東村有銘                           トップへ



【東村有銘(アルメ)】(2005年12月5)

 国頭三村の一つ東村をゆく。その日訪れたのは東村の@有銘(アルメ) A慶佐次(ゲサシ) B平良 C川田 D宮城 E高江までゆく。現在の1673年以前は名護間切の村々であった。1713年頃、平良と川田の二つの村(ムラ)は大宜味間切の村であった。そして久志間切(村:ソン)の村や字であったことがある。大正12年に久志村(ソン)から東村として分村した。そのよう行政の歴史的な変遷が、現在の東村にどう影響?を及ぼしているのか。東村地域の村々をムラの形態や歴史さらに海上交通との関わりで読み取っていくと、いくつか興味深い姿が見えてくる。

 名護市の源河から東海岸の有銘(アルメ)へ。有銘川の河口から遡るようにたどる。海岸沿いの浜集落、学校周辺のムラ集落。学校周辺の小規模ながらの集落は、ムラ人たちの古くからの生活の痕跡が伺える。学校の裏手の杜はウガンと呼ばれ御嶽だろうか。ウガンとは別にグシクダケがあり、有銘のウタキの所在を確認する必要がありそう(今回未確認)。

 ウガンの抱くかのように展開する小さな集落に、ウガン・神アサギ・カミヤー・二つの祠(左がヌルドゥンチ、右側がニガミドゥンチ)などがある。その前にはムラガーがある。かつての集落を構成する要素がコンパクトに配置されている。まずはそのような印象を持ったムラである。そのヌルドゥンチの神屋とは別に「のろくもい」(ノロ)の位牌が祭られた家がある。位牌には以下のように記されている。

        のろくもい
      道光六年丙戌六月
 帰 真    のろくもい歳六拾弐  霊 位
      同拾七年丁酉 三月六日 歳六拾四
          比嘉親雲上
      同拾九年
       巳亥 九月六日歳三拾五
         のろくもい

 有銘川を遡りながら、山原船はどこに停泊したのだろうか。有銘川の水量からすつと本集落あたりまで遡ってきたのではないか。その頃、川沿いは一帯は水田が広がっていたにちがいない。

 有銘川支流筋にイシダマタの集落がある。近年だろうか公民館(区事務所?)が移ってきている。昔ながらの集落形態を残している本集落は狭い空間のため、イシダマタやテラフあたりに新しい家々が建てられている。

 有銘川の上流部には山の斜面に数件の家がたち、かつての集落景観が僅かながら見ることができる。


      ▲有銘川の河口付近      ▲そのあたりまで山原船がきた・・・


    ▲学校の裏手にあるウガン       ▲ウガンの麓にある拝所


       ▲有銘の神アサギ         ▲「のろくもい」の位牌


 
▲イシダマタ集落入り口の老木          ▲フクチマタの集落