大宜味村大宜味                  トップへ

・大宜味村役場  ・ウガミの香炉

【大宜味村大宜味】(2007年1月2日)

 今年のスタートは大宜味村字大宜味と国頭村字浜からである。大宜味間切の創設は1673年である。当初田港間切と呼ばれ、後に大宜味間切と改称される。間切番所(役場)は田港村→大宜味村(1682年?)→塩屋村(1760年以前?)→字大宜味(明治44年)へと移動している。

 『琉球国旧記』(1731年)の駅(番所)は大宜味邑とあり、その頃には田港村から大宜味村に移設されている。そこから塩屋村に移動した年代がまたはっきりしていない。田港と塩屋については以前報告したことがあるので、今回は字大宜味までいくことに。

 田港間切が創設されると摂政であった羽地朝秀(向象賢)と国頭殿内の屋嘉比親雲上朝茲に領地が与えられる。羽地朝秀が亡くなると羽地家は地頭職を取り上げられ北谷按司朝隆が1628年に按司地頭職を賜っている。その時に田港間切から大宜味間切に改称され、番所も田港村から大宜味村に移ったのではないかという(『大宜味村史』通史編38頁)。

 間切番所と首里に住む惣地頭との関わりを『琉球国由来記』(1713年)の年中祭祀に登場する惣地頭と主要村との関わりを見ていこうとするのは、以下のことがあるからである。


   「諸地頭は、更にまた御殿、殿内の入用な物資を間切kら徴発した。たとえば、盆・正月・祝
   い・不祝儀の度に、魚・野菜・猪・薪炭等、・・・地頭家の大きな権益の一つは何といっても
   領地の間切から奉公人を徴用し、家事一切に服させることであった」

   「首里奉公人は役俸はなく間切における夫役を免ぜられるだけであったが、奉公を終えると
   間切役人となる資格が与えられ、勤功によって将来地頭代となる道が開けた。従って間切
   の奉公人階層は先をきそって、子弟を首里奉公にあげ種々の手段を利用して両惣地頭家
   にとり入る事を常とした」
   「これらの奉公人は、御殿・殿内において将来間切役人として必要な読書・筆算を学び、社
   会的見聞を広めると同地に、首里・那覇の文物の地方農村への招来者の役目を果たした」
   (『大宜味村史』(通史編46頁)。



   ▲大宜味村字大宜味の集落             ▲現在の大宜味村役場の一部(大兼久)


   ▲大宜味の御嶽(ウガミ)の祠            ▲祠の中に9つの香炉がある

 大宜味の御嶽(ウタキ)に香炉が多く置かれているのは、大宜味村に番所が置かれていたのと無縁ではないだろう。香炉の年号が判読できず。

 
    ▲神アサギと根屋               ▲アギバーリの起点にある祠