羽地間切の番所は親川村に位置する。『琉球国旧記』(1731年)の駅(番所)は平良(田井等)邑、『御当国御高並諸上納里積記』の「国中併諸離里積之事」でも同様田井等村とある。田井等村から親川村が分離しない前のものである。親川村の創設ははっきりしないが、18世紀中頃とみられる。
番所の位置は変わらず、番所のあった場所が田井等村の一部を分割して親川村を創設したと見られる。番所があった場所が親川村に組み入れられたため、羽地間切番所は親川番所と呼ばれることもある。
『琉球国由来記』(1713年)を見ると、親川村はまだ創設されていない。羽地間切の惣地頭が関わるのは中尾巫火神(中尾村)、中尾村神アシアゲ、池城里主所火神(田井等村)、同神アシアゲ(田井等村)、池城神アシアゲ(田井等村)である。中(仲)尾・田井等・谷田村は仲尾ノロ管轄の村である。
羽地間切内のノロが集まっての祭祀がある。それは海神祭折目のときである。今帰仁間切では今帰仁グスクに今帰仁間切のノロ全員が集まる祭祀がない(1666年の伊野波(本部)間切分割以前はあった可能性はある)。羽地間切は同村名がないことと、村の分割、そして仲尾ノロ管轄の村などのことを含めて考える必要がある。
池城神アシアゲは羽地(親川)グスク内の神アサギと池城里主所火神は羽地間切惣地頭職と関わる神アサギと見てよさそうである。因みに羽地朝秀が按司地頭職、池城親方が親方地頭職である。『琉球藩雑記』(家禄・官禄)によると、羽地按司は家禄150石(物成)、領地羽地間切作得、池城親方は家禄80石(物成)、領地羽地間切作得27石である。
『琉球国旧記』(1713年)の羽地間切番所(駅)は、
羽地駅(平良邑)
『御当国御高並諸上納里積記』の「国中併諸離里積之事」は、
【羽地間切】御城より田井等村番所迄十六里五合七勺五才
番所より本部迄三里九合一勺七才
同所より今帰仁迄二里七合二勺二才
同所より大宜味迄三里五合八勺三才
同所より恩納迄六里八合五尺六才
同所より久志迄二里六合九才
とある。
▲番所跡近くにある親川(羽地)グスク ▲『由来記』でいう池城神アシアゲか
▲『由来記』でいう池城里主所火神? ▲中央部の丘が親川(羽地)番所跡