バジル・ホールがみた運天港付近

トップへ(2013.4.7アップ

1816年に運天港(村)訪れたバジル・ホールの『朝鮮・琉球航海記』(岩波文庫)が、運天港をどうみたのか。これまで何度か引用(197〜198頁)してきたが、少し19世紀初期の運天港周辺の外国人がみた様子をたどってみた。1816年頃の運天の風景が、今の運天にどれだけ見つけ出すことができるか。そのいくつかを画像に収めてみた。

 この村は、これまで琉球で見たどの村よりも整然としていた。道路は整ってきれいに掃き清められ、どの家も、壁や戸口の前の目隠しの仕切りは、キビの茎を編んだこざっぱりとしたものであった。

 垣のなかには芭蕉や、その他の木々がびっしりと繁茂して、建物を日の光から完全にさえぎっていた。

 浜に面したところには数軒の大きな家があって、多くの人々が坐って書き物をしていたが、われわれが入っていくと、茶と菓子でもてなしてくれた上、これ以後、自由に村へ出入りすることさえ認めてくれたのである。

 この人々は、ライラ号が港に入るつもりがあるのかどうか、もし入港するなら、何日くらい滞在するのかを知りたがった。われわれはそれに対して、入港するつもりはない、と答えたのだが、だからといって喜びもしなければ残念がるわけでもなかった。

 村の正面に平行して30フィート(9m)の幅をもつすばらしい並木道があった。両側からさし出た木々の枝は重なりあって、歩行者をうまく日射しから守っている。・・・全長約4分の1マイル(400m)ほどのこの空間は、おそらく公共の遊歩場なのだろう。

 半円形をなす丘陵は、村を抱きかかえるとともに、その境界を示しているようであった。丘陵の大部分がけわしいが、とくに丘が港に落ち込む北端の岬では、80フィート(24m)のオーバーハングとなっている。崖の上部は、基部にくらべてきわだって広い。地面から急斜面を8〜10フィート(2、3m)上がった位置に、堅い岩をうたって水平に回廊が切り開かれ、壁にむかっていくつもの小さい四角い穴が深く掘り込んであった。ここに死者の骨を入れた壷を収めるのである。

 この断崖のふちからは木や蔓草が垂れ下り、下から生えている木々の梢とからみあって日除けを形づくり、回廊に深い陰影をなげかけている。・・・だがわれわれは突然、予想もしなかった死者たちの場所の神聖かつ陰惨な光景に行きあたってしまったのである。一行の陽気な気分は一瞬のうちにふきとんでしまった。この村は運天Oontingという名前である。・・・

 われわれが発見したこのすばらしい港は、海軍大臣メルヴィル子爵を記念して、メルヴィル港と名付けられることになった。


                   ▲海上から眺めた運天港付近

  
  ▲運天集落東側の崖下の墓           ▲集落東側の崖中腹の墓  

  
 ▲木や板で閉じられた墓      ▲崖中腹にある百按司墓     ▲崖の麓にある大北墓