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羽地地域(羽地間切)

・我部祖我ムラ・シマ講座  ・我部祖河区年中諸御願日記


     21期 第5回 「山原のムラ・シマ講座」開催(終了)     
              名護市(旧羽地村)我部祖河
                             (平成251019日 土)

名護市の我部祖河です。我部祖河みていく場合、まず羽地間切(村:ソン)の一つの村(現在は区、アザ)であったことを頭に入れておく必要があります。現在の名護市は羽地村(間切)と名護町(間切)と久志村(間切)、戦後屋我地村、屋部村が創設されます。昭和45年(1970)に名護町、屋部村、羽地村、屋我地村、久志村が合併し名護市となります。合併して40年余になりますが、歴史・文化を見て行く場合は、長い間切時代に蓄積されてきた歴史や文化が今に根強く引継がれています。名護市になって40年余たった現在、大きく、あるいは急激に変貌しつつある我部祖河の地から羽地間切域の一村から、その面影を拾っていきましょう。

 昭和50年代、くまなく踏査した経験があります。理解しにくい、あるいはできなかった地域との記憶があります。先日下見で行ったのですが、やはり難しい地域(ムラ)でした。よく解らないことは、ムラを見る視点を変える必要がありそうだ。それは我部祖河のムラ・シマと異なった形態をなしているのでしょう。

 大きく変貌したのは、一帯が水田地帯だったことです。また蔡温が大浦川を改修した頃、一帯は湿地帯で川の氾濫がたびたびあった所です。川筋の付け替えや湿地地帯の開拓が行われています。羽地間切の三大ウェーキ(源河・河部祖河・□?)の一人が河部祖河村にいました。我部祖河は民俗学者の宮城真治先生が多くの資料をのこされたムラです。

これまでの視点では説明できなかった河部祖河をどう理解していけばいいのか、その視点を見つけることができそうです。どんなムラでしょうか。おもしろそう!(出発前の説明を聴かないとチンプンカンプンかも)

  開催日 平成25年10月19日(土)
         今帰仁村歴史文化センター(講堂)に9:00集合
     9:20   名護市我部祖河のレクチャー
     9:40   名護市我部祖河へ出発(マイクロバス)
     10:10    @我部祖河川〜金川(ハニガー)流域(羽地田圃地域)
           A我部祖河のウタキ(上バーリ御嶽・ナカムイ)
           Bアサギ跡?高倉?の礎石/ウタキのイベ/左縄
           C合祀されたお宮と舞台(
           Dホ □□□原の印部石
           E高倉のある家(県指定)(ナカジョー)
           Fサニサギドゥクルの祠
           G我部祖河ウェーキ(上間家)
           Hメーガージョウフェー(古我知集落から嵐山方面)
           I寒水泉(ソージガー)
      13:00  歴史文化センター(解散)

 
  ▲我部祖河のウタキ(上バーリ御嶽・ナカムイ)  ▲アサギ跡の礎石      

 
▲高倉のある家(県指定)(仲門:ナカジョー)▲仲門(ナカジョウ)の屋敷の石垣と福木

 
 ▲ウタキの中のイベの祠と左縄     ▲ウタキ内にあるお宮へ合祀された旧家の火神

2013年10月19日(土)

 今年度5回目の「ムラ・シマ講座」は名護市我部祖河でした。おつかれさんでした!

 
     ▲河部祖河のウタキ内で         ▲メーガージョウヘーへ

【ノロへの納税】(のろかない)
 ノロへの納税(のろかない)は稲・粟・麦の外に豆かないもあったという。例えば、旧暦3月の麦の大祭の時、村の神アサギでノロに捧げた。麦の大祭はノロへの納税である(宮城真治)という。『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁間切の例をみると、
  ・今帰仁ノロへ今帰仁村と親泊村から麦一斗六合、志慶真村から麦三升。 
  ・中城ノロへ兼次村から麦二升、崎山村から麦二升、中城村から麦二升。
  ・玉城ノロへ玉城村から麦二升、平敷村から麦三升、謝名村から麦五升六合、仲宗根村から麦二升。
  ・岸本ノロへ?岸本村から麦一升、寒水村から麦八合。
  ・勢理客ノロへ勢理客村から麦二升、上運天村から麦四升、運天村から麦一升五合、麦一丸き(束)
  ・郡(古宇利)ノロへ郡村から麦四丸き(束)。

 このように見て来ると、祭祀で備えられる米や麦や粟などは、ノロや神人達への「みかない(貢)」、納税とみることができる。ノロは、それとは別に田や畑などの土地(役地)が与えられている。
 
【島せんこのろこもい(勢理客ノロ)】
  ・田    2542坪67      田叶高   4石78723
  ・畑   6333坪86      畑叶高   8石61299
  ・原野  1711坪78      原野叶高 0石66399       計14石0421(役地坪入帳 明治32年)

 「琉球藩各間切夫地頭以下役俸人別取調帳」(明治12年8月調査)
   ・今帰仁のろ    米3石41455     雑石 3石41455
   ・中城のろ      米1石86222     雑石 5石18320
   ・玉城のろ      米0石46488     雑石 2石23648
   ・岸本のろ      米0石33872     雑石 0石80357
   ・勢理客のろ    米1石35074     雑石 4石173
   ・古宇利のろ    米なし        雑石 8石26152

 上の数字の比較や実態を論ずることはできないが、宮城真治は「のろは明治33年の土地整理実施以前に於いては、名実共に部落を支配する実力を備えていた」とされる。また、のろは「王府の役職であって、王府から相当に優遇されていた」と評されている。


2013年10月23日(水)

 「我部祖河区年中諸御願日記」(昭和20年代)がある。戦後すぐの記録であるが、戦前から踏襲しているものと思われる。書きだしの所に以下のようにある(羽地落穂集:旧羽地間切地方文書集成、法政大学沖縄文化研究所)。戦後になって廃止した祭祀もあり、中止するにあたって神人が決めるのではなく区役員や戸主会で決めている。下にあげた神行事は、区の公の祭祀であることを示している。我部祖河には戦後16の神行事がある。

 この資料は、戦前の祭祀の様子がしれ、戦後すぐいくつかの神行事の廃止、それと供え物、拝む場所などがしれ、祭祀の流れをしることができる。戦後60年余りたった現在、祭祀も生き物であり、その変貌をたどることのできる資料でもある。

 「昭和20年四月七日(1945年)米軍上陸、反軍の遊撃戦に依り、保管帳簿全部焼失され、戦後二カ年間は神念を中止するの外なく、昭和22年講和なると共に、生を得たるは神の賜と信念の念を再起し、人民合議の上、旧慣例の諸願祭祀を挙行す。昔より永年保存したる帳焼失のため、各自の覚を記録し、後日の資料にす」とある。

 そこに旧羽地間切(村)我部祖河の祭祀が綴られている。それを掲げてみる(数量など、略したところが
  ありますのでご注意!)


@三月三日(ハンカ)
 区役員煮て行う。供え物:花米、酒、豚肉、吸い物とお重
 御重の白肉をハンカ門、川の端小の角の十文字路、ぶり蔵の上十字路で悪疫駆除
 前川門森にて酒二合、米二合
 イビの前 御通し
 御願所の神の前にて人民の安寧を祈る
   (1953年12月30日付で止めることにする。花米、線香、サネ清掃は区役員で行う)

A四月の畔払
 三神吉日に行う。花米、酒、豚肉、豆腐(テンプラ)、昆布、醤油、線香
 神人の他に虫払夫一人を選定
 中村渠屋森(古我知との境)、渡地(名護との境)、トールの上(伊差川境)、クモイギャ辻(振慶名境)
 ナミ崎(我部境)の五ヶ所にて御願をし、通り道より悪虫をとり、アダン葉の舟を作り、この虫をのせ、
 潮の干す時を待ってへ流す

B五月稲穂祭(旧5月15日)(三神)
 米、酒、豚肉、豆腐、昆布、醤油、線香
 井戸の清掃、上バーリ井戸(水なし)、地頭河(アサギの下)、寒水河の二ヶ所

C六月山留御願(ヒチュマ)(三神吉日に行う)
 米、酒、神酒、豚肉、豆腐、昆布、醤油、線香

D六月御祭折目(ウプマチ)
 三神(旧6月25日)、花米、酒、御飯、汁、豚肉、豆腐、昆布、醤油、線香

E六月二十五日
 七神、花米、酒、神酒米、豚肉、豆腐、昆布、醤油、線香
   (キップ打ち夫賃)

F六月二十六日
 七神、花米、酒、神酒、米、ノロ、掟神へ呈上、米、豚肉、豆腐、昆布、醤油、□品の内より
 七寸重一次、スク屋の火神と神棚へ神酒提供、スク屋は自分拝み、線香、キップ打ち二人。

G七月海神祭(ウンギャミ)(中止)
 花米、酒、線香、魚ドーシ、飯用米。但し魚ドーシは掟神、仲尾尾アサギ出発前に差し上げ、
 乗馬一匹共準備(1953年12月30日の戸主会にて中止する事とする)

H八月童神酒(旧八月八日)
、三神、花米九合、酒二合、線香、神酒米三升分(六月徴収せし花米より使用)、豚肉、昆布、豆腐、
 醤油(但し、上バーリ掃除に花米、酒、ワラザネ、39円)

I八月十日
 七神、花米、酒、線香、豚肉、昆布、醤油、豆腐など

J九月御願
 区役員にて、花米、酒、線香、餅(オチャノ子)、魚小、素麺、醤油吸物用、但し、夫地頭火神へ供す事

K九月種籾御願(ミャダニ)(1953年60月30日付戸主会にて中止することとする)
 三神、花米、酒、線香、肉、豆腐、昆布、醤油

L十月竈廻御嶽
 七神(中止)、花米、酒、線香、豚肉、豆腐、昆布、醤油

M十一月芋種御願(ウンネー)
 七神(吉日に行う)、芋神酒用芋、豚肉、昆布、豆腐、醤油、但し芋は各戸より生芋二つづつ徴収。

N十一月風器(フウキ)祝儀
 区役員、七寸重、酒、但し金細工屋宅にて

O十一月大御願
 神酒用米、花米、御嶽の掃除、立御願、花米、酒 但し、各戸より縄五尋づつ徴収、イビの前
 掃除夫、女一、御嶽の縄引男二(1964年部落常会に於いて神人に対し、各戸より御弁当を差し
 あげるようにされた)

 外に臨時に祈願の必要ある時はその都度協議議決に依り挙行す

  
   ▲三神の火神       ▲ワラの一束と線香    ▲三神、掟火神が祭られているお宮

2013年10月25日(金)

 12月7日に「戦後の山原の生業や祭祀の変貌」をテーマとして講演をする予定。そのこともあって、名護市我部祖河の祭祀の様子をうかがいに我部祖河公民館へ(区長上間光成氏)。一年間の「御願表」と「我部祖河区年中諸御願日記」の原本を拝見することができた。「我部祖河区年中諸御願日記」は二日前に『羽地落穂集』(小川徹先生)から紹介したばかりである。上間氏と書記さんから、現在の神行事の様子を伺う。それと「我部祖河区年中諸御願日記」の原本に出会えたのは幸運であった。戦後60年の祭祀の変貌を具体的な事例として紹介できそう。

  
                    ▲「年中諸願日記」の一部

 
 ▲河部祖河区の現在の「御願表」    ▲旧家の一つスクヤーの祠    ▲スクヤーの古い位牌

※仲松ノート(我部祖河)
  ・サニサギ(サンサギ)
    サン(ワラザン)を松の幹に廻してさげたという。
    ナーハ(屋号、中のこと)の東傍らの丘
  ・ハンカジョウ(カンカ場のこと)
    豚・牛をほふる/北に向って拝す/北風はマジムンの乗ってくる悪風という。
    人を死なさないで、□類に代って貰うという。