寡黙庵琉球・沖縄の地域史調査研究 (管理人:仲原)   

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2020年6月 ・2020年1月



国頭村安田のシニグと辞令書
  ・(山原のノロドゥンチ参照 本部町公民館
加計呂麻島1  加計呂麻島2
沖永良部島の和泊のムラ  知名町のムラ 2003年4月伊平屋島
写真に見る今帰仁 ⑧  ・2008年祭祀調査 ・今帰仁のろ墓2
オナジャラ墓  ・土帝君(浜元)

北山・琉球・薩摩から沖永良部島】 「地域博物館が果たす役割」
本部町崎本部の墓調査
羽地の語義】 【羽地地域のムラ・シマ
徳之島と琉球】 久米島を大学の講座
第一監守時代】  羽地域のムラ・シマ


2023年2月27日(月)

 先週、沖之永良部島に往く前に書き始めていたメモがある。

道の島の琉球的ものの禁止と残存情況

沖永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』の以下のことが気になる。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったかもしれない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易に絶ちきることができなかったようだ。

・1609年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、沖永良部島は薩摩の直轄となる。
・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)を
  琉球から請けることを禁する。(寛永十九年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖
  視するようになる。(亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球へのぼり国王に
  謁して辞令を貰っていたという) 

・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服階品を琉球から受けるのを厳禁する。
・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。

 城(グスク)のつく地名と「世之主」、そこあたりは北山の時代(歴史)とつながる話である。それとノロ殿内の遺品とシニグ祭は三山統一後の琉球の歴史とつながる。薩摩の琉球侵攻以後、与論島以北は薩摩化されていく。その過程でノロやヒャ(百)やシニグや墓、土地制度が変貌していく。それでも北山の時代の痕跡、琉球国(三山統一後)の痕跡を北山の香り、琉球国のものがどのように残っているのか、その確認の調査・研究である。それが、史実なのかには踏み込まない。沖永良部島に遺る琉球的(歴史・おもろ・墓・地名・言語・ノ委ロ関係遺品・シニグ・神アサギ・地名・風景など)など、北山の時代と琉球国、1609年以前の古琉球の時代のものが600年経った今にどう伝えられているか、その一部を紹介するにすぎないが、今後の調査研究の課題でもある。


 沖永良部島と琉球国との歴史を見ていく場合、沖永良部島と繋がる歴史と史料を準備する必要がある沖永良部島で北山王の三男や「世の主」、那覇の世など、各時代と沖永良部島の歴史を見てみたい。沖縄三山(北山・中山・南山)の時代、北山の怕尼芝・珉・攀安知の時代、三山統一後の中山と沖永良部島さらに三山統一後の中山と沖永良部島の時代(那覇の世)を史料と対峙させながらみていく。

 ハニジの出現は、中北山の時代の興亡があり、滅び怕尼芝が登場する。怕尼芝の出自は不明だが、怕尼芝はパニジやハニジと発音する羽地按司(世の主)ではないかという。仲北山が滅ぶと羽地出身の怕尼芝が北山王となり、その次男真松王子弟の真松千代だという。「沖永良部島世の主御由緒」386頁 

この時代は、「世の主」の時代で北山の三王(怕尼芝・珉・攀安知)で「明実録」の同時代史料をよみとる  その次の時代は、三山統一後の時代である。梵鐘に「琉球国王大世主」とあり「おほよぬし」とよむという。足利将軍が琉球国王への「りゅうきゅう国のよのぬしへ」の文書が五点あげてある。
 ①  応永廿一年(1414年)
 ② 永享八年(1436年)
 ③ 永享十一年(1439年)
 ④ 大永七年(1527年)
の文書(史料)から、沖永良部島に伝わる伝承を歴史的な流れにつげないか。 

「おもろ」に「はにし」や「はにち」や古琉球の辞令書に「はにし」があり、怕尼芝の出身地を地名に表しているとみられる。

 三山統一後の時代は、第一尚氏時代(1429年)から第二監守時代と沖永良部島を史料で見ていく作業である。中山の尚徳王成化二年(1466 年)喜界島遠征、大島討伐が尚清王嘉靖十六年(1537年)、尚清王嘉靖年間、尚元王尚元王(隆慶五年(1571年)が認められる。この時代の史料に大島遠征ではないが「首里王之印」の辞令書が三十点ある。与論島と沖永良部島では辞令書の確認はされていないが、嘉靖八年十二月廿九日(1529年)笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書(かさりまきり ・うすく 大やこ)が古く、新しいのが萬暦三十七年二月十一日(1609年)名瀬間切の西の里主職補任辞令書(なせまきり ・にし ・さとぬし ・あさ・おきて)がある。十六世紀初め頃「三十三君」(祭祀の制度化)が置かれ、永良部阿応理恵の遺品(昭和□年)確認されているので、おもろにのろ、三十のろとあり、のろ辞令の発給があり、沖永良部島ののろの辞令があったとみられる。

  ・1265年大島始めて琉球英祖に入貢
  ・永祖7年(1266年)酋長を大島に派遣し統治
  ・琉球の王の尚徳の喜界島遠征
  ・大島七間切、喜界五間切
 ・1229年(舜天三三)英祖生まれる。
 ・1243年(舜馬順煕元)長崎の渡宋者一行、琉球に漂着。
 ・1260年(英祖元)英祖即位
 ・1261年(英祖二)英祖、各地を巡り田地の境界をただす。極楽山に墓を築く。(浦添ようどれ)
 ・1264年(英祖五年)久米・慶良間・伊平屋の各島初めて中山に入貢。
 ・1265年頃、僧禅鑑浦添に極楽寺を建立。
 ・1266年(英祖七年)大島諸島。中山に入貢、その頃泊に公館(泊御殿)と公倉築造る。
 ・1291年(英祖三二年)世祖(フビライ汗)瑠求を討つが失敗。
 ・1585年(尚永十三年)紋船(天龍寺桃庵、安谷屋宗春)薩摩を経て大阪に着く。
 ・1588年(尚永十六年)豊臣秀吉、島津を介して琉球を招論する。
 ・1590年(尚寧二年)宮古の上国船、朝鮮に漂着救助される。

 以下「金石文」の平仮名表記と「おもろ」表記

   (工事中)

2023年2月26日(

 沖永良部島に行くと必ずと島の集落を踏査している。島にいく度に発見があるからである。今回はシニグの痕跡と集落の位置、古琉球の頃から住みつづけた集落ではないか。それと琉球的墓と薩摩統治下で変わる葬法、それでも遺された琉球型墓、琉球的なものの禁止、それでも島の人々の体に遺されたもの。それら琉球的なものは、古琉球の時代のものではないか。そんな琉球的なものの姿を手探りしているものである。それと足が地についた説明をしたいからである。

世之主の誕生 とシニグ(以下の伝承がシニグの本質をついているのでは?)

屋子母沖まで来ると陣痛を起こし、やむなく島尻泊に船をつけ陸路田皆字までたどり着いた。そして田皆字のミイグスクの家をたずね、クヮーナシャ(産所)に借りようと申し立てたら、「アラマチ(祝神様にその年の麦の初穂をささげて祭る儀式)フーマチ(稲の初穂を祝神様に供える儀式)がすんでいないから貸すことはできない。」と断られた。その年に志仁久年(シニグ)であり、島全体は不浄を忌みきらい慎む年であった。やむなくニシミのナントヌチの家までたどり着いた。そしてまたクヮーナシヤを借してくれることを申し入れたがここでも、アラマチ・フーマチをしてないからと断られた。

 いたし方なくチグニョウサ(棕櫚蓑)を借りてかぶり小雨の中をチジュガニの山にはいったが、この山は神高くてお産ができず、ニューマ屋敷に行ってやっとお産をすませた。小雨の降る中で玉のような男の子が生れたが、産声が大きすぎたので付添いの者が赤子の口を手で塞ぐほどであった。ハンギョゴーの水がきれいだとのことでその清水で産湯を使い、カユをたかせて力を付け、休むひまもなく赤子を抱いて沖野家に行き、事の次第を話して家に入れることを願ったら長兄が特に厳しく、「たびちゅう(他所者)の子であろう、王様の子じゃあるまい。たびちゅうの子を産んだ者は家へ入れることは相ならぬ。」と勘当されてしまった。

【知名町】
 知名町の村々にシニグが行われてい痕跡が遺っている。沖縄本島北部にシニグが遺っているが、『琉球国由来記』(1713年)以前のシニグの形が与論や沖永良部島に遺っているのではないか? 沖縄本島ではシニグと海神祭とウプユミが統合された形で遺っている。与論と沖永良部島ではシニグの部分形で明治まで行われていたのではと。

シニグに関する情報は『鹿児島県の地名』(平凡社)より
①知名村

②屋子母村
 シニグド―には立石があり旗をたてたという。

 

③大津勘村


④徳時村
⑤瀬利覚村
 


⑥黒貫村
⑦芦清良村
 

⑧下平川村


⑨上平川村
 シニグ祭のとき、大山から降りてくるノロをマチシニグで迎え、ヒョウシニグドーでシニグ遊びをしたという。


⑩屋者村
 世の主の四天王の一人ヤジャマサバルが住んだという横穴式の墓がある。一帯に14、5世紀の青磁器片が散在している。墓室前には大和式の墓塔がいくつもある。

⑪余多村

⑫赤嶺村


⑬久志検村


⑭上城村

 

⑯下城村

⑰田皆村
⑱馬鹿村(正名)

⑲島尻村(住吉)
 1609年の島津軍の琉球侵攻のとき、戦わずして降伏したため「馬鹿尻」名づけられたという。シニグ祭には
男性がシニグ山で山籠りをし、翌字下山しシニグドーで住民とシニグ遊びをした。(明治4年全シマで廃止)。シニグド―は明治5年に溜池にしたという。


▲現在の住吉の貯水池





2023年2月25日(

 急遽時間ができたので、昨年のコースの逆回り。それとは別に沖永良部島の船頭のいた村の港へ。(工事中)

【親見瀬日記】(乾隆四年:1739年)『琉球關係史料集成』第一巻親見世日記日本語訳より

正月二十三日

・沖永良部島船頭は屋子母村の中島(船倉がある村)
・沖永良部島船頭は知名村の阿加連
・沖永良部島船頭は芦清良村の新沢
 
 上の出港検査のため、御横目の上別府栄右衛藤門殿、御附衆の山下正九郎殿、
 大和横目の備瀬筑登之親雲上、筆者の儀間筑登之、問役の嘉手刈筑登之が立ち
 会い、船改めを行った。

二月十八日
 沖永良部島船頭は瀬利覚村の上保
  上の入港検査のため、御横目の玉利喜左衛門殿、御附衆の橋口源之進殿、大和
  横目の大城筑登之親雲上、筆者の知念筑登之親雲上、問役の嘉手刈筑登之、足軽
  の横内腕兵衛が立ち会い、船改めを行った。

 
▲知名町知名子母海岸      ▲知名町勢理客河岸


沖永良部島参照(そのコ―スは昨年も辿っている)

 シニグが行われていたシニグドーがどれだけ確認できるか拾ってみた(沖永良部島のみ)。
①西原村 シニグドー(集落内)シニグ祭の時神酒を造る篭石のウヮーマが祭られている。
②出花村 シニグド―に篭石ウヮーマ、ウミリ祭
③畦布村 シニグド― ヌルバンドー、数基のトゥ―ル墓あり、一基本に「貞享三年寅八月九日
       奉加修補忌代々為先祖也孝孫敬白 和之掟大工松細工牛川間」(1675年)とある。
④根折村
⑤玉城村 フバドー
⑥内城村 世之主の居城あり。
       永良部 立つ あす達 大ぐすく げらへて げらへ遺り 思ひ子の 御為 又 離れ立つ
       あす達 大ぐすく

⑦大城村 川内百が世の主に築城の場所を指したという。
       大城間切があった頃、中心になった村か。

     シニグ祭のとき間切役人の与人が城跡周辺に夜籠りして祭祀を行っていた。

⑧皆川村 シニグドー
      世の主が巡回の時、馬を下りて休憩したところがシニグドー
      シニグ祭の時、大城・久志検・喜美留の三間切の与人が白装束で与人旗・衆多旗・百姓旗  
      持った騎馬隊が集結したという。
 

⑨古里村 与和の浜あり。
      永良部世の主の選でおつある 御駄群れ 御駄群 世の主ぢよ 待ち居る 又 
      離れ世の主の 金鞍 掛けて 与和泊 降れて
      世の主の家来が自害(中寿神社)

⑩瀬名村   おかみ山あり。内喜名港、山原との交易
⑪永嶺村 ニャ―トゥ墓あり。

⑫後欄村 グラルマグハチの居城跡がある。「おもろさうし」に 「永良部まこはちが 
       玉のきやく崇べて ひといいよは すかま内に 走りやせ 又 離れまこはち 
       玉の」と謡われている。
  クラルマグハチが積み上げたるグスク 永良部三十ノロの遊び所」とある。
  城(グスク)内にマグハチの墓がある。近くにノロ墓があるという(私は未確認)


2023年2月24日(

 昨日まで沖永良部島へ。冬場の島へは初めてかも。目的は町誌の編集員会と分担の原稿打合せ、その合間を島めぐり。

 無意識であったが和泊町の喜美留へ。「世乃主かなし由緒書」に登場する名刀のこと。北山伝承の北野菜切」と類似した刀の話。シニグドー(金毘羅神社一帯?)(そこは昨年案内いただいていた)へ。トゥールチヂやヒャーヤなど気になりながら畦布へ。



 畦布二は大和城や殿地(為朝上陸屋敷)、トゥール墓へ。へ。森家のノロ関係遺品とシニグ旗を見せていただいたことがある。今回は留守だったので近くのヌルバント―前で農機具を修理している年配の方に石垣の四角のコンクリートについて伺うと「説明板だよ」と。向かいのヌルバンドーについて伺うと、「それは力」とのこと。
 


 トゥールに石碑(1686年)があり、「貞享三年寅八月九日 加修補忘屋代々為先祖也 子孫敬白 和之掟 大工松細工牛川間」とある。トゥール墓は貞享三年(1686年)に修復したことが刻銘させている。そこでヒントをもらう。そこから他のトゥール墓を見直してみた。(以降、工事中)

 


2023年2月19日(

 原稿を最終まとめができずに沖永良部島へ。「親見世日記」から・・・。時間切れ!
宿でまとめることができるか。今回は島めぐりはできそうにないな。23日までお休みです。


道の島の琉球的ものの禁止と残存情況

沖永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』の以下のことが気になる。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったかもしれない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易く絶ちきることができなかったようだ。

・1609年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、沖永良部島は薩摩の直轄となる。
・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)を
  琉球から請けることを禁する。(寛永十九年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖
  視するようになる。(亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球へのぼり国王に
  謁して辞令を貰っていたという) 

・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服階品を琉球から受けるのを厳禁する。
・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。

 城(グスク)のつく地名と「世之主」、そこあたりは北山の時代(歴史)とつながる話である。それとノロ殿内の遺品とシニグ祭は三山統一後の琉球の歴史とつながる。薩摩の琉球侵攻以後、与論島以北は薩摩化されていく。その過程でノロやヒャ(百)やシニグや墓、土地制度が変貌していく。それでも北山の時代の痕跡、琉球国(三山統一後)の痕跡を北山の香り、琉球国のものがどのように残っているのか、その確認の調査・研究である。それが、史実なのかには踏み込まない。沖永良部島に遺る琉球的(歴史・おもろ・墓・地名・言語・ノ委ロ関係遺品・シニグ・神アサギ・地名・風景など)など、北山の時代と琉球国、1609年以前の古琉球の時代のものが600年経った今にどう伝えられているか、その一部を紹介するにすぎないが、今後の調査研究の課題でもある。


 沖永良部島と琉球国との歴史を見ていく場合、沖永良部島と繋がる歴史と史料を準備する必要がある沖永良部島で北山王の三男や「世の主」、那覇の世など、各時代と沖永良部島の歴史を見てみたい。沖縄三山(北山・中山・南山)の時代、北山の怕尼芝・珉・攀安知の時代、三山統一後の中山と沖永良部島さらに三山統一後の中山と沖永良部島の時代(那覇の世)を史料と対峙させながらみていく。

 ハニジの出現は、中北山の時代の興亡があり、滅び怕尼芝が登場する。怕尼芝の出自は不明だが、怕尼芝はパニジやハニジと発音する羽地按司(世の主)ではないかという。仲北山が滅ぶと羽地出身の怕尼芝が北山王となり、その次男真松王子弟の真松千代だという。「沖永良部島世の主御由緒」386頁 

この時代は、「世の主」の時代で北山の三王(怕尼芝・珉・攀安知)で「明実録」の同時代史料をよみとる  その次の時代は、三山統一後の時代である。梵鐘に「琉球国王大世主」とあり「おほよぬし」とよむという。足利将軍が琉球国王への「りゅうきゅう国のよのぬしへ」の文書が五点あげてある。
 ①  応永廿一年(1414年)
 ② 永享八年(1436年)
 ③ 永享十一年(1439年)
 ④ 大永七年(1527年)
の文書(史料)から、沖永良部島に伝わる伝承を歴史的な流れにつげないか。 

「おもろ」に「はにし」や「はにち」や古琉球の辞令書に「はにし」があり、怕尼芝の出身地を地名に表しているとみられる。

 三山統一後の時代は、第一尚氏時代(1429年)から第二監守時代と沖永良部島を史料で見ていく作業である。中山の尚徳王成化二年(1466 年)喜界島遠征、大島討伐が尚清王嘉靖十六年(1537年)、尚清王嘉靖年間、尚元王尚元王(隆慶五年(1571年)が認められる。この時代の史料に大島遠征ではないが「首里王之印」の辞令書が三十点ある。与論島と沖永良部島では辞令書の確認はされていないが、嘉靖八年十二月廿九日(1529年)笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書(かさりまきり ・うすく 大やこ)が古く、新しいのが萬暦三十七年二月十一日(1609年)名瀬間切の西の里主職補任辞令書(なせまきり ・にし ・さとぬし ・あさ・おきて)がある。十六世紀初め頃「三十三君」(祭祀の制度化)が置かれ、永良部阿応理恵の遺品(昭和□年)確認されているので、おもろにのろ、三十のろとあり、のろ辞令の発給があり、沖永良部島ののろの辞令があったとみられる。

 
 ・1265年大島始めて琉球英祖に入貢
  ・永祖7年(1266年)酋長を大島に派遣し統治
  ・琉球の王の尚徳の喜界島遠征
  ・大島七間切、喜界五間切
 ・1229年(舜天三三)英祖生まれる。
 ・1243年(舜馬順煕元)長崎の渡宋者一行、琉球に漂着。
 ・1260年(英祖元)英祖即位
 ・1261年(英祖二)英祖、各地を巡り田地の境界をただす。極楽山に墓を築く。(浦添ようどれ)
 ・1264年(英祖五年)久米・慶良間・伊平屋の各島初めて中山に入貢。
 ・1265年頃、僧禅鑑浦添に極楽寺を建立。
 ・1266年(英祖七年)大島諸島。中山に入貢、その頃泊に公館(泊御殿)と公倉築造る。
 ・1291年(英祖三二年)世祖(フビライ汗)瑠求を討つが失敗。
 ・1585年(尚永十三年)紋船(天龍寺桃庵、安谷屋宗春)薩摩を経て大阪に着く。
 ・1588年(尚永十六年)豊臣秀吉、島津を介して琉球を招論する。
 ・1590年(尚寧二年)宮古の上国船、朝鮮に漂着救助される。

 (工事中)


2023年2月18日(土)

 3月中旬に「恩納村の歴史の道」の講座を依頼されている。出張前に。

【『上杉県令巡回日誌』にみる恩納】『沖縄県史十一』(上杉県令日誌より)(恩納村史村史より打ち込み原稿提供)

 幸喜村→(海岸)→(喜瀬力)→(薪ヲ堆積)(松樹薈蔚)→村吏拝迎→瀬良垣村→(海岸二出)(山原船碇泊ス)→恩納岳斗出)→(恩納港)→恩納川ノ板橋ヲ渡ル→(村吏拝迎)→恩納番所)(名護ヨリ五里一合八勺二才)(門南少シ西二面シ)→石屏ヲ建ツ、庭中芝ヲ敷キ、其南ニ福樹傘ヲ張リタル如ク秀ツ、門外南東ニ迤ニシテ、老松路ヲ挾テ欝然タリ上ヨリ恩納ノ岳嶺ヲ露ス)(掛床二徐葆光ノ書、松月有餘鑿?)、(匾額ニハ、王文治ノ書)、(玉藍)(薯ハ上作ナ)(食料ヲ欠キ、蘇鉄ヲ用ヒタリ)(間切の貧困状況を詳細に聞く)→谷茶村

  二日晴朝、恩納番所ヲ発ス→(束竹)→万座毛ニ→(輿ヲ下リ、眺望ス)→(村吏拝迎ス)→海中ニ「ヨウノガン」島アリ→恩納寄留人ノ宿アツテ、此地水田多シ→奇礁大小駢並ス→海ヨリ岸ヲ趁フテ峙ツ、山原船二艘投錨セリ→谷茶村→谷茶川ノ板橋ヲ→(両辺ノ薯圃)→富着村→(山原船碇泊ス)(薯圃多シ、蘇鉄ヲ処々)→前兼久村→(村間福木陰森)→(読谷山岬ヲ望ム)→仲泊村→(仲泊坂ヲ攀チ登ル)(茅屋アリ)→山田村ノ宿→(思納岳二背ヒテ)、松林二入レハ(村吏拝迎ス)→真栄田村→長浜(長保ノ家二小休)→途ニ上リ、左転シテ行キ、村ヲ離ル、処、鍛冶ノ小屋アリ、人無シ→真栄田川ヲ渉ル、(左右二薯圃多ク、総テ鉄蕉ヲ種ルヲ見ル、山途ニ入ル、左辺岌嶫ノ山巓アリ、之ヲ問ヘハ、山田城ト云フ)、是ヨリ路平坦→恩納、読谷山、分界ノ処→(中頭役所長愛野趙一、村吏ヲ率ヒ奉迎)、(輿ヲ止メテ、小憩)→読谷山番所二達ス。


2023年2月16日(木)


 字誌のへ編集委員会は30回目。原稿の出校は終えている。グラビアと抜けた原稿が二、三あり。明日でわつぃの役目は終わり。次の原稿へ。その締め切りは20日まで。それが終えると「寡黙」に過ごせるかな?

 以下の画像はグラビアに。




2023年2月15日(水)

 大宜味村で二本の会議あり。大宜味村創設以前の国頭地方の歴史の素描。それと大宜味間切の猪垣の「落とし穴」を「付届」のことを念頭に入れて会議にのぞむ。

 ・大宜味村謝名城にある。
 ・根謝銘グスクはウイグスクと呼ばれる。
 ・標高
100の所に位置する。
 ・
1415世紀頃の筑城で大型のグスク
 ・丘陵頂上部に本部石灰岩で石塁をめぐらしてある。
 ・ウイグスク内に大グスク
(イベか)と中グスク(イベ?)がある。
 ・出土遺物(土器・カムィ焼・青磁・鉄釘・獣骨などが出土
 ・貝塚も確認されている。
 ・
1471年の海東諸国紀の「琉球国之図」に根謝銘(ウイ)グスクに「国頭城」とある。
     (国頭按司の居城か。
国頭城」は北山滅亡後の「監守」制度を示しているものか)
     (国頭間切の拠点は根謝銘
(ウイ)グスクとみられる。国頭按司はまだウイグスクに居城)
 ・
1522年(弘治11) 真珠湊碑文に「まかねたるくにかミの大ほやくもい」(国頭の大やくもい)とあり、そのころ首里居住か。
 ・
1624年(天啓4) 「本覚山碑文」に「国かみまさふろ」とあり、首里居住か。
 ・
1597年(万暦25) 浦添城前の碑に「くにかミの大やくもいま五良」とあり、その当時の国頭大くもいは首里に居住か。
 ・根謝銘
(ウイ)グスクは1500年代まで(各地の按司を首里へ集居)は国頭按司の居城地か。
     (
1673年まで国頭間切は大宜味間切を含む地域である。大宜味按司はまだなし
 ・国頭間切の安田里主所安堵辞令書(
1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切分割以前
     
(その頃国頭按司は首里に住む)
 ・国頭間切の安田
よんたもさ掟知行安堵辞令書(1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切分割以前
     
(その頃国頭按司は首里に住む)
 ・神アサギ/ウドゥンニーズ・トゥンチニーズ(御殿根所/殿内根所)/地頭火神/カー/堀切/アザナあり
 ・旧暦7月に海神祭が行われる。
 ・按司墓あり
 ・屋嘉比川の河口に屋嘉比港あり(オモロ)

 ・
絵図郷村帳1648年頃)に「国頭間切 ねざめ村・城村・はま村・屋かひ村」とある。
 ・
琉球国高究帳に「国頭間切 城村・屋嘉比村」とある。
 ・屋嘉比川の下流右岸に
国頭番所(浜村)が置かれた。後に奥間村へ。
 
1673年に国頭間切を分割して国頭間切と田港(大宜味)間切が創設される。
    田港間切の番所は田港村へ、後に大宜味村(旧記の頃)、さらに塩屋村、さらに大宜味へ移設。

 ・
1673年に屋嘉比村から見里村が分離したという。
 ・
1673年後に屋嘉比村から親田村が分離したという。
 ・根路銘
(ウイ)グスク内の地頭火神は国頭按司と国頭惣地頭火神と大宜味按司と大宜見親方の火神が重なっても
     問題なし。
   (国頭按司地頭クラスの石燈籠は国頭村比地・辺戸・奥にあるので、間切分割後の
国頭按司は国頭間切内へ)
 
1695年 屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移される。
 ・
1713琉球国由来記に、「大宜味間切 城村・根謝銘村」、「国頭間切 濱村・親田村・屋嘉比村・見里村」とある。
 
1719年国頭間切の村であった見里村・親田村・田嘉里村が大宜味間切へ。

    (
173695年の絵図には番所は塩屋村にあった:大宜味役場蔵?)
 ・
1732(雍正10) 国頭番所は浜村から奥間村へ移設。
 ・明治
36年に根謝銘村と城村と一名代村が合併し謝名城村となる。
 ・明治
36年に親田村と屋嘉比村と見里村が合併して田嘉里村となる。
 ・明治
41年に国頭間切は国頭村(ソン)、大宜味間切は大宜味村となる。これまでの村(ムラ)は字(アザ)となる。
 ・
1911年塩屋にあった役場を大宜味へ移転。

 やかびのろ家の遺品(大宜味村史調査)


2023年2月14(火)

 午後から二つの会議ある。協議事項の一つに「イノシシの落とし穴」の件がある。先日、恩納村の谷茶でイノシシの頭骨があり、恩納村の猪垣について頭をめぐらしたばかりであった。以前「山原の祭祀とイノシシ」をテーマ報告したことがある。そのとき、イノシシはお歳暮やお盆の時、「付届」の義務があったことを報告。シニグや海神祭でイノシシを捕獲する場面がある。「落とし穴」を文化財指定の理由の根拠の一つになればと。

【国頭間切公事帳】(断片)那覇市史琉球資料(上)

一 歳暮御(ささげ)猪之儀狩出来次第於番所ニ干(ごしらえ)格護仕置、はしかミ之儀前日より
   相調申候事
一 猪壱匹長三勺 但四枝手籠弐ツ入薑手
一 (はじかみ)弐手寵 但入実壱手寵ニ壱斗八升□匁め四拾斤
一 歳暮御捧物之内猪薑取納座ヨリ(みつぎ)次第聞大君御嶽殿江持参仕、取納奉行ニ而
  大規御取次差上御嶽規式相済候得者、さはくり併持夫迄御酒被下候事大宜味間切の
  首里王府(両惣地頭、地頭など)への付届(盆・歳暮)の品々付届の事

一問 文子以上後(役か)上リの時地頭代以下役々へ付届並に盆暮当役々へ付届の定例如何
   答 役々相互に付届ケスル事なし

一問 文子以上地頭代マテ役上リの時々両惣地頭其他へ  付届の定例如何
   答 地頭代以下役上リ時々付届の定例左の通リ

両惣地頭へ        地頭代例
 一 肴拾斤つ        一 焼酎弐合瓶一対つ

両惣地頭摘子元服次第 同人へ
  一 肴弐斤つ     一 焼酎壱合瓶壱対つ

両惣地頭惣聞へ     一 肴弐斤つ

下知役検者へ
  一 肴壱斤つ

両惣地頭へ       夫地頭捌理壱人例并百姓位取の節同
  一 肴七斤つ       一 焼酎弐合瓶壱対つ

右同嫡子元服次第同人へ
  一 肴弐斤つ

右同惣聞へ
  一 肴弐斤つ

下知役検者へ
   一 肴壱斤つ

掟壱人例並に百姓赤頭取リ節同 

両惣地頭へ
  一 肴五斤つ   一 焼酎弐合瓶壱対つ

右同嫡子元服次第同人へ
  一 肴弐斤つ   一 焼酎壱合瓶対つ

首里那覇両宿並下知役筆者へ 役上リ人数模合にテ
  一 肴五斤つ

下ごり方へ筵ちんしして
  一 銭五貫文

評定所公事持へ
  一 銭五貫文

両惣地頭へ        大文子壱人例〈但相付文子以下は例なし〉
  一 肴壱斤五合つ     一 焼酎壱合瓶壱対つ

右同嫡子元服次第同人へ
  一 肴壱斤五合つ   一 焼酎壱合瓶壱対つ

右同惣聞へ
  一 肴壱斤五合 

盆上物例

両惣地頭へ        間切より
  一 薪木拾束つ      一 明松三束つ
  一 白菜壱斤つ      一 角俣壱斤つ
  一 みみくり壱斤つ    一 辛子壱升つ
  一 玉子五拾甲つ 

脇地頭へ           村々より
  一 白菜半斤つ       一 角俣半斤つ
  一 みみくり半斤つ     一 辛子五合つ 

歳暮上物例

公義へ             間切より
  一 干猪肉拾八斤      一 □壱斗八升 

聞得大君殿へ         間切より
  一 干猪肉壱斤        一 □四斤四合五勺 

佐敷殿へ           間切より
  一 干猪肉壱斤       一 □四斤四合五勺

両惣地頭へ          間切より
  一 □壱斗弐升つ       一 代々九年母弐拾粒つ
  一 焼酎八合つ         一 猪し拾八斤つ
  一 銭弐百五拾文つ

右同嫡子嫡孫元服次第
  一 □弐升つ  一 肴五斤つ

脇地頭へ              村より
  一 □五升つ           一 焼酎弐合つ
  一 代々九年母七拾粒つ    一 肴七斤つ 

下知役検者並に首里宿へ     間切より
  一 □弐升つ               一 肴五斤つ

下知役検者詰所へ
  一 九年母五拾粒つ

筆者在番下知役筆者並に那覇宿へ
  一 □壱升つ  一 肴弐斤つ

地頭代へ
  一 □弐升  一 肴弐斤

捌理へ
  一 □壱升つ  一 肴弐斤つ

勘定主取へ
  一 □弐升

宰領人へ
  一 干塩肴五斤

 

2023年2月13(月)

2008年11月29日(土)記録

 「与論島と北山(琉球)」というテーマで報告(12月11日)。そのため、話の大枠を整理してみる。与論島を基点とした話ができるかどうか。まず、与論島には島外から来て住みついた集団がいくつかあるように思われる。それぞれの集団が島に住みつき故地の伝統や個性や習慣を伝え、それが混在しながら今に伝えているのではないか。どの一族が古いとか、北山から来た、源氏と関わる一族などの答えを見つけようとする発想が根強い。それも大事だが、複数の集団が異なった時代に島に移り住み、それぞれをの個性や伝統を頑固に保っているもの、あるいは大きく変貌しているなど、個々の習慣や個性などを見究めながら、与論島を見ていくことにする。「北山文化圏」という枠でくくる以前に、琉球国の枠でくくる必要がある。琉球国でくくることで、国頭郡に属しめるか、それとも伊是名・伊平屋島と同様島尻郡に属せしめるか。そこには・・・

 以下に掲げた系統の一族達が、今に何を伝えているのか。与論島の人々が北山に、中山に、あるいは薩摩や縄文や弥生の時代に先祖を想いはせるのは何故か。与論島から求められている答えは、「1611年以前は与論島から喜界島まで琉球国の領域であった」、そのことを踏まえると自ずと答えは出てくる。ただし、分断して400年という歴史を持っていることも動かしがたい事実である。島の方々はどの方向に持っていきたいのか・・・。

  ・三山の時代以前から島にいた人々(アマンチュ系)
  ・北山の時代に島にやってきた一族(北山系)
  ・三山統一後、首里王府から派遣された一族(中山系)
  ・1611年以降、薩摩役人などの系統(薩摩系)
  ・その他

 1266年瞬天王統の英祖の時代に沖縄周辺離島から貢納物の献上があり、奄美諸島も入貢したという。 
【三山鼎立時代】(北山は今帰仁?・怕尼芝・珉・攀安知)
 
   ・怕尼芝の素性は? 怕尼芝はハ二ジ、パ二ジと発音され羽地按司のことか?(検討が必要)
     ハ二ジはハニアジ(羽地按司、カネ按司では?)
    羽地の語義参照

 ・1383年に山北王怕尼芝が明国に入貢始まる。
 ・15世紀初頭 山北王怕尼芝の二男(王舅)が与論島に渡り与論の世の主となった(伝承)。
   (与論城を築いたという)
 ・1416年山北王攀安知が中山の尚巴志の連合軍に滅ぼされる。
 ・サービ・マトゥイ(北山系?)(伝承の人物)
 ・大道那太(ウフドゥナタ)(北山系?)(伝承の人物)

【三山統一後】(北山は監守時代)

 ・成化2年(1466)
   尚徳王鬼界島を征伐して帰り、呉姓一世宗重を泊地頭となし、其の妻を泊大阿母となす。
         (「呉姓家譜」 一世宗重)
 ・1512年尚真王の次男尚朝栄(大里王子)、花城真三郎が与論世之主(又吉按司)として
  与論島へ来てグスクを築いたという伝承(その墓あり)。

 ・1537年奄美大島を征伐する。(四代尚清)

 ・隆慶2年(1568)戊辰正月、自奥渡上の□理(サバクリ)に任ず。
   ※毛姓五世盛埋が奥渡上(薩南五島:喜界・奄美大島・徳之島・沖永良部・与論)の五島の政治を司る
      役人に任命される。
・1571年 奄美大島を討伐する。(五代尚元)

 ・万暦24年(1596)丙申 大島湾の首里大屋子を勤める。
   万暦三十年(1602)壬寅 大島より帰り、後西原間切我謝地頭職に任ず。
      (「藺(リン)姓家譜」一世篤當)(首里王府発給の辞令書があった可能性あり)

 ・1609年薩摩の琉球侵攻
 ・万暦39年(1611)に奄美大島・徳之島・喜界島・沖永良部島・与論島が薩摩に割譲される。

 与論島では確認されていないが、奄美には古琉球の辞令書が30近くある。これまで確認されている奄美関係の辞令書の古いのは嘉靖8年(1529)の「笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書」である。

 第二尚氏王統の1500年代から奄美へ首里王府から辞令書が発給されている。その時代の奄美の島々と琉球国との関係は、北山(監守:今帰仁按司:今帰仁グスク居)ではなく、首里王府直轄である。首里王府直轄であるが、与論島の全て一族が琉球から移り住んだというものではなかろう。

 与論島にノロに関わる辞令書は未確認である。他の島に見られる役人の辞令書も発給されてよさそうなものである。そのような辞令書の発給は首里王府と島々と直接統治されている関係にあったことが知れる。三山統一後の与論島は北山ではなく琉球国(首里王府)の直接支配である。もちろん、首里王府の役人の派遣、引き揚げた人物もいたが、そのまま島に残ったのもいたであろう。

 与論島にもノロ制度があったことを伺わしめる旧家の系図やオモロでも謳われている。辞令書を賜るノロは公儀ノロであり、首里王府が任命するのであるから王府の意向を伝達する役目も担っている。

鬼界(喜界)の東間切の阿田のろ職補任辞令書(隆慶3:1569年)(喜界島)

  しよりの御ミ事
     ききやのひかまきりの
     あてんのろは
       もとののろのおとと
     一人ゑくかたるか
          方へまいる
    隆慶三年正月五日

・屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(万暦11:1583年)

  しよりの御ミ事
     やけうちまきりの
     なからのろハ
      もとののろのめい
     一人つるに
     たまわり申候
  しよりよりつるか方へまいる
  万暦十一年正月廿七日

・名瀬間切の大熊のろ職補任辞令書(万暦15:1587年)(奄美大島)

  しよりの御ミ事
     なせまきりの
     たいくまのろハ
       もとののろのめい
     一人まくもに
     たまわり申候
   しよりよりまくもか方へまいる
  万暦十五年十月四日

・徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦28:1600年)(徳之島)

  しよりの御ミ事
     とくのにしめまきりの
     てゝのろハ
       もとののろのくわ
   一人まなへたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  万暦二十八年正月廿四日

・瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書(万暦30:1602年)(奄美大島)
 
  しよりの御ミ事
    せとうちにしまきりの
    こしのろハ
      もとののろのうなり
    一人まかるもいに
    たまわり申(候)
  しよりよりまかるものいか方へまいる
  万暦三十年九月十日

【与論島にのこる古琉球の姿】
 ・方言(言葉・地名)
 ・針突(ハヂチ)
 ・崖墓(風葬:葬制)
 ・シニグ
 ・グスク
 ・ノロ制度
 ・古琉球の役職
 ・古琉球の祭祀形態(一族別の祭祀)
 ・琉球芸能と大和芸能
 ・旧家の系図にみる琉球
 ・その他






2023年2月12(

 東恩納寛惇氏の『南島風土記』の百按司墓や戦前の首里城については島袋源一郎が送った資料をもとにまとめていることがわかる。島袋源一郎の顕彰碑の撰文が東恩納寛惇であることに納得。(各氏の略)
 源一郎の著作本や論文などは数多くあるが遺品は数少ない。源一郎の奥さん(昌子)から母(源一郎の妹)に託されたのが何点かある。山崎博士への手紙、東恩納寛惇からの調査以来の回答、仏像の頭。

 源一郎顕彰碑(今帰仁村兼次)を訪れた東恩納寛惇氏(昭和36年頃)。左側に向かって左側が源一郎夫人昌子夫人。

【島袋源一郎】について(工事中)

 どんな活動をしたのか、系統Jだてまとめたことはありませんが、数カ所の理事や役員をしていたことで多忙だったと聞いています。源一郎関係を急遽取り出してみました。

 具体的なことは、昭和10年~15年頃の「沖縄人名録」で確認してください。手元にないので確認ができませんが。 

その他に、学校現場でも勤務しています。

 博物館のみの業務をしていたわけではありません。その間に、
  ・『沖縄県国頭郡志』(大正7年)
  ・『沖縄善行美談』(昭和6
  ・『沖縄案内』(初版昭和7年)
  ・『伝説補遺沖縄歴史』(初版 昭和7年)
  ・『新版 沖縄案内』(昭和17年 改訂五版)

 出版物については10冊ほどだしています。また「沖縄教育」では論文を数多く発表しています。 

 博物館関係は東恩納寛惇へ調査記録(玉城朝薫の墓、護佐丸の墓のスケッチ)を送っています。東恩納文庫に入っています。東恩納寛惇の書物のグラビアにある百按司墓の木棺や石棺の写真は、首里城内の博物館での撮影です。それは首里城で数多くのノロ関係の品々で展示会を開いています。

 島袋源一郎がスケッチ(明治38年)「師範学校3年」の時のメモがあり。東恩納文庫所収。島袋源一郎への調査依頼文。昭和4年に「船絵」を送っている。

  ・明治18年(1885108日 国頭郡今帰仁村(間切)兼次村に生れる。
  ・明治36年(19034月 沖縄県師範学校入学
  ・明治40年(19073月 師範学校卒業 名護小学校訓導拝命
  ・謝花小学校訓導
  ・沖縄師範学校訓導
  ・安和小学校校長
  ・屋部小学校 校長
 
 ・謝花小学校 校長
  ・大正9年(19208月 沖縄県社会教育主事(初代主事)
  ・大正12年(19234月 島尻群視学任命
  ・大正13年(19244月 沖縄県視学任命
  ・昭和2年(19273月 国頭郡名護小学校 校長任命
  ・昭和2年(1927)  沖縄県教育会主事拝命 
     (整理中)
  
昭和10年版(沖縄人名録)には、
  沖縄県教育会附設 郷土博物館(後に首里城内) 主事 島袋源一郎
  沖縄県郷土協会  幹事長、教育会主事
  沖縄県昭和会館 幹事長 教育会 主事
  沖縄県空手道振興協会(昭和会館内) 宣伝部長 教育会主事
  沖縄観光協会 理事 教育会主事
  沖縄廃酒期成会 副会長 沖縄県教育会主事
  沖縄M・L・T 教育会主事
  沖縄県連合青年団 幹事


▲東恩納寛惇氏からの調査依頼の回答 ▲山崎正薫博士への愚息(哲夫)の診察紹介依頼の手紙

▲源一郎師範学校時代のスケッチ(寛惇氏へ)

国頭村辺戸の安須森(アスムイ)】(2004725日)メモ

 安須森はよく知られた御嶽(ウタキ)の一つである。安須森は『中山世鑑』に「国頭に辺戸の安須森、次に今鬼神のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ嶽、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々、森々を造った」とする森の一つである。国頭村辺戸にあり、沖縄本島最北端の辺戸にある森(御嶽)である。この御嶽は辺戸の村(ムラ)の御嶽とは性格を異にしている。琉球国(クニ)レベルの御嶽に村(ムラ)レベルの祭祀が被さった御嶽である。辺戸には集落と関わる御嶽が別にある。ただし『琉球国由来記』(1713年)頃にはレベルの異なる御嶽が混合した形で祭祀が行われている。

 『琉球国由来記』(1713年)で辺戸村に、三つの御嶽がある三カ所とも辺戸ノロの管轄である。
   ・シチャラ嶽  神名:スデル御イベ
   ・アフリ嶽    神名:カンナカナノ御イベ
   ・宜野久瀬嶽 神名:カネツ御イベ

 アフリ嶽と宜野久瀬嶽は祭祀の内容から国(クニ)レベルの御嶽で、シチャラ嶽は辺戸村の御嶽であるが大川との関わりでクニレベルの祭祀が被さった形となっている。クニとムラレベルの祭祀の重なりは今帰仁間切の今帰仁グスクやクボウヌ御嶽でも見られる。まだ、明快な史料を手にしていないが、三十三君の一人である今帰仁阿応理屋恵と深く関わっているのではないか。
 
 それは今帰仁阿応理屋恵は北山監守(今帰仁按司)一族の女官であり、山原全体の祭祀を司っていたのではないか。それが監守の首里への引き揚げ(1665年)で今帰仁阿応理屋恵も首里に住むことになる。そのためクニの祭祀を地元のノロが司るようになる。今帰仁阿応理屋恵が首里に居住の時期にまとめられたのが『琉球国由来記』(1713年)である。クニレベルの祭祀を村のノロがとり行っていることが『琉球国由来記』の記載に反映しているにちがいない(詳細は略)。

 アフリ嶽は君真物の出現やウランサン(冷傘)や新神(キミテズリ)の出現などがあり、飛脚をだして首里王府に伝え、迎え入れる王宮(首里城)の庭が会場となる。クニの行事として行われた。

 宜野久瀬嶽は毎年正月に首里から役人がきて、
    「首里天加那志美御前、百ガホウノ御為、御子、御スデモノノ御為、
    又島国の作物ノ為、唐・大和・島々浦々之、船往還、百ガホウノアル
    ヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也」

の祈りを行っている。王に百果報、産まれてくる子のご加護や島や国の五穀豊穣、船の航海安全などの祈願である。『琉球国由来記』の頃には辺戸ノロの祭祀場となっているが村レベルの御嶽とは性格を異にする御嶽としてとらえる必要がある。

 首里王府が辺戸の安須森(アフリ嶽・宜野久瀬嶽)を国の御嶽にしたのは、琉球国開闢にまつわる伝説にあるのであろう。
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    ▲辺戸岬から見た安須森                 ▲辺戸の集落から見た安須森


【辺戸のシチャラ嶽】

 『琉球国由来記』(1713年)ある辺戸村のシチャラ嶽は他の二つの御嶽が国レベルの御嶽に対して村(ムラ)の御嶽である。近くの大川が聞得大君御殿への水を汲む川である。シチャラ御嶽を通って大川にゆく。その近くにイビヌメーと見られる石燈籠や奉寄進の香炉がいくつかあり、五月と十二月の大川の水汲みのとき供えものを捧げて祭祀を行っている。辺戸ノロの崇所で村御嶽の性格と王府の祭祀が重なって行われている。(市チャラは

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  ▲辺戸村の御嶽(シチャラ嶽)遠望              ▲御嶽のイビヌメーだとみられる

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   ▲御嶽の頂上部にあるイベ            ▲辺戸の集落の後方に御嶽がある 


【国頭村辺戸】(2005624日)メモ

 沖縄本島の最北端の国頭村の辺戸と奥の集落までゆく。「山原を見るキーワード」を探し求めて。もう一つは与論島に渡る予定が日程があわずゆくことができなかったため、辺戸の安須杜(アスムイ)から与論島と沖永良部島を見ることに。昨日は青空があり、何度か方降り(カタブイ)。こっちは大雨、あっちは青空状態。与論島と山原をテーマにしていたが与論島に行けず。それで与論島が見える安須杜から。

 空の様子をうかがいながら、まずは辺戸岬から安須杜を眺め、目的より頂上まで登れるかどうか、体力が心配。息ハーハー、膝がガクガクしながらではあるが、どうにか登ることができた。後、何回登るだろうか。

 安須杜はクニレベルの御嶽と位置づけている。辺戸には安須杜とは別に辺戸集落の発生と関わるシチャラ御嶽がある。安須杜は呼び方がいくもあり、ウガミ・アシムイ・ウネーガラシ・クガニムイ・アフリ嶽などである。ここで特徴的なことは、辺戸村(ムラ)の祭祀はないということ。だからクニレベルの御嶽だということではない。

 『琉球神道記』1603年)や『琉球国由来記』(1713年)に、

   新神出給フ、キミテズリト申ス。出ベキ前ニ、国上ノ深山ニ、アヲリト伝物現ゼリ。其山ヲ即、
    アヲリ岳ト伝。五色鮮潔ニシテ、種種荘厳ナリ。三ノ岳ニ三本也。大ニシテ一山ヲ覆ヒ尽ス。
    八九月ノ間也。唯一日ニシテ終ル。村人飛脚シテ王殿ニ奏ス。其十月ハ必出給フナリ。時ニ、
    託女ノ装束モ、王臣モ同也。鼓ヲ拍、謳ヲウタフ。皆以、竜宮様ナリ。王宮ノ庭ヲ会所トス。傘
    三十余ヲ立ツ。大ハ高コト七八丈、輪ハ径十尋余。小ハ一丈計。

とある。国上(国頭)の安須杜はアヲリ岳ともいい、三つの岳が画像に見える三つの突き出た所なのであろう。その三つの嶺(山)に一山を覆い尽くすようなウランサン(リャン傘)である。飛脚を出して王殿(首里城)に伝え、王庭(首里城のウナーか)を会場として、神女も王や家臣も装束で、鼓を打ち、ウタを謡う。そこに傘(高さ7、8丈、輪の径は10尋)を30余り立てる。

     
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   ▲宇嘉からみた安須杜(アスムイ)                ▲辺戸岬からみた安須杜(アスムイ)

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    ▲安須杜からみた辺戸の集落と与論島                ▲辺戸岬からみた与論島

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   ▲国頭村奥の集落、海上に与論島が                 ▲国頭村奥の港(干潮時)


2023年2月11日(



 三日前とったバナナが一気に真黄色になっている。木から金まで徹夜。出校正と20章余(400頁余)。現役の頃の出校(印刷会社)時は、いつも徹夜状態。もう無理かと思っていたが、やってしまった。足腰はヨレヨレ、ふらりふらり。頭の情報はすべて抜いたのですっきり。

 さて、これから沖永良部島の歴史原稿の仕上げへ(20日届締め切り)。やっと手をつけることに。その前に、来週は四、五件の予定あり。ユレ―ヤ―の衣装の写真がとどいている(感謝)。多忙は楽しいものだ。

 さて、バナナを口に寡黙庵へ出勤。


2023年2月9日(木)



 「寡黙庵」へ出勤前に、先日収穫?したバナナが色づいてきた。一房口にして。現在五本実がついている。冬実のせいか、甘味がもう一つ。

 以前から気になっていた「東恩納寛淳と島袋源一郎」。両者の興味深いエピソードは故母から聞かされていた。しかし、そのことは否定してきていた。東恩納文庫に源一郎から送られた資料があり、叔母(源一郎の妻)のアルバムに東恩納氏の写真があり、源一郎の顕彰碑の撰文は東恩納氏である。戦前の首里城北殿の郷土博物館の木棺や巴紋など、また東恩納氏の『南島風土記』の百按司墓の説明は源一郎収集だとある。先日、紹介した百按司のスケッチや木棺や巴紋の採拓は源一郎である。それらの資料は東恩納文庫にあった。(東恩納文庫は旧県立図書館の側にあり、後に旧図書館。その頃コピ―で手にしている)(時間がないので、詳細はいつか)


2023年2月8日(水)

 「やんばる地域(山原三村)」テーマに講演を行っている。寡黙に活きようと思いつつも、お願いされたら断れない性格である。








2023年2月6日(月)

 

 

北山監守(今帰仁按司)と古琉球の辞令書(工事中)

はじめに

 北山監守(今帰仁按司)と今帰仁阿応理屋恵は十六世紀初頭から十七世紀前半までの「北山の歴史」を動かした人物達である。それらの人物が遺していった、あるいは遺した墓や遺品などから、いくらかでも歴史を綴ってみることにする。ここでの北山監守は尚韶威(一世)から従憲(七世)までの今帰仁按司である。今帰仁阿応理屋恵については、具体的な代や氏名については不明な部分が多いが『具志川家家譜』や残されたオーレーウドゥン跡や阿応理屋恵の遺品、監守の時代の辞令書、集落移動との関わりでみていくことができる。

今帰仁グスクに監守が住んでいた時代は、1500年頃から1665年の一世の尚韶威から七世の従憲までである。一世の尚韶威は尚真王の三子で首里から派遣されているので首里産れで、亡くなると玉陵(西の室)に葬られている。七世の従憲は今帰仁産れで、首里に引き上げ、首里で亡くなるが今帰仁の運天の大北墓に葬られている。大北墓は1733年に今帰仁グスクの麓のウチリタマイ(玉御墓)から運天に移葬したようなので、七世は当初はウツリタマイに葬られていたことになる。

それから一世から七世まで、北山監守を勤めた一族がどのような痕跡を残していったのであろうか。その痕跡から歴史をひも解いていくことを目的とする。

 もう一方、北山監守の一族とみていい今帰仁阿応理屋恵、三十三君の一人なので首里王府の重要な祭祀をつかさどった神人である。今帰仁阿応理屋恵の動きから、集落移動や阿応理屋恵の祭祀と今帰仁ノロの祭祀が重なっている部分とそうでない部分も読み取ることができどうである。 

2、北山監守(今帰仁按司)(一世~七世)と古琉球の辞令書

 北山監守とは今帰仁グスクで監守を勤めた按司のことで、第二監守時代の尚韶威から七世の従憲までの按司をさしている。北山監守を勤めた按司達がどのような痕跡を残しているのか。それらの資料を確認してみる。
 一世の尚韶威は尚真王の第三子である。韶威については『具志川家家譜』に記され、今帰仁王子と称し、真武体金(童名)、朝典(名乗)、宗仁(号)で、母の名や生れは伝わっていない。韶威は嘉靖年間(1522~66年)に亡くなり西の玉御殿に葬られている。玉陵の碑に「みやきせんあんしまもたいかね」(今帰仁按司真武体金)とあり、玉陵に葬られている石棺がある。

 
  

二世の今帰仁按司(王子)介昭は隆慶年間(1567~72年)に亡くなっている。『具志川家家譜』に思二郎金(童名)、朝殊(名乗)、宗義(号)である。嘉靖年間に尚韶威を継いで今帰仁間切惣地頭職になっている。四男の和禮が今帰る仁間切平敷村平敷親雲上の娘思加那を娶り、介紹の娘が宇志掛按司(童名:松比樽)の神職となり孟氏名今帰仁親方宗春の妻となる。今帰仁に残した痕跡は、大北墓の「宗仁公嫡子、御一人若○○カリヒタル金」は二世と見られるが「思二郎金」をそう判読したのかもしれない。住居は今帰仁グスク内である。

三世は和賢である。『具志川家家譜』に眞武躰(童名)、朝敦(名乗)、宗眞(号)とある。嘉靖三六年(1557
)に産まれ万暦十九年(1591)に亡くなっている。三世は運天の大北墓ではなく今泊の津江口墓に葬られている。その理由は津屋口墓の「墳墓記」の碑文に読み取ることができそうである。

当初から津屋口墓に葬られている。津屋口墓は今帰仁村今泊にあるが、北山監守(三世和賢)の墓である。運天の大北墓に入れず、親泊の津屋口原に墓をつくり葬っている。墓の庭に「墳墓記」(1678年)が建立されている。その墓を扱うのは今帰仁グスクに住んでいた北山監守(今帰仁按司)一族と麓に移った集落、それと監守一族が移りすんだ集落内の二つのウドゥン(御殿)跡との関係を知る手掛かりとなりそうである。
 まだ、十分把握しているわけではないが、系図座への家譜の提出の際、先祖の履歴を整理していると、先祖の墓が粗末にされていたり崩壊したりしており、家譜の編集と墓の修復と無縁ではなさそうである。
 三世和賢は万暦十九年(1591)に亡くなっているので、その頃に墓は造られたであろう。「墳墓記」(碑文)から、以下のようなことが読み取れる。
  ・墓は修築された
  ・監守の引上げ(碑文では康煕丙午(1666年)
  ・尚真王第四(三か)王子宗仁は尚韶威のこと
  ・高祖今帰仁按司宗真は三世和賢のこと
  ・殿閣近くに墓を築く
  ・津屋口に葬るのは便利である
  ・三世和賢は万暦辛卯(1591)に亡くなる
  ・葬った墓の地は津屋口である
  ・「墳墓記」の建立は康煕十七年(1678)である
などである。
 現在墓の前に香炉が一基置かれていて「奉納 大正元年壬子九月 本部村宗甫□ 仲宗根門中 嘉数吉五郎 建立」と刻まれている。


▲碑の拓本 ▲三世和賢が葬られた津口墓 ▲「墳墓記」(1678年建立)

 四世は今帰仁按司克順である。『具志川家家譜』によると眞満刈(童名)、朝効□(名乗)、宗心(号)である。父は和賢で母は眞牛金である。万暦八年(1580)に産れ同二四年(1596)に十七歳で亡くなっている。万暦十九年(1591)に父和賢を継いで今帰仁間切惣地頭職を継いでいる。在任は数年である。若くしてなくなったため子供もはいなかった。

四世克順の時の「今帰仁間切玉城の大屋子宛辞令書」(1592年)がある。

 しよりの御ミ事
  みやきせんまきりの
  よなみねのさとぬしところ
 一六かりやたに四十九まし
  しよきたばる又もくろちかたばるともに
 一百四十ぬきちはたけ七おほそ
  やたうばる 又ひらのねばる 又はなばる
  又さきばる 又なかさこばる 又おえばるともに
  又よなみねの四十五ぬき
  かないの大おきてともに
  一人たまくすくの大屋こに
  たまわり申候
 しよりよりたまくすくの大やこの方へまゐる
万暦二十年十月三日

辞令書の発給の時期は四世克順の頃である。今帰仁間切の玉城の大屋子に宛てたものである。今帰仁按司や今帰仁御殿などの言葉は出てこない。大屋子という役人は、朱里王府から直接辞令を発給されていて、北山監守を経由するものではなかった。

 今帰仁に残る四世の痕跡は大北墓の「宗仁公四世今帰仁按司ママカル金」のみである。家譜にある四世の童名の「眞満刈」とあるが墓調査では「ママカル金」と読んでいる。確認が必要である。 

 五世は今帰仁按司克祉である。『具志川家家譜』による眞市金(童名)、朝容(名乗)、宗清(号)である。万暦十年(1582)に産れ同三七年(1609)に二八歳で亡くなっている。克順の弟で、兄の克順が十七歳で亡くなったので、その後を万暦二四年(1596)に今帰仁間切総地頭職を継いでいる。次男の縄武は中宗根親雲上の娘で阿応理屋恵(今帰仁)である。

 「今帰仁間切辺名地の目差職叙任辞令書」(1604年)がある。五世和賢の時代である。和賢が今帰仁グスクに居住していた頃である。

 しよりの御ミ事
  みやきせんまぎりの
  へなちのめさしハ
  ミやきせんのあんじの御まへ
  一人うしのへばんのあくかへのさちに
  たまわり申候
 しよりよりうしのへはんのあくかへのさちの方へまいる

  (首里王府から、今帰仁間切の辺名地の目指を、今帰仁按司の部下である丑の日番の赤頭のサチに賜るよう申し上げる。首里(王府)から丑の日番の赤頭のサチに差し上げる)

   
今帰仁間切は「ミやきせんまきり」と言われ、「へなち」は辺名地であるが、まだ村が使われて
いないことに注意すべきである。村は近世以降の行政単位だということがわかる。「みやきせ
んあんしの御まへ」(今帰仁按司の御前)ということは今帰仁グスクに住む按司の御前という
ことになる。「うしのへはんのあくかへ」(丑の日番の赤頭へ)であるが、今帰仁グスクへ勤め
る三番制度(三交替制)があり赤頭の役職があったことが伺える。

 大北墓の銘に五世が見られないが、「今帰仁按司御一人御名相不知」があり、五世の可能性がある。ただし、薩摩の琉球侵攻で今帰仁グスクが攻められた時の監守なので尚寧王が玉陵に入らなかった例もあるので、大北墓に葬られていない可能性もある。大北墓はグスクの麓のウツリタマイ(按司墓)から十世宣謨の時、運天に移葬しているので、そのことも念頭に入れておく必要がある。 

 六世は今帰仁按司縄祖である。『具志川家家譜』によると鶴松金(童名)、朝経(名乗)、瑞峯(号)である。万暦二九年(1601)に産れ順治十五年(1658)に五八歳で亡くなる。父克祉の後の惣地頭職を継いだのは1609年で八歳の時である。縄祖の次男従宣は孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)の娘を娶り阿応理屋恵按司(童名思武眞金)である。

 「今帰仁間切謝花掟職叙任辞令書」(1612年)がある。

 しよりの御ミ事
  ミやきせんまきりの
  ちやはなのおきての
  ミのへはんの□□
  くたされ候
 万暦四十年十二月□日

  (首里からの詔 今帰仁間切の謝花の掟である巳の番の誰それに差し上げなさい)

 この辞令書が発行された1612年は、薩摩軍の今帰仁城侵攻から三年後のことである。北山監守(六世の今帰仁按司)はまだグスク内に住んでいたのであろう。五世克祉の時代にあった三番制度が、まだ引き継がれている。謝花の掟が三番制度の巳の当番でグスクに出仕していた様子が伺える。

 六世縄祖(惣地頭職1609~53年)の時の辞令書がもう一点ある。七世と惣地頭職を引き継いだのは順治十三年の二月である。辞令書は同年正月二十日なので六世縄祖の時の「今帰仁間切与那嶺の大屋子職叙任辞令書」(1643年)の辞令書である。

  首里の御ミこと
   今帰仁間切の
   よなみねの大屋こは
   一人今帰仁おどんの
   ももなみの大屋こに
   たまわり申[候か]
  崇禎十六年十月三日

 ここで注目するのは「今帰仁おどん」である。それからすると今帰仁グスクから城下に移り住み、そこが今帰仁御殿と見られる。いつ城下に移ったのかの年代は不明であるが、ここでいう「今帰仁おどん」(今帰仁御殿)は、今でいうオーレーウドゥンと見られる。

今帰仁阿応理屋恵が首里に引き上げ、そこで存続していたことが『女官御双紙』(1706~13年)でもわかる。『女官双紙』(上巻)に出てくる六人の「今帰仁あふりやえあんじ」は首里で勤めた阿応理屋恵である。その中の一人は今帰仁間切親泊に住む伊野波筑登親雲上の室となる。僅かながら今帰仁間切とつながりを保っている。
 ・今帰仁あふ里やゑあんじ 向氏南風按司朝旬女(孟氏今帰仁親方宗珉室)
 ・今帰仁あふ里やゑあんじ 孟氏今帰仁親方宗珉女(向氏本部按司朝当室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 孟氏中宗根親雲上宗良(崎山按司朝恭室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 向氏崎山按司朝恭女(今帰仁間切親泊乃住伊野波筑登之親雲上室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 本部間切居住伊野波爾也女(向氏与那嶺按司朝隣室)

今泊の集落内に二つの御殿跡がある。一つは按司(監守)の御殿、もう一つは今帰仁阿応理屋恵の御殿である。今のオーレーウドゥン跡地が按司(監守)の殿内(今帰仁村地内)で、馬場の東側の角のウドゥン敷地跡(親泊村地内)が今帰仁阿応理屋恵の殿内と想定している。移動した後の阿応理屋恵按司火神は『琉球国由来記』(173年)によると親泊村地内にある。それと「今帰仁里主所火神」が按司家の火神で今帰仁村地内にある。そこには六世縄祖の位牌がある。現在のオーレーウドゥン(阿応理屋恵御殿)は、もともと按司御殿で、後に親泊馬場の東側角のウドゥン跡がオーレウドゥンで、阿応理屋恵が按司御殿内に嫁いだので、そこに統合されたのではないか。 

七世は今帰仁按司従憲である。『具志川家家譜』に思五良(童名)、朝幸(名乗)、北源(号)とある。天啓七年(1627)に産れ康煕二六年(1687)に六一歳で亡くなる。七世のとき、北山監守(今帰仁按司)は康煕四年(1665)に首里赤平村に移り住むことが許された。その年は1665年である。その翌年(1666)に今帰仁間切を二つ分割し、今帰仁間切と伊野波間切(翌年本部間切と改称)。今帰仁間切惣地頭職になったのは順治十一年(1653)である。その時の俸禄は五六石、間切分割の時か不明だが知行減少の時四十石となる。

従憲は康煕二六年(1687)に首里で亡くなるが、故郷の運天の大北墓に葬られている。ただし、従憲がなくなった頃の墓は運天の大北墓ではなく今帰仁グスク麓にあったウツリタマヒ(玉御墓)である。十世宣謨の時、雍正十一年(1733)に運天の大北墓に移葬したようである。大北墓に「宗仁公七世今帰仁按司」とある。 

七世従憲が首里に引き上げたことで監守としての役目はなくなり、今帰仁按司は他の按司と同様な扱いとなる。首里引き上げ後も今帰仁按司は十四世まで継承されていく。八世から後については触れないが、十四世の世忠(朝□)まで今帰仁按司、十五世の朝昭の時具志川按司を名乗り、琉球処分となる。明治五年の琉球処分の時は具志川按司である。これまでの今帰御殿は具志川御殿を名乗り現在に至る。


2023年2月5日(

 ヒカンサクラは葉が出だしてきた。周りの花木は、春に向かって花を咲かしている。花畑の手入れへ。そこにも桜木が三本。人目のつかない場所。それでも緑の森(ウタキ、グスク)の側で自己主張をしている。小鳥と蝶を招いて蜜を吸わせている。桜木の下の草刈りをしているとアゲハ蝶の幼虫がマーウーベー(苧真べー)の葉を食している。そのため、一部残しておくことに。(畑の画像明日にでも、デジカメを忘れてきたので)

 

2023年2月4日(

 各地を訪れる時、港や河口に足を運ぶ。あるいは港のみえる場所へ。そこに歴史が読み取れる痕跡があるからである。河口には古い墓が目につき、石棺や厨子甕など陸路で運ぶには困難であり、舟で運んでいたのであろう。近世の奄美と琉球と関わる資料をみると、島々のムラに船持ちがいる。納税や貢物の運搬、日常品の運航が日常的行っている。人的交流もあり、陸路とは別の主要航路である。外国船や漂着船、避難船、様々な情報を取り交わす記録が見られる。







2023年2月3日(金)









2023年2月2日(木)

 「名護湾岸のムラ・シマ」をテーマで講座をする。いつもそうであるが、知識を提供するねらいもあるが、それ以上に今では消えた、消えかかった歴史や変貌する風景などの時代、過去と自在に往来できる柔軟性を呼び起すこと目的としている。2011年に講座のデジメの一部を紹介。







2023年2月1日(水)

  
2023.1.31(旧1.10)撮影  ヒカン桜満開中        近くの野ばらも

 2月何処からスタートしようか。三日前「羽地の語義」について講座をしたので、仲尾のデータが出てきたので10年前の仲尾を訪ねてみるか。風景が大分変ってしまっているが、当時のまま。

2009年7月30日(木)

名護市仲尾】(旧羽地)

 名護市仲尾は羽地間切、明治41年に羽地村(ソン)、昭和45年に名護市の字(区)となる。この仲尾は集落移動、羽地間切の祭祀の中心となる仲尾ノロを出す村、羽地間切の番所から近い港、勘定納港を持つ村である。勘定納港は近世の四津口の一つでもある。今帰仁間切の番所を持った運天と似ている。

 仲尾は故地(ハンタ原?仲間原?)にノロドゥンチ火神、神アサギ、ネガミドゥンチ火神、ウペーフドゥンチ火神などの拝所を残している。それは今帰仁グスク付近にあった集落が移動した後、火神の拝所を残しているのと同様である。時期は異なるが。ヒチグスクとは別にウガンバラウタキがある。そこは川上・親川・田井等の合同の祭祀場になっている。その杜はウタキの形式(杜・イビヌメー・イビ・左縄)は持っている。

 仲尾ノロは天啓2年(1622年)の辞令書で「大のろくもひ」lとあり、羽地間切のノロを取り仕切る地位にあったとみられる。明治の資料では仲尾ノロクムイ、『琉球国由来記』(1713年)では中尾巫とあり管轄する村は仲尾・川上・田井等である。(最近「仲尾ノロクムイ」のカラーコピー拝見)

 仲尾のハンタ原からの移動は1835年頃である。『羽地間切肝要日記』(道光15:1835年)に、「濱山野を宅地にする事」の願文書がある(地方経済史料)。集落移動の事例として重要である。因みに明治13年の仲尾村の世帯数59、(男164、女150 計314人)である。それらの数字を鑑みると、資料の七家と四家はすでに兼久地に住んでいて、残りの40世帯余が村敷き替えで移動したとみてよさそうである。

  仲尾村(羽地間切)
   長濱東兼久
     山畑二反八畝十六歩  八斗五升六合
   同所西兼久
     山畑一反六畝廿歩  五斗
       合一石三斗五升五合
   右仲尾村之儀、以之外村敷狭御座候に付、頭数134人にて、七家内は勘定納村47人にて、四家内は右東兼久へ罷越、当分家作居申候、依之右両兼久竿入、仲尾村百姓持にして被成候は、村敷仕度旨願申出候に付、竿入申候間、願之通被仰付、来年より上納被仰可然奉存候、尤古我知我部祖河村よりも願申出事候得共、彼之村々之儀は、仲尾村より畑持増申候間、彌仲尾村江御召付被下可然奉存候

 ここでいう長濱は今の仲尾(原)とみられる。その中尾が東兼久と西兼久とにわかれる。仲尾村(故地か)は村敷が狭く、まずは七件が勘定納村(47人)へ、東兼久へ四件が当分家を造り引っ越した。これによって両兼久を竿入し仲尾村の百姓持ちにして、村敷したく願い出て許された。

 
 ▲1835年頃半田原から移動してきた仲尾集落 ▲勘定納港(現在)

 
 ▲ウインバーリにある定物蔵跡地 ▲ヒチャンバーリにあるカンジャーヤーの石垣