第5回 山原のムラ・シマ講座】 (平成291111日開催) 

                            
                 
 今帰仁村歴史文化センター館長 石野 祐子(公印略)


ムラ・シマ講座参加者のみなさん
                                      
        第24期 第6回「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ
 
 今回の「ムラ・シマ講座」は本部町嘉津宇です。嘉津宇は1719年に伊豆味の古嘉津宇から具志堅の地内に移動した村です。具志堅村の一部となり、昭和22年に分離し現在の嘉津宇となります。移動する前の故地は伊豆味に古嘉津宇として残っています。1719年の村移動の理由は、旱魃で税を納めることが出来ず、王府に願いでて移転が許されています。

具志堅の地に移転するが、税が免除されるのではなく移転地にウタキを置き、祭祀を行う必要があった。祭祀は農耕暦で行われ、祭祀は「神遊び」(休息日)で王府が決めた公休日ですので積極的に取り入れています。嘉津宇村は『琉球国由来記』(1713年)には故地でのことが記され、天底ノロの管轄でした。

 明治13年の嘉津宇村の戸数は51戸、人口は252名(男139、女113)の小さい村でした。世帯数は変わらないが人口は激減している。昭和60年は49戸、160名でした。小規模の移動村でありながら、御嶽や神アサギや祭祀をしっかりと継承している。御嶽や神アサギの設置や祭祀を行う理由、行わなければならない理由が何かです。御嶽に入いたり、牛馬を踏み入れると咎めを受ける(ヤマサレル)との取り決めがありました(間切内法)。
 
 嘉津宇のタキ(御嶽)のイベは故地の反対に向けて設けてります。ただし、イベに向って祈った後は、振り返って故地に向って祈りをしています。移動した村は、必ずしも故地に向けて御嶽(イベと集落の軸線)は設けていない(天底や振慶名など他の移動村でも)。どうも集落の高いところに御嶽を設ける習性(本質的に持っている)があるようです。

 ウドゥン(祠)の中にある七つの石は神人の数だという。今では神人はいないようですが、旧家の関係者が神行事を行っているようです。昭和30年代には神人達が祭祀を行っています(写真)。
  
 ☆ 11月11日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合

   ↓ 出席の確認
   ↓ 嘉津宇の概要の説明
   ↓ 嘉津宇の集落が見える場所(故地の古嘉津宇との地形の比較) 
   ↓ 嘉津宇の公民舘
   ↓ 嘉津宇ウタキ/神アサギ/トゥン
   ↓ 旧家の一つの屋敷
   ↓ 旧家の一つのユレーヤー
   ↓ 歴史文化センター(12:30 解散予定)

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▲昭和30年頃の公民舘とドゥンでのウガンの様子         ▲ユレーヤーの刺繍された衣装