3.第一監守時代(1417~1469年)


・北山監守(尚忠・具志頭王子)

・山北(北山)王と百按司墓


 百按司墓については、詳細な説明が必要である。墓所が10もあるので、どの墓所のことか特定して論ずる必要がある。昭和4年「琉球の旅」をした金関丈夫氏が山原の百按司墓について詳細な記録をしているので、各墓所別に整理する必要がある。金関氏は1月8日に県庁の車で山原へきている。その日の午後には運天の百按司墓に到着し、同日第四号洞(第三墓所)から数個の頭蓋を運びだしている。1月14日に再び山原へ。名護で昼食後、名護小学校の校長をしていた島袋源一郎を訪ね、島袋も運天の百按司墓まで同行している。金関氏は百按司墓を西側(向かって左側)から第一号~第十号洞まで番号を付している。『琉球民俗誌』(金関丈夫著)から洞順に各洞の記事を整理してみる。昭和4年当時の墓内の様子の復元作業でもある。(下の画像は平成19年9月29日現在の様子である。)

第1号洞
 ・入り口に木造の梁柱及び障板を遺してある(板門)。
 ・板門の前に山原竹で編んだ綱代(チニブ)の壁が残る。
 ・木造の切妻屋形をした唐櫃様の棺が4個あり。(多くは大破し、不規則に置かれている)
 ・棺の内外に人骨の破片が散乱している。
 ・人骨は外見古くかつ重い。色は蒼寂び、質は硬いが表面は風化している。


 

第2号洞
 ・入り口に木造の梁柱及び障板を遺してある(板門)。(ほぼ完全)
    (第3号洞の西上方にあり、足場がなく精査できず)



第3号洞
 ・入り口に木造の梁柱及び障板を遺してある(板門)。ほぼ(完全)
▲・ジモン博士の第九図、十図は第二号洞か三号洞


 

第4号洞(第三墓所)
 ・前面に石墻を作り漆喰で固めてある。
 ・石墻の内部に山原竹を編んだ網代(チニブ)の壁が一部残る。
 ・下に砂礫が敷いてある。
 ・七尺の石墻あり。
 ・木造屋形■の屋根(屋根形の建物)
 ・完全骨が累々とある。一見はなはだ質がよい。

▲・菊池の絵では六脚であるが、そこは四脚である。東西北の三壁は板を張り巡らしてある。
    (菊池氏の絵は第6号洞である)
 ・正面の中央部に入口がある。木■の長さは七尺五寸、幅五尺、高さ五尺五寸、入口の高さニ尺六寸、
  幅ニ尺。
 ・内部に多数の木棺の破片が散乱し、無数の人骨が堆積している。

▲・木棺の元の配置を保っているのは七個であるらしい。
▲・木棺の一~五まで同じ形式、切妻屋形で材料は細微である。大きさのやや小(一尺七寸×一尺三寸)
  表面赤漆、あるいは黒漆、唐草などの模様がある。腐食はなはだしく人骨も木■中最悪である。
 ・六号棺と七号棺は材料が強固で塗料なく形も大(二尺三寸×一尺五寸)、第一号洞の木棺と酷似し
 ている。
 ・中に納めた人骨もやや良質である。


 (※第4号洞と第6号洞と錯綜している部分があり、▲は確認をして整理しなおすことに)

 

第5号洞(第二墓所)
 ・前面に石墻を作り漆喰で固めてある。
 ・石墻の内部に山原竹を編んだ網代(チニブ)の壁が一部残る。
 ・下に砂礫が敷いてある。内部は白砂をみるのみ。

 

第6号洞(第一墓所)
 ・前面に石墻を作り漆喰で固めてある。
 ・石墻の内部が広い。全洞中第一である。
 ・木造屋根の形は残っているが柱は皆倒れている。木□がある。
 ・明治41年以降に倒壊したものか。
 ・菊池幽芳氏の『琉球と為朝』の口絵
 ・入母屋形の屋根をした唐櫃様木棺の破片がある。
 ・破片には黒漆、赤漆で唐草模様を描いたのがある。
 ・人骨は長骨破片等が散在している。
 ・菊池氏写生のもののような充満ぶりではない。その後に改葬か散逸したものであろう。
 ・同洞の奥上段の間に、辛うじて破損を免れた木棺が一個安置されている。
 ・「えさしきや」の文字確認できない。
 ・洞の奥壁になお一小洞あり。入口は石で塞がれている。

 
   ▲百按司(ムムジャナ)墓(右が第6号洞)      ▲百按司墓の木棺にあった巴紋

 

第7号洞
 ・入り口に木造の梁柱及び障板を僅かながら遺している(板門)。その跡を示す梁がある。
 ・入口は積み石で漆喰は用いていない。
 ・入口狭く上に一本の木梁を横たえて板門の名残がある。
 ・内部に人骨の破片散乱している。
 ・骨質は第1号洞のものと似ている。


 

第8号洞

 ・入口は積み石で漆喰は用いていない。
 ・入口狭く上に一本の木梁を横たえて板門の名残がある。
 ・内部に人骨の破片散乱している。
 ・骨質は第1号洞のものと似ている。

 

第9号洞
  ・入り口に木造の梁柱及び障板を遺してある(板門)。
 ・板門破れて内部がみれる。
 ・石棺・陶棺・甕棺が充満している。
 ・その空所には、長骨が重ねて美しく並べている。
 ・甕棺の丸形の蓋の内面に雍正・道光の頃の年月日と付近の村名、人名が記されている。
 ・一壷に二体分入っているのもある。頭骨は常に上部に、足跡骨は底部に。
 ・石製屋形棺のあるものの底に長骨数個を平行に敷き並べ、その上に頭骨を二個、三個と規則正しく
  並べたのもある。
 ・本洞の人骨は形はほぼ完全に近いが、質は最も劣悪である。
 ・屋形棺は美しく数種類ある。
 ・石棺で四注形の屋根をし、極めて単純なものがある。洞中最も古形か。壁面や背面に蔓模様等
  の線刻のあるのもある。
 ・□尾(シャチホコ)のようなような形が面白く、奇獣を現したのもある。
 ・陶棺は装飾がすぐれ、通気窓を正面に施し、左右に仏像を浮彫りにしたのがある。
 ・甕棺はそれよりも新しく、様式は再び簡単になる。

 

第10号洞
 ・ほとんど洞とは名づけがたい岩屋である。
 ・人工の痕は僅かに底面の礫を敷いたものくらいである。
 ・礫の上に僅かな長骨が散乱している。