・田井等と仲尾までいく。羽地グスクのある親川村を祭祀遺跡を通してウタキ・グスクを持ったムラ、間切番所を持ったムラ、そして分離したムラの形を見ることを狙いとする。また仲尾は羽地間切の祭祀の要となるノロが仲尾ノロ(1623年の辞令書で大のろくもいと記されている)である。「羽地按司御初入」(1870年)で訪れた祭祀場や招かれたウェーキ家などが、今でも確認でき、『琉球国由来記』(1713年)に記録された祭祀や御嶽や神アサギなどの確認調査は、変化しにくい部分やムラ・シマの形を歴史的に見ていく上で不可欠であろう。

 仲尾村の『琉球国由来記』(1713年)には登場しないヒチグスク(御嶽)のイベまで、仲尾古島から上る。途中にイベが置かれていたのを頂上部に配置換えしたようだ。(途中に赤瓦などがある。頂上部のイベはコンクリート。別で紹介します)

・親川村は田井等村から1730年代に分離する。(祭祀は親川と田井等が一緒に行う)
・親川村と田井等と村が分離すると神アサギはそれぞれの村に置いた。
・村が分離する前に置かれた羽地番所は田井等村である。村が分離した時、番所がおかれた
 場所は親川村地内となる。そのため、親川番所と呼ばれる。
・羽地グスクは村が分離する前は田井等村地内であったが、分離したときグスクは親川村地内と
 なり、別名親川グスクと呼ばれる。
・羽地グスク(親川グスク)
・羽地(親川)番所跡
・神アサギは『琉球国由来記』(1713年)に二つあり。
・グスク内にある神アサギ(神アサギの後方から一段下の畑の回りは土塁と石垣の郭となっている)
・池城神アシアゲは田井等村であるがグスク地内にある神アサギ。
・『琉球国由来記』(1713年)の池城里主所(火)神はグスク内にある。
   (両惣地頭や按司地頭が出てこない。数ヶ所で登場する池城惣地頭火神か)
・親川地内に殿地と御殿跡がある。
・番所ガー、番所火神、ハンバタガー(番所側ガー)、ウドゥンガー
・イユクモイ(魚小堀)(番所への来客用のイケスの可能性あり)

    (工事中)

 
   ▲羽地グスク(番所跡地より)    ▲池城御殿の火神か。隣にサンゴ石積みの按司御殿の火の神あり。

 
 ▲グスク内の池城里主所(火)神か      ▲グスク内にあるのが池城神アサギ

  
    ▲羽地(親川)番所火神     ▲仲尾ノロが馬に乗る石      ▲番所敷地内に番所ガー(内部)

  


羽地按司御初入(1870年9月3日〜26日)(『地方役人関連資料』名護市史資料編5)

 ・1870年9月
  赤平仲尾親雲上(9〜19歳まで御殿奉公)。檀那様が羽地間切にやってくる。
 ・9月3日  羽地按司をお迎えてのために9月3日に出発。
 ・9月6日  羽地按司出発日に首里に到着。
         台風のため出発を延期する。
 ・9月8日 首里を出発する。読谷山間切宇座村で一泊する。
 ・9月9日 恩納間切番所で一泊する。
 ・9月10日 名護間切番所で一泊する。
 ・9月11日 羽地間切番所に到着し真喜屋村で宿泊する。
 ・9月13日 按司一行は親川村にある御殿火神、親川城、勢頭神御河、御殿御川
                仲尾村のろ火神、真喜屋のろ火神と御嶽で御立願
 ・9月14日 按司一行は屋我地島へ渡って我部村のろ火神と御嶽、饒平名のろ火神、いりの寺、
        東の寺で御立願(お昼の休憩所は饒平名村我部祖河大屋子の家でとる。済井出村
        と屋我村を巡検し真喜屋の宿舎に帰る)
 ・9月15日 羽地間切主催の歓迎の宴が行われた。
 ・9月16日 羽地按司からのお返しの御馳走の招待。
        真喜屋村の宿舎へ赤平仲尾親雲上が参上した。
    (招待者:間切役人:サバクリ・惣耕作当・惣山当・文子・御殿奉公した者・各村から下知人など)
          神人14人、勘定主取、80歳以上の老人達)
 ・9月17日以降
    羽地按司一行は羽地間切の以下の家に招かれる(以下の6家)。
    仲尾次村の下の松田仁屋(仲尾次ウェーキ)、上の仲尾親雲上
    伊差川村の古我知大屋子(伊差川古我地屋)
    川上村の現真喜屋掟(新島ウェーキ)
    源河村の現呉我村(源河ウェーキ)
    我部祖河村のこしの宮城仁屋(我部祖河ウェーキ)
 ・9月26日 羽地按司一行は帰途につく。
        赤平仲尾親雲上達は羽地大川の中流のタガラまで見送る。 


【旧羽地間切のウェーキ】

 @羽地間切伊差川村三十番地平民 玉城善吉
   伊差川村帳内だけでも
     仕明下田(大又原)    1,350坪  叶米高 9俵
     仕明下田(キチル原)    400坪   叶米   2俵
     仕明下田(フカ原)      800坪  叶米   5俵
     仕明下田(ウチバラ原)   640坪  叶米   4俵
     仕明下田(クビリ原)     450坪  叶米   3俵 
   合計 下田坪高         3640坪  叶米  23俵

   ※玉城善吉は仕明地を小作させて叶米(小作料)23俵(1俵を3斗として6石9斗)の純益を得た
     ことになる。
     貢祖も仕明地の竿入はおおまかで、貢租の対照となったのは一部で、大部分は竿はずれで
     免税地となっていた。仕明地主は無税に近い貢祖に高い小作料によって土地集積を行った。

 A羽地間切我部祖村の宮城家
   前 田        16,390坪   田
   奈佐田        14,080坪    田
   内原         17,000坪   田
   内 袋           11,000坪   田
   内 原         7,000坪   畑
   前川又         1,500坪   田
   仲尾次又       1,500坪   田
   振慶名の前      2,100坪   田
   竹の口         2,000坪   田
   合 計   田      65,570坪 
         畑       7,000坪  
    ※名子(下人30人、女子5人)使役して財産の蓄積を行った。
      明治36年の土地整理以前に仕明地を大規模に持ち(2000坪余)、以後のウェーキになる
      基礎となる。 

 B羽地間切仲尾次村の松田家
   田、畑、山林  10町歩
   名子 男子25人、女子6人
   小作料だけで300俵

  C羽地間切源河村の島袋家
   田、畑、山林で約20町歩
   牛6頭 馬5頭
   小作料 700俵、その他に自家生産で330俵

 ※島袋家は仕明地(約2000坪)がウェーキになる基礎にあったとみられる。明治36年の土地整理
   以前にすでに仕明地を大規模に確保。


【分離した田井等村と親川村】

 1750年頃、田井等村を分離して親川村が創設された。村が分離した痕跡がどう残っているのか。地図上では田井等と親川の区分は明確にできるが、現場での小字の境界線の見分けは困難である。親川村創設の時、田井等村の集落の中心部分を分けている。田井等村の中心となる田井等(テーヤ)と親川村の親川(ウェーガー)は隣接してあることから、旧田井等村の中心部となる集落を二分したと見られる。それと田井等村にあった番所やグスクや神アサギの位置している場所は親川村地内となる。そのために羽地番所を親川番所、羽地グスクを親川グスクと呼ばれるようになるのは、そのためである。

・田井等の小字(黄色部分)

 仲間/里又/田井等/井ガヤ/福地/小堀/サデマシク/山田/大川/
 タガラ/又喜納/シブチャ又

・親川の小字(茶色部分)

 親川/前田/真嘉又/魚小堀原/イパザフ/上増/碑文前/竹ノ口/多幸田/次我真/
 大川/カジラ又/ウヅル又



     ▲田井等と親川の小字