国頭村宜名真                                トップヘ



2005.02.19(土)メモ

 何故か意を決して宜名真について記そうとしている。多分、伊是名島との関わりで宜名真御殿内(ギナマウドゥン)は避けて通れない場所に気づいたからに違いない。それと宜名真御殿をこれまでの尚円が伊是名島から妻と船で宜名真に逃げ延びた。ここでも受け入れられず、さらに首里に上った。宜名真御殿が今に保存されのこっている。それは首里王府の山原(特に国頭一帯)の統治の一端ではないか。そう見ると興味深い姿が見えてくる。

国頭村を宜名真ゆく】(メモ)

 国頭村宜名真をゆく。明治7年のイギリス船の座礁やオランダ墓(英人墓)、英国船のバラスト、戻り道やカヤウチバンタ(茅打崖)については触れたように思う。ここで知りたいのは国頭村宜名真の人たちの気質である。「宜名真頑固」と言われているが、その頑固さは山原の人たちの頑固さとは異なる。首里文化や士族の気位をもって頑と山原的なものへ同化しない、それと明治政府の政策に抵抗している様子がチョコチョコ伺える。

 第二尚王統の始祖と言われている尚円(1415年生)が、伊是名島の諸見は勿論のこと、ここ国頭村宜名真の宜名真御殿で延々と崇めたてられ、現在につながっていることの見通しがついたからかもしれない(書き進めていくとひっくり返るかも。ダメかも。それが面白い)。

 『球陽』などの記事をみてみると、尚穆王が国頭間切(郡)の宜名真に竈神が祭られていて、間切の人民が尊敬をしているが公の祭りではない。国頭按司正方は公の祭りにして旧跡をりっぱにしようと願い出た。毛昌徳に命じて瓦葺の殿をつくらせ、村人をから選んで看守させ、夫役は免除して赤八巻(親雲上)を賜った。

 現在の宜名真に宜名真権現の宜名真神社などいくつかの拝所がある。その一つは泊大比屋の火神の祠ではないか。建物の後方には地頭火神の碑もある。少し、拝所の確認も必要。

 宜名真の村(ムラ)の成立と関わるが『琉球国由来記』に宜名真村がないこと、そして宜名真御殿が神アシアゲのように古く痛んでいる様子が記されている。宜名真に集落(集落は村(ムラ)ではない)があったことが知れる。建物が神アサギのようになっているとはあるが、神アサギがあったわけではない。それらからすると1700年代に宜名真にヤードゥイ的な集落はあるが、行政村としての存立は明治41年になってからである。

【宜名真の小字】(14)
 ・長根原 ・比良儀原 ・西平 ・小間原 ・座喜屋原 ・富盛原 ・伊田喜原 ・大久保原 ・兼久原 
 ・後山原 ・当間原 ・石山原 ・長目間原 ・吉波原

 東恩納寛惇氏は『南島風土記』で宜名真は「辺戸の南一里余、もとの宜名真村にして、今は字辺戸の小字となる」とあるが、「宜名真はもと辺戸村のヤードゥイ集落であったが明治41年に字辺戸から分立する。さらに昭和14(1939)年に、完全な行政区として字宜名真となる」とした方がいい。

 宜名真は首里・那覇の寄留人で構成されている。泊比屋の役人の派遣もあるが、尚円王の旧跡を整備し、火竈を設置したことと宜名真が寄留人で占めることと大いに関係ありそうだ。


 尚円王(金丸按司末續王仁子)の年譜(『球陽』より)と宜名真に関する記事を他の資料から拾ってみる。

   ・宣徳9(1434)年 金丸20歳、弟宣威5歳
   ・正統3(1438)年 金丸24歳 伊是名の田を棄て妻と弟を引き連れ国頭へ。
              (与那覇岳のインツキ屋取に隠れ、奥間村の鍛冶屋の世話になった由)
              (宜名真の草庵は卯辰に坐して酉戌に向き、長さ10丈5尺、広さ6尺)  
   ・正統6(1441)年 金丸27歳のとき妻と弟を連れて首里へいく。
               尚思達王のとき家来の赤頭となる。(数年勤める)
   ・景泰3(1452)年 尚金福王のとき38歳黄冠(親雲上)の位を賜る。
   ・景泰5(1454)年 内間領主(地頭)になる。
   ・天順3(1459)年 45歳のとき御物御鎖側官となる。
   ・康煕52(1713)年 『琉球国由来記』の旧跡に、以下のようにある。
               辺戸村ヨリ半里行程、宜名真ト云所ニ、御殿屋敷アリ。中畑壹畝余。
                     (名寄帳ニ、ギナマ原)是
               尚円王、恩践祚以前ノ、御屋敷タルベキ由、申伝也。御屋敷ノ向、酉戌
               ノ方。長二拾壹尋、横十二尋。内ニ、長三尋一尺、横ニ尋半ノ家アリ。今
               神アシアゲノゴトク、古ミ破ケレバ、作替也。(泊ノヲヒヤ屋敷ノ間、十間
               程。泊ヲヒヤ屋敷、今ハ津口番所ニテ、泊ノ大比屋、相詰也)  
   
   ・乾隆46(1781)年 往昔、先王尚円未ダ践祚せざる時、国頭郡宜名真地にあり。尊ぶ所の
               竈神、今に至つて遺跡猶ほ存す。郡を挙つて人民、尊敬をなすと雖ども、
               然も公祭にあらず。所以に質朴雅とらず。馬承基前国頭按司正方は、公
               祭を行つて旧跡を光さんことを禀請す。此れに因り毛昌徳(禰覇親雲上盛
               寿)に命して其殿を製造せしめ、瓦を以て之れを蓋す。村人一人を択選し
               て立て、看守すとなす。その夫役を免じて赤八巻位を賜ふ(『球陽』)。
   ・乾隆48(1783)年 嗣後三十二年冬十月、主上内院より(尚穆王)その遺跡を拝謁す(『球
               陽』)。
   ・           『琉球国惣絵図』(間切成集図)に「宜名真之御殿内」とあり、建物が描か
              れいる。
   ・明治14(1800)年 「該村人煙稠密、漁業亦多シ、鱶五十斤内外ノモノヲ釣リ得ルト云フ、
               因テ漁具ヲ一覧セラル」とあり、地割に預からなかった寄留人の生活が
               しれる。
   ・明治41(1908)年 宜名真は辺戸村から分立する(土地の分離は未)。
   ・昭和14(1939)年 字宜名真から行政区として完全に独立し、字宜名真となる。


      

    ▲カヤウチバンタからみた宜名真集落   ▲宜名真集落の後方の山は辺戸の安須森


    ▲鳥居の後方の建物が宜名真権現         ▲宜名真権現の内部の様子