振慶名・田井等・親川           トップヘ



【振慶名・田井等・親川の三つのムラ・シマ】

 第2回目の「ムラ・シマ講座」は羽地地域(現名護市)の三つの字(アザ)です。字は振慶名と田井等と親川です。三つの村(ムラ)を掲げた理由は、以下の通りです。それを直に現場でつかんでもらうことです。山原のムラ・シマの歴史をたどることの面白さ。書かれたものを覆すような見え方。

 山原のムラ・シマを見ていると中・南部のムラ・シマとの見え方の違いや温度差。歴史のとらえ方の違いがよく見えて非常に面白い。一言で決めよう、あるいは掘ればそこに真理があるのではないかとの向き方ではなく、もっと自由で多くの事例をあげ、見つけて行く作業がこの講座であるとの方針で開講している。それは面白い。


【振慶名】(1690年頃以前は今帰仁間切の内、現湧川地内にあった)

 ・1690年頃「方切」で振慶名村は今帰仁間切から羽地間切となる(村の場所はそのまま)
 ・1736年に振慶名村(羽地間切の村)が羽地間切の田井等村地内移動(羽地大川沿い)
 ・羽地間切の中央部に移動させられた理由
 ・移動後のノロ管轄はどうなったのか?(他のノロ管轄のムラを飛び越えていくが)
 ・1736年に現在に移動したら何を設置したのか。設置しなければならない理由は?
 ・故地との関係は?

【田井等】

 ・田井等村は羽地間切の主村であるが、羽地村ではなく田井等村なのか? 
 ・羽地間切の番所があった村。
 ・1750年頃田井等村の一部を親川村を創設する。
 ・羽地番所と羽地グスクのあった場所は親川村地内となる。
 ・羽地間切の羽地の語義は?
 ・羽地大川の改修と村移動。
 ・羽地按司初入日記の踏査


【親川】

 ・1750年頃主に田井等村を分割して創設された村。
 ・その分割した村の形態は(神アサギ?ウタキは?)
 ・親川村地内に番所とグスクがある。そのため親川番所や親川グスクと呼ばれるようになる。
 ・分割する前の田井等村との関係は?
 ・親川グスクにある拝所は?

【明治17年頃の田井等・親川村のノロクムイ員数と拝所】(沖縄島諸祭神祝女類別表)
   勢頭神一人  伊勢頭神一人  屋トバラ神一人

   ●神アシアゲ二ヶ所 ●屋トバラ火ノ神一ヶ所 ●勢頭火ノ神一ヶ所 ●イシ頭火ノ神一ヶ所
   ▲ウシキン嶽一ヶ所
                        (●は現在確認できる拝所)



【下の画像は振慶名の現在の様子】


   ▲振慶名の集落の様子           ▲振慶名のウタキ


  ▲振慶名の神アサギと掟火神       ▲ウタキの中にあるイベ


  ▲振慶名のウペーフガー               ▲プンダガー

羽地按司御初入(1870年9月3日〜26日)(『地方役人関連資料』名護市史資料編5)

 ・1870年9月
  赤平仲尾親雲上(919歳まで御殿奉公)。檀那様が羽地間切にやってくる。
 ・93日  羽地按司をお迎えてのために93日に出発。
 ・96日  羽地按司出発日に首里に到着。
         台風のため出発を延期する。
 ・98日 首里を出発する。読谷山間切宇座村で一泊する。
 ・99日 恩納間切番所で一泊する。
 ・910日 名護間切番所で一泊する。
 ・911日 羽地間切番所に到着し真喜屋村で宿泊する。
 ・913日 按司一行は親川村にある御殿火神親川城勢頭神御河、御殿御川
                仲尾村のろ火神真喜屋のろ火神御嶽で御立願
 ・914日 按司一行は屋我地島へ渡って我部村のろ火神御嶽饒平名のろ火神いりの寺東の寺で御立願
      (お昼の休憩所は饒平名村我部祖河大屋子の家でとる。済井出村屋我村を巡検し真喜屋の宿舎に帰る)
 ・915日 羽地間切主催の歓迎の宴が行われた。
 ・916日 羽地按司からのお返しの御馳走の招待。
        真喜屋村の宿舎へ赤平仲尾親雲上が参上した。
    (招待者:間切役人(サバクリ・惣耕作当・惣山当・文子・御殿奉公した者・各村から下知人など)
          神人14人、勘定主取・80歳以上の老人達)

 ・917日以降
    羽地按司一行は羽地間切の以下の家に招かれる(以下の6家)。
    仲尾次村の下の松田仁屋(仲尾次ウェーキ)、上の仲尾親雲上
    伊差川村の古我知大屋子(伊差川古我地屋)
    川上村の現真喜屋掟(新島ウェーキ)
    源河村の現呉我村(源河ウェーキ)
    我部祖河村のこしの宮城仁屋(我部祖河ウェーキ)
 ・926日 羽地按司一行は帰途につく。
        赤平仲尾親雲上達は羽地大川の中流のタガラまで見送る。 

【分離した田井等村と親川村】

 1750年頃、田井等村を分離して親川村が創設された。村が分離した痕跡がどう残っているのか。地図上では田井等と親川の区分は明確にできるが、現場での小字の境界線の見分けは困難である。親川村創設の時、田井等村の集落の中心部分を分けている。田井等村の中心となる田井等(テーヤ)と親川村の親川(ウェーガー)は隣接してあることから、旧田井等村の中心部となる集落を二分したと見られる。それと田井等村にあっ番所やグスクや神アサギの位置している場所は親川村地内となる。そのために羽地番所を親川番所、羽地グスクを親川グスクと呼ばれるようになるのは、そのためである。

・田井等の小字(黄色部分)
 仲間/里又/田井等/井ガヤ/福地/小堀/サデマシク/山田/大川/
 タガラ/又喜納/シブチャ又

・親川の小字(茶色部分)
 親川/前田/真嘉又/魚小堀原/イパザフ/上増/碑文前/竹ノ口/多幸田/次我真/
 大川/カジラ又/ウヅル又


     ▲田井等と親川の小字


・移動村振慶名の小字
 振慶名/山川/佐田/山田/仲嵩/越真 

【確認事項】

 『琉球国由来記』(1713年)の羽地間切
 ・田井等村 オシキン嶽(神名:ササラモリノ御イベ)
 ・振慶名村 振慶名之嶽(神名:ナミアラサキノ御イベ)(村の位置は羽地間切であるが今の湧川地内) 
 ・池城里主所(火)神 田井等村(親川村が創設していない時期)
 ・神アシアゲ 田井等村(親川グスクにある神アサギか。親川村の創設で城のアサギは親川に譲ったか? 
   田井等村は新しく神アサギを村内に作ったか?)