寡黙庵:琉球・沖縄の地域史調査研究 (管理人:仲原)
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2023年3月
(先月23年2月へ)
以下の報告は『和泊町誌』の琉球と沖永良部島との歴史を紐解こうとすることを目的としたものである。令和5年2月19日から23日の調査報告(知名町部分は略)
沖永良部島(和泊町)
沖永良部島と琉球国との歴史を見ていく場合、沖永良部島と繋がる歴史と史料を準備する必要がある沖永良部島で北山王の三男や「世の主」、那覇の世など、各時代と沖永良部島の歴史を見てみたい。沖縄三山(北山・中山・南山)の時代、北山の怕尼芝・珉・攀安知の時代、三山統一後の中山と沖永良部島さらに三山統一後の中山と沖永良部島の時代(那覇の世)を史料と対峙させながらみていく。
ハニジの出現は、中北山の時代の興亡があり、滅び怕尼芝が登場する。怕尼芝の出自は不明だが、怕尼芝はパニジやハニジと発音する羽地按司(世の主)ではないかという。仲北山が滅ぶと羽地出身の怕尼芝が北山王となり、その次男真松王子弟の真松千代だという。「沖永良部島世の主御由緒」386頁
この時代は、「世の主」の時代で北山の三王(怕尼芝・珉・攀安知)で「明実録」の同時代史料をよみとる その次の時代は、三山統一後の時代である。梵鐘に「琉球国王大世主」とあり「おほよぬし」とよむという。足利将軍が琉球国王への「りゅうきゅう国のよのぬしへ」の文書が五点あげてある。
① 応永廿一年(1414年)
② 永享八年(1436年)
③ 永享十一年(1439年)
④ 大永七年(1527年)
の文書(史料)から、沖永良部島に伝わる伝承を歴史的な流れにつげないか。
「おもろ」に「はにし」や「はにち」や古琉球の辞令書に「はにし」があり、怕尼芝の出身地を地名に表しているとみられる。
三山統一後の時代は、第一尚氏時代(1429年)から第二監守時代と沖永良部島を史料で見ていく作業である。中山の尚徳王成化二年(1466 年)喜界島遠征、大島討伐が尚清王嘉靖十六年(1537年)、尚清王嘉靖年間、尚元王尚元王(隆慶五年(1571年)が認められる。この時代の史料に大島遠征ではないが「首里王之印」の辞令書が三十点ある。与論島と沖永良部島では辞令書の確認はされていないが、嘉靖八年十二月廿九日(1529年)笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書(かさりまきり ・うすく 大やこ)が古く、新しいのが萬暦三十七年二月十一日(1609年)名瀬間切の西の里主職補任辞令書(なせまきり ・にし ・さとぬし ・あさ・おきて)がある。十六世紀初め頃「三十三君」(祭祀の制度化)が置かれ、永良部阿応理恵の遺品昭和10年頃認されているので、おもろにのろ、三十のろとあり、のろ辞令の発給があり、沖永良部島ののろの辞令があったとみられる。
・1265年大島始めて琉球英祖に入貢
・永祖7年(1266年)酋長を大島に派遣し統治
・琉球の王の尚徳の喜界島遠征
・大島七間切、喜界五間切
・229年(舜天三三)英祖生まれる。
・1243年(舜馬順煕元)長崎の渡宋者一行、琉球に漂着。
・1260年(英祖元)英祖即位
・1261年(英祖二)英祖、各地を巡り田地の境界をただす。極楽山に墓を築く。(浦添ようどれ)
・1264年(英祖五年)久米・慶良間・伊平屋の各島初めて中山に入貢。
・1265年頃、僧禅鑑浦添に極楽寺を建立。
・1266年(英祖七年)大島諸島。中山に入貢、その頃泊に公館(泊御殿)と公倉築造る。
・1291年(英祖三二年)世祖(フビライ汗)瑠求を討つが失敗。
・1585年(尚永十三年)紋船(天龍寺桃庵、安谷屋宗春)薩摩を経て大阪に着く。
・1588年(尚永十六年)豊臣秀吉、島津を介して琉球を招論する。
・1590年(尚寧二年)宮古の上国船、朝鮮に漂着救助される。
【シニグの痕跡踏査】
シニグが行われていたシニグドーがどれだけ確認できるか拾ってみた(和泊町のみ)。
①西原村 シニグドー(集落内)シニグ祭の時神酒を造る篭石のウヮーマが祭られている。
②出花村 シニグド―に篭石ウヮーマ、ウミリ祭
③畦布村 シニグド― ヌルバンドー、数基のトゥ―ル墓あり、一基本に「貞享三年寅八月九日
奉加修補忌代々為先祖也孝孫敬白 和之掟大工松細工牛川間」(1675年)とある。
④根折村
⑤玉城村 フバドー
⑥内城村 世之主の居城あり。
永良部 立つ あす達 大ぐすく げらへて げらへ遺り 思ひ子の 御為 又 離れ立つ
あす達 大ぐすく
⑦大城村 川内百が世の主に築城の場所を指したという。
大城間切があった頃、中心になった村か。
シニグ祭のとき間切役人の与人が城跡周辺に夜籠りして祭祀を行っていた。
⑧皆川村 シニグドー(看板が消失)
世の主が巡回の時、馬を下りて休憩したところがシニグドー、シニグ祭の時、大城・久志検・
喜美留の三間切の与人が白装束で与人旗・衆多旗・百姓旗持った騎馬隊が集結したという。
⑨古里村 与和の浜あり。
永良部世の主の選でおつある 御駄群れ 御駄群 世の主ぢよ 待ち居る 又
離れ世の主の 金鞍 掛けて 与和泊 降れて
世の主の家来が自害(中寿神社)
⑩瀬名村 おかみ山あり。内喜名港、山原との交易
⑪永嶺村 ニャ―トゥ墓あり。
⑫後欄村 グラルマグハチの居城跡がある。「おもろさうし」に
「永良部まこはちが 玉のきやく崇べて ひといいよは すかま内に 走りやせ 又
離れまこはち 玉の」と謡われている。
クラルマグハチが積み上げたるグスク 永良部三十ノロの遊び所」とある。
城(グスク)内にマグハチの墓がある。近くにノロ墓があるという(私は未確認)
和泊町の喜美留へ。「世乃主かなし由緒書」に登場する名刀のこと。北山伝承の北野菜切」と類似した刀の話。シニグドー(金毘羅神社一帯?)(そこは昨年案内いただいていた)へ。トゥールチヂやヒャーヤなど気になりながら畦布へ。
畦布には大和城や殿地(為朝上陸屋敷)、トゥール墓へ。へ。森家のノロ関係遺品とシニグ旗を見せていただいたことがある。今回は留守だったので近くのヌルバント―前で農機具を修理している年配の方に石垣の四角のコンクリートについて伺うと「説明板だよ」と。向かいのヌルバンドーについて伺うと、「それは力石」とのこと。
トゥールに石碑(1686年)があり、「貞享三年寅八月九日 加修補忘屋代々為先祖也 子孫敬白 和之掟 大工松細工牛川間」とある。トゥール墓は貞享三年(1686年)に修復したことが刻銘させている。そこでヒントをもらう。そこから他のトゥール墓を見直してみた。(以降、
道の島の琉球的ものの禁止と残存情況
沖永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』の以下のことが気になる。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったかもしれない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易に絶ちきることができなかったようだ。
・1609年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、沖永良部島は薩摩の直轄となる。
・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)を
琉球から請けることを禁する。(寛永十九年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖
視するようになる。(亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球へのぼり国王に
謁して辞令を貰っていたという)
・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服階品を琉球から受けるのを厳禁する。
・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。
城(グスク)のつく地名と「世之主」、そこあたりは北山の時代(歴史)とつながる話である。それとノロ殿内の遺品とシニグ祭は三山統一後の琉球の歴史とつながる。薩摩の琉球侵攻以後、与論島以北は薩摩化されていく。その過程でノロやヒャ(百)やシニグや墓、土地制度が変貌していく。それでも北山の時代の痕跡、琉球国(三山統一後)の痕跡を北山の香り、琉球国のものがどのように残っているのか、その確認の調査・研究である。それが、史実なのかには踏み込まない。沖永良部島に遺る琉球的(歴史・おもろ・墓・地名・言語・ノ委ロ関係遺品・シニグ・神アサギ・地名・風景など)など、北山の時代と琉球国、1609年以前の古琉球の時代のものが600年経った今にどう伝えられているか、その一部を紹介するにすぎないが、今後の調査研究の課題でもある。
沖永良部島と琉球国との歴史を見ていく場合、沖永良部島と繋がる歴史と史料を準備する必要がある沖永良部島で北山王の三男や「世の主」、那覇の世など、各時代と沖永良部島の歴史を見てみたい。沖縄三山(北山・中山・南山)の時代、北山の怕尼芝・珉・攀安知の時代、三山統一後の中山と沖永良部島さらに三山統一後の中山と沖永良部島の時代(那覇の世)を史料と対峙させながらみていく。
ハニジの出現は、中北山の時代の興亡があり、滅び怕尼芝が登場する。怕尼芝の出自は不明だが、怕尼芝はパニジやハニジと発音する羽地按司(世の主)ではないかという。仲北山が滅ぶと羽地出身の怕尼芝が北山王となり、その次男真松王子弟の真松千代だという。「沖永良部島世の主御由緒」386頁
この時代は、「世の主」の時代で北山の三王(怕尼芝・珉・攀安知)で「明実録」の同時代史料をよみとる その次の時代は、三山統一後の時代である。梵鐘に「琉球国王大世主」とあり「おほよぬし」とよむという。足利将軍が琉球国王への「りゅうきゅう国のよのぬしへ」の文書が五点あげてある。
① 応永廿一年(1414年)
② 永享八年(1436年)
③ 永享十一年(1439年)
④ 大永七年(1527年)
の文書(史料)から、沖永良部島に伝わる伝承を歴史的な流れにつなげないか。
「おもろ」に「はにし」や「はにち」や古琉球の辞令書に「はにし」があり、怕尼芝の出身地を地名に表しているとみられる。
三山統一後の時代は、第一尚氏時代(1429年)から第二監守時代と沖永良部島を史料で見ていく作業である。中山の尚徳王成化二年(1466 年)喜界島遠征、大島討伐が尚清王嘉靖十六年(1537年)、尚清王嘉靖年間、尚元王尚元王(隆慶五年(1571年)が認められる。この時代の史料に大島遠征ではないが「首里王之印」の辞令書が三十点ある。与論島と沖永良部島では辞令書の確認はされていないが、嘉靖八年十二月廿九日(1529年)笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書(かさりまきり ・うすく 大やこ)が古く、新しいのが萬暦三十七年二月十一日(1609年)名瀬間切の西の里主職補任辞令書(なせまきり ・にし ・さとぬし ・あさ・おきて)がある。十六世紀初め頃「三十三君」(祭祀の制度化)が置かれ、永良部阿応理恵の遺品(昭和□年)確認されているので、おもろにのろ、三十のろとあり、のろ辞令の発給があり、沖永良部島ののろの辞令があったとみられる。
・1265年大島始めて琉球英祖に入貢
・永祖7年(1266年)酋長を大島に派遣し統治
・琉球の王の尚徳の喜界島遠征
・大島七間切、喜界五間切
・1229年(舜天三三)英祖生まれる。
・1243年(舜馬順煕元)長崎の渡宋者一行、琉球に漂着。
・1260年(英祖元)英祖即位
・1261年(英祖二)英祖、各地を巡り田地の境界をただす。極楽山に墓を築く。(浦添ようどれ)
・1264年(英祖五年)久米・慶良間・伊平屋の各島初めて中山に入貢。
・1265年頃、僧禅鑑浦添に極楽寺を建立。
・1266年(英祖七年)大島諸島。中山に入貢、その頃泊に公館(泊御殿)と公倉築造る。
・1291年(英祖三二年)世祖(フビライ汗)瑠求を討つが失敗。
・1585年(尚永十三年)紋船(天龍寺桃庵、安谷屋宗春)薩摩を経て大阪に着く。
・1588年(尚永十六年)豊臣秀吉、島津を介して琉球を招論する。
・1590年(尚寧二年)宮古の上国船、朝鮮に漂着救助される。
恩納村の宿道・脇道を通して歴史の一端を描けそうだ。
村(ムラ)には村屋、間切には番所があり、公務を掌った。番所はバンジョとよみ、バンジュともいう。番所名は所在する村名で呼ばれる。恩納間切は恩納村にあり恩納番所、読谷山間切は喜納村にあり喜納番所という。今帰仁は運天番所とよぶ。羽地間切は田井等番所、親川番所という。本部間切は渡久地番所という。
・国頭方
東宿 西原→宜野湾・越来・美里・金武・久志・羽地・大宜味・国頭
(名護・今帰仁へは羽地より、本部へは名護より届く)
西宿 浦添→北谷・読谷山・恩納・名護・本部・今帰仁
(羽地へは名護より、大宜味・久志へは羽地より、伊江島へは本部より、
伊平屋島へは今帰仁より届く))・中頭方
東宿 西原→宜野湾・中城・具志川・勝連・与那城
西宿 浦添→北谷・読谷山・越来・美里
・島尻方
真和志宿 真和志→豊見城・小禄・兼城・高嶺・真壁・喜屋武・摩文仁
南風原宿 南風原→大里・佐敷・知念・玉城・東風平・具志頭
・今帰仁間切之内
瀬底嶋 人居有
・今帰仁間切之内
によは村
・名護間切之内
幸喜(カウキ)村
・金武間切之内
こちや村
・金武間切之内
おんな村
・越来間切
・幸喜村大道ヨリ金武間切大道迄
・こちや崎
・ぎのさ崎
・きん崎
・おんな崎
・前田崎
悪鬼納嶋(ヲキナワ)
:一里山(塚)
(『恩納村誌』より)
恩納村の宿道(スクミチ)(巾8尺:約2.4m、両側に6尺(約2m)松をうえ
―読谷村喜名―親志原―◆―◎多幸山―山田小・中学校―久良波―山田温泉―上の丘―仲泊貝塚へ
下り―◎仲泊―前兼久―◎ムーンビーチ門口―富着浜に沿って―谷茶浜◎―ジムンの海岸を迂回
―屋嘉田浜―赤崎―馬場◎――元の恩納役場―恩納古島―恩納グスク―太田の浜沿い―瀬良垣―
◎安富祖―衛星追跡所(山手)―熱田―名嘉真―伊武部―◆―喜瀬(名護)
脇 道
―金武へ通ずる道 金武―名嘉真間
安富祖から原道あり
―久良波テラン口―真栄田―塩屋―与久田―長浜―
上杉県令一行は名護から恩納間切りへ(恩納間切部分のみ)(明治14年)
上杉県令一行、恩納の宿道(街道)を往く。歴史になる風景である。
幸喜村→(海岸)→(喜瀬)→(薪ヲ堆積)(松樹薈蔚)→村吏拝迎→瀬良垣村→(海岸二出)(山原船碇泊ス)→恩納岳斗出)→(恩納港)→恩納川ノ板橋ヲ渡ル→(村吏拝迎)→恩納番所)(名護ヨリ五里一合八勺二才)(門南少シ西二面シ)→石屏ヲ建ツ、庭中芝ヲ敷キ、其南ニ福樹傘ヲ張リタル如ク秀ツ、門外南東ニ迤ニシテ、老松路ヲ挾テ欝然タリ上ヨリ恩納ノ岳嶺ヲ露ス)(掛床二徐葆光ノ書、松月有餘鑿?)、(匾額ニハ、王文治ノ書)、(玉藍)(薯ハ上作ナリ)(食料ヲ欠キ、蘇鉄ヲ用ヒタリ)(間切の貧困状況を詳細に聞く)→谷茶村
二日晴朝、恩納番所ヲ発ス→(束竹)→万座毛ニ→(輿ヲ下リ、眺望ス)→(村吏拝迎ス)→海中ニ「ヨウノガン」島アリ→恩納寄留人ノ宿アツテ、此地水田多シ→奇礁大小駢並ス→海ヨリ岸ヲ趁フテ峙ツ、山原船二艘投錨セリ→谷茶村→谷茶川ノ板橋ヲ→(両辺ノ薯圃)→富着村→(山原船碇泊ス)(薯圃多シ、蘇鉄ヲ処々)→前兼久村→(村間福木陰森)→(読谷山岬ヲ望ム)→仲泊村→(仲泊坂ヲ攀チ登ル)(茅屋アリ)→山田村ノ宿→(恩納岳二背ヒテ)、松林二入レハ(村吏拝迎ス)→真栄田村→長浜(長保ノ家二小休))→途ニ上リ、左転シテ行キ、村ヲ離ル、処、鍛冶ノ小屋アリ、人無シ→真栄田川ヲ渉ル、(左右二薯圃多ク、ソテ鉄蕉ヲ種ルヲ見ル、山途ニ入ル、左辺岌嶫ノ山巓アリ、之ヲ問ヘハ、山田城ト云フ)、是ヨリ路平坦→恩納、読谷山、分界ノ処→(中頭役所長愛野趙一、村吏ヲ率ヒ奉迎)、(輿ヲ止メテ、小憩)→読谷山番所二達ス。
▲1853年ペリー一行の図 (輿に乘って) ▲恩納集落にあるカンジャヤ―とカー
・金武間切恩納のろくもい(金武間切の時代)
恩納村(ムラ)は1673年以前は金武間切の村の一つであった。恩納ノロに関する古琉球の辞令書と近世初期の辞令書二枚が写真で残っている(『補遺伝説 沖縄の歴史』島袋源一郎)。一枚は万暦12年(1584)の金武間切恩納ノロ職叙任辞令書(1584年)、もう一枚は順治15年(1658)の金武間切恩納ノロ職叙任辞令書である。まだ恩納間切が創設される以前である。そのため「きんまきりの」(金武間切の)となっている。また年号に干支が書かれない最後の辞令書である。翌順治16年の辞令書から干支が記されるようになる。
しよりの御ミ事 首里の御見事
きんまきりの 金武間切の
おんなのろハ おんなのろハ
もとののろのくわ □□□□□
一人まかとうに 一人□□□□に
たまわり申候 たまわり申候
万暦十二年五月十二日 順治十五年七月廿八日
明治36年頃の恩納ノロのノロ地(田畑など)は以下の通りである(『恩納村誌』)。
・畑(赤間原)1200坪 ・田(屋嘉下り口)700坪 ・畑(先原)1200坪 ・田(ウチノウラ)400坪
・田(伊場)750坪 ・田(当袋)600坪 その他
[明治43年の作得]
作得表高 米1石2斗5升4合 雑穀 9斗7升
雑穀9斗7升
現収高 (ナシ)
▲恩納ノロの辞令書(1584年) ▲恩納ノロの辞令書(1658年)
2003.8.9(土)恩納村山田の歴史の道を往く。(今帰仁村歴史文化センターのムラ・シマ講座)
(幼稚園児から80歳近い若者まで)
恩納村山田はかつて読谷山の名を持つムラである。1673年恩納間切が創設される以前は谷茶から南側は読谷山間切の内。だから中頭方の間切の内である。言ってみれば谷茶以南は中山の範囲ということになる。恩納間切が創設された後に国頭方に組み込まれた地域である。今回は山田の現集落内を歩くことはなかったので、北山と中山の文化の重なりまで踏み込こむことはできなかった。しかし、神アシアゲ跡に地頭火神の祠を建ててあることに、二つの文化の重なりをみた思いがする。神アサギに使った石柱を二本残し、そこに地頭火神の祠を建てる発想は二つの文化圏の重なりと見ていいのかもしれない。
永良部と北山・琉球
沖永良部島に北山や琉球国と関わる歴史や伝承があります。1609 年以前の北山や古琉球の姿が今に伝えています。そのことを確認するために島通いしています。世の主の初代が次男だという。北山と関わる世の主の話、北山と関わる地にあるシニグ。島にはシニグドー各地にあり、明治4年までシニグ行われています。シニグが分布する地域が沖縄本島北から与論島、そして永良部島です。沖縄のシ二グの古い形を遺しているのか。シニグ旗に武士の絵が描かれ薩摩化しています。琉球的と見られるトゥール墓、その前に大和的墓(大和年号)が混在しています。
三山統一後の尚真王の頃になると、八重山のオヤケアカハチの乱、中山軍の討伐、宮古の仲宗根豊見親が宮古頭職に任命されます。神職の大阿母職の任命がなされます。尚徳王の喜界島征伐や各地の按司を首里に按司を首里に集居させる制度が敷かれます。16世紀初頭には三十三君の女官制度も整います。おもろでのろが登場し勾玉や簪などのろの祭具が遺っています。各地の按司を首里に集めますが、今帰仁按司(北山監守)は、今帰仁城に住まわせます。尚真王の三男の尚韶威をおくり1665年まで監守として勤めます。
その頃、首里城の整備がなされ、1458年には首里城正殿に万国津梁の鐘が架けられます。この時代に数多くの石碑を建立し金石文として残されています。「おもろさうし」(一巻)が発刊されます。永良部島がおもろで謡われます。
1500年代から奄美の喜界島まで首里王府から辞令書(御印判)が発給されています。奄美に遺る辞令書は、首里王府の印があり古琉球(1609年以前)で「正保国絵図」に奄美の島々、先島も「琉球国之内」とあり、先島は1600
年以降も琉球国の内で、奄美は1611年に大島・喜界・徳之島・沖永良部・与論の島々が薩摩の支配となります。
1611年以後、琉球的な物の禁止や廃止があるが、それでも遺った琉球的なもの。針付(パヂチ)は琉球・奄美でも消えました。制度や墓など薩摩化していくが、それでも遺ったものを沖永良部島から拾っていきます。
(工事中)
恩納村の宿道(スクミチ)(巾8尺:約2.4m、両側に6尺(約2m)松をうえ
―読谷村喜名―親志原―◆―◒多幸山―山田小・中学校―久良波―山田温泉―上の丘―仲泊貝塚へ
下り―◒仲泊―前兼久―◒ムーンビーチ門口―富着浜に沿って―谷茶浜◒―ジムンの海岸を迂回
―屋嘉田浜―赤崎―馬場◒――元の恩納役場―恩納古島―恩納グスク―太田の浜沿い―瀬良垣―
◒安富祖―衛星追跡所(山手)―熱田―名嘉真―伊武部―◆―喜瀬(名護)
脇道
―金武へ通ずる道 金武―名嘉真間
安富祖から原道あり
―久良波テラン口―真栄田―塩屋―与久田―長浜―
(工事中)
上杉県令一行は名護から恩納間切りへ(恩納間切部分のみ)
幸喜村→(海岸)→(喜瀬)→(薪ヲ堆積)(松樹薈蔚)→村吏拝迎→瀬良垣村→(海岸二出)(山原船碇泊ス)→恩納岳斗出)→(恩納港)→恩納川ノ板橋ヲ渡ル→(村吏拝迎)→恩納番所)(名護ヨリ五里一合八勺二才)(門南少シ西二面シ)→石屏ヲ建ツ、庭中芝ヲ敷キ、其南ニ福樹傘ヲ張リタル如ク秀ツ、門外南東ニ迤ニシテ、老松路ヲ挾テ欝然タリ上ヨリ恩納ノ岳嶺ヲ露ス)(掛床二徐葆光ノ書、松月有餘鑿?)、(匾額ニハ、王文治ノ書)、(玉藍)(薯ハ上作ナ)(食料ヲ欠キ、蘇鉄ヲ用ヒタリ)(間切の貧困状況を詳細に聞く)→谷茶村
二日晴朝、恩納番所ヲ発ス→(束竹)→万座毛ニ→(輿ヲ下リ、眺望ス)→(村吏拝迎ス)→海中ニ「ヨウノガン」島アリ→恩納寄留人ノ宿アツテ、此地水田多シ→奇礁大小駢並ス→海ヨリ岸ヲ趁フテ峙ツ、山原船二艘投錨セリ→谷茶村→谷茶川ノ板橋ヲ→(両辺ノ薯圃)→富着村→(山原船碇泊ス)(薯圃多シ、蘇鉄ヲ処々)→前兼久村→(村間福木陰森)→(読谷山岬ヲ望ム)→仲泊村→(仲泊坂ヲ攀チ登ル)(茅屋アリ)→山田村ノ宿→(思納岳二背ヒテ)、松林二入レハ(村吏拝迎ス)→真栄田村→長浜(長保ノ家二小休))→途ニ上リ、左転シテ行キ、村ヲ離ル、処、鍛冶ノ小屋アリ、人無シ→真栄田川ヲ渉ル、(左右二薯圃多ク、総テ鉄蕉ヲ種ルヲ見ル、山途ニ入ル、左辺岌嶫ノ山巓アリ、之ヲ問ヘハ、山田城ト云フ)、是ヨリ路平坦→恩納、読谷山、分界ノ処→(中頭役所長愛野趙一、村吏ヲ率ヒ奉迎)、(輿ヲ止メテ、小憩)→読谷山番所二達ス。
2003.8.9(土)メモ
恩納村山田はかつては読谷山の名を持つムラである。1673年恩納間切が創設される以前は谷茶から南側は読谷山間切の内。だから中頭方の間切の内である。言ってみれば谷茶以南は中山の範囲ということになる。恩納間切が創設された後に国頭方に組み込まれた地域である。今回は山田の現集落内を歩くことはなかったので、北山と中山の文化の重なりまで踏み込こむことはできなかった。しかし、神アシアゲ跡に地頭火神の祠を建ててあることに、二つの文化の重なりをみた思いがする。神アサギに使った石柱を二本残し、そこに地頭火神の祠を建てる発想は二つの文化圏の重なりと見ていいのかもしれない。
国頭方西街道に架かる谷川の石橋は・・・
▲神アサギ跡地と地頭火神の祠。右の石柱は神アサギの柱(2本立)
▲国頭方西街道筋の谷川に架かる石橋
奄美大島は笠利間切・名瀬間切・古見間切・住用間切・屋喜内(焼内)間切・東間切・西間切からなる。加計呂麻島は東間切と西間切とに別れる。かつての間切の領域が、今にどう影響を及ぼしているのか。
現在の瀬戸内町は奄美大島の南西部と大島海峡(瀬戸内)を隔てた加計呂麻島、さらに請島水道を挟んだ与路島・請島などからなる。瀬戸内町となったのは昭和31年である。その時、西方村と鎮西村、実久村と古仁屋町が合併する。
喜界島空港に降りると、早速車を借りる。空港近くは市街地を形成しているので、またそこに宿泊するので5月2日の朝の調査が可能である。それで反時計周りに喜界島を回ることにした。湾のマチを抜け、中里へ。中里・荒木・手久津久・上嘉鉄・先山・蒲原・花良治・蒲生・阿伝とゆく。阿伝で日が暮れる。嘉鈍から先は5月1日(二日目)に回ることにした。戻ることのできない性格なので、二日目にゆく嘉鈍より先の村々は、素通りしながら宿のとってある湾まで。宿に着いたのは午後7時過ぎである。島の一周道路沿いに集落がある。喜界島の集落の成り立ちの特徴なのかもしれない。それと一周線沿いの集落のいくつかは、台地あるいは台地の麓からの移動集落ではないかと予想している。が、まずは集落にある公民館と港(今では漁港)を確認することから。公民館は防災連絡用のマイクを見つければいい。
琉球と喜界島との関わりは、どのようなことから見ていけばいいのか。確固たるキーワードを持っての喜界島行きではない。島の村々の集落に足を置いてみることで見えてくるのはなんだろうか。そんな単純な渡島であった。島の数ヵ村の集落を見ていくうちに、喜界島と琉球との関わりを見るには漂着船の記事ではないか。というのは、今では整備された漁港であるが、それでも岩瀬が多いところである。そのような岩瀬の多い所への舟の出入りはなかなか困難である。よほどの事情がないと入れないのである。よほどの事情というのが、琉球から薩摩へ向かう船。あるいは逆の薩摩から琉球へ向かう途中、嵐にあい、喜界島に漂着したことが予測できる(特に近世)。
それから西郷隆盛や名越左源太などのような道之島への流人である。島に与えた流人(特に薩摩からの流人)の影響も大きかったであろう。近世であるが琉球からの喜界島への流人の例もみられる。もちろん大きな影響を与えたのは薩摩からの役人達である。そんなことを思いふけながら、二時間ばかりの数ヶ所の集落めぐりである(一日目)。
【喜界島の野呂(ノロ)】
『大島 喜界 両島史料雑纂』に「喜界島史料―藩庁よりの布令論達掟規定約等」(明治41年中旬調査:読み下し文と訳文)がある。その中に「野呂久目」について何条かある。その条文は安永7年(1778)のようである。1611年に与論以北は薩摩の支配下に組み込まれ、薩摩化させられていったが、この野呂は古琉球から近世に渡って根強く残ってきたものである。この段階でも、いろいろ禁止されるが、その後までひきづり、ノロ関係の遺品が遺されている。
一 野呂久目春秋の祭一度づつ花束一升づつ、その外の神事はさしとめ候
ただし村々みき造り候義さしとめ候
一 野呂久目、湾間切入付而は所物入用これある由候間、以来さしとめ候
一 右湾方え野呂以下代合の節、ふくろ物と名付け、米相拂い来り由候得ども、向候得ども、
向後差とめ候
一 野呂久目神がかりの節、前晩より右湾えさしこし来る由候得ども、向後さしとめ候
※ノロの弾圧
喜界島のノロも大島群島同様、安政7年の禁止令があり、弾圧された。ノロもフドンガナシも隠れて、明治に至る。
赤連の「新山家系図は明治になって不明。
【喜界島の主な出来事】
・1441年 大島は琉球に従う。
・1429年 琉球国は三山が統一される。
・1450年 尚徳、喜界島を攻略する。琉球王国の支配下に置かれる。
・1466年 尚徳、互弘肇に命じ、泊地頭職を任じ、(泊村)及び大島諸島を管轄させる。
その頃、米須里主之子を喜界島大屋子として派遣する?・1472年『海東諸国紀』の「琉球国
之図」に「鬼界島属琉球 去上松二百九十八里去大島三十里」とある。
・『中山世譜』に「琉球三十六島」のうちとして「奇界」とある。
・『球陽』に「鬼界」とある。
・「琉球時代」以前は大宰府の管轄にあったとの認識がある。
・12世紀保元の乱で敗れた源為朝が伊豆大島を経て喜界島北部の小野津に漂着した伝承がある。
・12世紀平資盛らが豊後国から船を出して屋久島、喜界島、奄美大島へ逃げて行った伝承がある。
・七城・・・島の最北端にあり、平資盛が13世紀初めに築城したという。あるいは15世紀後半に琉球の
尚徳王が築いたともいう。
・1266年に琉球王国に朝貢したという?
・1450年朝鮮人が臥蛇島(トカララ列島)に漂着し、二人は薩摩へ、二人は琉球へ。
・1456年琉球に漂着した朝鮮人の見聞。池蘇と岐浦はききゃ?
・「おもろさうし」に「ききゃ」(喜界島)と謡われる。
・琉球国王尚泰久のとき(1454~61年)諸島を統治した後、「鬼界ガ島」に派兵(『琉球神神記』)。
・喜界島が琉球国に朝貢がないので兵を派遣して攻める(『中山世鑑』)。
・1466年尚徳王自ら大将として2000名の兵で喜界島を攻撃する(『中山世鑑』)(『中山世譜』)。
・1537年 奥渡より上の捌が初めて任命される。・1554年「きヽきのしとおけまきりの大くすく」(辞令書)
(間切・大城大屋子の役職)
・1569年「きヽやのひかまきりのあてんのろ」(辞令書)(間切・ノロ)
(ノロに関する伝世島:バシャ衣・ハブラ玉)
・1611年 大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島が薩摩藩の直轄とされる。
・1613年島津氏は奄美五島(与論・沖永良部・徳之島・奄美大島・喜界島)を直轄領とする。
・「正保琉球国絵図」に喜界島の石高6932石余、志戸桶間切・東間切・西目間切・わん間切・荒木間切の
五間切)
・「大御支配次第帳」によると「荒木間切・伊砂間切・東間切・志戸桶間切・西間切・湾間切の六間切)
(間切のもとに村々がある)
・1837年琉球国王の即位につき清国から冊封使がくると喜界島からも米11石を納めている。
(豚・鶏・玉子・塩魚・きのこ・海苔・あおさ・白菜など)
【『上杉県令巡回日誌』にみる恩納】『沖縄県史十一』(上杉県令日誌より)(恩納村史村史より打ち込み原稿提供)
幸喜村→(海岸)→(喜瀬力)→(薪ヲ堆積)(松樹薈蔚)→村吏拝迎→瀬良垣村→(海岸二出)(山原船碇泊ス)→恩納岳斗出)→(恩納港)→恩納川ノ板橋ヲ渡ル→(村吏拝迎)→恩納番所)(名護ヨリ五里一合八勺二才)(門南少シ西二面シ)→石屏ヲ建ツ、庭中芝ヲ敷キ、其南ニ福樹傘ヲ張リタル如ク秀ツ、門外南東ニ迤ニシテ、老松路ヲ挾テ欝然タリ上ヨリ恩納ノ岳嶺ヲ露ス)(掛床二徐葆光ノ書、松月有餘鑿?)、(匾額ニハ、王文治ノ書)、(玉藍)(薯ハ上作ナ)(食料ヲ欠キ、蘇鉄ヲ用ヒタリ)(間切の貧困状況を詳細に聞く)→谷茶村
大宜味間切
大宜味間切は現在の大宜味村にあたる。国頭方に属し、北方は国頭間切、南島は久志間切、南西は羽地間切、北西は東シナ海に面している。首里から大宜味間切番所のある塩屋村までの距離二十里五町余り(里積記)。
古琉球の時期には大宜味間切はなく国頭間切に属していた。「球陽」尚貞王五年(1673)条などによると、同年に羽地間切から二村、国頭間切から十一ヶ村を割いて「田港郡」(田港間切)が設置され、向象賢(羽地王子朝秀)・向日躋(屋嘉比親雲上朝慈)が惣地頭に任じられている。のち田港間切(田湊間切)は大宜味間切と改称(同書尚貞王五年条)。
「琉球国由来記」(1713年)に大宜味間切、「琉球国旧記」では大宜味郡、「球陽」では大宜味郡・大宜味県などとも記される。当初の所属村は渡野喜屋・田湊・屋古・前田・塩屋・根路銘・饒波・喜如嘉・根謝銘・城・屋嘉比の十一ヶ村で、のち親田村・見里村・大宜味村・一名代村が新たに設置され、屋古村と前田村が合併して屋古前田村となったため十四ヶ村となった。
康熙三四年(1695)に間切の境界に変動が生じ、久志間切の平良村・川田村(現東村)が大宜味間切に編入され、太平洋に面する東海岸の地域まで大宜味間切となったが、同時に屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移された。しかし同五八年にこれら五ヶ村にとって便利ではないとして、それぞれ元の間切に戻された(以上「球陽」尚敬王七年条)。
なお嘉慶十五条(1810)の「饒波村根神代合入め割□帳」(根神家文書)に大兼久村が見えるが、1903年(明治26年)の統計からは大宜味村のうちとして処理されている(県統計書)。
・ウイ(根謝銘)グスクと大宜味
祭祀をクニの統治(支配関係)で見ていくと、祭祀が単なる神行事ではなくクニの統治と表裏一体の関係にある。大宜味間切の事例(『大宜味村史』所収)で紹介してみよう。これまで気にしていた根謝銘グスクの上り口にあるウドゥンニーズ(御殿根所)とトゥンチニーズ(殿地根所)の火神の祠の意味が分かってきた。
間切役人の中に首里大屋子や大掟がいる。
首里大屋子の職務を見ると、「当方」
仕上米(運天又は鏡地)付届之事、貢租米・首里御殿入れ之事、諸知
行・作得米付届之事、諸地頭・遺分銭付届之事。
大掟は「雑物当方」
諸雑物付届之事、同代銭付届之事、御殿・殿内御用之品付届之事、
建築用材・唐船用材届之事
とある。
この資料から『琉球国由来記』(1713年)の「年中祭祀」に出てくる按司や総地頭、そして脇地頭と間切役人との関係をみると、それらの首里・那覇に住む按司や総地頭などが、領地の祭祀に参加する理由が見えてくる。両者の関係は貢租を納める、貢租を受ける関係にある。
大宜味間切には、間切を所領する按司地頭と総地頭(親方地頭)がいる。両者をまとめて両総地頭という。村を領するのが脇地頭である。按司地頭家が大宜味御殿、親方地頭家を大宜見殿内、脇地頭家は所領する村名をかぶせて・・・・殿内という。
これらの地頭は王府から与えられた家禄高を知行米として間切から収得と同時に地頭地からあがる作得米を取得した。地頭の中には王府から開墾状をもらい、知行仕明請地として農民に強制的に耕作させ小作料として一定の米を取得するのもいた。
地頭は御殿、殿内の入用な物資を間切から徴収、盆・正月・祝いなどの度に魚・肉・野菜・猪・薪炭などを調達する。
地頭家の大きな特権は領地の間切からの奉公人を徴用したこと。間切役人層の子弟(十五歳以上)が地頭代の推薦で採用された。奉公が終わると間切役人への登用が保障された。そのため、間切役人層は子弟を首里奉公にするため種々の手段で地頭家に取り入れられるようにした。
そのような関係をみると、『琉球国由来記』の按司・総地頭、そして地頭、地元オエカ人の祭祀への参加、あるいは供え物の提供は、神との関係だけでなく、貢租・家禄の作得の提供、村人にすれば奉公人に取り入れられるかどうかの関係でもある。
このように見てくると、祭祀がクニの地方を統治する仕組みに祭祀を巧みに取り入れている。神アサギや祭祀を通しての研究は、クニの地方支配をみていくものであることに気づかされる。
▲グスク上り口の二つの火神の祠 ▲根謝銘グスク内の神アサギ
・根謝銘グスクと御嶽( ウタキ)
根謝銘グスクは別名ウイグスクと呼ばれ、『海東諸国紀』(1472年)の琉球国之図で「国頭城」と出てくる。そのため国頭城は根謝銘グスクと想定されたりする。このグスクはグスクと御嶽の関係をしる手掛かりを持っている。
根謝銘グスクは大宜味村字謝名城にあるグスクである。大宜味間切は1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割してできた間切である。間切分割以前の国頭間切(大宜味間切の大半を含む)の拠点となったグスクと見られる。国頭按司の首里への移り住みや間切分割で大宜味間切地内になったり複雑である。根謝銘グスクは大宜味間切内の根謝銘村に位置する(明治36年以降謝名城)。
杜全体が根謝銘グスク(ウイグスク)である。杜全体を御嶽(ウタキ)と見なすと、根謝銘グスク内にウフグスクとナカグスクの二つのグスクがあるが、それは一つのウタキにイベが二つある御嶽と見た方がよさそうである。ナカグスクとウフグスクはグスクと呼んでいるがそこは御嶽のイベに相当する位置にある。
杜全体が御嶽(グスク)で、御嶽(グスク)の中に二つのイベがあると考えた方がいいのではないか。そのパターンは今帰仁グスクも同様である。今帰仁グスクを含めて、もう一度整理してみる必要がある。
根謝銘グスク(ウイグスク)はさらに複雑である。国頭間切は1673年に分割(一部羽地間切から)して大宜味(田港)間切を創設した。根謝銘グスクのある村は国頭間切内ではなく大宜味間切内となる。根謝銘グスクと関わっていた城村・根謝銘村は大宜味間切へ、同じく根謝銘グスクと関わっていた親田村、屋嘉比村、見里村は当初大宜味間切、1695年に国頭間切へ。1719年に再び大宜味間切へ。明治36年には根謝銘と一名代と城の三つの村が合併して謝名城村、親田、屋嘉比、見里の三つの村が合併して田嘉里村となる。そのために表向き村やノロ管轄が複雑に見える。
しかし『琉球国由来記』(1713年)や御嶽などの関わりは間切分割や村(むら)の合併以前の祭祀を村レベルではしっかりと継承している。ところが按司レベルになると、根謝銘グスクでの祭祀はできなくなったのか大宜味按司や親方(両惣地頭)は城村と喜如嘉村で、国頭按司や親方(両惣地頭)は『琉球国由来記』(1713年)頃には番所のあった奥間村での祭祀に参加している。
根謝銘グスク(ウイグスク)に現在、大城(ウフグスク)と中城(ナカグスク)がある。やはり大グスク(イベ)は高嘉里(親田・屋嘉比・見里が合併:屋嘉比ノロ管轄)、中グスク(イベ)は謝名城(根謝銘・一名代・城が合併)が祭祀を行っている。城内の神アサギでの海神祭(ウンガミ)は城ノロ管轄の村の神人が行っている。
根謝銘グスク内に火神の祠がある。首里に向っているという。火神は間切分割以前の国頭按司の火神なのか、分割後の大宜味按司の火神だろうか。グスクの入り口にトゥンチニーズ(殿内根所)とオドゥンニーズ(御殿根所)の火神があるので、そこは大宜味按司の火神、グスク内にある火神は間切分割以前の国頭按司の火神なのかもしれない。
グスクに住んでいた按司達の首里への移居は、中央と地方との関わりだけでなく、グスクと周辺の村や集落との関係も変わってくる。特に按司の移居は集落や村移動の引き金になっている。今帰仁按司の移居はグスク前方の今帰仁村と後方の志慶真村の集落移動へ影響を及ぼしている。
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▲グスク内のナカグスク(イベ) ▲グスク内にある神アサギ
【根謝銘グスク】
根謝銘グスクは幾度も訪れている。今回の踏査はもちろんグスクのある謝名城のムラ(字)も目的の一つであるが、根謝銘グスクから。謝名城は明治36年に根謝銘村と一名代村、そして城村から一字ずづとっての名称である。根謝銘グスクの名称は根謝銘村にあったグスクに由来する。根謝銘グスクと接するように城村があり「くすく原」の原石があった。根謝銘グスクが、大宜味間切が分割する以前の国頭間切の中央部に位置する。間切分割以前の国頭間切の番所は、根謝銘グスク内にあったのではないか。
根謝銘グスクは別名上グスクとも呼ばれる。このグスクに関心があるのは、内部構造が今帰仁グスクと共通する部分が多いこと。それらのことから、築城以前、グスクが機能していた時代、グスク滅亡後のグスクの姿が見えてくるのではないか。そのようなことを考えながら・・・・。
①グスク内に二つの御嶽(グスク:イベ部分)がある。
②グスクの内部に神アサギがある。
③按司クラスの火神の祠がある。
④ウンジャミが行われる。
⑤間切分割の境になっている。
⑥グスク内にカーがある。
⑦グスクと接して集落跡がある。
⑧間切分割以前の番所はグスク内にあったのではないか?
▲ウイグスクの遠景 ▲グスク内の神アサギ
▲グスク内の大城ウタキ(イベか) ▲グスク内の中城ウタキ(イベか)
▲地頭火神の祠 ▲グスク内のカー
▲田嘉里川の河口 ▲河口の港、後方真ん中がグスク
大宜味村謝名城にある根謝銘グスク(ウイグスク)を訪れる。このグスクについては、何度も触れてきたが、今回は「グスクと周辺の集落と村」との関わりを確認するためである。この根謝銘グスク(ウイグスク)は海東諸国紀』(1471年)でいう国頭城に相当するグスクを見られる。このグスクのある字謝名城は大宜味村(ソン)であるが、1673年以前は国頭間切の内である。周辺を踏査していると、あちこちにイノシシの足跡や通り道、掘り返した個所があちこちに見られた。
【 国頭間切の国頭(クンジャン)は同村根謝銘( インジャミ)?】
国頭は根謝銘から来ているのではないか! これまで間切の名称が同村名から来ているのが多い。国頭間切に同村名の国頭村がない。1673年に大宜味間切が創設される以前の国頭地方(間切)の拠点は根謝銘グスク(別名ウイグスク)とみられる。すると国頭間切の同村は根謝銘となる。根謝銘はインジャミと呼んでいる。国頭はクンジャンである。間切名と同村との関係からすると、インジャミに国頭(上)の漢字を充てたのではないか。『海東諸国紀』(1471年)には根謝銘グスクの位置に国頭城を充ててあることもあり、インジャミに国頭をあてたともとれる。山原では国頭間切(クンジャン)の同村が根謝銘村(インジャミ)であれば、間切名と同村名が一致しないのは羽地間切のみである。
宮城栄昌は『国頭村史』(5頁)で「国頭はくにかみ・くにがみ・くんがみ・くんじゃみ・くんじゃん・くんちゃんと転化した形で呼称される」とあるが、逆にクンジャンやクンジャミやインジャミに「国頭」や「国上」の字を充てたのではないかと見ている。