2.北山・中山・南山の鼎立から琉球王国統一へ
さて、グスクであるが地名として残っているグスク、御嶽、集落跡地、城壁のあるグスクなど性格が多岐に渡る。各地の小規模のグスクが次第にまとまりをなしていく。さらに中堅規模、そして沖縄本島が三つの勢力にまとまっていく。これは「沖縄の歴史」で三山鼎立時代と言う。北山・中山・南山という国を形成し、三山が中国(明国)と交易をした時代がある。琉球のグスクの発達は、カムイ焼きの須恵器や中国の陶磁器類などの外からの品々、さらに周辺の国々の国情が大きな影響を及ぼしている。
1416年に北山、1429年に南山が中山に滅ぼされ、琉球は中山を中心とした統一国家が形成された。中山の拠点となった浦添グスクは牧港(首里城は那覇港)、今帰仁グスクは運天港と良港を抱え、海を介して文物が移入された。三山統一後、首里王府が抱えた那覇港に三重城や屋良座森城など海外を視野に入れた特殊なグスクや天使館(冊封使が滞在中に使った中国様式の館)などが出来た。
その中で北山(沖縄本島北部)の拠点となったのが今帰仁グスクである。出土した遺物から海外との幅広い交流を眺めることができる。北山の時代は12世紀あたりからスタートする。明国との交易のスタートは中山王の察度が1372年で、その後1380年に南山王の承察度、さらに1383年に山北王の怕尼芝が始めた。三山が統一される1429年までに琉球を統一した中山が約69回、南山が約29回、そして北山が1416年まで約18回を数える。
北山王は怕尼芝・珉・攀安知と続き、『明実録』に怕尼芝が6回、珉が1回、攀安知が11回の交易回数を確認できる。その時の朝貢品は琉球側から主に馬と硫黄である。『同史料』によると明国からは鍍金銀印や暦、絹織物、衣服類、銅銭、陶磁器、船などを賜わっている。
3.今帰仁城跡から発掘された遺物に海を介した文化の流れが
今帰仁城跡から発掘した遺物は、中国製の磁器で青磁や白磁などの碗・皿・杯・香炉・壺・水注・瓶が目立つ。黒釉陶磁・褐釉陶器・三彩・備前焼(擂鉢)・タイ陶器・ベトナム陶磁・中国の貨銭などがある。また、沖縄ではほとんど産出しない鉄は大和からの移入と思われる。鉄製品は刀子・鏃・鋏・釣り針・釘などがある。その他にヒスイの勾玉など、外来の品々がある。今帰仁グスクが明国と交易していた時代、今帰仁グスクは地元にある運天港も使っていたに違いない。1471年の『海東諸国紀』に「要津運見(天)港」とあり、運天港は重要な港として機能していたことが伺える。
▲今帰仁城跡から出土
した中国製など陶磁器
このようにグスクが活発に機能していた時代、その動きの原動力となったのが海外との交易であった。外来の物と同時に文化の移入も数多くあったであろう。その痕跡を示す史料の一つに、時代は下るが首里王府発給の辞令書がある。公式文書である辞令書はひらがなで表記する一方、年号は(万暦35=1605年)中国年号を明治の初期まで用いた。表記は日本、年号は中国と、その使い分けは東シナ海に浮かぶ島国、海を介した琉球の立場を象徴しているかのようである。
また、16世紀初頭琉球国は各地に住む按司(豪族)達を首里に集居させ中央集権国家を形成する。同時に聞得大君を頂点とする祭祀の制度化を行う。聞得大君などノロが祭祀の時に使うヒスイやメノウなどの勾玉がある。