具志川(現うるま市) トップヘ
・具志川グスク
2006年11月20日(月)
「中頭方間切番所と主村と祭祀」をテーマに各間切と番所が置かれていた主村の一つ具志川間切(うるま市)の確認をしてきた。その中で未調査の間切があり、その一つ具志川間切具志川村(現在うるま市)までゆく。具志川(ムラ)村は、具志川グスクと切り離すことはできないであろう。具志川の集落は具志川グスク付近から現在地に移動してきたという伝承がある。
「正保国絵図」で具志川間切とあり、「琉球国高究帳」では具志川村は「くし川村」と表記されている。首里城から具志川間切の番所のある同村までの距離は「五里三合五勺六才」である。具志川間切同村への宿道は、以下の通りである。
首里城⇔西原間切⇔宜野湾間切⇔中城間切⇔具志川間切⇔勝連間切⇔与那城間切
『琉球国由来記』(1713年)には、具志川村の御嶽や祭祀が記されている。
・宮森(神名:イシノ御イベ) 具志川村
・城嶽(神名:アフノ御イベ) 具志川村
・スカタ嶽(神名:マネヅカサノ御イベ) 具志川村
・具志川巫火神 具志川村
・グスク嶽之殿 具志川村
麦稲四祭・麦稲四祭の前の晩に巫・根神・掟之アム・根人、惣地頭などから賄いなどの御馳走
が提供される。
『琉球国旧記』(1731年)によると、具志川駅(番所)は具志川邑(村)に置かれていた。明治14年具志川間切を訪れた上杉県令は具志川間切番所について、
具志川番所に達す。門東北に向ひ、福木松樹を交へ植え、渺々たる蒼海に対す。正面平安座、
高離、伊計の三島に臨む
と記してある。間切番所は、平安座などの島々が臨める場所にあったことがわかる。明治15年に間切番所の一角にあった旧検者や下知役の詰所に具志川小学校を創設したという。具志川間切役場(番所)は明治43年に平良川に移転している。その後・・・。
明治43年まで具志川間切の番所があった具志川村が行政の中心となっていた。「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治17年頃)の具志川村には、ノロ・根神・根人が一人づついて、ノロ殿内火神、大御嶽、宮森の御嶽、具志川古城の四ヶ所の拝所があり『琉球国由来記』(1713年)の頃とそう変わるものではない。番所が明治43年まで具志川村から移ることがなかったので、惣地頭の作得は具志川間切から、惣地頭と祭祀(具志川村)との関わりは廃止されるまで変化はなかったのであろう。
▲うるま市(具志川)具志川グスク跡