【羽地域の略年譜】
・1622年 「はねしまきり 大のろくもい」(仲尾のろ職補任辞令書)
・1625年 「はねしまきり 屋かのろくもひ」(屋我ノロ職補任辞令書)
・1652年 向象賢(羽地朝秀)、羽地間切の総地頭になる。
・1674年 大宜味間切創設、羽地間切の平南村と津波村を田港(大宜味)間切へ。
・1735年 蔡温の監督のもと大浦江(羽地大川)の大改修工事。
・1736年 呉我村・振慶名村・我部村・松田村・桃原村が羽地間切の内側へ
移動(方切)。湧川地内を今帰仁間切へ。
村移動からみえてくるもの。ノロ管轄の変更なし。
・1742年 羽地間切、元文検地を実施する。
・たこ川原/くすく原
・1744年 改決羽地川碑記建立する。
・親川村が田井等村から分かれる。番所は親川村地内となったために親川
番所や親川グスクとなる。
・1785年 「親見世日記」に「勘手納津口jで御米を積んで出航。
付近に惣地頭屋敷やバンジョイ。
・1816年 バジル・ホール一行、羽地内海(仲尾村一帯)を調査する。
「湾の先端にあるこの村は、浜辺との間の一列の樹木によって北風から守られ、背後は抱きかかえ
るような丘陵によって保護されている。浜辺との間に広い道が走り、家々の周囲に植えられた樹木
は鬱蒼と茂って、建物をおおい隠さんばかりである。墓地に近い村の中央には広場があって、すで
に述べた高床式の穀物倉の一群が建っている。壁は網代の編んだ藤でつくられ、ねずみ返しが設
けられていた」(『朝鮮・琉球j航海記』(1818年)
・1866年「支那冊封使来琉諸記」に、冊封使が琉球に来ているとき、島尻や中頭方の米の積み出しは浦添の牧湊まで陸j路で運び、馬濫船運天・勘手納へ運び、そこで御国船(大和船)でに積み込むことが記されている。勘手納港は、大和への仕上米を積み出す重要な港の役割を果たしていた。
「村の敷地が狭いので勘手納と東兼久に引っ越して家を造った。両兼久の竿入れをしたら、百姓持ち
の土地あので、村敷(屋敷)にしたいと願い出て認められた。この時期に、勘手納に7家族、東兼久に
4家族が引っ越してきたことがわかる(「羽地間切肝要日記」)。
・1853年 ペリーの探検隊が勘定納港から親川にくる。
・1879年 番所に首里警察署親川分署をおく。
・明治14年上杉県令は、国頭巡回の時、仲尾村勘手納港から船に乗っている。
「勘手納港ニ出ズ。官庫瓦ヲ以テ葺ケリ。役所詰員及ビ村吏ノ奉送スル者、皆別レヲ告グ」と
(『上杉県令日誌』)。