寡黙庵琉球・沖縄の地域史調査研究 (管理人:仲原)   

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国頭村安田のシニグと辞令書
  ・(山原のノロドゥンチ参照 本部町公民館
加計呂麻島1  加計呂麻島2
沖永良部島の和泊のムラ  知名町のムラ 2003年4月伊平屋島
写真に見る今帰仁 ⑧  ・2008年祭祀調査 ・今帰仁のろ墓2
オナジャラ墓  ・土帝君(浜元)

北山・琉球・薩摩から沖永良部島】 「地域博物館が果たす役割」
本部町崎本部の墓調査
羽地の語義】 【羽地地域のムラ・シマ
徳之島と琉球】 久米島を大学の講座
第一監守時代】  羽地域のムラ・シマ


2023年3月24日(金)

 2006年に渡名喜村に渡っている。(現在は?)

渡名喜村(島)調査記録                               

2006年10月10日(火)

 渡名喜島までゆく。8日午前8時30分のフェリー(久米島行)に乗船する。午前6時に家を出たこともあって朝食抜き。フェリーでの船酔いはしないと自信があったのだが。さすが朝食抜きのすきっ腹にお茶を流し込んでも、荒れた海の揺れにはかなわない。二時間余りの苦難の船旅。二度と渡名喜島には行くまい(船酔いだけではないが)。

 島に無事着くと、宿に荷物をあずけ、そこで昼食を急いで済ませ、島の北側の高いところを目指す。まずは、大嶽(里:古島:里遺跡)である。高い所から集落や島の様子を伺い、そこでどう歩くかを決めることに。渡名喜島は一村一字である。明治には桃原村が登場するが、渡名喜村を指しているのだろうか。集落を歩きながら表札を見ると「渡名喜村・・・番地」とあり、字渡名喜がない。一村に一字しかないので字渡名喜は必要ないのであろう。


渡名喜島―里(古島)―①―⑤

 渡名喜集落の東側はアガリウチ、ニシンダカリ(北村渠)とハヘンダカリ(南村渠)に区分されているようで、アガリウチが古い集落(古島ともよばれる)と認識されている。そしてサト(里)と呼ばれる。渡名喜里遺跡と呼ばれる場所で、標高約80mの丘である。後で資料館を訪ねると、発掘されたグスク系土器や中国の陶磁器や褐釉陶器などが展示されていた。発掘された遺構や遺物だけでなく、現在ある里殿跡やノロ殿内跡、鉄滓や鉄釘などから丘陵地にはグスク時代以降、集落が形成されていたにちがいない。現在の渡名喜集落の発祥地と見られている所以であろう。グスク時代に丘陵地に集落が形成され、中にはグスクに発達したところもあり、丘陵地にあった集落が麓に降りていった形跡は、沖縄本島北部の集落の展開と類似している。

 ただし、渡名喜の集落の形成は里(サト)にあった集落のみで今の規模になったのではなさそう。他地域にあったグスク時代のマキやマク規模の集落も現在地に移動してきて統合された痕跡が伺える。

 17世紀の「絵図郷村帳」や「琉球国高究帳」で渡名喜のことを戸無島と表記される。戸無島は高頭45石余、内田が一石余、畠43石余りとあり、僅かであるが稲作が行われていた。今でも神田だろうか稲が植えられている。ウーチューガー一帯の西斜面に僅かであるが棚田があったのであろう。


2023年3月22日(水)

 三、四日、腰痛で自由に動けず。横ななったまま、知名町側の「世の主」や伝承などについて目を通す。



※古琉球の地名表記の過渡期
永良部島に遺る古琉球の地名表記(過渡期)。「まきり」「間切」の漢字・平仮名表記、・・・村(漢字・ひらがな)、間切と村名の表記が過渡期。絵図の表題に「琉球国之内」とあり、1643年頃間切や村名がひら仮名、漢字表記にはカタカナでルビされ、漢字表記への過渡期を示している。(古琉球のひらがな表記から薩摩統治下なると漢字表記へ) 与論島以北の永良部島、徳之島、大島、喜界島の絵図に「琉球國之内」とあるように1609年以前の琉球國の地名表記が遺っている。

琉球國之内(1643年頃)

 ・きびる間切 千七百九拾石余

 ・きびる間切之内 あぜふ村
 ・徳時間切之内(トクトキマキリ) 西目村(ニシメ)
 ・徳時間切 千七百八十石余
 ・徳時間切之内 ぢな村
 ・大城間切之内(ヲホ九スクマキリ) 下平川(シモヒラカワ)村
 ・大城間切(ヲホ九スクマキリ) 五百八十八石余
 ・大城間切(ヲホ九スクマキリ)之内 和(ワ)村

   永良部島(エラブシマ)

 ・高四千百五拾八石五斗
       嶋廻拾里十八町
 ・おかみ山
 ・西目(ニシメ)村大道ヨリ下平川(シモヒラカワ)村大道迄弐里
 ・おかミ山
 ・池
 ・池
 ・池
 ・池
 ・池
 ・池
 ・池
 ・池
 ・きひる浜
 ・池
 ・おかミ山
 ・やぎにや崎
 ・国頭(クニカミ)崎
 ・和泊(ワトマリ) 此和泊(ワトマリ)入弐町廿間廣サ弐町四拾間干汐之時深サ六尋
       水底はへ任船繋リ不自由東風之時船繫り不成
 ・和泊(ワトマリ)より与論嶋(ヨロンシマ)之内あがる泊迄海上十三里午未間二當ル
 ・あまた川
  ・おかミ山
 ・池
 ・池
 ・池


2023年3月20日(

 以下の報告は『和泊町誌』の琉球と沖永良部島との歴史を紐解こうとすることを目的としたものである。令和5年2月19日から23日の調査報告(知名町部分は略)

沖永良部島(和泊町)

 沖永良部島と琉球国との歴史を見ていく場合、沖永良部島と繋がる歴史と史料を準備する必要がある沖永良部島で北山王の三男や「世の主」、那覇の世など、各時代と沖永良部島の歴史を見てみたい。沖縄三山(北山・中山・南山)の時代、北山の怕尼芝・珉・攀安知の時代、三山統一後の中山と沖永良部島さらに三山統一後の中山と沖永良部島の時代(那覇の世)を史料と対峙させながらみていく。

 ハニジの出現は、中北山の時代の興亡があり、滅び怕尼芝が登場する。怕尼芝の出自は不明だが、怕尼芝はパニジやハニジと発音する羽地按司(世の主)ではないかという。仲北山が滅ぶと羽地出身の怕尼芝が北山王となり、その次男真松王子弟の真松千代だという。「沖永良部島世の主御由緒」386頁 

この時代は、「世の主」の時代で北山の三王(怕尼芝・珉・攀安知)で「明実録」の同時代史料をよみとる  その次の時代は、三山統一後の時代である。梵鐘に「琉球国王大世主」とあり「おほよぬし」とよむという。足利将軍が琉球国王への「りゅうきゅう国のよのぬしへ」の文書が五点あげてある。
 ①  応永廿一年(1414年)
 ② 永享八年(1436年)
 ③ 永享十一年(1439年)
 ④ 大永七年(1527年)
の文書(史料)から、沖永良部島に伝わる伝承を歴史的な流れにつげないか。 

「おもろ」に「はにし」や「はにち」や古琉球の辞令書に「はにし」があり、怕尼芝の出身地を地名に表しているとみられる。

 三山統一後の時代は、第一尚氏時代(1429年)から第二監守時代と沖永良部島を史料で見ていく作業である。中山の尚徳王成化二年(1466 年)喜界島遠征、大島討伐が尚清王嘉靖十六年(1537年)、尚清王嘉靖年間、尚元王尚元王(隆慶五年(1571年)が認められる。この時代の史料に大島遠征ではないが「首里王之印」の辞令書が三十点ある。与論島と沖永良部島では辞令書の確認はされていないが、嘉靖八年十二月廿九日(1529年)笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書(かさりまきり ・うすく 大やこ)が古く、新しいのが萬暦三十七年二月十一日(1609年)名瀬間切の西の里主職補任辞令書(なせまきり ・にし ・さとぬし ・あさ・おきて)がある。十六世紀初め頃「三十三君」(祭祀の制度化)が置かれ、永良部阿応理恵の遺品昭和10年頃認されているので、おもろにのろ、三十のろとあり、のろ辞令の発給があり、沖永良部島ののろの辞令があったとみられる。
  
1265年大島始めて琉球英祖に入貢
  
・永祖7年(1266年)酋長を大島に派遣し統治
  
・琉球の王の尚徳の喜界島遠征
  
・大島七間切、喜界五間切
 ・229年(舜天三三)英祖生まれる。
 ・1243年(舜馬順煕元)長崎の渡宋者一行、琉球に漂着。
 ・1260年(英祖元)英祖即位
 ・1261年(英祖二)英祖、各地を巡り田地の境界をただす。極楽山に墓を築く。(浦添ようどれ)
 ・1264年(英祖五年)久米・慶良間・伊平屋の各島初めて中山に入貢。
 ・1265年頃、僧禅鑑浦添に極楽寺を建立。
 ・1266(英祖七年)大島諸島。中山に入貢、その頃泊に公館(泊御殿)と公倉築造る。
 ・1291年(英祖三二年)世祖(フビライ汗)瑠求を討つが失敗。
 ・1585年(尚永十三年)紋船(天龍寺桃庵、安谷屋宗春)薩摩を経て大阪に着く。
 ・1588年(尚永十六年)豊臣秀吉、島津を介して琉球を招論する。
 ・1590年(尚寧二年)宮古の上国船、朝鮮に漂着救助される。

シニグの痕跡踏査

 シニグが行われていたシニグドーがどれだけ確認できるか拾ってみた(和泊町のみ)。

①西原村 シニグドー(集落内)シニグ祭の時神酒を造る篭石のウヮーマが祭られている。
②出花村 シニグド―に篭石ウヮーマ、ウミリ祭
③畦布村 シニグド― ヌルバンドー、数基のトゥ―ル墓あり、一基本に「貞享三年寅八月九日
       奉加修補忌代々為先祖也孝孫敬白 和之掟大工松細工牛川間」(1675年)とある。
④根折村
⑤玉城村 フバドー
⑥内城村 世之主の居城あり。
   永良部 立つ あす達 大ぐすく げらへて げらへ遺り 思ひ子の 御為 又 離れ立つ
   あす達 大ぐすく
⑦大城村 川内百が世の主に築城の場所を指したという。
   大城間切があった頃、中心になった村か。
   シニグ祭のとき間切役人の与人が城跡周辺に夜籠りして祭祀を行っていた。
⑧皆川村 シニグドー(看板が消失)
  世の主が巡回の時、馬を下りて休憩したところがシニグドー、シニグ祭の時、大城・久志検・

喜美留の三間切の与人が白装束で与人旗・衆多旗・百姓旗持った騎馬隊が集結したという。
⑨古里村 与和の浜あり。
  永良部世の主の選でおつある 御駄群れ 御駄群 世の主ぢよ 待ち居る 又 
  離れ世の主の 金鞍 掛けて 与和泊 降れて
  世の主の家来が自害(中寿神社)
⑩瀬名村 おかみ山あり。内喜名港、山原との交易
⑪永嶺村 ニャ―トゥ墓あり。
⑫後欄村 グラルマグハチの居城跡がある。「おもろさうし」に 

「永良部まこはちが 玉のきやく崇べて ひといいよは すかま内に 走りやせ 又 

離れまこはち 玉の」と謡われている。
   クラルマグハチが積み上げたるグスク 永良部三十ノロの遊び所」とある。
   城(グスク)内にマグハチの墓がある。近くにノロ墓があるという(私は未確認)


 和泊町の喜美留へ。「世乃主かなし由緒書」に登場する名刀のこと。北山伝承の北野菜切」と類似した刀の話。シニグドー(金毘羅神社一帯?)(そこは昨年案内いただいていた)へ。トゥールチヂやヒャーヤなど気になりながら畦布へ。


 畦布には大和城や殿地(為朝上陸屋敷)、トゥール墓へ。へ。森家のノロ関係遺品とシニグ旗を見せていただいたことがある。今回は留守だったので近くのヌルバント―前で農機具を修理している年配の方に石垣の四角のコンクリートについて伺うと「説明板だよ」と。向かいのヌルバンドーについて伺うと、「それは力石」とのこと。

 


 トゥールに石碑(1686年)があり、「貞享三年寅八月九日 加修補忘屋代々為先祖也 子孫敬白 和之掟 大工松細工牛川間」とある。トゥール墓は貞享三年(1686年)に修復したことが刻銘させている。そこでヒントをもらう。そこから他のトゥール墓を見直してみた。(以降、





2023年3月19日(

道の島の琉球的ものの禁止と残存情況

沖永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』の以下のことが気になる。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったかもしれない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易に絶ちきることができなかったようだ。

・1609年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、沖永良部島は薩摩の直轄となる。
・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)を
  琉球から請けることを禁する。(寛永十九年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖
  視するようになる。(亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球へのぼり国王に
  謁して辞令を貰っていたという) 

・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服階品を琉球から受けるのを厳禁する。
・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。

 城(グスク)のつく地名と「世之主」、そこあたりは北山の時代(歴史)とつながる話である。それとノロ殿内の遺品とシニグ祭は三山統一後の琉球の歴史とつながる。薩摩の琉球侵攻以後、与論島以北は薩摩化されていく。その過程でノロやヒャ(百)やシニグや墓、土地制度が変貌していく。それでも北山の時代の痕跡、琉球国(三山統一後)の痕跡を北山の香り、琉球国のものがどのように残っているのか、その確認の調査・研究である。それが、史実なのかには踏み込まない。沖永良部島に遺る琉球的(歴史・おもろ・墓・地名・言語・ノ委ロ関係遺品・シニグ・神アサギ・地名・風景など)など、北山の時代と琉球国、1609年以前の古琉球の時代のものが600年経った今にどう伝えられているか、その一部を紹介するにすぎないが、今後の調査研究の課題でもある。


 沖永良部島と琉球国との歴史を見ていく場合、沖永良部島と繋がる歴史と史料を準備する必要がある沖永良部島で北山王の三男や「世の主」、那覇の世など、各時代と沖永良部島の歴史を見てみたい。沖縄三山(北山・中山・南山)の時代、北山の怕尼芝・珉・攀安知の時代、三山統一後の中山と沖永良部島さらに三山統一後の中山と沖永良部島の時代(那覇の世)を史料と対峙させながらみていく。

 ハニジの出現は、中北山の時代の興亡があり、滅び怕尼芝が登場する。怕尼芝の出自は不明だが、怕尼芝はパニジやハニジと発音する羽地按司(世の主)ではないかという。仲北山が滅ぶと羽地出身の怕尼芝が北山王となり、その次男真松王子弟の真松千代だという。「沖永良部島世の主御由緒」386頁 

この時代は、「世の主」の時代で北山の三王(怕尼芝・珉・攀安知)で「明実録」の同時代史料をよみとる  その次の時代は、三山統一後の時代である。梵鐘に「琉球国王大世主」とあり「おほよぬし」とよむという。足利将軍が琉球国王への「りゅうきゅう国のよのぬしへ」の文書が五点あげてある。
 ①  応永廿一年(1414年)
 ② 永享八年(1436年)
 ③ 永享十一年(1439年)
 ④ 大永七年(1527年)
の文書(史料)から、沖永良部島に伝わる伝承を歴史的な流れにつなげないか。 

「おもろ」に「はにし」や「はにち」や古琉球の辞令書に「はにし」があり、怕尼芝の出身地を地名に表しているとみられる。

 三山統一後の時代は、第一尚氏時代(1429年)から第二監守時代と沖永良部島を史料で見ていく作業である。中山の尚徳王成化二年(1466 年)喜界島遠征、大島討伐が尚清王嘉靖十六年(1537年)、尚清王嘉靖年間、尚元王尚元王(隆慶五年(1571年)が認められる。この時代の史料に大島遠征ではないが「首里王之印」の辞令書が三十点ある。与論島と沖永良部島では辞令書の確認はされていないが、嘉靖八年十二月廿九日(1529年)笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書(かさりまきり ・うすく 大やこ)が古く、新しいのが萬暦三十七年二月十一日(1609年)名瀬間切の西の里主職補任辞令書(なせまきり ・にし ・さとぬし ・あさ・おきて)がある。十六世紀初め頃「三十三君」(祭祀の制度化)が置かれ、永良部阿応理恵の遺品(昭和□年)確認されているので、おもろにのろ、三十のろとあり、のろ辞令の発給があり、沖永良部島ののろの辞令があったとみられる。

  ・1265年大島始めて琉球英祖に入貢
  ・永祖7年(1266年)酋長を大島に派遣し統治
  ・琉球の王の尚徳の喜界島遠征
  ・大島七間切、喜界五間切
 ・1229年(舜天三三)英祖生まれる。
 ・1243年(舜馬順煕元)長崎の渡宋者一行、琉球に漂着。
 ・1260年(英祖元)英祖即位
 ・1261年(英祖二)英祖、各地を巡り田地の境界をただす。極楽山に墓を築く。(浦添ようどれ)
 ・1264年(英祖五年)久米・慶良間・伊平屋の各島初めて中山に入貢。
 ・1265年頃、僧禅鑑浦添に極楽寺を建立。
 ・1266年(英祖七年)大島諸島。中山に入貢、その頃泊に公館(泊御殿)と公倉築造る。
 ・1291年(英祖三二年)世祖(フビライ汗)瑠求を討つが失敗。
 ・1585年(尚永十三年)紋船(天龍寺桃庵、安谷屋宗春)薩摩を経て大阪に着く。
 ・1588年(尚永十六年)豊臣秀吉、島津を介して琉球を招論する。
 ・1590年(尚寧二年)宮古の上国船、朝鮮に漂着救助される。


2023年3月18日(

 沖永良部島へ頭の切り替え。おもろさうしに「のろ」が登場する。のろ祭具とシニグが「琉球國の内」からの行われていたことをシニグや首里王府からの奄美ののろや役人への辞令書。それとおもろのひらがな表記、ほぼ古琉球の時代の歴史資料として描くことが描けるのではないか。

2010(平成22)年1028日(木)メモ

 以前紹介した記憶があるが、新聞の切り抜きが出て来たので再度のその記事を掲げておく(昭和14日新聞記事)。

   古琉球の遺寶
      水晶の曲玉  県外流失を免れ 郷土参考舘へ所蔵
  県教育会郷土参考舘では日本夏帽沖縄支部松原熊五郎秘蔵の永良部阿応恵の
  曲玉を今回三百円で譲り受け、永く郷土参考資料とすることになった。本晶は元小
  録御殿の伝寶にかかり同家大宗維衝(尚氏大王長男)より四世に当る大具志頭王子
  朝盛の室永良部阿応理恵職の佩用したものとみられている。これに関し県教育会
  主事島袋源一郎氏は語る。

   此曲玉は永良部阿応理恵職の佩用したものらしいもので同人は穆氏具志川親雲上
  昌けんの女で童名思戸金と称し天啓三年に亡くなった人で永良部阿応理恵なる神職
  は苧禄御殿の家譜及び女官御双紙にも同人以外には見当たらないから慶長十四年
  島津氏琉球入の結果大島諸島は薩摩へさかれたので其の後廃官になったものと思
  われる。しかし同家では尚維衝が王城を出られた時に持って出られたのだと伝えてい
  る中でこの曲玉は前年京大に送って調査の結果何れも硬玉で石の原産は南支地方で
  あろうとのことで曲玉は三箇で水晶玉(白水晶と紫水晶)百一箇が一連になってをり又と
  得がたき寶物であるが松原氏は数箇所より高価をもって所望せらるるにもかかわらず、
  その県外に流出を遺憾とし県教育会へ原価で提供されたもので、その心事は頗る立派
  なものだ。

 
      永良部阿応理恵の曲玉         右が永良部阿応理恵の佩用の曲玉


2023年3月17日(金)

 恩納村で「恩納村の歴史の道と文化」で話したデジメの一部です。

 
▲恩納村博物館(研修室)           ▲合間をぬって比屋定坂の石畳道へ

 恩納村の宿道・脇道を通して歴史の一端を描けそうだ。 

 村(ムラ)には村屋、間切には番所があり、公務を掌った。番所はバンジョとよみ、バンジュともいう。番所名は所在する村名で呼ばれる。恩納間切は恩納村にあり恩納番所、読谷山間切は喜納村にあり喜納番所という。今帰仁は運天番所とよぶ。羽地間切は田井等番所、親川番所という。本部間切は渡久地番所という。

  首里王府から発令された布達(ハガキ、御用呼び出し状)の逓送事務の配達を西宿、東宿という。宿次をしていく道筋を宿道(スクミチ)という。

・国頭方
  東宿 西原→宜野湾・越来・美里・金武・久志・羽地・大宜味・国頭
           (名護・今帰仁へは羽地より、本部へは名護より届く)

  西宿 浦添→北谷・読谷山・恩納・名護・本部・今帰仁
        (羽地へは名護より、大宜味・久志へは羽地より、伊江島へは本部より、
         伊平屋島へは今帰仁より届く))・中頭方

   東宿 西原→宜野湾・中城・具志川・勝連・与那城
   西宿 浦添→北谷・読谷山・越来・美里 

・島尻方
   真和志宿 真和志→豊見城・小禄・兼城・高嶺・真壁・喜屋武・摩文仁
   南風原宿 南風原→大里・佐敷・知念・玉城・東風平・具志頭


・今帰仁間切之内
   瀬底嶋 人居有
・今帰仁間切之内
   によは村
・名護間切之内
  幸喜(カウキ)村
・金武間切之内
  こちや村
・金武間切之内
  おんな村
・越来間切
・幸喜村大道ヨリ金武間切大道迄
・こちや崎
・ぎのさ崎
・きん崎
・おんな崎
・前田崎
悪鬼納嶋(ヲキナワ)

一里山(塚)
(『恩納村誌』より)

恩納村の宿道(スクミチ)(巾8尺:約2.4m、両側に6尺(約2m)松をうえ

  ―読谷村喜名―親志原―◆―◎多幸山―山田小・中学校―久良波―山田温泉―上の丘―仲泊貝塚へ
  下り―仲泊―前兼久―◎ムーンビーチ門口―富着浜に沿って―谷茶浜◎―ジムンの海岸を迂回
 ―屋嘉田浜―赤崎―馬場◎――元の恩納役場―恩納古島―恩納グスク―太田の浜沿い―瀬良垣―
 ◎安富祖―衛星追跡所(山手)―熱田―名嘉真―伊武部―◆―喜瀬(名護)

 脇 道
   ―金武へ通ずる道 金武―名嘉真間
    安富祖から原道あり
   ―久良波テラン口―真栄田―塩屋―与久田―長浜―

上杉県令一行は名護から恩納間切りへ(恩納間切部分のみ)(明治14年)

 上杉県令一行、恩納の宿道(街道)を往く。歴史になる風景である。

幸喜村→(海岸)→(喜瀬)→(薪ヲ堆積)(松樹薈蔚)→村吏拝迎瀬良垣村→(海岸二出)(山原船碇泊ス)→恩納岳斗出)→(恩納港)→恩納川ノ板橋ヲ渡ル→(村吏拝迎)→恩納番所)(名護ヨリ五里一合八勺二才)(門南少シ西二面シ)→石屏ヲ建ツ、庭中芝ヲ敷キ、其南ニ福樹傘ヲ張リタル如ク秀ツ、門外南東ニ迤ニシテ、老松路ヲ挾テ欝然タリ上ヨリ恩納ノ岳嶺ヲ露ス)(掛床二徐葆光ノ書、松月有餘鑿?)、(匾額ニハ、王文治ノ書)、(玉藍)(薯ハ上作ナリ)(食料ヲ欠キ、蘇鉄ヲ用ヒタリ)(間切の貧困状況を詳細に聞く)→谷茶村

二日晴朝、恩納番所ヲ発ス→(束竹)→万座毛ニ→(輿ヲ下リ、眺望ス)→(村吏拝迎ス)→海中ニ「ヨウノガン」島アリ→恩納寄留人ノ宿アツテ、此地水田多シ→奇礁大小駢並ス→海ヨリ岸ヲ趁フテ峙ツ、山原船二艘投錨セリ→谷茶村谷茶川ノ板橋ヲ→(両辺ノ薯圃)→富着村→(山原船碇泊ス)(薯圃多シ、蘇鉄ヲ処々)→前兼久村→(村間福木陰森)→(読谷山岬ヲ望ム)→仲泊村→(仲泊坂ヲ攀チ登ル)(茅屋アリ)→山田村ノ宿→(恩納岳二背ヒテ)、松林二入レハ(村吏拝迎ス)→真栄田村長浜(長保ノ家二小休))→途ニ上リ、左転シテ行キ、村ヲ離ル、処、鍛冶ノ小屋アリ、人無シ→真栄田川ヲ渉ル、(左右二薯圃多クソテ鉄蕉ヲ種ルヲ見ル、山途ニ入ル、左辺岌嶫ノ山巓アリ、之ヲ問ヘハ、山田城ト云フ)、是ヨリ路平坦→恩納、読谷山、分界ノ処→(中頭役所長愛野趙一、村吏ヲ率ヒ奉迎)、(輿ヲ止メテ、小憩)→読谷山番所二達ス。

 
▲1853年ペリー一行の図 (輿に乘って)     ▲恩納集落にあるカンジャヤ―とカー

・金武間切恩納のろくもい(金武間切の時代)
 
 恩納村(ムラ)は1673年以前は金武間切の村の一つであった。恩納ノロに関する古琉球の辞令書と近世初期の辞令書二枚が写真で残っている(『補遺伝説 沖縄の歴史』島袋源一郎)。一枚は万暦12年(1584)の金武間切恩納ノロ職叙任辞令書(1584年)、もう一枚は順治15年(1658)の金武間切恩納ノロ職叙任辞令書である。まだ恩納間切が創設される以前である。そのため「きんまきりの」(金武間切の)となっている。また年号に干支が書かれない最後の辞令書である。翌順治16年の辞令書から干支が記されるようになる。

   しよりの御ミ事              首里の御見事
      きんまきりの              金武間切の
      おんなのろハ              おんなのろハ
      もとののろのくわ            □□□□□
      一人まかとうに             一人□□□□に
      たまわり申候             たまわり申候
   万暦十二年五月十二日        順治十五年七月廿八日

 明治36年頃の恩納ノロのノロ地(田畑など)は以下の通りである(『恩納村誌』)。
   ・畑(赤間原)1200坪  ・田(屋嘉下り口)700坪  ・畑(先原)1200坪 ・田(ウチノウラ)400坪
   ・田(伊場)750坪  ・田(当袋)600坪 その他

[明治43年の作得]
 作得表高  米1石2斗5升4合  雑穀 9斗7升
                       雑穀9斗7升
               現収高    (ナシ)

 
   ▲恩納ノロの辞令書(1584年)  ▲恩納ノロの辞令書(1658年)

2003.8.9(土)恩納村山田の歴史の道を往く。(今帰仁村歴史文化センターのムラ・シマ講座)
     (幼稚園児から80歳近い若者まで)

 恩納村山田はかつて読谷山の名を持つムラである。1673年恩納間切が創設される以前は谷茶から南側は読谷山間切の内。だから中頭方の間切の内である。言ってみれば谷茶以南は中山の範囲ということになる。恩納間切が創設された後に国頭方に組み込まれた地域である。今回は山田の現集落内を歩くことはなかったので、北山と中山の文化の重なりまで踏み込こむことはできなかった。しかし、神アシアゲ跡に地頭火神の祠を建ててあることに、二つの文化の重なりをみた思いがする。神アサギに使った石柱を二本残し、そこに地頭火神の祠を建てる発想は二つの文化圏の重なりと見ていいのかもしれない。

 


2023年3月15日(水)

 沖永良部島(和泊町誌)のコラム原稿締め切りが過ぎています。

永良部と北山・琉球 

 沖永良部島に北山や琉球国と関わる歴史や伝承があります。1609 年以前の北山や古琉球の姿が今に伝えています。そのことを確認するために島通いしています。世の主の初代が次男だという。北山と関わる世の主の話、北山と関わる地にあるシニグ。島にはシニグドー各地にあり、明治4年までシニグ行われています。シニグが分布する地域が沖縄本島北から与論島、そして永良部島です。沖縄のシ二グの古い形を遺しているのか。シニグ旗に武士の絵が描かれ薩摩化しています。琉球的と見られるトゥール墓、その前に大和的墓(大和年号)が混在しています。

 三山統一後の尚真王の頃になると、八重山のオヤケアカハチの乱、中山軍の討伐、宮古の仲宗根豊見親が宮古頭職に任命されます。神職の大阿母職の任命がなされます。尚徳王の喜界島征伐や各地の按司を首里に按司を首里に集居させる制度が敷かれます。16世紀初頭には三十三君の女官制度も整います。おもろでのろが登場し勾玉や簪などのろの祭具が遺っています。各地の按司を首里に集めますが、今帰仁按司(北山監守)は、今帰仁城に住まわせます。尚真王の三男の尚韶威をおくり1665年まで監守として勤めます。

 その頃、首里城の整備がなされ、1458年には首里城正殿に万国津梁の鐘が架けられます。この時代に数多くの石碑を建立し金石文として残されています。「おもろさうし」(一巻)が発刊されます。永良部島がおもろで謡われます。

 1500年代から奄美の喜界島まで首里王府から辞令書(御印判)が発給されています。奄美に遺る辞令書は、首里王府の印があり古琉球(1609年以前)で「正保国絵図」に奄美の島々、先島も「琉球国之内」とあり、先島は1600 年以降も琉球国の内で、奄美は1611年に大島・喜界・徳之島・沖永良部・与論の島々が薩摩の支配となります。

 1611年以後、琉球的な物の禁止や廃止があるが、それでも遺った琉球的なもの。針付(パヂチ)は琉球・奄美でも消えました。制度や墓など薩摩化していくが、それでも遺ったものを沖永良部島から拾っていきます。

 (工事中)


2023年3月14日(火)

 恩納村の宿道(スクミチ)、脇道、原道
 仲松弥秀先生がまとめた『恩納村誌』の宿道の道筋を地図上でたどる。

恩納村の宿道(スクミチ)(巾8尺:約2.4m、両側に6尺(約2m)松をうえ

  ―読谷村喜名―親志原―◆―◒多幸山―山田小・中学校―久良波―山田温泉―上の丘―仲泊貝塚へ
  下り―◒仲泊―前兼久―◒ムーンビーチ門口―富着浜に沿って―谷茶浜◒―ジムンの海岸を迂回
 ―屋嘉田浜―赤崎―馬場◒――元の恩納役場―恩納古島―恩納グスク―太田の浜沿い―瀬良垣―
 ◒安富祖―衛星追跡所(山手)―熱田―名嘉真―伊武部―◆―喜瀬(名護)

 脇道
   ―金武へ通ずる道 金武―名嘉真間
    安富祖から原道あり
   ―久良波テラン口―真栄田―塩屋―与久田―長浜―

  (工事中)

上杉県令一行は名護から恩納間切りへ(恩納間切部分のみ)

幸喜村→(海岸)→(喜瀬)→(薪ヲ堆積)(松樹薈蔚)→村吏拝迎瀬良垣村→(海岸二出)(山原船碇泊ス)→恩納岳斗出)→(恩納港)→恩納川ノ板橋ヲ渡ル→(村吏拝迎)→恩納番所)(名護ヨリ五里一合八勺二才)(門南少シ西二面シ)→石屏ヲ建ツ、庭中芝ヲ敷キ、其南ニ福樹傘ヲ張リタル如ク秀ツ、門外南東ニ迤ニシテ、老松路ヲ挾テ欝然タリ上ヨリ恩納ノ岳嶺ヲ露ス)(掛床二徐葆光ノ書、松月有餘鑿?)、(匾額ニハ、王文治ノ書)、(玉藍)(薯ハ上作ナ)(食料ヲ欠キ、蘇鉄ヲ用ヒタリ)(間切の貧困状況を詳細に聞く)→谷茶村

二日晴朝、恩納番所ヲ発ス→(束竹)→万座毛ニ→(輿ヲ下リ、眺望ス)→(村吏拝迎ス)→海中ニ「ヨウノガン」島アリ→恩納寄留人ノ宿アツテ、此地水田多シ→奇礁大小駢並ス→海ヨリ岸ヲ趁フテ峙ツ、山原船二艘投錨セリ→谷茶村→谷茶川ノ板橋ヲ→(両辺ノ薯圃)→富着村→(山原船碇泊ス)(薯圃多シ、蘇鉄ヲ処々)→前兼久村→(村間福木陰森)→(読谷山岬ヲ望ム)→仲泊村→(仲泊坂ヲ攀チ登ル)(茅屋アリ)→山田村ノ宿→(思納岳二背ヒテ)、松林二入レハ(村吏拝迎ス)→真栄田村長浜(長保ノ家二小休))→途ニ上リ、左転シテ行キ、村ヲ離ル、処、鍛冶ノ小屋アリ、人無シ→真栄田川ヲ渉ル、(左右二薯圃多ク、総テ鉄蕉ヲ種ルヲ見ル、山途ニ入ル、左辺岌嶫ノ山巓アリ、之ヲ問ヘハ、山田城ト云フ)、是ヨリ路平坦→恩納、読谷山、分界ノ処→(中頭役所長愛野趙一、村吏ヲ率ヒ奉迎)、(輿ヲ止メテ、小憩)→読谷山番所二達ス。


 


2003.8.9(土)メモ

 恩納村山田はかつては読谷山の名を持つムラである。1673年恩納間切が創設される以前は谷茶から南側は読谷山間切の内。だから中頭方の間切の内である。言ってみれば谷茶以南は中山の範囲ということになる。恩納間切が創設された後に国頭方に組み込まれた地域である。今回は山田の現集落内を歩くことはなかったので、北山と中山の文化の重なりまで踏み込こむことはできなかった。しかし、神アシアゲ跡に地頭火神の祠を建ててあることに、二つの文化の重なりをみた思いがする。神アサギに使った石柱を二本残し、そこに地頭火神の祠を建てる発想は二つの文化圏の重なりと見ていいのかもしれない。

 国頭方西街道に架かる谷川の石橋は・・・


    ▲神アサギ跡地と地頭火神の祠。右の石柱は神アサギの柱(2本立)


       ▲国頭方西街道筋の谷川に架かる石橋


2023年3月13日(月)

 「恩納村の歴史の道」
のデジメ作成中、ちょっと寄り道。


【山原のムラ・シマ講座」恩納村山田】(平成23年11月13日)

 「山原のムラ・シマ講座」は恩納村山田です。恩納村山田は1673年以前は読谷山間切の村の一つでした。旧集落の後方に山田グスクがあり、座喜味グスクと中城グスクを築いた護佐丸と関わるグスクがあります。今回は山田グスクと山田(読谷山)村との関わりを見ていきます。これまで見てきた山原のグスクと集落との関係とは異なった形態をしめしています。中南部の集落とグスクとの関係を見ていきます。

 山田村のウタキのイベが山田グスク内にないのが特徴かと思われます。そのことを現場で確認します。また山田と統合された?蔵(倉)波(クラハ)は興味深い場所です。クラハは山田にクラハ原があり、そこに倉波大主の墓があります。一帯を流れるカーは地下(岩の下)を通っています。与論島や沖永良部島では、地下を流れるカーをクラゴーと呼んでいます。すると山田の倉波(クラハ)は暗いカーに因んだ呼称と見ることができます。クラゴー(暗い川)と倉波(クラハ:暗いカー)と共通した地名では?それも確認してみましょう。

 また、山原の村と恩納村山田村と共通するもの、あるいは違いを発見しましょう!

  ↓  恩納村山田へ出発(マイクロバス)
  ↓  山田旧集落に到着
  ↓   ①山田旧集落跡(歴史の道)
  ↓   ②佐護丸の父祖の墓     
  ↓    ③メーヌカー(碇石の確認)  
  ↓    ④神アサギの跡
  ↓    ⑤山田グスク
  ↓    ⑥山田村のウタキのイビ
  ↓    ⑦倉波大主の墓
  ↓    ⑧倉波の暗い川(暗いカー)では?!
  ↓    ⑨石橋(谷川矼:サクガーバシ)
  ↓    ⑩倉波集落の跡地(カー:無未阿…の石碑)
  ↓ 恩納村立博物館

 
           ▲メーガー(碇石あり)              ▲地下を流れるカー

 
     ▲神アサギ跡と火神の祠                ▲山田グスクの遠景

【護佐丸祖先墓碑】
(2009年3月18日)

 恩納村山田に「護佐丸祖先墓碑」(毛氏墳墓)がある。碑の後方の崖上は山田城跡である。恩納村山田は1673年以前は読谷山間切の村の一つであり、読谷山村と呼ばれていた。『琉球国由来記』(1713年)には「読谷山村」と出てくる。『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』には「読谷山間切古読谷山村」と出てくる。読谷山間切の同村とみて差し支えない。まだ解答を持っている訳ではないが、1673年以前の読谷山間切の番所はどこだったのだろうか。山田城から座喜味城に移っているようなので、間切が創設された頃の読谷山間切の番所は座喜味にあったのか、それとも古くから,喜名村に番所があったのだろうか。『琉球国由来記』(1713年)の「年中祭祀」を見ると、首里に住む按司と総地頭は座喜味村にある「読谷山城内之殿」(座喜味城)の祭祀と関わっている。それからすると、読谷山間切の番所は座喜味村にあった可能性が高い。そこから時期は不明だが喜名村に番所は移動したとみた方がよさそうである。

 恩納間切(後の村)が創設される以前は、読谷山村(古読谷山村、後の山田村)は中山に属した間切である。そのことが後の恩納間切が創設されると読谷山間切に属していた村が恩納間切に組み替えられた後、どんな影響を及ぼしているのだろうか。

 その山田城跡の崖中腹にある「護佐丸祖先墓碑」から、どんなことが読み取れるのだろうか。興味深いことがいくつも見えてくる。

   ・乾隆五年(1714年)に造り替えられたということ。
   ・中城按司護佐丸は山田の城主であった。
   ・読谷山の城(山田城)を築き住居していたので、そこの洞窟に墓所を定めた。
   ・墓は洞窟につくり屋形に作り一族を葬った。
   ・幾年もたっているので石造りで築いたあるが悉く破壊。
   ・蒼苔で口が閉ざされている。
   ・康煕五十三年(1714)に墓門の修復と石厨殿に造り替え。遺骨を奉納
   ・毎年彼岸のとき供え物をささげ祭る。
   ・乾隆五年(1740)に碑文の文字が不祥になったので建て替える。

 【碑文表】
   往昔吾祖中城按司護佐丸盛春は元山田の城主に居給ふ其後読谷山の城築構ひ
   居住あるによりて此の洞に墓所を定め内は屋形作にて一族葬せ給ふ然処に
   幾年の春秋を送りしかは築石造材悉破壊に及び青苔のみ墓の口を閉せり
   爰におゐて康煕五十三年墓門修履石厨殿に造替し遺骨を奉納せつさて
   永代子々孫々にも忘す祀の絶さらんことを思ひ毎歳秋の彼岸に供物をさヽけ
   まつる例となりぬ仍之石碑建之也
  大清乾隆五年庚申十月吉日          裔孫豊見城嶺親雲上盛幸記之

 【碑文裏】
   此碑文康煕五十三年雖為建置
   年来久敷文字不詳依之此節
   建替仕也
      書調人毛氏山内親方盛方
      彫調人毛氏又吉里之子盛庸

 

2023年3月12日(

 「恩納村の歴史の道」をテーマで講座を依頼されている。昨日歴史の道を一部踏査してみた。『恩納村誌』所収のグラビアにある「恩納部落全景」と「南恩納馬場の図」と絵葉書「恩納馬場ノ松並木」(検閲済)を思い出し、歴史の道の一コマで紹介することに。

 「字恩納部落全景」の写真の説明文に以下のようにある。「国道湾曲の地形のくびれたところを「舟越」(ふなこし)といい、古代左右の潮入江に小舟を肩にになって越した場所との伝説あり」、手前は南恩納側にあった馬場の一部だとある。戦前の馬場の並木松はここである。

 絵葉書にある「道挟で松の並どる美らしや」の場面は「ガナハナ森」を通る古い宿道を謡ったものだという。

 ガナハナ森を通る宿道、その風景を謡ったウタ、南恩納の馬場の松並木、馬場跡と一里塚。絵葉書に謡われたウタは絵ハガキの風景ではないということ。それらが混在したままの頭の中。(うまく説明できるか?)

 下の画像は『恩納村誌』(昭和55年発行)より

 ・宿道 ・脇道 ・一里塚 ・ウマチモー ・番所


2023年3月11日(土)

 午前中、恩納村の富着へ。午後から恩納村の歴史の道の講座の下見へ。真栄田のフェレ―岩と一里塚。宿道(スク道)、山田旧集落跡、国頭方西街道、仲泊の一里塚。博物館で情報収集。恩納の旧宿道(ガナハナ森)など。

 

 

 


2023年3月10日(金)

 恩納村冨着の旧集落廻りに参加することに。『琉球国由来記』(1613年)の冨着村として出てくる。これより古くの『琉球高究帳』や『絵図郷村帳』では「ふ津き」とあり、読谷山間切の内である。1673年に恩納間切が創設されると恩納間切の村となる。アフシマノ嶽とあり山田ノロ管轄の村である。山田は読谷山村のことで冨着村は読谷山間切の内だった痕跡が見られる。御嶽名のアフシマは大島のことか。1673年に恩納間切創設のとき、金武間切、あるいは美里間切からのではないかと。

 冨着村の神アサギでの稲穂祭、稲穂大祭に谷茶村・仲泊・前兼久・冨着村の四ヶ村の百姓と地頭地頭が参加する。この祭祀は山田巫が司っている。

 冨着の旧集落の図(昭和初期)に神アサギ、地頭火神、御嶽、拝泉の拝所、遊び庭、それとアガリ、ウイヌヤ―、三―ヤ―などの屋号が記されている。そこにまだ冨着の集落があったことを示している。集落は移動しても御嶽や拝所は故地に遺している。『恩納村誌』所収の図参照。

 明日の冨着踏査は受講する立場なので「寡黙」に発見していくことに。
 
   (以下工事中)


   『恩納村誌』605頁より
 



2023年3月09日(木)

 奄美大島の南方に位置する加計呂麻島(瀬戸内町)へ。加計呂麻島は西側と東側(下の絵図の上側と下側)では文化が異なっているのではないか。島は西間切(ニシマキリ)(上部)と東間切(ヒカマキリ)とあり、対岸の間切と対である。(詳細は以下の説明で)(地名は略)



2007年(平成19)12月調査

 加計呂麻島は奄美大島の南方、瀬戸内町の島の一つである。島を訪れるのは今回が二度目である(2007年(平成19)12月。加計呂麻島を訪れるのは、ひとつには神アサギがあることである。二つ目は古琉球からのノロが関わる祭祀が根強く残っていること。そして古琉球の辞令書が確認されていることである。神アサギは沖縄本島北部から加計呂麻島に分布している祭祀場である。アサギの名称は、それより北側の奄美大島にも散見できる。この島の神アサギは大宜味村根謝銘(ウイ)グスクの神アサギと類似していること。

 奄美大島の南西に加計呂麻島がある。島へは瀬戸内町古仁屋からフェリーで渡る。フェリーは古仁屋港から瀬相、加計呂麻島と生間の間を航行している。今回、古仁屋港から生間へと渡った。加計呂麻島の集落について、全くと言っていいほど情報を持たないで島に渡る。フェリーを降りたのが生間である。フェリーが着くのであるが生間は予想以上に小さい集落である。どこが集落の中心部なのかもつかめないでいる。

 加計呂麻島の集落について書かれたものに目を通しても、また島の方々の話を伺っても理解することができない。これまで見てきた視点では、うまくつかめないかもしれない。それで現在の瀬戸内町の歴史をみていくことから。

 奄美大島は笠利間切・名瀬間切・古見間切・住用間切・屋喜内(焼内)間切・東間切・西間切からなる。加計呂麻島は東間切と西間切とに別れる。かつての間切の領域が、今にどう影響を及ぼしているのか。

 現在の瀬戸内町は奄美大島の南西部と大島海峡(瀬戸内)を隔てた加計呂麻島、さらに請島水道を挟んだ与路島・請島などからなる。瀬戸内町となったのは昭和31年である。その時、西方村と鎮西村、実久村と古仁屋町が合併する。

 加計呂麻島の歴史や文化を見ていくとき、どうしても古琉球の時代の区分に戻してみる必要がありそうである。それは加計呂麻島は、東間切と西間切に分けられ、間切とも奄美大島側を含んでいるからである。加計呂麻島のみ対象にしては、理解しがたいものがある。そのことを示すのが古琉球の奄美大島の辞令書である。昨年12月の奄美大島行きで加計呂麻島には渡ったのであるが、全ての村(ムラ)を回る時間がなかったので、前回のと一緒に整理することにする。

 奄美大島の南西に加計呂麻島がある。島へは瀬戸内町古仁屋からフェリーで渡る。フェリーは古仁屋港から瀬相、加計呂麻島と生間の間を航行している。今回(平成19年12月24日)、古仁屋港から生間へと渡った。加計呂麻島の集落について、全くと言っていいほど情報を持たないで島に渡る。フェリーを降りたのが生間である。フェリーが生間に着いたのであるが予想以上に小規模の集落である。どこが集落の中心部なのか、まだしっかりとつかむことができていない。

 現在の瀬戸内町は奄美大島の南西部と大島海峡(瀬戸内)を隔てた加計呂麻島、さらに請島水道を挟んだ与路島・請島などからなる。瀬戸内町となったのは昭和31年である。その時、西方村と鎮西村、実久村と古仁屋町が合併する。鎮西村と実久村は源為朝(鎮西源為朝)に因んだ村名であるようだ。奄美大島は平家と源氏の両者の伝承が根強く残っている。

 古琉球の時代の間切(まきり)区分が、現在私たちが常識としているものの見方とは、大部違うようにある。統治する側の見方なのか、それとも地理的な条件、あるいは交通手段(海上交通)による往来の利便さなのか。それらの影響は大きいのではないかと想像される。果たしてどうだろうか。

 平成20年(2008)1月14日、再び加計呂麻島に渡る。古仁屋港(瀬戸内町)でフェリーを待っていると(8時10分発)はフェリーは生間とは違う方向(瀬相)からやってくる。フェリー名をみると前回乗った「フェリーかけろま」である。船上で「瀬相と生間を就航しているフェリーは同じですか?」と訪ねてみた。「???船員さんに聞いてみて」と。他の方に訪ねると「同じですよ。瀬相から古仁屋港に行って、そこから池間へ行きます」と。「フェリーかけろま」が瀬相―古仁屋―生間の三港を就航しているわけだ。島の方々にとっては当たり前のことなのである。

 平成20年(2008)年1月14日で加計呂麻島の阿多地を除いたすべての村(ムラ:集落)を訪ねることができた。各ムラを訪ねるのは予備調査と史料に登場するムラの様子を思い浮かべながら考えるためである。ムラの様子を整理するため、今回訪ねた順序で、まずは整理することにする。加計呂麻島のムラ回りは約6時間(約80km)のコースである。隣りのムラに行くには峠やきつい山越えをしなければならない。車のハンドルさばきはレーサー並になったかもしれない。隣りのムラにいくには、ほとんどが舟での往来であったことが実感させられた。3月16日に阿多地を訪れる。

 これらのムラを踏査しながら、目に見える形での琉球的なものは非常に少ない印象である。琉球の御嶽に相当する場所は神社になり、墓塔を立てた大和形式の墓である。加計呂麻島の西地域に神アシヤギがあり、アサギミャーに相当する広場がある。その広場には大和相撲の土俵が設けられている。また公民館(分館)がある。

 ムラのほとんどが山から見下ろす形で集落が望める。防災用のマイクのある建物は公民館である。集落は非常に小規模なので公民館広場やバス停留所近くに車を置いて散策である。

・明治41年 渡連方と実久方が合併して鎮西村となり、於斉に役場が置かれる。
・大正5年 実久村が分村し独立、鎮西村役場は押角に移動する。

【瀬 相】(せそう)

・瀬相のノロ

 
       ▲瀬相分館               ▲瀬相のアシャゲ

 
▲瀬相のアシャゲの側にあるオボツイシ      ▲ウフミヤー

須子茂】(すこも)
 
 須子茂は古琉球の二枚の辞令書(1574年)に登場する村名である。二枚の辞令書で「瀬戸内間切西間切」の「すこむ」とあり、「正保国絵図」では「西間切之内 すこも村」とある。辞令書のタイトルでは「須古茂」と表記されているが、そのように表記された時代があったのか。③の辞令書も須子茂にあった辞令書のようである。三点の辞令書が同家に所蔵されていたのであれば、ノロ家の男方は間切役人を勤めていたことになる。それは今帰仁間切の中城ノロ家に戦前まで12枚の辞令書が残っていて、二枚がノロ辞令書で他の10点は男方(役人)の辞令書である。そのことは、ノロ家の男方は役人を務める人物が出た家筋であることがわかる。

①瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの安堵辞令書(万暦2年:1574年)
②瀬戸内西間切の須古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦2年:1574)

③瀬戸内西間切の西掟職補任辞令書(万暦23年:1595)

・辞令書
   志よ里の御ミ事
    せんとうちにしまきりの
    にしのおきてハ
    一人いんほし大さちに
   たまわり申候
  志よ里いんほし大さちの方へまいる
 万暦二十三年九月廿二日 

【加計呂麻島東間切】(参照)


2023年3月08日(水)

工事中


2023年3月07日(火)

 奄美大島を飛び越えて喜界島へ。永良部島に遺る古琉球の地名表記(過渡期)。「まきり」「間切」の漢字・平仮名表記、・・・村(漢字・ひらがな)、間切と村名の表記が過渡期。絵図の表題に「琉球国之内」とあり、1643年頃間切や村名がひら仮名、漢字表記にはカタカナでルビされ、漢字表記への過渡期を示している。(古琉球のひらがな表記から薩摩統治下なると漢字表記へ) 与論島以北の永良部島、徳之島、大島、喜界島の絵図に「琉球國之内」とあるように1609年以前の琉球國の地名表記が遺っている。



 ・志戸桶間切(シトオケマキリ) 七百十弐石餘
 ・東間切(ヒカマキリ) 千九百八十六石餘
 ・西目間切(ニシマキリ)之内 いしやく村
 ・西目間切(ニシメマキリ) 千五十石餘
 ・わん間切 千八珀六拾弐石餘
 ・荒木間切(アラキマキリ) 千三百弐拾弐石餘 
 ・荒木間切(アラキマキリ) しつる村
          喜界市嶋(キカイシマ)

 (以下略)

喜界島をゆく(2005年4月30日~5月2日)              


 4月30日の午後4時半頃、喜界島に入る。天気は曇、時々小雨である。那覇空港から奄美空港経由での喜界島入りである。奄美空港から喜界島へは、乗り継ぎのため三時間ばかり待ち時間がある。奄美の(笠利町:現大島市)を回ろうかと、一瞬よぎったのだが、今回は喜界島に集中することに決める。少し時間があるので、空港近くの奄美パークと田中一村美術館で奄美の感覚をつかむことにした。

 喜界島空港に降りると、早速車を借りる。空港近くは市街地を形成しているので、またそこに宿泊するので5月2日の朝の調査が可能である。それで反時計周りに喜界島を回ることにした。湾のマチを抜け、中里へ。中里・荒木・手久津久・上嘉鉄・先山・蒲原・花良治・蒲生・阿伝とゆく。阿伝で日が暮れる。嘉鈍から先は5月1日(二日目)に回ることにした。戻ることのできない性格なので、二日目にゆく嘉鈍より先の村々は、素通りしながら宿のとってある湾まで。宿に着いたのは午後7時過ぎである。島の一周道路沿いに集落がある。喜界島の集落の成り立ちの特徴なのかもしれない。それと一周線沿いの集落のいくつかは、台地あるいは台地の麓からの移動集落ではないかと予想している。が、まずは集落にある公民館と港(今では漁港)を確認することから。公民館は防災連絡用のマイクを見つければいい。

 琉球と喜界島との関わりは、どのようなことから見ていけばいいのか。確固たるキーワードを持っての喜界島行きではない。島の村々の集落に足を置いてみることで見えてくるのはなんだろうか。そんな単純な渡島であった。島の数ヵ村の集落を見ていくうちに、喜界島と琉球との関わりを見るには漂着船の記事ではないか。というのは、今では整備された漁港であるが、それでも岩瀬が多いところである。そのような岩瀬の多い所への舟の出入りはなかなか困難である。よほどの事情がないと入れないのである。よほどの事情というのが、琉球から薩摩へ向かう船。あるいは逆の薩摩から琉球へ向かう途中、嵐にあい、喜界島に漂着したことが予測できる(特に近世)。

 それから西郷隆盛や名越左源太などのような道之島への流人である。島に与えた流人(特に薩摩からの流人)の影響も大きかったであろう。近世であるが琉球からの喜界島への流人の例もみられる。もちろん大きな影響を与えたのは薩摩からの役人達である。そんなことを思いふけながら、二時間ばかりの数ヶ所の集落めぐりである(一日目)。


【喜界島の野呂(ノロ)】

 『大島 喜界 両島史料雑纂』に「喜界島史料―藩庁よりの布令論達掟規定約等」(明治41年中旬調査:読み下し文と訳文)がある。その中に「野呂久目」について何条かある。その条文は安永7年(1778)のようである。1611年に与論以北は薩摩の支配下に組み込まれ、薩摩化させられていったが、この野呂は古琉球から近世に渡って根強く残ってきたものである。この段階でも、いろいろ禁止されるが、その後までひきづり、ノロ関係の遺品が遺されている。

 

  一 野呂久目春秋の祭一度づつ花束一升づつ、その外の神事はさしとめ候
     ただし村々みき造り候義さしとめ候
   一 野呂久目、湾間切入付而は所物入用これある由候間、以来さしとめ候
   一 右湾方え野呂以下代合の節、ふくろ物と名付け、米相拂い来り由候得ども、向候得ども、
     向後差とめ候
   一 野呂久目神がかりの節、前晩より右湾えさしこし来る由候得ども、向後さしとめ候

※ノロの弾圧
  喜界島のノロも大島群島同様、安政7年の禁止令があり、弾圧された。ノロもフドンガナシも隠れて、明治に至る。
  赤連の「新山家系図は明治になって不明。

【喜界島の主な出来事】

 ・1441年 大島は琉球に従う。
 ・1429年 琉球国は三山が統一される。
 ・1450年 尚徳、喜界島を攻略する。琉球王国の支配下に置かれる。
 ・1466年 尚徳、互弘肇に命じ、泊地頭職を任じ、(泊村)及び大島諸島を管轄させる。 
       その頃、米須里主之子を喜界島大屋子として派遣する?・1472年『海東諸国紀』の「琉球国
       之図」に「鬼界島属琉球 去上松二百九十八里去大島三十里」とある。
 ・『中山世譜』に「琉球三十六島」のうちとして「奇界」とある。
 ・『球陽』に「鬼界」とある。
 ・「琉球時代」以前は大宰府の管轄にあったとの認識がある。
 ・12世紀保元の乱で敗れた源為朝が伊豆大島を経て喜界島北部の小野津に漂着した伝承がある。
 ・12世紀平資盛らが豊後国から船を出して屋久島、喜界島、奄美大島へ逃げて行った伝承がある。
 ・七城・・・島の最北端にあり、平資盛が13世紀初めに築城したという。あるいは15世紀後半に琉球の
      尚徳王が築いたともいう。
 ・1266年に琉球王国に朝貢したという?
 ・1450年朝鮮人が臥蛇島(トカララ列島)に漂着し、二人は薩摩へ、二人は琉球へ。
 ・1456年琉球に漂着した朝鮮人の見聞。池蘇と岐浦はききゃ?
 ・「おもろさうし」に「ききゃ」(喜界島)と謡われる。
 ・琉球国王尚泰久のとき(1454~61年)諸島を統治した後、「鬼界ガ島」に派兵(『琉球神神記』)。
 ・喜界島が琉球国に朝貢がないので兵を派遣して攻める(『中山世鑑』)。
 ・1466年尚徳王自ら大将として2000名の兵で喜界島を攻撃する(『中山世鑑』)(『中山世譜』)。
 ・1537年 奥渡より上の捌が初めて任命される。・1554年「きヽきのしとおけまきりの大くすく」(辞令書)
      (間切・大城大屋子の役職)
 ・1569年「きヽやのひかまきりのあてんのろ」(辞令書)(間切・ノロ)
    (ノロに関する伝世島:バシャ衣・ハブラ玉)
 ・1611年 大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島が薩摩藩の直轄とされる。
 ・1613年島津氏は奄美五島(与論・沖永良部・徳之島・奄美大島・喜界島)を直轄領とする。
 ・「正保琉球国絵図」に喜界島の石高6932石余、志戸桶間切・東間切・西目間切・わん間切・荒木間切の
    五間切)
 ・「大御支配次第帳」によると「荒木間切・伊砂間切・東間切・志戸桶間切・西間切・湾間切の六間切)
    (間切のもとに村々がある)

 ・1837年琉球国王の即位につき清国から冊封使がくると喜界島からも米11石を納めている。
     (豚・鶏・玉子・塩魚・きのこ・海苔・あおさ・白菜など)


2023年3月05日(

 徳之嶋はこの図(1643年頃)に「琉球之内」とあり、まだ琉球國の様子を色濃く遺している。十数年前に徳之島を訪れている。



※( )はルビ
 ・東間切之内(ヒカマキリ) かめつ村
 ・東間切(ヒカマキリ)弐千五十一石餘
 ・東間切 花徳村(ケトク)
 ・西目間切(ニシメマキリ)之内 てゝ村
 ・西目間切(ニシメマキリ)之内 よなま村
 ・西目間切(ニシメマキリ) 三千九百七拾六石餘
 ・西目間切(ニシメマキリ)之内 せたき村
 ・面縄間切(オモナワマキリ)之内 あごん村
 ・面縄間切(オモナワマキリ) 三千九百八拾弐石代餘

 徳之嶋(トクノシマ) 高壱萬九石七斗 嶋廻拾七里三町

 ・東間切大道ヨリあごん村大道迄四里山坂難所牛馬無往還
 ・さきはる
 ・かなみ崎
 ・此間壱里
 ・とのはら崎
 ・しよひやの崎
 ・かなま崎
 ・黒はす崎
 ・池
 ・井ノ川
 ・井ノ川より秋徳湊(アキトクミナト)迄海上壱里半
 ・秋徳(アキトク) 此秋徳湊(アキトクミナト)入壱町廣サ一町深サ五尋
    大船三艘程繫ル東風南風之時船繫リ不成

  (以下略)


2007年2月22日(木)メモ

③徳之島の村名(地名)など

 徳之島の村名をみると沖縄本島と共通する村名(地名)がいくつもある。その共通性は何だろうか?マギリ(間切)やグスク(城)やアジ(按司)やノロは琉球側から入り込んだ語彙なのか?一つひとつ紐解きする余裕がないが・・・

 伊仙町に面縄がある。面縄にあるウンノーグスクに恩納城が充てられている。沖縄本島の恩納村の恩納と同義だろうか。恩納村の恩納はウンナーは「大きな広場」と解しているが、ウンノーは「大きなイノー」のことか。あるいはノーとナーは地域空間をあらわす義でウンノーもオンナも「大きな広場」なのだろうか。

     【徳之島】                    【沖縄本島】
   ・久志村(徳之島町)           ←→久志村(久志間切・現在名護市・クシ)
   ・母間村(徳之島町・ブマ)       ←→部間村(久志間切・現在名護市・ブマ)
    ・宮城村(徳之島町花徳・ミヤグスク) ←→宮城(ミヤグスク・ミヤギ)
    ・手々村(徳之島町手々・ティティ)  ←→手々(今帰仁村湧川・テテ)
    ・兼久村(天城町・カネク)        ←→兼久村(名護市・カネク)
   ・平土野(天城町・ヘトノ)         ←→辺土名(国頭村・ヘントナ)?
   ・瀬滝村(天城町・セタキ)        ←→瀬嵩(名護市:セタケ)
   ・与名間村(天城町・ユナマ)      ←→与那嶺(今帰仁村・ユナミ)?
   ・面縄村(伊仙町・ウンノー・恩納)   ←→恩納(恩納村・ウンナ)?
   ・糸木名村(伊仙町・イチキナ)     ←→イチョシナ(今帰仁村兼次・平敷)
   ・大城跡(天城町松原・ウフグスク)   ←→大城(ウフグスク)
   ・喜念(伊仙町・キネン)          ←→知念(現在南城市・チネン)? 
   ・グスク                   ←→グスク
   ・間切                    ←→間切(マギリ)
   ・八重竿村(伊仙町・竿・ソー)      ←→川竿・長竿(今帰仁村湧川・・・ソー)
   ・掟袋・里袋(・・・ブク)           ←→田袋(ターブク)
   ・河地(カワチ)               ←→幸地
   ・按司(アジ)                ←→按司(アジ) 
   ・玉城(タマグスク)            ←→玉城(タマグスク・タモーシ)

 
     ▲面縄の集落(上縄面より)           ▲上面縄への途中にある拝所
 
  ▲面縄高千穂神社               ▲上面縄から眺めた面縄の集落


2007年2月21日(水)

 「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(1529~1609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。

 辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。

②徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(1600年)
  しよりの御ミ(事)
    とくのにしめまきりの
    てヽのろハ
       もとののろのくわ 
    一人まなへのたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  萬暦二十八年正月廿四日


 ▲徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書
(『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会)所収より

 古琉球(16世紀)の奄美と琉球との関係を「辞令書」を通して見ることができる。手々集落内に琉球と関わった(グスクの築城)という掟大八が力ためしに用いたいう石が屋敷に置かれている。今回いくことができなかったが掟大八と家来の六つの墓があるという。それらを按司墓と呼んでいる。1611年与論島以北は薩摩の統治下になり、薩摩の制度が被さっていくが、それでもノロや間切や首里王府時代の伝承など、近世まで根強く引きずっている。

 
     ▲屋敷内に置かれている掟大八の力石(天城町手々)


2023年3月04日(土)

 永良部島に遺る古琉球の地名表記(過渡期)。「まきり」「間切」の漢字・平仮名表記、・・・村(漢字・ひらがな)、間切と村名の表記が過渡期。絵図の表題に「琉球国之内」とあり、1643年頃間切や村名がひら仮名、漢字表記にはカタカナでルビされ、漢字表記への過渡期を示している。(古琉球のひらがな表記から薩摩統治下なると漢字表記へ) 与論島以北の永良部島、徳之島、大島、喜界島の絵図に「琉球國之内」とあるように1609年以前の琉球國の地名表記が遺っている。



琉球國之内(1643年頃)

 ・きびる間切 千七百九拾石余

 ・きびる間切之内 あぜふ村
 ・徳時間切之内(トクトキマキリ) 西目村(ニシメ)
 ・徳時間切 千七百八十石余
 ・徳時間切之内 ぢな村
 ・大城間切之内(ヲホ九スクマキリ) 下平川(シモヒラカワ)村
 ・大城間切(ヲホ九スクマキリ) 五百八十八石余
 ・大城間切(ヲホ九スクマキリ)之内 和(ワ)村

   永良部島(エラブシマ)

 ・高四千百五拾八石五斗
       嶋廻拾里十八町
 ・おかみ山
 ・西目(ニシメ)村大道ヨリ下平川(シモヒラカワ)村大道迄弐里
 ・おかミ山
 ・池
 ・池
 ・池
 ・池
 ・池
 ・池
 ・池
 ・池
 ・きひる浜
 ・池
 ・おかミ山
 ・やぎにや崎
 ・国頭(クニカミ)崎
 ・和泊(ワトマリ) 此和泊(ワトマリ)入弐町廿間廣サ弐町四拾間干汐之時深サ六尋
       水底はへ任船繋リ不自由東風之時船繫り不成
 ・和泊(ワトマリ)より与論嶋(ヨロンシマ)之内あがる泊迄海上十三里午未間二當ル
 ・あまた川
  ・おかミ山
 ・池
 ・池
 ・池


2023年3月03日(金)

 「歴史の道」(宿道)の講座準備中。宿道(スクミチ)は首里王府から各間切番所をつなぐ道である。恩納村の文化財の企画で喜納番所(読谷山間切)と恩納間切番所、そして名護間切番所をつなぐ宿道を踏査する。明治14年に上杉県令一行が通った道筋である。下の「正保国絵図」(『琉球国絵図史料集第一集―正保国絵図及び関連資料』(沖縄県教育委員会文化課編)を参考とした。恩納間切がまだなく、金武間切と読谷山間切の一部だった頃の絵図である。喜瀬武原のウマチモーを通る道筋が興味深い。(工事中)


『琉球国絵図史料集第一集―正保国絵図及び関連資料「正保国絵図」の一部

山田(古読谷山)

「正保国絵図」((『琉球国絵図史料集第一集―正保国絵図及び関連資料』
消えた久良波村(暗川からきた地名か)(宿道が通る)


2023年3月02日(木)

 12日と17日に恩納村へ。その一件、「歴史の道」(宿道)の講座。その準備。本部町、名護(羽地・名護)・沖永良部島、大宜味村、恩納村と続いている。今日は「歴史の道」(恩納間切)を先日恩納村史から提供してもらった明治14年の上杉県令一行の「巡回日誌」をベースにまとめてみるか。しばらく、訪れていないので近々踏査してみないと。金武間切と恩納間切境の「喜瀬武原のウマチモー」は建て替えれる。


【『上杉県令巡回日誌』にみる恩納】『沖縄県史十一』(上杉県令日誌より)(恩納村史村史より打ち込み原稿提供)

 幸喜村→(海岸)→(喜瀬力)→(薪ヲ堆積)(松樹薈蔚)→村吏拝迎→瀬良垣村→(海岸二出)(山原船碇泊ス)→恩納岳斗出)→(恩納港)→恩納川ノ板橋ヲ渡ル→(村吏拝迎)→恩納番所)(名護ヨリ五里一合八勺二才)(門南少シ西二面シ)→石屏ヲ建ツ、庭中芝ヲ敷キ、其南ニ福樹傘ヲ張リタル如ク秀ツ、門外南東ニ迤ニシテ、老松路ヲ挾テ欝然タリ上ヨリ恩納ノ岳嶺ヲ露ス)(掛床二徐葆光ノ書、松月有餘鑿?)、(匾額ニハ、王文治ノ書)、(玉藍)(薯ハ上作ナ)(食料ヲ欠キ、蘇鉄ヲ用ヒタリ)(間切の貧困状況を詳細に聞く)→谷茶村

  二日晴朝、恩納番所ヲ発ス→(束竹)→万座毛ニ→(輿ヲ下リ、眺望ス)→(村吏拝迎ス)→海中ニ「ヨウノガン」島アリ→恩納寄留人ノ宿アツテ、此地水田多シ→奇礁大小駢並ス→海ヨリ岸ヲ趁フテ峙ツ、山原船二艘投錨セリ→谷茶村→谷茶川ノ板橋ヲ→(両辺ノ薯圃)→富着村→(山原船碇泊ス)(薯圃多シ、蘇鉄ヲ処々)→前兼久村→(村間福木陰森)→(読谷山岬ヲ望ム)→仲泊村→(仲泊坂ヲ攀チ登ル)(茅屋アリ)→山田村ノ宿→(思納岳二背ヒテ)、松林二入レハ(村吏拝迎ス)→真栄田村→長浜(長保ノ家二小休)→途ニ上リ、左転シテ行キ、村ヲ離ル、処、鍛冶ノ小屋アリ、人無シ→真栄田川ヲ渉ル、(左右二薯圃多ク、総テ鉄蕉ヲ種ルヲ見ル、山途ニ入ル、左辺岌嶫ノ山巓アリ、之ヲ問ヘハ、山田城ト云フ)、是ヨリ路平坦→恩納、読谷山、分界ノ処→(中頭役所長愛野趙一、村吏ヲ率ヒ奉迎)、(輿ヲ止メテ、小憩)→読谷山番所二達ス。

  


恩納間切番所のあった恩納村全図(明治36年)
 
▲恩納村名嘉間に建てられた仲間節の歌碑  ▲喜瀬武原にあるウマチモー(祠は昭和16年建立)

喜納番所 恩納番所 金武番所(入れる)


2023年3月01日(水)

 3月スタート。世の中の動きの見通しが暗い。時給自足でも考えるか!

 午後から大宜味村史編さん室の職員が「村史」の通史編と資料編の打合せで「寡黙庵」へ。大方編集方針が決まる。(詳細は近々) 私の頭の中は以下のことが駆け巡っていた。

大宜味間切

 大宜味間切は現在の大宜味村にあたる。国頭方に属し、北方は国頭間切、南島は久志間切、南西は羽地間切、北西は東シナ海に面している。首里から大宜味間切番所のある塩屋村までの距離二十里五町余り(里積記)。

 古琉球の時期には大宜味間切はなく国頭間切に属していた。「球陽」尚貞王五年(1673)条などによると、同年に羽地間切から二村、国頭間切から十一ヶ村を割いて「田港郡」(田港間切)が設置され、向象賢(羽地王子朝秀)・向日躋(屋嘉比親雲上朝慈)が惣地頭に任じられている。のち田港間切(田湊間切)は大宜味間切と改称(同書尚貞王五年条)。

 「琉球国由来記」(1713年)に大宜味間切、「琉球国旧記」では大宜味郡、「球陽」では大宜味郡・大宜味県などとも記される。当初の所属村は渡野喜屋・田湊・屋古・前田・塩屋・根路銘・饒波・喜如嘉・根謝銘・城・屋嘉比の十一ヶ村で、のち親田村・見里村・大宜味村・一名代村が新たに設置され、屋古村と前田村が合併して屋古前田村となったため十四ヶ村となった。

 康熙三四年(1695)に間切の境界に変動が生じ、久志間切の平良村・川田村(現東村)が大宜味間切に編入され、太平洋に面する東海岸の地域まで大宜味間切となったが、同時に屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移された。しかし同五八年にこれら五ヶ村にとって便利ではないとして、それぞれ元の間切に戻された(以上「球陽」尚敬王七年条)。

 なお嘉慶十五条(1810)の「饒波村根神代合入め割□帳」(根神家文書)に大兼久村が見えるが、1903年(明治26年)の統計からは大宜味村のうちとして処理されている(県統計書)。 

・ウイ(根謝銘)グスクと大宜味 

 祭祀をクニの統治(支配関係)で見ていくと、祭祀が単なる神行事ではなくクニの統治と表裏一体の関係にある。大宜味間切の事例(『大宜味村史』所収)で紹介してみよう。これまで気にしていた根謝銘グスクの上り口にあるウドゥンニーズ(御殿根所)とトゥンチニーズ(殿地根所)の火神の祠の意味が分かってきた。

 間切役人の中に首里大屋子や大掟がいる。
 首里大屋子の職務を見ると、「当方」
   仕上米(運天又は鏡地)付届之事、貢租米・首里御殿入れ之事、諸知
   行・作得米付届之事、諸地頭・遺分銭付届之事。

 大掟は「雑物当方」
   諸雑物付届之事、同代銭付届之事、御殿・殿内御用之品付届之事、
   建築用材・唐船用材届之事
 とある。

 この資料から『琉球国由来記』(1713年)の「年中祭祀」に出てくる按司や総地頭、そして脇地頭と間切役人との関係をみると、それらの首里・那覇に住む按司や総地頭などが、領地の祭祀に参加する理由が見えてくる。両者の関係は貢租を納める、貢租を受ける関係にある。

 大宜味間切には、間切を所領する按司地頭と総地頭(親方地頭)がいる。両者をまとめて両総地頭という。村を領するのが脇地頭である。按司地頭家が大宜味御殿、親方地頭家を大宜見殿内、脇地頭家は所領する村名をかぶせて・・・・殿内という。

 これらの地頭は王府から与えられた家禄高を知行米として間切から収得と同時に地頭地からあがる作得米を取得した。地頭の中には王府から開墾状をもらい、知行仕明請地として農民に強制的に耕作させ小作料として一定の米を取得するのもいた。

  地頭は御殿、殿内の入用な物資を間切から徴収、盆・正月・祝いなどの度に魚・肉・野菜・猪・薪炭などを調達する。

 地頭家の大きな特権は領地の間切からの奉公人を徴用したこと。間切役人層の子弟(十五歳以上)が地頭代の推薦で採用された。奉公が終わると間切役人への登用が保障された。そのため、間切役人層は子弟を首里奉公にするため種々の手段で地頭家に取り入れられるようにした。

  そのような関係をみると、『琉球国由来記』の按司・総地頭、そして地頭、地元オエカ人の祭祀への参加、あるいは供え物の提供は、神との関係だけでなく、貢租・家禄の作得の提供、村人にすれば奉公人に取り入れられるかどうかの関係でもある。

 このように見てくると、祭祀がクニの地方を統治する仕組みに祭祀を巧みに取り入れている。神アサギや祭祀を通しての研究は、クニの地方支配をみていくものであることに気づかされる。

http://www.rekibun.jp/images2/041128u1.jpg http://www.rekibun.jp/images2/041128u2.jpg
   グスク上り口の二つの火神の祠     根謝銘グスク内の神アサギ

 ウイ(根謝銘グスク)から今帰仁グスクの側にあるクボウヌ御嶽がみえる。今帰仁グスクと根謝銘グスクとの関わりが身近なものになった。根謝銘グスクには今帰仁グスクの興亡の時期、あるいは滅亡後に離散した人たちが、今帰仁グスクに行ったり、あるいは滅ぼされたとき、根謝銘グスクに逃げた伝承が根強くある。それは近年のことではなく、結構古い時代(300~400年前)から伝えられていたようだ。歴史の史実としての証はできないが、長い伝承を持つと人々の内々には史実としての思い込みがある。 http://www.rekibun.jp/images2/040330.jpg. http://www.rekibun.jp/images2/040331.jpg
根謝銘グスクから今帰仁グスク方面をみる   グスクへの石道

・根謝銘グスクと御嶽( ウタキ)

 根謝銘グスクは別名ウイグスクと呼ばれ、『海東諸国紀』(1472年)の琉球国之図で「国頭城」と出てくる。そのため国頭城は根謝銘グスクと想定されたりする。このグスクはグスクと御嶽の関係をしる手掛かりを持っている。

 根謝銘グスクは大宜味村字謝名城にあるグスクである。大宜味間切は1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割してできた間切である。間切分割以前の国頭間切(大宜味間切の大半を含む)の拠点となったグスクと見られる。国頭按司の首里への移り住みや間切分割で大宜味間切地内になったり複雑である。根謝銘グスクは大宜味間切内の根謝銘村に位置する(明治36年以降謝名城)。

 杜全体が根謝銘グスク(ウイグスク)である。杜全体を御嶽(ウタキ)と見なすと、根謝銘グスク内にウフグスクとナカグスクの二つのグスクがあるが、それは一つのウタキにイベが二つある御嶽と見た方がよさそうである。ナカグスクとウフグスクはグスクと呼んでいるがそこは御嶽のイベに相当する位置にある。

 杜全体が御嶽(グスク)で、御嶽(グスク)の中に二つのイベがあると考えた方がいいのではないか。そのパターンは今帰仁グスクも同様である。今帰仁グスクを含めて、もう一度整理してみる必要がある。

 根謝銘グスク(ウイグスク)はさらに複雑である。国頭間切は1673年に分割(一部羽地間切から)して大宜味(田港)間切を創設した。根謝銘グスクのある村は国頭間切内ではなく大宜味間切内となる。根謝銘グスクと関わっていた城村・根謝銘村は大宜味間切へ、同じく根謝銘グスクと関わっていた親田村、屋嘉比村、見里村は当初大宜味間切、1695年に国頭間切へ。1719年に再び大宜味間切へ。明治36年には根謝銘と一名代と城の三つの村が合併して謝名城村、親田、屋嘉比、見里の三つの村が合併して田嘉里村となる。そのために表向き村やノロ管轄が複雑に見える。

 しかし『琉球国由来記』(1713年)や御嶽などの関わりは間切分割や村(むら)の合併以前の祭祀を村レベルではしっかりと継承している。ところが按司レベルになると、根謝銘グスクでの祭祀はできなくなったのか大宜味按司や親方(両惣地頭)は城村と喜如嘉村で、国頭按司や親方(両惣地頭)は『琉球国由来記』(1713年)頃には番所のあった奥間村での祭祀に参加している。

 根謝銘グスク(ウイグスク)に現在、大城(ウフグスク)と中城(ナカグスク)がある。やはり大グスク(イベ)は高嘉里(親田・屋嘉比・見里が合併:屋嘉比ノロ管轄)、中グスク(イベ)は謝名城(根謝銘・一名代・城が合併)が祭祀を行っている。城内の神アサギでの海神祭(ウンガミ)は城ノロ管轄の村の神人が行っている。
 根謝銘グスク内に火神の祠がある。首里に向っているという。火神は間切分割以前の国頭按司の火神なのか、分割後の大宜味按司の火神だろうか。グスクの入り口にトゥンチニーズ(殿内根所)とオドゥンニーズ(御殿根所)の火神があるので、そこは大宜味按司の火神、グスク内にある火神は間切分割以前の国頭按司の火神なのかもしれない。

 グスクに住んでいた按司達の首里への移居は、中央と地方との関わりだけでなく、グスクと周辺の村や集落との関係も変わってくる。特に按司の移居は集落や村移動の引き金になっている。今帰仁按司の移居はグスク前方の今帰仁村と後方の志慶真村の集落移動へ影響を及ぼしている。

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  グスク内のナカグスク(イベ)            グスク内にある神アサギ

【根謝銘グスク】

 根謝銘グスクは幾度も訪れている。今回の踏査はもちろんグスクのある謝名城のムラ(字)も目的の一つであるが、根謝銘グスクから。謝名城は明治36年に根謝銘村と一名代村、そして城村から一字ずづとっての名称である。根謝銘グスクの名称は根謝銘村にあったグスクに由来する。根謝銘グスクと接するように城村があり「くすく原」の原石があった。根謝銘グスクが、大宜味間切が分割する以前の国頭間切の中央部に位置する。間切分割以前の国頭間切の番所は、根謝銘グスク内にあったのではないか。

 根謝銘グスクは別名上グスクとも呼ばれる。このグスクに関心があるのは、内部構造が今帰仁グスクと共通する部分が多いこと。それらのことから、築城以前、グスクが機能していた時代、グスク滅亡後のグスクの姿が見えてくるのではないか。そのようなことを考えながら・・・・。
  ①グスク内に二つの御嶽(グスク:イベ部分)がある。
  ②グスクの内部に神アサギがある。
  ③按司クラスの火神の祠がある。
  ④ウンジャミが行われる。
  ⑤間切分割の境になっている。
  ⑥グスク内にカーがある。
  ⑦グスクと接して集落跡がある。
  ⑧間切分割以前の番所はグスク内にあったのではないか?

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▲ウイグスクの遠景              ▲グスク内の神アサギ
        
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▲グスク内の大城ウタキ(イベか)      ▲グスク内の中城ウタキ(イベか)

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▲地頭火神の祠               ▲グスク内のカー
         
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 ▲田嘉里川の河口       ▲河口の港、後方真ん中がグスク  
    

 大宜味村謝名城にある根謝銘グスク(ウイグスク)を訪れる。このグスクについては、何度も触れてきたが、今回は「グスクと周辺の集落と村」との関わりを確認するためである。この根謝銘グスク(ウイグスク)は海東諸国紀』(1471年)でいう国頭城に相当するグスクを見られる。このグスクのある字謝名城は大宜味村(ソン)であるが、1673年以前は国頭間切の内である。周辺を踏査していると、あちこちにイノシシの足跡や通り道、掘り返した個所があちこちに見られた。

【 国頭間切の国頭(クンジャン)は同村根謝銘( インジャミ)?】

 国頭は根謝銘から来ているのではないか! これまで間切の名称が同村名から来ているのが多い。国頭間切に同村名の国頭村がない。1673年に大宜味間切が創設される以前の国頭地方(間切)の拠点は根謝銘グスク(別名ウイグスク)とみられる。すると国頭間切の同村は根謝銘となる。根謝銘はインジャミと呼んでいる。国頭はクンジャンである。間切名と同村との関係からすると、インジャミに国頭(上)の漢字を充てたのではないか。『海東諸国紀』(1471年)には根謝銘グスクの位置に国頭城を充ててあることもあり、インジャミに国頭をあてたともとれる。山原では国頭間切(クンジャン)の同村が根謝銘村(インジャミ)であれば、間切名と同村名が一致しないのは羽地間切のみである。

 宮城栄昌は『国頭村史』(5頁)で「国頭はくにかみ・くにがみ・くんがみ・くんじゃみ・くんじゃん・くんちゃんと転化した形で呼称される」とあるが、逆にクンジャンやクンジャミやインジャミに「国頭」や「国上」の字を充てたのではないかと見ている。

テキスト ボックス: ▲屋嘉比港からグスクをみる(中央)

テキスト ボックス: ▲グスク内のウフグスク(イベ)