【平成25年7月7日】

 昭和63年発行された『名護市史―わがまち・わがむら―』を開いている。この本には、私の「沖縄研究の原点」があるからである。封印してきた本でもある。今回「やんばる学研究会」が羽地地域であったのと、その本の封を切る意味もあって両手をあげた。
 それとは別に、羽地地域を神アサギ・公民館・羽地域の御嶽とイベ、羽地域のノロドゥンチ、移動村、ムラ・シマ講座、羽地大川流域のムラなどの調査を進めてきた。

   (工事中)


 名護市(旧羽地間切)仲尾にある勘定納港。北山が中山の連合軍に滅ぼされた時、山原の国頭・名護・羽地・金武の按司達をはじめ中山の軍勢が終結した港だと伝えられている。そこに終結した軍勢が海路と陸路に分かれて今帰仁グスクを攻めたという。そのこともあって度々訪ねるのだが、その痕跡は未だ見つけ出すことができない。それは伝説なのかもしれないが、北山滅亡へ導いた港である。

 それとは別に近世の琉球国の四津口(那覇・湖辺底・運天・勘定納の四つの港)の一つであることに間違いない。これまで描いてきた津口(港)の常識を覆す港に違いないと考えている。そういう空想めいた発想を胸に秘めながらの「仲尾ゆき」であった。はたして・・・・・。

 仲尾は「羽地域の歴史」を描くのに欠かせない場所である。今帰仁間切の運天港は、北山の歴史と肩を並べる程、歴史的な出来事を提供する。今回まとめる勘手納港(仲尾)も「運天の歴史」と同様な歴史が描けるかどうか。


【羽地域の略年譜】

・1622年 「はねしまきり 大のろくもい」(仲尾のろ職補任辞令書)
・1625年 「はねしまきり 屋かのろくもひ」(屋我ノロ職補任辞令書)
・1652年 向象賢(羽地朝秀)、羽地間切の総地頭になる。
・1674年 大宜味間切創設、羽地間切の平南村と津波村を田港(大宜味)間切へ。
・1735年 蔡温の監督のもと大浦江(羽地大川)の大改修工事。
・1736年 呉我村・振慶名村・我部村・松田村・桃原村が羽地間切の内側へ
      移動(方切)。湧川地内を今帰仁間切へ。
      村移動からみえてくるもの。ノロ管轄の変更なし。

・1742年 羽地間切、元文検地を実施する。
      ・たこ川原/くすく原

・1744年 改決羽地川碑記建立する。

・親川村が田井等村から分かれる。番所は親川村地内となったために親川
 番所や親川グスクとなる。

・1785年 「親見世日記」に「勘手納津口jで御米を積んで出航。
      付近に惣地頭屋敷やバンジョイ。

・1816年 バジル・ホール一行、羽地内海(仲尾村一帯)を調査する。
 「湾の先端にあるこの村は、浜辺との間の一列の樹木によって北風から守られ、背後は抱きかかえ
  るような丘陵によって保護されている。浜辺との間に広い道が走り、家々の周囲に植えられた樹木
  は鬱蒼と茂って、建物をおおい隠さんばかりである。墓地に近い村の中央には広場があって、すで
  に述べた高床式の穀物倉の一群が建っている。壁は網代の編んだ藤でつくられ、ねずみ返しが設
  けられていた」(『朝鮮・琉球j航海記』(1818年)

・1866年「支那冊封使来琉諸記」に、冊封使が琉球に来ているとき、島尻や中頭方の米の積み出しは浦添の牧湊まで陸j路で運び、馬濫船運天・勘手納へ運び、そこで御国船(大和船)でに積み込むことが記されている。勘手納港は、大和への仕上米を積み出す重要な港の役割を果たしていた。

 ・1835年 仲尾村の集落が仲尾兼久へ移動する。

 「村の敷地が狭いので勘手納と東兼久に引っ越して家を造った。両兼久の竿入れをしたら、百姓持ち
 の土地あので、村敷(屋敷)にしたいと願い出て認められた。この時期に、勘手納に7家族、東兼久に
 4家族が引っ越してきたことがわかる(「羽地間切肝要日記」)。

・1853年 ペリーの探検隊が勘定納港から親川にくる。
・1879年 番所に首里警察署親川分署をおく。
・明治14年上杉県令は、国頭巡回の時、仲尾村勘手納港から船に乗っている。
  「勘手納港ニ出ズ。官庫瓦ヲ以テ葺ケリ。役所詰員及ビ村吏ノ奉送スル者、皆別レヲ告グ」と
   (『上杉県令日誌』)。



▲名護市仲尾(勘手納港)(『名護市史 わがまち・わがむら』)


▲今帰仁村運天(ムラウチ集落と港)















         羽地域のと調査記録

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