寡黙庵琉球・沖縄の地域史調査研究)(管理人:仲原)   

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2022年9月
                    
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▲今帰仁村崎山の神ハーサギ   ▲羽地内海(カンテナ湊)      ▲今帰仁村仲尾次の神ハサ―ギ

山原のシニグ  今帰仁阿応理屋恵
沖永良部島を往く
・徳之島を往く
喜界島阿伝(あでん)(東間切)
北山の時代と沖永良部島2016年11月5日沖永良部島講演)
沖永良部島(2022年4月)
今帰仁村崎山のハサ―ギ(葺き替え作業)
国頭村過去記録
徳之島と琉球へ
奄美大島―瀬戸内町―加計呂麻島
本部ミャークニーを辿る
・2005年8月の記録から「ドイツ・オーストリアを往く
本部町の神アサギ(工事中) ・本部町健堅 ・本部町浜元
本部町具志堅  ・具志堅  ・本部町瀬底  ・本部町謝花
本部町嘉津宇  ・本部町備瀬 ・本部町崎本部 ・伊野波・並里・満名
中南部のグスク・ウタキ
国頭村安田のシニグと辞令書
  ・(山原のノロドゥンチ参照
加計呂麻島1  加計呂麻島2
沖永良部島の和泊のムラ  知名町のムラ


2022年9月30日(金)

2003.4.22(火)過去メモ

〔弁カ嶽をゆく〕

 昨日、首里鳥堀町にある弁カ嶽までゆく。目的は火立毛の痕跡が確認できないかである。弁カ嶽は首里城の東方約1kmに位置し、頂上部分が標高165.7mである。頂上部に香炉がいくつか置かれ、今でも拝みにくる人たちがひっきりなしのようだ。首里や那覇のマチ、首里城などを眼下に眺めることができる。また東に太平洋、西に東シナ海が広がる。

 眺めからすれば、弁カ嶽は遠見台のもってこいの場所である。首里城・那覇港・慶良間島、東側に太平洋、南側に久高島などが見渡せる。御嶽には数多くの香炉と「奉寄進」と刻銘された香炉もあり、航海安全の祈願がなされたに違いない。それだけなく、大嶽は久高島への遥拝、小嶽は知念村の斉場御嶽(セーファウタキ)への遥拝場所としての役割を果たしている。

 首里の都の風水と関わる冕嶽(弁カ嶽のこと)・虎瀬・崎山嶽の一つの御嶽でもある。弁カ嶽には大嶽と小嶽があり、両御嶽の祭祀とも首里大あむしられが掌っている(『琉球国由来記』1713年)。

 弁カ嶽への関心は1644年に烽火の制が敷かれ、各地に遠見台が設置される。連絡網は弁カ嶽(首里王府)に知らせるネットワークである。例えば、沖縄本島の西海岸は伊是名古宇利島大嶺原(具志堅)伊江島(瀬底島)座喜味弁カ嶽へと繋いで知らせる。その最終場所が弁カ嶽の火立毛であった。どんな場所なのか・・・・「奉寄進 玉川王子・・・」の香炉があり・・・・。

 ・1519(正徳14)年に大嶽の前に石垣と石造りの門を建立する。
 ・1543(嘉靖22)年に弁カ嶽に松を植え、参道を石畳道に改修する。
         拝殿を創建する(1543年か)。
 ・1644(順治元(1644)年から正月・5月・9月に国王が詣でるようになる。
 1778(乾隆43)年に種子島の船頭が鳥居を建立する。
 ・1800(嘉慶5)年に冊封副使の李鼎元が弁カ嶽で遊ぶ。
 ・1853年ペリー一行が内陸探検のとき弁カ嶽あたりを訪れているようだ。
 ・1944(昭和19)年に日本軍が弁カ嶽に陣地を構築するために石を使う。
 ・1945(昭和20)年攻防戦で国宝に指定されていた石門が破壊される。
 ・1954(昭和29)年にハワイの一心会と鳥堀町の奉仕でコンクリート造り
         の門をつくる。
 ・弁カ嶽は形から航海の目印となる。
 ・弁カ嶽の北東約100mに位置する場所に火立毛があった。

 確認できなかったが「火立毛」(『金石文歴史資料調査報告書Ⅴ―』沖縄県教育委員会)の碑があるようだ(下の拓本)。

.
弁カ嶽の門〈現在はコンクリート)   戦前の弁カ嶽(『琉球建築大観』より)

..
頂上部から首里・那覇のマチを眺める    弁カ嶽の頂上部の様子

.
  門の左手に香炉がいくつも...   頂上部への細い坂道


 
 ・・・山□□□□・・・・
  ・・・・艘・・・・・
  一日二艘
  異国  □□□
    一日
    □□親雲上
    安波茶親雲上
    村渠親雲上
磨耗しているようで、一部の文字が判読されている。採択は阿波根直孝氏。
 


2022年9月29日(木)

 昨日は、「今帰仁村兼次誌」の最後の編集会議(月1の約30回)。最後の編集・完成まで私の仕事。もう一息頑張れるか。



2022年9月27日(火)

 本部町立博物館の講座は本部町備瀬の予定。画像をとり出して頭の整理。

  

戦後資料目録より抜粋(今帰仁村)(字古宇利)

①「新正実施に関する部落懇談会要項(1971年9月~10月)
 外題:公文綴 年代:1971年1月以降 所管:歴文 員数:1   字名:兼次  法量(縦):38  法量:26,5
②「旧正月」 「共通語励行週間実施」 「自家用殺届」
③72’ 「沖縄戦における友軍による住民殺害についての調査報告について
④72’ 「ダイヤモンド婚夫婦さがし運動ご協力依頼
⑤「家庭電化製品、農業用機械普及台数調査について」
⑥72’ 「通貨切替による貯金の差損補償の申請について」
⑦72’ (ハガキ)「国旗セット注文書(沖縄国旗掲揚普及会)
⑧昭和49年 「海洋博を成功させる会・働きたい方の調査
⑨昭和49年 「昭和50年海洋博向け野菜の生産出荷計画について」
⑩71’ 「戦前の郵便貯金等支払いについて」
⑪71’ 「電気点灯にともない電気料金の計算ならびに集金についての説明会開催」
⑫62’ “祝祭典関係綴(内)にて”「米国より人間衛星の打ち上げ成功した事につきお祝辞をよせた
     とのお礼状(AIRMAIL)」

⑬55’ “古書類綴” 「踊用ケイ紙、九月十日 ウーニフジ御願経費(祭祀経費等について・・・)」
⑭55’ “古書類綴” 「出生届」(手書き)
⑮51’ 軍使用地(調査表)
⑯“資料(行政)松田”昭和51年 沖縄タイムス スクラップ記事より「犬の肉をヤギ肉といつわって売る(宮古)」
⑰“資料(重要)松田” 昭和51年 「古宇利(クイ)の歌」
⑱“海洋博関係書数 松田” (新聞スクラップ)「新報 昭和47年 那覇―読谷間に海中道路
⑲“経済課関係書類 松田” 昭和55年 「第1回今帰仁村まつり(プログラム)」「カラオケ大会審査要項」
             昭和54年 「今帰仁村古宇利島への架橋建設の促進に対する要請」

【①「新正実施に関する部落懇談会要項(1971年9月~10月)】内容

  今帰仁村新生活運動実践協議会 

1、趣旨
 沖縄に新生活運動推進協議会が発足したのが1956年で以来各地で運動が展開されて参ったわけであります。しかし今なお多くの問題を抱えむしろ逆方向を辿っているような問題もいくつかあげられるかと思います。

新生活運動というのは総合的に地域ぐるみで推進されるのでなければ本来の目的を達成することにはならないと思います。けれども地域課題を中心に段階的に問題解決に当たるということが現時点においては最良の方法ではないかと思います。したがいまして今帰仁ではまず新正一本化を実践すべく各方面に呼びかけ、去る6月には北部全域として72年の正月から新正一本化を実現すべく運動を展開することに意見がまとまりました。このような運動は、一般住民のもり上りなくしては決して成功しません。過去の事例がはっきりと証明しています。いまや今帰仁村の新正気遣は十二分にももりあがって来ています。それは新正の意義が理解されるようになったということよりは新正と旧正の利害得失が社会の近代化が進むにつれて生活に直接反映するようになって来たからだと思われます。
 祖国復帰を来年にひかえて、凡ゆる面で合理化が迫られている今日、生活面でも合理化を促進し経済的に精神的(ものの見方考え方)に本土との格差訂正に務めねばなりません。新正月の完全実施がその第一段階として意義深い事であり、以下箇条書きで基本的な事柄や参考的な事をまとめてみました。村民一人一人が自分自身の問題としてこの問題を受け止め実践して行くような全面的な御協力をよろしくお願いいたします。

2、実践事項及参考事例
 ①村民こぞって新正一本化で意義ある新年を
 ・生活リズムはすべて新暦である
 ・一年のスタートである
 ・法定休日であり子どもらの冬休み期間中である
 ・比較的農閑期である
 ・現金収入の少ない時期だというが衣生活、食生活ともに決して低いレベルではないのであまり金をかけ
  ないように正月費用は計画的に預金しておく

 ・正月に関連する諸行事は新暦で

 ・生年祝いはごく内輪に。範囲を広げる程おたがいに無駄な出費が増えます
  ・16日親戚、隣近所にとどめ知人関係は事前にあいさつに行ったほうが望ましい。
 ・その他 正月前後にはいろいろと行事がありますが、家庭であるいは部落で充分な態勢をお願いします。

 ②旧正でなければという従来の主な理由

 ・野菜が間に合わない→技術的に問題なくなった
 ・砂糖キビ代が入らない→昨年は精糖期前に旧正が済んだ キビ代だけが全収入だという農家は全くない
 ・先祖代々続いてきた習慣だから簡単に切り換えられないし新正では正月気分が出ない→頭の切り換えが
  必要であり、旧正ではいろいろと不都合な事が多くなってきている

 ・マスコミも旧正特別番組を組んであふり立てた→現在は旧正特別番組を組んでいない

【企画展】
 「各村図・字図」目録一覧の資料は、その多くは修復、あるいは裏打ち、や軸にして今帰仁村歴史文化センターに収蔵。




2022年9月26日(月

 以下の「国頭郡今帰仁間切村全図」は明治36年の土地整理に関わる村全図である。昭和60年頃『名護市史』(わがまち・わがむら)の編集・執筆に関わっていたとき、羽地村域の「羽地間切・村各小字集集成図
成図」を目にしていた。平成元年4月今帰仁村資料館準備室(後、今帰仁村歴史文化センター)へ。ちょうど、役場の資料廃棄があり、その中に以下の間切村全図などがあった。

 羽地間切域の図が頭にあったので、今帰仁間切の村全図と字全図を手がかりに村と小字の調査していく。その頃、地籍図に小字の境界線が引かれていず、その線引きをすることに。当時の職員に現場踏査調査記録をしていく作業をする。それは、村内の隅々まで足を運ぶことが狙いであった。また、現況を記録することでもあった。それは『なきじん研究 7号―今帰仁の地名』(1997年)で報告。調査のベースになったのが「間切村図」や「村字図」であった。23日に紹介した「平敷村略図」や「平敷村図」である。
 村内の元文検地の「印部石(パル石)とつながる。「今帰仁間切の村全図など」として報告。

  (その頃の現場踏査の調査手法が、今でも続く)

①国頭郡今帰仁間切今泊村全図(宿尺 1/6000)
②国頭郡今帰仁間切兼次村全図(宿尺 1/6000)
③国頭郡今帰仁間切諸志村全図(宿尺 1/6000)
④国頭郡今帰仁間切與那嶺村全図(宿尺 1/6000)
⑤国頭郡今帰仁間切仲尾次村全図(宿尺 1/6000)
⑥国頭郡今帰仁間切崎山村全図(宿尺 1/6000)
⑦国頭郡今帰仁間切平敷村全図(宿尺 1/6000)
⑧国頭郡今帰仁間切謝名村全図(宿尺 1/6000)
⑨国頭郡今帰仁間切仲宗根村全図(宿尺 1/6000)
⑩国頭郡今帰仁間切玉城村全図(宿尺 1/6000)
⑪国頭郡今帰仁間切湧川村全図(宿尺 1/6000)
⑫国頭郡今帰仁間切天底村全図(宿尺 1/6000)
⑬国頭郡今帰仁間切勢理客村全図(宿尺 1/6000)
⑭国頭郡今帰仁間切上運天村全図(宿尺 1/6000)
⑮国頭郡今帰仁間切運天村全図(宿尺 1/6000)
⑯国頭郡今帰仁間切古宇利村全図(宿尺 1/6000)

 「各村図・字図」目録一覧は略(73点)(今帰仁村指定文化財:村歴史文化センター蔵)
           土地整理事務局の図(断片2点)


 ①       ③         ⑤           ⑨  


2022年9月25日(

 沖縄本島北部の東海岸の港や山原船の様子を整理してみた。『東村史』(第1巻通史編 73頁)にその様子が解説されている。現在の東村は大正12年に久志村から分村する。それ以前は久志村(間切)の字(あるいは村:ムラ)であった。ここでは現在の東村内の出来事を紹介する。

  有銘から北の地域を上方と呼び、天仁屋から南を下方と呼んで、人情も気風も異にして
  いた。行政区域として久志村となっていても、経済的には必ずしも一体ではなかった。
  農産物や林   産物の出荷は、陸路を利用することはほとんどなく、たとい陸路を利用
  するとしても、それは塩屋湾を経て西海岸を羽地・名護と行くのが普通であった。中南
  部向けの産物は、ほとんど山原船によって泡瀬・西原・与那原方面、さらに糸満・那覇
  へと運ばれていたから、上方と下方の住民が物資の流通で直接に関わりを持つことは
  なかった。日常の生活用品も、山原船によって中南部から運ばれてきた。また、与論・
  沖永良部・徳之島・奄美大島などの道之島へ北上する物資の流れも、山原船による輸
  送であったから、経済的な意味では山原船を主要な仲介とする交流であった。

【港(津)と関わる地名】
 ・アラカードゥマイ(冬場の漁船の避難場所)
 ・メードゥマイザキ
 ・メードゥマイバマ(津堅島・伊計島の漁師が浜で宿をとったという)
 ・ウフドゥマイバマ
 ・ウフドゥマイトゥガイ
 ・ンナトゥグチ

 ・清国へ渡航jする船の帆柱などの資材を拠出していた。
 ・旧藩時代久志間切の年貢(租税)は、羽地間切の勘手納港へ納め、
  辺野古と久志の両村は名護(湖辺底)へ運んでいた。

【東村平良】
 道路網は未整備であり、中南部との物資の交流はもっぱら山原船にたよった。主な産物である
 林産物の出荷・販売と生産資材の購入・日常生活用品の調達は、山原船にたよる以外なかった。
 ・・・山原船の運航と商品の取り扱いが、ほとんど外来の商人に握られていた。・・・一般的に経
 済的に遅れた地域においては、外来の商人や士族たちは特権的な意識が強く、彼らは商品知
 識の乏しい農民に対して、はなはだ不等価格交換で暴利を得ていたであろう。外来の商人資本
 家はムラで町屋(商店)を経営し、農村の林産物の売却代金をそっくり町屋が吸収する仕組みと
 なっていた。・・・ムラの大半の人たちが町屋に従属して、入港する山原船に林産物を自由に売り
 さばくことができない状態にあった。
 外来の商人に対抗して生活防衛する方策として、部落単位の共同売店が登場する。

【東村慶佐次
 山稼ぎは戦前から盛んに行なわれており、戦後になっても昭和30年代のはじめまで続けられて
 いた。山稼ぎは主に燃料用の薪を伐採するもので、自給中心の農産物と違い中南部に搬出する。
 ・・・・林業は貴重な現金収入源であった。慶佐次に字で所有する山林(ムラヤマ)があり、日を決め
 て字の共同作業が行なわれた。納税には現金が必要であり、また字費もこの作業から捻出してい
 た。共同作業は仕事量に応じて等級がつけられ、字から給料が支払われていた。共同作業日は薪
 を中南部に運ぶヤンバル船の到着を見計らって設定されサジイが字民に山稼ぎを告げていた。給料
 は村民税と字費を差し引き当人に渡された。ヤンバル船で運んできた様々な日常雑貨品と交換した。

【参考文献】
 『東村史』(第1巻通史編:昭和62年発刊)
 『東村史』(第3巻資料編2:昭和59年発刊)

調査は『なきじん研究 9号』(1999年)『なきじん研究14号』(2006年)に収録。
  ※企画展は、当時の学芸員実習で行ったものです。

 
▲東村有銘(川沿い)          ▲東村平良海岸

  


2022年9月23日(

引っ越しままの書籍箱を開けると、アルバムが。平成元年に今帰仁村に職を移す(今帰仁村歴史資料館準備室、後の歴史文化センター)と、いろいろと史・資料を収集することができた。平成元年の夏、平敷区の石嶺区長(故)が準備室に持ち込まれたのが「平敷村略図」(一点)と「平敷村全図」(七点、部分)である。以下の画像は修復前の画像である。まだ、デジカメがなく一眼カメラ、三脚での撮影画像である。(修復後の原本は今帰仁村歴史文化センター所蔵)

 当時の資料を手にした時の感動は画像に鮮明に写しこまれている。後に、修復し村指定の文化財にした。それらの図は「なきじん研究 1」(平成2年発行)で目録のみ、その詳細は「なきじん研究7―今帰仁の地名」(平成9年)で報告。

 ・平敷村略図の性格
 ・平敷村の「小字図」
 ・「平敷村略図」と現在の小字図の比較
 ・村内の原(パル)石と小字(原名)
 ・平敷の現在の小字の現況
 ・「平敷村略図」から見えるもの
 ・「今帰仁間切平敷村字前田原」の土地保有者




▲「平敷村略図」(修復前)         ▲「平敷村略図」(修復後)


2022年9月22日(木)

 平成11年(1999年)以前、山原(やんばる)の村々の津(港・江)を踏査していた。沖縄だけでなく東南アジア(タイ・ジャワ・香港・マカオ・シンガポール・ベトナム・台湾など)、鹿児島県、奄美の島々、長崎県、北九州、瀬戸内海、大阪、堺などの港やマチに関心をもっていた。話題が広がりそうなので沖縄本島の山原(やんばる)に戻すことに。まだ、デジカメを持っていない頃なので、そのころの画像はすくない。

 手がかりにしたのは「上杉県令」(明治14年)が巡回した山原のコースであった。その後、『琉球国由来記』(1713年)と『琉球国旧記』(1731年)の津や江を往く。山原の津々、浦々踏査は頭の中では車のない徒歩の時代である。上杉県令も輿(籠のことか)が主である。港・津・江調査は、歴史を見る視点を変えてくれた。山原の港調査は『なきじん研究 9―山原の港』(1999年)と『なきじん研究 14―山原の津(港)と山原船』(2006年)(今帰仁村教育委員会:歴史文化センター発刊)に収録。


  


2022年9月21日(水

 頭の中が多忙が続き、過去の記録をとり出している。2005年以来大病せず元気。さすが体力は衰えまそた。山歩きはテレビで我慢。宜名真の様子は大分変っています。(画像や文章は当時のままです)

2005.02.19(土)

 
一日のんびり。雨の日が続いているので、外へは出れず。そういう日もいいものだ。宜名真の村の成立ち。もう少し資料整理が必要。ボツボツ見ていきます。

 何故か、一人で大笑い(傷口が傷みますワイ)。そのせいかクシャミも。春が近いのですかね。春先は体調や頭も気をつけましょう。

 何故か意を決して宜名真について記そうとしている。多分、伊是名島との関わりで宜名真御殿内(ギナマウドゥン)は避けて通れない場所に気づいたからに違いない。それと宜名真御殿をこれまでの尚円が伊是名島から妻と船で宜名真に逃げ延びた。ここでも受け入れられず、さらに首里の上った。宜名真御殿が今に保存されのこっている。それは首里王府の山原(特に国頭一帯)の統治の一端ではないか。そう見ると興味深い姿が見えてくる。
 
【国頭村を宜名真ゆく】(メモ)

 
国頭村宜名真をゆく。明治7年のイギリス船の座礁やオランダ墓(英人墓)、英国船のバラスト、戻り道やカヤウチバンタ(茅打崖)については触れたように思う。ここで知りたいのは国頭村宜名真の人たちの気質である。「宜名真頑固」と言われているが、その頑固さは山原の人たちの頑固さとは異なる。首里文化や士族の気位をもって頑と山原的なものへ同化しない、それと明治政府の政策に抵抗している様子がチョコチョコ伺える。

 第二尚王統の始祖と言われている尚円(1415年生)が、伊是名島の諸見は勿論のこと、ここ国頭村宜名真の宜名真御殿で延々と崇めたてられ、現在につながっていることの見通しがついたからかもしれない(書き進めていくとひっくり返るかも。ダメかも。それが面白い)。

 『球陽』などの記事をみてみると、尚穆王が国頭間切(郡)の宜名真に竈神が祭られていて、間切の人民が尊敬をしているが公の祭りではない。国頭按司正方は公の祭りにして旧跡をりっぱにしようと願い出た。毛昌徳に命じて瓦葺の殿をつくらせ、村人をから選んで看守させ、夫役は免除して赤八巻(親雲上)を賜った。

 現在の宜名真に宜名真権現の宜名真神社などいくつかの拝所がある。その一つは泊大比屋の火神の祠ではないか。建物の後方には地頭火神の碑もある。少し、拝所の確認も必要。

 宜名真の村(ムラ)の成立と関わるが『琉球国由来記』に宜名真村がないこと、そして宜名真御殿が神アシアゲのように古く痛んでいる様子が記されている。宜名真に集落(集落は村(ムラ)ではない)があったことが知れる。建物が神アサギのようになっているとはあるが、神アサギがあったわけではない。それらからすると1700年代に宜名真にヤードゥイ的な集落はあるが、行政村としての存立は明治41年になってからである。

 東恩納寛惇氏は『南島風土記』で宜名真は「辺戸の南一里余、もとの宜名真村にして、今は字辺戸の小字となる」とあるが、「宜名真はもと辺戸村のヤードゥイ集落であったが明治41年に字辺戸から分立する。さらに昭和14(1939)年に、完全な行政区として字宜名真となる」とした方がいい。

 宜名真は首里・那覇の寄留人で構成されている。泊比屋の役人の派遣もあるが、尚円王の旧跡を整備し、火竈を設置したことと宜名真が寄留人で占めることと大いに関係ありそうだ。

 尚円王(金丸按司末續王仁子)の年譜(『球陽』より)と宜名真に関する記事を他の資料から拾ってみる。

   ・宣徳9(1434)年 金丸20歳、弟宣威5歳
   ・正統3(1438)年 金丸24歳 伊是名の田を棄て妻と弟を引き連れ国頭へ。
              (与那覇岳のインツキ屋取に隠れ、奥間村の鍛冶屋の世話になった由)
              (宜名真の草庵は卯辰に坐して酉戌に向き、長さ10丈5尺、広さ6尺)  
   ・正統6(1441)年 金丸27歳のとき妻と弟を連れて首里へいく。
               尚思達王のとき家来の赤頭となる。(数年勤める)
   ・景泰3(1452)年 尚金福王のとき38歳黄冠(親雲上)の位を賜る。
   ・景泰5(1454)年 内間領主(地頭)になる。
   ・天順3(1459)年 45歳のとき御物御鎖側官となる。
   ・康煕52(1713)年 『琉球国由来記』の旧跡に、以下のようにある。
               辺戸村ヨリ半里行程、宜名真ト云所ニ、御殿屋敷アリ。中畑壹畝余。
                     (名寄帳ニ、ギナマ原)是
               尚円王、恩践祚以前ノ、御屋敷タルベキ由、申伝也。御屋敷ノ向、酉戌
               ノ方。長二拾壹尋、横十二尋。内ニ、長三尋一尺、横ニ尋半ノ家アリ。今
               神アシアゲノゴトク、古ミ破ケレバ、作替也。(泊ノヲヒヤ屋敷ノ間、十間
               程。泊ヲヒヤ屋敷、今ハ津口番所ニテ、泊ノ大比屋、相詰也)  
   ・乾隆46(1781)年 往昔、先王尚円未ダ践祚せざる時、国頭郡宜名真地にあり。尊ぶ所の
               竈神、今に至つて遺跡猶ほ存す。郡を挙つて人民、尊敬をなすと雖ども、
               然も公祭にあらず。所以に質朴雅とらず。馬承基前国頭按司正方は、公
               祭を行つて旧跡を光さんことを禀請す。此れに因り毛昌徳(禰覇親雲上盛
               寿)に命して其殿を製造せしめ、瓦を以て之れを蓋す。村人一人を択選し
               て立て、看守すとなす。その夫役を免じて赤八巻位を賜ふ(『球陽』)。
   ・乾隆48(1783)年 嗣後三十二年冬十月、主上内院より(尚穆王)その遺跡を拝謁す(『球
               陽』)。
   ・           『琉球国惣絵図』(間切成集図)に「宜名真之御殿内」とあり、建物が描か
              れいる。
   ・明治14(1800)年 「該村人煙稠密、漁業亦多シ、鱶五十斤内外ノモノヲ釣リ得ルト云フ、
               因テ漁具ヲ一覧セラル」とあり、地割に預からなかった寄留人の生活が
               しれる。
    ・明治41(1908)年 宜名真は辺戸村から分立する(土地の分離は未)。
   ・昭和14(1939)年 字宜名真から行政区として完全に独立し、字宜名真となる。
         
 
  ▲カヤウチバンタからみた宜名真集落   ▲宜名真集落の後方の山は辺戸の安須森

 
 ▲鳥居の後方の建物が宜名真権現         ▲宜名真権現の内部の様子

 
  宜名真殿内の内部の供え方は山原的ではない供え方と違和感を持つ!


2022年9月18日(

2005.04.13(水)メモ

 午前中今帰仁村渡喜仁の石川家の家譜の調査があり出かける。『馮(ヒョウ)姓世系圖』と『馮姓系図』の二冊である。時間がないので、詳細については改めて紹介することにし、今日は概略のみ。

 『馮姓世系圖』を見ると、「馮姓家譜支流」とあり、記録は五世清孟(童名真亀唐名馮永恭行二康煕二十四年乙丑十二月三日生)から十二世清茂(童名思仁王唐名馮丕冨行一同治二年癸亥十二月二十四日)までのである。(この家譜は昭和37年1月に印刷されたものである)。

 もう一冊の『馮姓系図』は昭和二年に馮氏石川清賀によって仕立てられたものである。「馮姓先祖之由来記」とあり、『馮姓世系圖』をベースに一族の由来を記録したものである。

 馮姓(石川家)は那覇籍の士族で、その家譜である。『氏集』(那覇市史発刊)の「元祖小禄親雲上清乗四世石川親雲上清信支流二子馮永石川筑登之親雲上清孟 馮氏 石川筑登之親雲上」(2383)の家譜である。

 今帰仁村の渡喜仁へは本部町の桃原を経由してきたという。明治以後の系図も作成されており、山原へやってきた年代もわかりそう。内容まで読む時間がないので改めて報告することにする。
 
▲『馮姓系図』と『馮姓世系図』と馮姓世系図の下の太宗清乗に「首里之印」


2022年9月17日(土)

【名瀬間切の三枚の辞令書

 下の三枚の辞令書(写)(あさとおきて、さとぬし、たいくまのろ)は、『南島雑話』2 幕末奄美民俗誌(東洋文庫)より。 

  (萬暦35年:1607年)   (萬暦37年:1609年)      (萬暦15年:1577年)

  【首里之印】あり。

① しよ里の御み事 なせまきりのあさとおきては   首里の御ミ事
  一人いしゆもいてこくにたまわり申候
  しよ里よりいしゆもいてこくの方へまひる
 萬暦三十五年閏六月六日

② しよ里の御み事 なせまきりのさとぬしは
  一人あさとおきてにたまわい申し候
  しよ里よりあさとおきての方へまひる
  萬暦三十七年三十七年二月十一日

③ しよ里の御み事 なせまきりのたいくまのろは
  一人もとののろくめい まくもにたまわり申し候
  しよ里よりまくもか方へまひる
  萬暦十五年十月四日

 慶長十八年、初て法源仁右衛門を以て大島代官職被仰付、年貢を収め、島民を皆土民に準じ、諸事頭取諸事頭取者を一等を揚て下士に準じ、頭長は大親を以て長とす。其次嶼人とす。大島に始て法令を建る事は、元和九年癸亥悉被定、同年拾年子二月十八日(寛永元年。此年改元)法令の帖に、冠簪衣服(階)品を本琉球にる事を禁制す。

 此時より能呂久米年々印紙を請本琉球官僚ことを止らる故に、寛永十九年迄之免印を伝て今其三、四枚を収め伝る。大熊村安可那村安可那納め置く書付なり。大熊村にて富統より内〃にて能呂久米安加那、本書押付に為写す間、本書の儘也。唐紙也。文面如此かな書也。始と終に朱印、首里之印と伝文あり。・・・

【掘田家(稲富家)ノロ文書】
 (工事中)

【徳之島手ゝノロの遺品・文書】

 令和2年「徳之島町古文書翻刻資料(第ニ集)が送られてきた。手ゝノロの遺品については、徳之島郷土資料館で拝見(資料の撮影)させていただいている。先田光演氏が「深田見家ノロ文書」との出会いの経緯が述べられ興味深く拝読させて戴いている。先田先生の深家の文書などの出会いは昭和39年7月(学生時代)のことである。私が拝見できたのは「徳之島資料館」内である。私が注目したのは「手ゝのろ」の辞令もあるが、ノロ家の二本の焼けた簪である(下の画像)。今帰仁村の勢理客のろの二本の焼けた簪がある。勢理客のろ家の簪は「焼けて、こうなっている」と聞かされていたが、内心うなづいていなかった。勢理客ノロ家の文書の多くは島袋源七文庫(琉球大学図書館)に所蔵されている。

8701image2.jpg

 志よ里の御ミ□(事)
   とくのにしめまき里の
   てゝのろハ
   一人 もとののろのくわ
      まなへたるに
   たまわ里申候
 志よ里よりまなへたるか方へまいる
 萬暦二十八年正月廿四日 
  (萬暦28年:1600年)

※「深見家ノロ関係文書」
  ・手々のろ辞令書
  ・ノロ屋敷の譲渡証文
  ・藩政時代のノロ継承文書
  ・ノロ住居新築・葺き替え文書
 など(参照)


 深見文書と掘田家ノロ文書を見ると、近世になると首里王府からの辞令書の発給はないが、ノロ制度が生きている。ノロ交代の儀式、費用、品々などがあり、嘉永七年(1854年)にも神役継承文書に「のる久め御方」とあり、薩摩化されていく時代の流れの中で根強く継承されている。「三平所」が登場するが、首里の三平(首と関係するか? 琉球ではノロの継承時に、各間切は首里・儀保・真壁のあむしられのいずれかのあむしられで儀式が行われる(女官御双紙)。2019年7月25日(木)で結論はでていないが触れている。


2022年9月16日(金)

喜界島の野呂(ノロ)

 『大島 喜界 両島史料雑纂』に「喜界島史料―藩庁よりの布令論達掟規定約等」(明治41年中旬調査:読み下し文と訳文)がある。その中に「野呂久目」について何条かある。その条文は安永7年(1778)のようである。1611年に与論以北は薩摩の支配下に組み込まれ、薩摩化させられていったが、この野呂は古琉球から近世に渡って根強く残ってきたものである。この段階でも、いろいろ禁止されるが、その後までひきづり、ノロ関係の遺品が遺されている。

  一 野呂久目春秋の祭一度づつ花束一升づつ、その外の神事はさしとめ候
     ただし村々みき造り候義さしとめ候
   一 野呂久目、湾間切入付而は所物入用これある由候間、以来さしとめ候
   一 右湾方え野呂以下代合の節、ふくろ物と名付け、米相拂い来り由候得ども、向候得ども、
     向後差とめ候
   一 野呂久目神がかりの節、前晩より右湾えさしこし来る由候得ども、向後さしとめ候

※ノロの弾圧
  喜界島のノロも大島群島同様、安政7年の禁止令があり、弾圧された。ノロもフドンガナシ
  も隠れて、明治に至る。赤連の「新山家系図は明治になって不明。

【喜界島の主な出来事

 ・1441年 大島は琉球に従う。
 ・1429年 琉球国は三山が統一される。
 ・1450年 尚徳、喜界島を攻略する。琉球王国の支配下に置かれる。
 ・1466年 尚徳、互弘肇に命じ、泊地頭職を任じ、(泊村)及び大島諸島を管轄させる。 
       その頃、米須里主之子を喜界島大屋子として派遣する?・1472年『海東諸国紀』の「琉球国
       之図」に「鬼界島属琉球 去上松二百九十八里去大島三十里」とある。
 ・『中山世譜』に「琉球三十六島」のうちとして「奇界」とある。
 ・『球陽』に「鬼界」とある。
 ・「琉球時代」以前は大宰府の管轄にあったとの認識がある。
 ・12世紀保元の乱で敗れた源為朝が伊豆大島を経て喜界島北部の小野津に漂着した
      伝承がある。
 ・12世紀平資盛らが豊後国から船を出して屋久島、喜界島、奄美大島へ逃げて行った伝承
      がある。
 ・七城・・・島の最北端にあり、平資盛が13世紀初めに築城したという。あるいは15世紀後半
      に琉球の尚徳王が築いたともいう。
 ・1266年に琉球王国に朝貢したという?
 ・1450年朝鮮人が臥蛇島(トカララ列島)に漂着し、二人は薩摩へ、二人は琉球へ。
 ・1456年琉球に漂着した朝鮮人の見聞。池蘇と岐浦はききゃ?
 ・「おもろさうし」に「ききゃ」(喜界島)と謡われる。
 ・琉球国王尚泰久のとき(1454~61年)諸島を統治した後、「鬼界ガ島」に派兵(『琉球神神
       記』)。
 ・喜界島が琉球国に朝貢がないので兵を派遣して攻める(『中山世鑑』)。
 ・1466年尚徳王自ら大将として2000名の兵で喜界島を攻撃する(『中山世鑑』)(『中山
      世譜』)。
 ・1537年 奥渡より上の捌が初めて任命される。・1554年「きヽきのしとおけまきりの大く
       すく」(辞令書)(間切・大城大屋子の役職)
 ・1569年「きヽやのひかまきりのあてんのろ」(辞令書)(間切・ノロ)
    (ノロに関する伝世島:バシャ衣・ハブラ玉)
 ・1611年 大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島が薩摩藩の直轄とされる。
 ・1613年島津氏は奄美五島(与論・沖永良部・徳之島・奄美大島・喜界島)を直轄領とする。
 ・「正保琉球国絵図」に喜界島の石高6932石余、志戸桶間切・東間切・西目間切・わん間切・
    荒木間切の五間切)
 ・「大御支配次第帳」によると「荒木間切・伊砂間切・東間切・志戸桶間切・西間切・湾間切
    の六間切)8間切のもとに村々がある)
 ・1837年琉球国王の即位につき清国から冊封使がくると喜界島からも米11石を納めて
    いる。(豚・鶏・玉子・塩魚・きのこ・海苔・あおさ・白菜など)

     http://yannaki.jp/kakogazou/501s01.jpg
       
【喜界島の集落】


2022年9月15日(木)

 大島の南の瀬戸内と喜界島まで。

【奄美のノロ辞令書】(2007年(平成19)12月調査記録)

 奄美の古琉球の辞令書に注目しているのは、1609年以降、さらに明治以降もノロに関わる祭祀や辞令書などが残り、継承されていることである。というのは、琉球(沖縄)でも廃藩置県、明治36年の土地整理、さらに明治43年の□□でもノロ(のろくもい)を完全に廃止することができず、昭和17年の□□もあるが、戦争に突入したのでうやむやとなる。そのことが戦後して、御嶽を中心としたノロが関わる祭祀が行われていることの疑問を解く鍵となるのではないか。そのために、1609年以後の奄美地方のノロと関わる辞令書や祭祀を見るのは、沖縄における祭祀が継承される所以を解くカギとなると考えている。高良倉吉氏の「奄美地域残存古琉球辞令書一覧」によると、瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの安堵辞令書(万暦2年:1574)と瀬戸内西間切の須古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦2年:1574)は直接ノロと表記されていないが、「すこむのくちのうなり」と「あかひとうかくわ」は女性なのでノロとみられる。くわ(子)、うなり(姉妹)へ継承。その二点を合わせるとノロに関する辞令書は8点である。(その後、喜界島で確認されている)

 ①瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの安堵辞令書(万暦2年:1574年)(ノロ家の辞令書?)
 ②瀬戸内西間切の須古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦2年:1574)(ノロ家の辞令書?)
 ③喜界の東間切の阿伝ノロ職(隆慶3年:1569年)
 ④屋喜内間切の名柄ノロ職(万暦11年:1583年)
 ⑤名瀬間切の大熊ノロ職(万暦15年:1587年)
 ⑥屋喜内間切の屋鈍ノロ職(万暦22年:1594年)
 ⑦徳の西銘間切の手々ノロ職(万暦28年:1600年)
 ⑧瀬戸内西間切の古志ノロ職(万暦30年:1602年)

③阿伝のろ職叙任辞令書(1569年)(喜界島阿伝)(伊波普猷全集第五
巻)
  しよりの御み事
   ききやのひかまきりの
   あてんのろは
   もとののろのおとゝ
   一人ゑくかたるに
   たまわり申候
  しよりよりゑくかたるか方へまいる
  隆慶三年正月五日

・瀬戸内西間切の西の大屋子職補任辞令書(嘉靖27年:)
   西の大屋子→東の首里大屋子
・屋喜内間切の名柄掟職補任辞令書(嘉靖35年:1548)
   屋喜内間切名柄掟→(   間切)名音掟
・瀬戸内間切の安木名目差職補任辞令書(隆慶5年:1571)
   東間切安木名目差→屋喜内間切名柄掟
・屋喜内間切の崎原目差職補任辞令書(隆慶6年:1572)
   屋喜内間切崎原目差→瀬戸内間切東間切安木名目差
・瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(嘉靖)
   瀬戸内東間切の首里大屋子→笠利のひのせと
・笠利間切の笠利首里大屋子職補任辞令書(隆慶2年:1568)
   笠利間切笠利の首里大屋子→笠利間切喜瀬の大屋子
・瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(隆慶2年:1568)
   瀬戸内東間切の首里大屋子→喜瀬大屋子
・屋喜内間切の屋喜内大屋子職補任辞令書
   屋喜内間切の屋喜内の大屋子→大和浜目差

 


2008年1月31日(木)過去記録

 明治28年に発給された今帰仁間切の最後の地頭代(諸喜田福保)の辞令書と「勤職書」に目を通す。辞令書の文面は「今帰仁間切耕作當諸喜田福保 任今帰仁間切地頭代 明治廿八年九月三十日 印」とある。印は「沖縄県庁」の印である。これが地頭代の最後の辞令書というのは、明治31年に間切の地頭代は間切長となり、同41年には村長となるからである。

 「勤職書」は、この文書の表題部分が欠落しているため、琉球大学の島袋源七文庫の中に、「勢理客村湧川親雲上勤職書」とあり、それに因んで「今帰仁間切諸喜田福保勤職書」と命名した記憶がある(昭和57年)。辞令書と勤職書を公に紹介したことから、後に寄贈いただくことになる。

 二点の史料評価をするために手にしているのだが・・・。

 沖縄の歴史研究に手を染め始めた頃である。というよりは、それがきっかけで歴史に本格的に足を踏み込んだように思う。言語調査から入り数年、民俗調査に数年、宮城真治資料と関わって民俗と決別、昭和55年頃諸喜田福保の辞令書と勤職書をきっかけに歴史へ。10年近く歴史と悪戦苦闘している。その頃、「今帰仁村の村落の変遷」や「北山の歴史」や「運天の歴史」などをまとめている。そのころ角川の沖縄の地名辞典で羽地や久志地域を。そして名護市史で歴史原稿をまとめている。

 平成元年4月に今帰仁村に仕事場を移し、資料館(現在の歴史文化センター)づくりへと。準備室時代が7年あった。資料館(博物館)づくりに入ると言語、民俗、歴史、地名などと分野を分けて業務をすることができない状況であった。自分の専門としたい分野だけでは博物館は成り立たないのである。やってきたものには分野を問わず関わらざる得なかった。教育の分野まで。苦手としたのは、芸能や音楽、それと自然。それらは今でもお手上げである。申し訳ないと思っている。

 歴史に足を踏み入れるきっかけとなった「辞令書」と「勤職書」を手にしていると、30年余の沖縄研究の足跡を整理する時期にきたかと思う。表舞台に出ることは苦手だった。今でもそうであるが。

 
  ▲今帰仁間切最後の地頭代任命の辞令書          ▲諸喜田福保勤職書の一部


2008年1月30日(水)

 明治36年の地図の整理にかかる。表題は「国頭郡今帰仁間切・・・村全図」とある。「沖縄県土地整理紀要」(土地測量の順序方法)から地図に関する情報を引き出していく。土地整理事業着手完成時期が一覧表で示されている。土地整理事業と言っても多種多様である。国頭郡の場合、以下のようになっている。
  ・土地処分   明治32年4月~34年4月
  ・土地測量
     一等図根 明治33年10月~34年3月
      二等図根 明治33年9月~34年7月
      砕部測量 明治34年10月~35年7月

  ・製 図     明治35年10月~36年10月
  ・地価査定 
     ・地押調査  明治33年11月~34年5月
      ・段別地価地租査定 明治36年1月~明治36年10月
      ・土地台帳調製  明治35年1月~36年10月

 土地整理事業は宮古郡と八重山郡は明治32年4月に始まり明治35年12月をもって完了し、翌年明治36年1月1日から地租条例及国税徴収法が施行された。国頭郡、中頭郡、島尻郡の三区と那覇区と首里区は明治36年10月をもって完了し、明治37年1月1日より施行された。

 村全図は六千分の一、村図には図根点、境界、宅地(赫黄の淡色)耕地不耕地(鉱禄お淡色)の概形、道路(赫黄の中色)、河川、海岸線、渉所、橋梁、渡船場、諸注記を地図に図示するとある。

 「地押調査手続」の第十四条に「見取図及字別村図ハ之ヲ編綴シ其表紙ニ郡間切村名完結年月日及従事者ノ官氏名ヲ記シ捺印スルモノトス」あるが、今帰仁間切村全図には郡間切村名まであるが、宜野湾市のように年月日や官氏名や捺印がない。

 「国頭郡今帰仁間切村全図」を「沖縄県土地整理紀要」の文面と合わせ見る必要がある。その地図から土地整理の目的は何だったのかを念頭にいれて読み込むことが重要である。

  
▲今帰仁間切兼次村全図    ▲今帰仁間切仲尾次村全図        ▲村全図の凡例


【今帰仁村民の郷村への復帰移動】1945.10.3 

 今帰仁村民の郷村への復帰移動方左記の件に付御聴許相成度及陳情候也。
   一九四五年十月三日
        田井等市内今帰仁村民一同
   沖縄民政府部諮詢委員長殿

     記

一、移動に関する件

 1、食料確保上より

  今帰仁は甘藷蔬菜等の主要食料の適産地にして主要食料の適産地にして戦争中は勿論現在郡内市民の補助食料の補給は総て今帰仁方面よりなされ居候。然るに現在全く耕作を停止しあるため今帰仁の食料は今や将に枯渇せんと致し居り憂慮仕候。今若し今帰仁への移動を実現し増産を致させ候はば民衆の食料確保上益すること大なりと思量仕り候。

 而して作物特に甘藷の栽培適期は十月以内を以て終りと相成候条、十月以内に植付終了し得る如く急速に実現方及御願候。 

 2、衛生上の見地より

  現在の密集生活は住宅不足、衛生設備の不備、民衆の密集生活不慣等のため、当局者の苦心にも不拘、罹病率高死亡者続出する状況に有之、特に老幼者の健康状態は不安を覚え申候。今可及的人口を疎散し候はば、住宅難の緩和、衛生の向上又期すべきものありと存じ候。 

二、建築資材の確保に関する件

 今軍移動後、今帰仁村内に残存する建築資材を可成多量に払下確保相成住宅建築に充当せしめられ度御願申上候。 

三、先遣隊の件

 全住民移動に先立ち早刻先遣隊を派遣し、住宅の設営、耕作地の手入等致させ被下度及御願候也。

以上

久志市の移動状況】(1946.11.16~18)(1945年11月21日うるま新報)

久志市人口移動は総人口の六割を十六日に完了十七日より新移動開始十八日終了、残す南部移動も順調に運ぶものと見られている。

  一、久志より本部今帰仁へ
    一万八千名十六日終了

  一、久志より名護へ
    九三七名十八日終了


2022年9月14日(水)

【辞令書等古文書調査報告書】(沖縄県教育委員会:昭和53年発行)(奄美ののろ辞令書
 ・鬼界(喜界)の東間切の阿田のろ職補任辞令書(隆慶141569年)(喜界島)
 ・屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(万暦111583年)(奄美大島)
 ・名瀬間切の大熊のろ職補任辞令書(万暦151587年)(奄美大島)
 ・徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦281600年)(徳之島)
 ・瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書(万暦301602年)(奄美大島)

 奄美に首里王府から発給されたのろ辞令。周辺の伊平屋島、久米島、宮古、八重山ののろ辞令発給の様子を見てみる。これらの辞令の発給は、首里王府からみた統治の姿(制度)をみていく一視点である。


八重山の大阿母

 最初の大阿母より(弘治年間:1441~1557)十代に当て大新城親方安基子息宮良親雲上女子ひるま大あむ職命せられ釵一個(かぶハ金まハり七寸九分に二分角の花かた有くきハ釵長六寸壱分に弐分角からくさのほりあり)、美玉数九十八(長七分半二寸九分かはらは長五寸に二寸九分まはり)家宝として子孫代々譲り来るなり(康煕17年:1678年に廃止)(『女官双紙』)。

 ※拝領物に白つなくさ布、つき御茶の子、塩、お茶などがあるが、釵(カンザシ)や美玉(勾玉や玉製品)はその都度拝領されるのではない。一度拝領されると代々継承される。玉製品の調査がノロ家に限られているのは、そのためである。

宮古の大阿母
 宮古の大阿母について勾玉を賜った記述はみられないが、『女官御双紙』に「往昔中宗根の豊見也と申人琉球の御為に忠節勲功ある故、御賞賜有之剰豊見也妻とめか迄御取立嶋中女の頭に成玉ひ大あむと封し玉ふに、それよりして代々一門より跡職命せ付けられ御朱印(辞令書)奉頂戴也・・・」「弘治年間ニ屹と企貢物を想定毎年上納いたす依之褒賞として御釵三個(かぶハ金くきハ銀鳳凰のち付有)並ニ白絹の単御衣一領篤これ誠ニ家珍ニて代々伝来り侍りぬ」とあり、御朱印(辞令書)と釵(カンザシ)を賜っており勾玉も賜ったと見られる。
 そのことを示すかのように、「宮古島平良市(現宮古島市)字西仲宗根の宮金家という旧家に保存されているのは七拾数個の水晶製の円玉を紐を通して貫いて、その間に二個の曲玉が貫いてあった。曲玉は美しい濃青色で瑪瑙であろうと思うが、長さは一寸七分位であったように覚えている。宮金家は仲宗根豊見親の次男知利真良豊見の系統を継いだ旧家で、宮金氏の本宗になっていて、この家から大安母と称する宮古最高の神職も出ているから、この曲玉も大安母の佩用した物であろうかと思われる」とある(『沖縄の古代部落マキョの研究』稲村賢敷著375頁)。
 「カアラ玉」について以下のような「口上覚」(康煕32年(1693525日に「当島往古より女上下(迄)ガアラ玉ハキ申候、然処至近年大和人宮古人右ガアラ玉過分に持渡弐三石にて買取申候に付、石物費罷成其上不考にて掛に請取代米払之時分差迫仕方も有之候、右通りにては永々相保申間敷と奉存候、(一切)御法度被仰付(可)被下候、以上」とあり、宮古島の女性達がガアラ玉を佩いている様子が伺える。

久米のきみはゑ
 『女官御双紙』に、玉珈玻ら一連
 かはら長三寸四分回り三寸三分、水晶玉数六十二星、回り二寸二分、水晶玉三十六星回り一寸六歩(金のかんざし一個は三代先の君南風までハ此金かんざしをもって公界し給うなり、このきみはゑ存命の内に盗にあひ給うにいくへ志れずとなり)。金の簪は存命中に盗難にあい行方知らずとある。それは簪のことである。今ある簪は後世のものである。それは再度賜ったものなのかは不明。君南風の大阿母知行安堵辞令書1582年)(久米島)がある。

「しよりの御ミ事/くめくしかわまきりの/にしめのうちま人ちもとハ/あまかちの内より/一かりや三おつかたに六十九まし/ひらちしやはる又
□□はるともニ/又七十ぬき(ちはたけ)(おほ)そ/はゑはる又はなう(はる?)(はるともニ)/このちのわくそこの大あむかめはたまてハ/御ゆるしめされ候/一人きミはいの大あむに/たまわり申(候)/しよりよりきミはいの大あむか方へまいる/嘉靖四十五年十月八日」

とある。この辞令(印判)が発給される場合、伊平屋の大あむの場合の事例と同様なら「首里殿内ニ被参、火神前ニ、御花壹、御五水壹対、座敷酒壹対供之、玉ガハラヲハキ、金御簪ヲ指立」の儀式をとったと見られる。その時、玉ガハラ(一連の勾玉)を佩き簪を指し立てている。辞令書はノロが代合(交代:引継)の時、その度に発給されている。しかし勾玉や簪がノロ制度がスタートした時期に発給(拝領品)があったと見られる。今に残る一連の勾玉がノロ家に継承、伝世品となっているのは、そのことを示しているのであろう。一連の勾玉と簪はノロ引継ぎの認証品とみていい。もちろん、神女の認証式の正装で欠かせないものであるが、ノロが行う祭祀で勾玉を佩くのはウガン(祈り)での霊力の増加、あるいは神の存在を神衣装、簪、勾玉などの正装(姿)に秘めているのであろう。


 同君南風の「御賞腸左記」に「千代の真頚玉一領、玉数六千弐十七星内 黄玉八百二十九星、青玉二千六百四十九星、赤玉七百白玉七百七十一星、深青藍玉百八星、薄黄玉十八星、紺玉二百三十星、志ら藍五百五十三星、香色玉七十八星」とある。

 それからすると勾玉の長さは三寸四分、回りは三寸三分、その他に「千代の真頚珠一領 玉数6027星」とあり、その内黄玉、青玉、赤玉、深藍玉、薄黄色、紺玉、志ら藍、香色玉がある。それは今に残る一連のビーズ玉と見られる。
      千代の真頸玉一領  玉数六十千弐十七星内
      黄玉八百二十九星  青玉二千六百四十九星 赤玉七百九十一星
      白玉七百七十一星  深藍玉百八星  薄黄玉十八星 紺玉二百三十星
      志ら藍玉五百五十三星 香色玉七十八星

今帰仁アオリヤエ按司の勾玉
 河村只雄は『南方文化の研究』(講談社)533頁で「アオリエ按司の勾玉は計八・五センチの大きな黒い色をした丁字頭の二本ついた勾玉を中心に二十一の小勾玉が連なったものである。小勾玉には丁字頭の二本のもの十個、三個のもの二個、なきもの七個、子もち勾玉のもの二個であった。」とある。島田貞彦も昭和7年に調査し報告している。それによると「この按司の勾玉は大形勾玉一個、硬玉勾玉22個、水晶丸玉28個からなっている一連である(島田貞彦「琉球勾玉考」『歴史と地理』311号)。一連の勾玉が祭祀と関わる公儀ノロの遺品であることは間違いないのであるが、それが祭祀、あるいは祈りにどのような意味づけがなされていたのか。そこまで踏み込んだ記述がみられない。また勾玉を丁子頭勾玉と丸玉、定型勾玉、獣形勾玉と分類されるが(「今帰仁阿応理屋恵勾玉について」『今帰仁城跡周辺遺跡Ⅱ』:宮城弘樹 今帰仁村教育委員会報告書第20集)、祭祀を行うノロにとって、その違いに意義を見い出しているものでは必ずしもないであろう。                                                    『女 官御双紙』(1702年)に今帰仁阿応理屋恵代合の時も、「玉かわらはき」について記されていないが伊平屋地ののろ二かや代合の時のように「玉かわらはき立御拝」をしたと見られる。その時、「御印判」(辞令書)は勢頭親雲上が早朝首里殿内へ持参し首里大あむしられから今帰仁あふりやいへ上伸されている。弘治年間に尚真王の第三子の今帰仁城王子朝典(尚韶威)が北山監守となり、その次男の南風按司朝白(介明)の娘を阿応理屋恵に任命され、これより数代継承されたという。その頃の今帰仁阿応理恵は運天にある大北墓に葬られている。それ以来継承されてきたのが大正の頃の「今帰仁村今泊阿応理屋恵按司所蔵品目録」(沖縄県国頭郡志)にある「冠玉たれ・冠玉の緒一連・玉の胸当・玉の御草履一組・玉かはら一連・玉かはら一大形・二十二小形・水晶の玉百十六」とあるが、その一部が残っている。

 阿応理屋恵まがたま 007


2022年9月13日(火)

 先月、本部町水納島まで渡る。海神宮のある杜はまだあり、造船所のあった場所の一部は水納島へのフェリーの発着場になっていた。

.渡久地港(本部町)(2004年12月調査記録)

 渡久地港のある場所は、かつての渡久地村と辺名地村の谷茶にまたがっている。渡久地港の主要部は谷茶で昭和19年に辺名地から分区した字である。渡久地港一帯は明治以降、マチ的景観を持とマチとして発展してきたところである。マチの発展は渡久地港と深い関わりがある。

 沖縄本島北部の本部半島西海岸、満名川の河口に位置する地方港湾である。方言ではトゥグチミナトゥといい、南岸に本部町の中心地渡久地のマチがある。湾口広く、また奥行も約1kmと深く、北と南の丘陵で風を防ぐ良港をなし、古くから中国や薩摩を往来する避難港として利用された。近世にも沖縄本島北部の各地域ならびに離島と那覇を結ぶ航路の中継地点として機能してきた。

 記録に「渡久地は古来より山原船の停泊地であり、近年汽船の回航や石油発動船の往来が頻繁である。ここより伊江島伊平屋行きの船便がある。渡久地は東の方の満名川流域の低地として、離れた伊野波の平地に連なり、後方は地勢が急で辺名地を負い、西側の港の外には瀬底、水納の二つの島と伊江島が横たわって、あたかも内海のごとき景観で、夜景が最も美しい」(『沖縄県国頭郡志』 410頁)とある。

 1853(咸豊3)年にペリー提督の一行は瀬底から浜崎に移動し、海岸の調査をしながら浜崎の海岸にテントを張り、さらに渡久地港まで足を伸ばし鶏や土瓶をかっぱらっている。卵や薪、唐辛子・さつま芋などは中国の銅銭で調達している。その後一行は伊江島、今帰仁へと向かっていった。

 渡久地には本部間切創立(1666年)以来間切番所(役場)が置かれ、行政の中心となり、昭和20年に役場は現在地に移動した。明治14年11月の『上杉巡回日誌』に「帆檣林立シ」との記述が見え、港内は山原船でにぎわっていた情景が記されている。その後も名護に次ぐ沖縄本島北部第二の港として栄え、那覇・名護・伊江島などとの間にも航路が開設された。農水産物・生活用品などの移出入で活気をおび、発動機船の導入によりカツオ漁業も盛んになった。『沖縄県国頭郡志』に「本部第一の鰹節産地にして毎年三万斤内外を出す」とあるほど、かつてはカツオをめぐって港が賑わっていた。昭和40年代頃まで、港を中心とした市場が栄えていたが、その後大型店舗などに押されさびれていく。

 河口港のため流入土砂の堆積が著しく、船舶の大型化に伴い浚渫が必要となり、昭和7年から同9年にかけて南北防波堤・物揚場・泊地浚渫・埋め立てなどの工事がなされた。完成後は北部随一の良港として、生活必需品の移入など、地域の産業経済の発展に大きく寄与した。同時に奄美大島(鹿児島県)と結ぶ航路船舶の寄港、鹿児島・宮崎方面の漁船の給水・停泊地としても利用され、暴風時には避難船が数多く入港した。
 第二次対戦中は日本軍の伊江島飛行場造営のため徴用労務の輸送に使用された。戦時中は貯蔵してあった輸送用燃料弾薬庫に被弾し、渡久地周辺の市街地は全戸焼失の被害を受けた。戦後の一時期、米軍の駐屯地として利用されたが、昭和26年これらの施設を琉球造船所が引き継ぎ、造船・機関修理を行った。昭和32年11月19日琉球政府により重要港湾に指定され港湾管理者は本部町となる。同38年物揚場、同40年泊地が完成。昭和47年 5月12日港湾区域の変更とともに港湾管理は本部町から琉球政府に移管され、同年5月15日本土復帰に伴い沖縄県管理の地方港湾に指定された。

 昭和50年沖縄国際海洋博覧会の本部町開催に伴い、渡久地港エキスポ地区と渡久地新港(現本部港)が新設され、渡久地新港が北部離島への定期連絡船の基地港になったため、現在は水納島定期連絡船(みんな丸、19t、1日2便)・漁船・巡視船などの利用に供され、また、荒天時には小型船の避難地となっている。

 港湾施設の現状は、エキスポ港は沖縄国際海洋博覧会の際に、観光船の入港やレジャーボートの収容、水上ショーの会場として渡久地港の港湾区域内に整備された施設である。現在はグラスボートなどの小型船が利用するほか、BG財団の青少年海洋センターが青少年のための海洋スポーツの訓練場として利用している。

 本部間切渡久地村渡久地港は、国頭地方各村より那覇に往来の船舶(主として薪炭及び用材を運ぶ)、必ず此湾に入り風定るを待って抜錨す。故に小市街の体を為し、一、二の密売もあったという。
ると云う。

 湾の西北に大小二島あり。瀬底島は大にして水納島は小なり。皆本間切に属す(『南島探険』2 笹森儀助 155頁)。
   
 下の画像は2004年12月撮影(仲原)
 
   ▲港が発達させた渡久地のマチ            ▲渡久地港の様子

 
▲かつての造船所近くにある「海神宮」の杜      ▲「海神宮」への上り口の鳥居

 下の二枚の画像はメルビン八キンス氏提供(今帰仁歴史文化センター所蔵)
 
▲渡久地の港での露店(市場)(昭和25年)   ▲渡久地港(造船所)(海神宮)



2022年9月12日(月)

 与論島・沖永良部島・徳之島へと北上。奄美大島から喜界島まで。1611年以前、喜界島まで「琉球国の内」であった時代がある。13世紀頃から1611年頃までの時代は琉球国(沖縄本島)から奄美や先島の島々を見てみる。(北からの視点、南からの視点、島々からの視点、琉球国からの視点などがある。)

 琉球国からの視点でみていく。与論島以北の島々は、1611年以降、薩摩からの視点で)

20111031日(月)過去記録

 27日から徳之島。徳之島町の資料館へ。そこには「手々ノロの辞令書」と漆の櫃が展示(徳之島町指定)されている。琉球のノロ関係資料を見るには、奄美のノロ辞令書もも視野に入れる必要があるからである。それと手々ノロを出した手々までいく。手々ノロの遺品は徳之島の亀津の資料館(徳之島生涯学習センター内)に置かれている。今回はノロ辞令書を目にするだけで十分。

 手々村は徳之島の北端に位置し、辞令書が発給された頃(万暦28年:1600)「とくのにしめまきり」(徳之西銘間切)の内である。近世の手々村は岡前噯(現天城町内)で、手々が現在の天城町域、あるいは徳之島町内になったり、間切(方切)の変更があり、深見家文書の辞令書の外にノロに関わる近世資料からノロの祭祀や継承についてみていく必要がある。

 首里王府と徳之島手々村との交流(首里王府の奄美の統治)。1500年代首里王府は辞令書を発給し、奄美の島々(徳之島)をどう統治していたのか。薩摩の琉球侵攻以後、与論島以北が薩摩化されていくが、このノロ制度、ノロ家の遺品が今に伝えられ遺されている。琉球的な多くのものが消されていく過程で、このノロ制度が生かされてきたのは?(明治以降の琉球・沖縄におけるノロ制度の廃止に向けての流れと道は一つのような・・・) 

徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦281600年)(徳之島)

 
 しよりの御ミ事
     とくのにしめまきりの
     てゝのろハ
       もとののろのくわ
   
一人まなへたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  万暦二十八年正月廿四日

 
「徳の西銘間切手々のろ職補任辞令書(1600年)(徳之島町立郷土資料舘提供)


  掟大八の屋敷の説明板          掟大八の力石(徳之島町手々)

2007年2月21日(水)(過去記録)

 「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(1529~1609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。

 辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。

 ・徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(1600年)
  しよりの御ミ(事)
    とくのにしめまきりの
    てヽのろハ
       もとののろのくわ 
    一人まなへのたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  萬暦二十八年正月廿四日


 ▲徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書
(『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会)所収より

 古琉球(16世紀)の奄美と琉球との関係を「辞令書」を通して見ることができる。手々集落内に琉球と関わった(グスクの築城)という掟大八が力ためしに用いたいう石が屋敷に置かれている。今回いくことができなかったが掟大八と家来の六つの墓があるという。それらを按司墓と呼んでいる。1611年与論島以北は薩摩の統治下になり、薩摩の制度が被さっていくが、それでもノロや間切や首里王府時代の伝承など近世まで根強く引きずっている。

 
     ▲屋敷内に置かれている掟大八の力石(天城町手々)

2022年9月11日(

 先日(9日)「与論嶋図」(正保国絵図)で与論嶋の異国船遠見番所とあり、そこに小屋が描かれている。古宇島や辺戸の遠見番所に小屋があり、そこに松の生木(白い煙用)が置かれていたと聞いている。火立所と小屋は比較的近い場所に置かれていたであろう。与論嶋の小屋は集落に近い場所のような。沖永良部島の遠見所は、海岸に近い場所に設置されている(移動したとのこと)。


【伊是名島の「火立所」と「雨乞い場所」】(2007年1月31日)記録

 伊是名島の「雨乞い」と「火立所」のあるアーガ山に登る。その場所まで行くのは十数年振りである。行った記憶はある。島に何度か渡っているが、以来その場所に足を運んでいなかった。

 伊是名島の「火立所」は『元禄国絵図』で「異国船遠見番所」、『薩摩藩調製図』で「火立所」とである。伊是名島の「火立所」は『元禄国絵図』で●記号で記されている。伊是名島から国頭間切の辺戸村で受け、辺戸村から今帰仁間切の古宇利島、さらに大嶺原、伊江島の火番所で受け、瀬底島、読谷山間切火番所、弁が嶽で受け継ぐ連絡網である。

 アーガ山の嶺に「火立所」とは別に諸見・伊是名・仲田の雨乞いを行う場所がある。

 
 
▲「火立所」の方角は伊平屋島       ▲伊是名の「火立所」跡

 

    
 ▲諸見の雨乞いの場所            ▲伊是名の雨乞いの場所

2022年9月10日(
 
道の島の琉球的ものの禁止(奄美を見る視点)(講演メモ)

 沖永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』の以下のことが気になる。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったかもしれない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易く絶ちきることができなかったようだ。

 ・1609年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、沖永良部島は薩摩の
     直轄となる。

 ・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)
       を琉球から請けることを禁止する。
        (寛永十九年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖視するよう
        になる。(亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球
        へのぼり国王に謁して辞令を貰っていたという)
 
 ・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服、階品を琉球から
       受けるのを厳禁する。

 ・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
   
 ・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。
 

古琉球の辞令書と奄美の「まきり」(間切)

 近世以前の古琉球の時代、首里王府から発給された辞令書がある。辞令書に出てくる「まきり」(間切)名を『辞令書等古文書調査報告書』(昭和53年:沖縄県教育委員会)からあげてみる。20数点の辞令書が確認されている(散逸含)。喜界島と奄美大島に残っている。徳之島に一点、残念ながら沖永良部島と与論島には確認されていない。どの島も「まきり」(間切)制が敷かれていたようである。与論島と徳之島でも辞令書が出てくる可能性は十分にある。奄美島や喜界島で確認されているので与論島の役人やノロに発給されたであろう。もし与論島の役人やノロに発給された古琉球の辞令書が発見されたなら、与論島と琉球国との関わりがもう少し具体的に見えそうである。

 古琉球の辞令書と島々の「まきり」(間切)との関係は、三山統一後の琉球と奄美の島々との統治の関係を示すものである。近世の島々の間切は、薩摩の統治下に置かれたが1609年以前の間切の名称や区分を踏襲していると見てよさそうである。「にしまきり」と「ひかまきり」は他の島にも同名の間切があるので首里王府は「せとうち」(瀬戸内)や「とくの」(徳之島)をつけて間違わないようにしている。

  ・かさりまきり(笠利間切)(嘉靖8年:1529年)
  ・せんとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(嘉靖?)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(嘉靖27年:1548年)
  ・きヽやのしとおけまきり(喜界の志戸桶間切)(嘉靖33年:1554年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖33年:1554年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖35年:1556年)
  ・〔かさりまきり〕(笠利間切(隆慶2年:1568年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶2年:1568年)
  ・ききやのひかまきり(喜界の東間切)(隆慶2年:1568年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶5年:1571年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
     (受給者不明)(年欠)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦7年:1579年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦7年:1579年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦11年:1583年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦15年:1587年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(萬暦16年:1588年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦23年:1595年)
  ・とくのにしめまきり(徳の西目間切)(萬暦28年:1600年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦30年:1602年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦35年:1607年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦37年:1609年)

   (追加あり)

2022年9月9日(金)

 奄美に1609年以前に首里王府から発給された辞令書(印判)が約30点ほどある。古琉球の辞令書と呼ばれている。『琉球国絵図史料集第一集―正保国絵図及び関連史料―』(沖縄県教育委員会:1992年)所収の絵図の与論嶋と永良部嶋を参照。鬼界嶋・大嶋・徳之嶋・永良部嶋・与論嶋の五島は「琉球国之内」とあり、絵図に1609年以前の琉球国の姿がどう遺っているのか。奄美の島々に発給された古琉球の辞令書と合わせ見る作業を試みる(ただし、両嶋には辞令書は未発見)。「おもろ」に謡われた地名や村名(村名の前の地名)。辞令書は未発見だが祭祀遺品が遺る。

 ・まきり(間切)と分割(与論嶋に「まぎり」なし)(永良部嶋にきびる間切、徳時間切、大城間切あり)
 ・後の村名(表記)
 ・与論嶋の「異国船遠見番所」(1641~47年)設置。小屋が描かれている。
 ・与論嶋(むきや村、あがさ村)
 ・永良部嶋(あぜふ村、西目村、ぢな村、下平川村、和村)
 ・地名(浜や泊、おかみ山、あまた川、崎など)
 ・当時の航路、道筋

※与論嶋に間切規模とするムラとする集落がまだなかったか?
   近世になって二つの間切が成立か。

 
  ▲与論嶋図(正保国絵図)        ▲永良部嶋図(正保国絵図)

 ・徳之島
   【正保琉球国絵図】
    ①東間切 ②西目間切 ③面縄間切
 ・奄美大島
   【正保琉球国絵図】
     ①笠利間切 ②名瀬間切 ③焼内間切 ④西間切 ⑤東間切 
     ⑥住用間切 ⑦古見間切
 ・喜界島
    【正保琉球国絵図】
     ①志戸桶間切 ②東間切 ③西目間切 ④わん間切 ⑤荒木間切 

2022年9月8日(木)

 「地域博物の果たす役割」として報告してきた。現場を離れて数年になる。全て手から離れたつもりだが、
りだが、まわりが許してくれない。







 以下の写真は昭和7年の運天港である。大正5年まで運天番所(役所)があった場所である。「懐かしき沖縄」(写真集)(琉球新報社発行)に収録されている。山崎正薫博士を案内したのが島袋源一郎である。今帰仁城址を訪れた時、今泊の源一郎(敬称略)の妻の小波津家で一服されている写真もある。源一郎の息子哲夫が七高等学校在学中(七高在)肺炎を患っていて、山崎先生に診療をお願いしているが、さらにカゴシマ在の村田豊成博士(今帰仁村上運天出身)に診療を乞ひ居り候」とある。私が平成元年今帰仁村教育委員会に職を移した直後、村田精太郎氏(歯科)から民俗関係の書籍が数巻贈られてきた。島袋源一郎の人脈の人脈が私までつながっていることに気づかされる。(源一郎は息子と娘を若くしてなくしている)。

 
 ▲山原船が停泊していた運天港(昭和7年)      ▲運天番所(役場)があった付近(昭和7年)

2022年9月7日(水)

 大宜味村での編集会議の帰り、勘手(定)納港に立ち寄る。勘定納港は歴史に度々登場する。避難港としても。それで台風11号がおさまった直後の様子を見に。北山滅亡の

 
 ▲羽地湾に避難中の運搬船

 勘手納港は名護市呉我から仲尾、そして仲尾次にかけての海岸線のことである。狭い意味での勘手納港は仲尾集落の前方の海岸のことである。仲尾のことを「かんてな」と呼ぶのは、近世から明治にかけて国頭・大宜味・羽地など間切の貢物を納める定物蔵があったことに由来するのであろう。「仲尾に公庫即ち定物蔵を設置し、羽地間切の貢米を勘定せしを此の名ありといふ」(沖縄県国頭郡志)。

勘手納港は羽地内海の奥まったところにある。まだエンジン付きのない船の時代、古宇利島の前方から屋我地島と運天との間の水路(ワルミ海峡)を通り、羽地内海へと進まなければならない。帆船の山原船の往来は風向きもあるが、潮の満潮や干潮を見計らっての出入りとなったであろう。

仲尾の集落は小字半田(パンタ)原にあったが、道光15年(1835)に仲尾原に移動している。その理由は集落地が狭いので勘手納と東兼久(現在の仲尾原)に移動した(羽地間切肝要日記)。故地の半田原に神アサギやノロドゥンチやウペーフヤー、ニガミヤーなどの拝所があり、集落が移動したことがうかがえる。

 ※以下の画像は平成17年撮影:近年周辺は建て替えや整備される)
 
 ▲故地にある仲尾の神アサギ      ▲故地にある仲尾ノロドゥンチ跡

 
  ▲仲尾の集落と勘手納港          ▲仲尾のトンネル(大正8年開通)


勘手納港と仕上世米

勘手納港は羽地間切(旧羽地村)の仲尾村の前方の海岸一帯を指している。羽地間切番所は親川村にあったが、上納米などの搬出場所は仲尾村の勘手納港であった。仲尾村には定物蔵がいくつも設置され、羽地間切の上納米が蓄えられ、そこから薩摩へ運ばれた。また、勘手納港は運天港・湖辺底・那覇と並んで四津口と呼ばれていた。港名はカンティナやカンティナナートゥと言うが、上納米の勘定をしたことから、そう呼ばれている(『羽地村誌』)という。  


北山攻略と勘手納港

勘手納港の後方に羽地地方(後の羽地間切、現在名護市)の拠点となった親川(羽地)グスクがある。親川グスクが機能していた時代、この港が使われていたに違いない。1416年(あるいは1422年)、中山の尚巴志の連合軍が北山を攻め滅ぼした大きな出来事があった。

『球陽』(尚思紹王11年:1416)に「王尚巴志を遣はし、山北王攀安知を滅ぼさせしむ」とある。その時の様子を「・・・王(尚巴志)、世子巴志に命じ、急ぎ軍馬を整へ、往きて山北を征せしむ。巴志旨を奉じ、便ち浦添按司・越来按司・読谷山按司・名護按司・羽地按司・国頭按司の六路の軍馬を将て、隊を分かちて先に往かしめ、随ひて後、官軍大いに発す。寒汀那港に前み至り、兵を擁して江を渡る。・・・」と記してある。中山の按司、それと北山の名護・羽地・国頭の按司も加わって北山の攀安知王攻め滅ぼすために集結した(連合軍)港であった。

 
  ▲親川(羽地)グスクの遠景         ▲仲尾次側からみた勘手納港


▲親川グスクに隣接してある神アサギと火神の祠(祠に弘法大志像が安置)

 (羽地間切の総地頭(池城家)に弘法大志を信奉した人物がいたのであろう)


勘手納港の風景

  今帰仁間切の運天番所へいく時、勘手納港からサバニに乗り、湖のような羽地内海を渡る場合がある。明治14年羽地間切番所を訪れた上杉県令は「勘手納港ニ出ツ、官庫瓦ヲ以テ葺ケリ、役所詰員、及ヒ村吏ノ奉送スル者、皆別ヲ告ス、舟子舟ヲ艤シテ待ツ」(『上杉県令巡回日誌』)と勘手納港から屋我地島に向かう様子や勘手納の倉庫が瓦葺きであったこと記録に留めている。また1719年に蔡温は勘手納港を訪れ漢詩を謡っている。 

   勘手納暁発    勘手納を暁に発す
    桂帆此地離    桂帆して此の地を離る
   烟水暁天馳    烟水暁天に馳す
   興深回首望    興深まりて首を回らせて望めば
  江山盡是詩    江山尽く是れ詩なり


▲中央部の丘は親川(羽地)番所があった場所  


 『親見世日記』(1785年)に「勘手納津口で米を積んで出航した記事があり、また『志那冊封使来琉諸記』(1866年)に冊封使が琉球にきている間は、島尻や中頭方の米の積み出しは浦添の牧湊へ陸路で運び、馬濫船で運天・勘手納へ運び、そこで御国船(大和船)に積み込んでだ。勘手納港は大和への仕上世米の積み出す重要な港であった。


貢物を搭載して那覇へ

 勘手納港は羽地間切仲尾、仲尾次の両村に亘るの湾口を称するものにして旧藩の頃にありては本港に於て国頭大宜味羽地の貢物を収納したりしと云う。本港は特に港名もありて或いは船舶の出入も頻繁なるが如しと雖ども現今只其名の存するのみ。僅かに貢租を搭載して那覇に航行するに過ぎず。然るに呉我、源河、稲嶺、真喜屋等は目下常に船舶の出入絶えざるものの如く随て焼酎の輸入も少からず。・・・・(「諸港津巡視」)(明治27年) 


バジル・ホールが見た仲尾集落(1816年)

 1816年琉球を訪れたバジル・ホールは「湾の先端にあるこの村は、浜辺との間の一列の樹木によって北風から守られ、背後はだきかかえるような丘陵によって保護されている。浜辺との間に広い道が走り、家々の周囲に植えられた樹木は鬱蒼と茂って、建物をおおい隠さんばかりである。・・・・高床式の穀物倉の一群が建っている。壁は網代の編んだ藤でつくられ、ねずみ返しが設けられていた」(『朝鮮・琉球航海記』)と記している。

 そこに登場する広い道は馬場、高床式の穀物倉は公庫と記される蔵物蔵と見られる。

 
   ▲仲尾の馬場跡地                  ▲定物蔵があった場所


2022年9月6日(火)

 平成2年に仲原馬場について書いたことがある。「写真に見る今帰仁」(広報なきじん)として100回連載の一コマである。仲原馬場については複数回書いている。久しぶりに車を降りて松並木をくぐってみた。先日、謝名の根神殿内(二―ガミトゥン地)の取り壊しの場で、シマの先輩から「馬場の学校よりに獅子があるがなんだろうか?」と質問を受けていた。ちょうど台風11号が去った直後だったので行ってみた。老松は蔡温松と呼ばれている。

 シーサー?は私が小学校6年の頃、図工の先生(大城正秀教諭)の指導で確か卒業記念として色々な動物や鳥などを造った(昭和37年か)。私のグループは馬かキリンだったと記憶。鉄筋で骨組みをつくり、それにセメント、さらに石灰で整えた。大分後まで遺っていた。現在のこっているのは、アザラシか(女性徒グループ)。

 ちょうど今頃、運動会練習は馬場の松の陰ではっていた。運動場は馬場のしたの現在のブドウ畑にあった時代であった。現在、馬場の勢いのある若い松が植樹されたのは記憶にある。昭和35年頃、村内の松並木が県の文化財に指定されたことがある。数年で解除。その理由は、道路の拡張や松の木の下は作物が育たないとのことのようだ。


  ▲1959年の仲原馬場の記録(新城徳祐氏ノート)


  ▲仲原馬場の若い松は昭和35年ころ植栽される


   ▲馬場中部の来賓席の石積み

 ▲昭和35、6年頃、卒業記念で作成された動物などの作品の一点

仲原馬場(ナカバルババ)と松並木(越地)(平成2年11月号)

  ナカバルババ(仲原馬場)は別名マーウイとも呼ばれ、今帰仁小学校の西側に位置する。よく写真に写される場所であり、戦前、戦後の写真が何枚か残っている。仲原馬場は昭和34年に県の文化財(史跡)指定をうけている。馬場は距離にして約 250メートル、幅約30メートルあり、中央部に石垣が残り(上の写真の中央部の左側)アブシバレーや間切(現在の村)行事の時の来賓席だったという。  上の写真にみるように競走路の両側には松の大木が並木をなし、その風景は見る人の胸をうつ。それらの松は、別名蔡温松とも呼ばれ松の樹齢を感じさせる。大木の松が数少なくなったが、老松の間に30年余りの若松が勢いよく成長し、松の世代交代をみせつけている。馬場の左側にキビ畑がみえ、まだ運動場が移転する前(昭和30年代後半)の風景である。

  今帰仁村には、仲原馬場のほかに、今泊や天底にも馬場があった。馬場は人工的な施設であり、いつ頃つくられ始めたのかはっきりしないが、『球陽』の1695年の記事に首里に戯馬場がなく、各地に行き騎馬の方法を習って、馬場を西原郡(間切)平良邑に開いたとある。それ以前の『琉球諸島航海日誌』(161415年)にも競馬が行なわれていたことを記してある。今帰仁の仲原馬場の起源については、今のところ定かでない。

  『沖縄県統計概表』(明治13年)は、「馬場ナルモノハ毎歳収穫ノ時ニ至リ一間切ノ人民此相会シ各穀物ノ熟否ヲ較ヘ随テ平生労力ノ勤怠ヲ鑑別スル所ナリ」とあり、馬場は間切に人民が揃い原山勝負を行なわう施設であった。その余興として競馬が開催された。

  今帰仁村の仲原馬場は字の示す通り、仲原にある競馬場ということになるが、現在字越地の小字与比地原(ユピチバル)に位置する。越地は昭和12年に謝名と仲宗根の一部をあわせてできた字(アザ)である。馬場のある地が仲原という地名であったとみられる。それを証拠づけるように、明治13年の『沖縄県統計概表』に「仲原(今帰仁)」、明治31年の『琉球新報』に「今帰仁尋常高等小学校の新築工事請負入札広告」があり、「但、敷地は今帰仁間切謝名村字中原にして・・・」、同様に明治32年「今帰仁尋常小学校に高等科を併置し、今帰仁小学校と改称、敷地を謝名仲原二五三番地(現敷地)に新築移転」と記し、明治3132年頃は現在の今帰仁小学校あたりは字仲原であったことがわかる。

 仲原馬場と呼ぶのは、現在の馬場一帯が仲原という小字で、それにちなんで名付けられたと思われる。小字の組替がなされても、かつての呼び方を踏襲し、仲原という地名と人工的施設である馬場が連称され、「仲原馬場」と呼ばれている。その仲原馬場は、本来今帰仁間切の公共的な施設で、アブシバレーや原山勝負などを行なう施設で、競馬や闘牛・相撲などはその余興として行なわれた。

  下の写真は、昭和35年頃の県道沿いの松並木(一部仲原馬場)である。昭和33年の記録をみると、謝名から今泊に至る街道の両側にある琉球松の大木は約 410本あったと記している。写真の手前右側に運動場があり、バスが通っている場所は二又に別れていた記憶が今に残る。

  


2022年9月5日(月)

 台風の跡片付け。まだ、雨続きで乾かず大きなものの片づけ。「寡黙庵」の実のついたバナナが二本が倒木。二本はぶら下がっている。その二本は熟するまでなるか? 倒れた二本は家の中で黄色くなるまでぶら下げておくことに。大した被害はなし。乾いたら落ち葉の掃き掃除。花畠は大丈夫。

 
▲倒れたバナナの一本       ▲二本は木にぶら下がったまま



▲先週の日曜日、撤去された根神ドゥンチと個人の拝所(昭和45年頃)(普天間高校民俗クラブ提供)

北山の系統図
の検討

 北山と沖永良部島との関わりについて、どの系統図をベースにするかで異なってくる。ここで、「北山の系譜」を掲げ、特に「中北山の系譜」と「後北山の系譜」をベースとする。それはハニジが「中北山」を動乱に陥れ、(ハニジ)→珉(ミン)→攀安知(ハンアンヂ)と継承された三北山王」の時代がやってくる。ハニジ(長男)の弟真松千代(次男)を沖永良部島へ、そして三男の与論四之主を与論島へ配置したという。そのことが、北山、沖永良部島、与論島に遺る根強い伝承である。怕尼芝・珉・攀安知は山北王として『明実録』に登場する人物であり、出来事である。
 
 琉球の三山の時代についての興亡について『中山世譜』や『球陽』で触れられていない。ほとんど触れれていない。中山については『正史』とされるが、「北山」についての記事は非常に乏しく『野史』に頼るところが大きい。以下の「北山の系譜」は「野史」によるものである。北山のこの時代(「中北山」)興亡の手がかりとなるのが国頭地方の大宜味、名護城、中頭の伊波城である。その時代の興亡の後に出現するのが山北王ハ二ジ(怕尼芝)である。






2022年9月4日(

 台風11号の影響(外は雨と風)でコロナとは別の籠り生活。休息?


【今帰仁グスク火神の祠と前の石燈籠】

 今帰仁グスク城内にある火神の祠の前に四基の石燈炉がある。石燈炉の他に「山北今帰仁城監守来歴碑記」(乾隆十四年:・1749)がある。それらは火神の整備と同時期に建立されたものとみられる。元文検地の時、今帰仁城も竿入れがなされている。「今帰仁城之儀」の「覚」書きがあり、乾隆七年(1742年)に今帰仁按司の名で提出されている。「今帰仁旧城図」は翌年の乾隆八年(1748)に差し出されている。その旧城図に火神・トノ敷・上イヘ・下イヘが描かれ、当時にもあったことが知れる。それ以前の『琉球国由来記』(1713年)には、城内上之嶽・同下之嶽・今帰仁里主所火神・今帰仁城内神アシアゲがあった。

 「山北今帰仁城監守来歴碑記」と「石燈炉」の建立は乾隆十四年(1749)である。それは『琉球国由来記』と「旧城図」の差出より後のことである。石碑と石燈炉の建立は何を記念してのことなのか。どのような意味あったのかということになる。大和めきものは隠していた時代に。

 碑と石燈炉に乾隆十四年(1749)と今帰仁王子、奉寄進とある。1749年の今帰仁按司は十世の宣謨である。十世宣謨は乾隆十二年(1747)に王子の位を賜り使者として乾隆十三年六月薩摩に赴き、翌年十四年三月に帰国している。「石燈籠」の一つに「乾隆十四年己巳仲秋吉日」とあり、帰国した年の秋(八月)に石碑と石燈炉の建立がなされている。その時、火神の祠の改修も行われたのであろう。

 これまで各地の石燈籠や銘のある香炉を見てきた。その多くが薩州(薩摩)や上国(江戸)

  

 
   ▲今帰仁城内にある火神の祠と石碑(1基)と石燈炉(4基)  

   ①の石燈炉   ②の石燈炉       ③の石燈炉      ④の石燈炉

の年号と合致する。石燈炉や香炉の「奉寄進」は薩摩や江戸上りから無事帰国できたことへのお礼と、その記念としての奉納の意味合いが強い。

 帰国は麑府(鹿児島)を出て山川港から出港している。石燈炉、あるいは石燈炉に使われている石は山川産の石(凝灰岩)か。
 ①の石燈炉  「乾隆十四年己巳 仲秋吉旦(日?)」「奉寄進石燈炉」 「今帰仁王子朝忠
 ②の石燈炉  「奉寄進□□年」(他の文字は判読できず)

③の石燈炉  (文字判読できず)
④の石燈炉  「奉寄進」(他の文字は判読できず)


【今帰仁阿応理屋恵火神の祠にあった扁額】


『金氏家譜』(十一世金聘)(久米系)の記事に、以下の記事がある。

 「乾隆四七年(1782)壬寅十月十八日拝授本部間切具志川(今呼浜元)地頭職」とある。金氏十二世策が本部間切具志川村の脇地頭を拝受して記録である。1782年には具志川村は浜元村になっていたことがわかる。一部は渡久地村へ。村名の消えた具志川村の名の具志川ノロは古琉球の時代から登場する(1607年の具志川ノロ辞令書あり)。具志川ノロの住居は浜元にあった。ノロの名称は浜元村になっても「具志川ノロ」をそのまま継承している。また(脇)地頭も本部間切具志川村を領地とし作得(十四石余)賜っているが、浜元親雲上を名乗っている。具志川ノロ家は、現在本部町辺名地(仲村家)に移っている。脇地頭の名と村名が一致しない村がいくつか見られる。

 この内容の文書は『国頭郡志』や『本部町史』、それと浜元の土帝君を祀った祠にある(元々は具志川ノロ家の先祖のようだ)

 間切住民には三種(地人・居住人・寄留人)あるという。居住人と寄留人は、ほぼ同一に扱っているのではないか。他から来て住みついているのは寄留人(寄留士族・何々系の寄留など) と解している。首里・那覇の士族は明治以前まで本籍を他に移すことを禁じていた。本来首里那覇に住んで生活を営んでいたが、それができなくなって地方は行き、百姓地を小作しながら生活を営んだ。間切や村において土地はあるが人口が少なく貢租の負担に堪え切れず地人同様に百姓地を耕作させ貢租の負担をさせた。土地によっては百姓地に入れず、離れた土地に移り住んだヤドゥイ(寄留人)がいた。

 士族は自ら平民にならず、また平民は地人として士族に下らず、その間には生活習慣やプライドの違い、感情に至っても大分隔たりがある。大分薄らいできたが、歴史や民俗など人間を扱う分野になると、そのことが物事を決定づける場合が度々ある。
 ・地  人・・・・・土着の平民(その間切に本籍がある者)
 ・居住人・・・・・戸籍に関する規則が実施されて以来、間切に本籍があるが元は
          首里・那覇などから寄留した士族。(百姓地の配分を受け、貢租公費を
          負担する。)
 ・寄留人・・・・・本籍地外の間切に住む者。ヤードゥイ

【百姓地】
 ・耕地の大部分をしめるのが百姓地
 ・百姓地は四~三〇ヵ年で割りかえ(各村によって長短あり:地割)
 ・地割を受けるのは地人(臨時に割りかえあり)
 ・百姓地は売買が許されず
 ・人が少なく土地が荒蕪した所があると間切で特別に百姓地を売り渡すことあり(払請地)。
 ・百姓地は質入れできない
 ・百姓地には田・畑・宅地などあり。
 ・浮掛地は百姓地の一部(人口が少なく土地が多く、地人の力で全部を耕作することができず、
  貢租に耐えることができない場合、居住人、あるいは他の間切の人に耕作させる。地割の際
  は浮掛地は除いて配分する。
 ・浮掛地の小作権は 五十または無期(叶米(小作米)の滞納があっても土地を引きあげる
  ことができず、滞納分は村が負担し、その分は村が小作人に納めさせる。
 ・小作の種類(浮掛の他に、叶掛と作分あり)
 ・作分・・・土地の実際の収得に比例して地人と小作人との間で収益を分配する。
 ・旧地頭自作地
 ・旧地頭捨掛地
 ・旧地頭質入地
 ・持地旧地頭地
 ・村持旧地頭地
 ・オエカ地・・・役人の土地。地頭頭以下の吏員の役地。オエカ地には自作するものあり。
  置県後は役地を廃止して俸給は石代で下付する。百姓地と同様な扱いとなる。
 ・ノロクモイ地・・・ノロクモイの役地、性質や処分などはオエカと同様。
 ・請地・・・山野の開墾地からなる。
 ・仕明地・・・埋立地からなる。
 ・仕明知行地
 ・喰実山野
 ・屋敷地
 ・浮得地
 ・塩田
 ・小堀(クムイ)

 色々な面で士族(サムライ)か平民かで扱が異なることに注意が必要。


2022年9月3日(

 台風で外は雨。自宅で沖永良部島の原稿整理。沖永良部島知名町のムラの整理



 台風の余波か。雨は降っているが、風はあまりなし。積み残してあった沖永良部島知名町側の珊瑚礁の段丘上の集落とシニグドーと村名グスクに注目する。


2022年9月2日(金)

 本部町辺名地は本部間切が今帰仁間切内であった時代を識る上で貴重な史料をもつ村である。それだけではないが、現集落は台地上にあり、古琉球から同地に集落があった姿を見せている。平成24年に講座を行っている。20期7回目の調査で使ったノートである。南下してきた台風11号は沖縄本島北部は避けていきました。南から北上してくるようだが、避けてくれるか?

 辞令書に「みやきせん あんし」(今帰仁按司)とあり、1607年のことなので今帰仁按司(監守)は今帰仁グスク内の居住か。アクカベ(赤頭)の使いがいて三番制があったことがわかる。その他にもいろいろあり、・・・

 昨日の残した畑の草刈りでもいくか。台風や大雨の時、歴史は動くのだ!昔からの口癖。


山原のムラ・シマ講座」(平成24128日ノート)

 今年度最後のフィールドの「山原のムラ・シマ講座」は本部町辺名地です。辺名地は1666年まで今帰仁間切の村の一つでした。辺名地の仲村家には古琉球の時代(1609年以前)の辞令書(県指定の文化財)が三枚のこっています。それには「みやきせんまきり」とあり、今の本部町まで今帰仁間切の内(辺名地・具志川(後の浜元)・謝花)だったことがわかります。

 辺名地の神アサギは公民館の近くにあります。アサギの側に「神社改修記念碑」と「拝殿改築記念碑」(昭和12年)があります。二つの碑は昭和12年の神社と拝所の改築です。辺名地は神アサギを拝殿にし、神殿をつくり合祀をする形。しかし、これまでの御嶽などの祭祀場はこれまで通り踏襲しています。

 ウタキはタキサン(嶽山)とも呼ばれ、入口の鳥居の台に「昭和六年建設」と「奉納」とあるので、昭和6年に建設され、その後の昭和12年に神アサギを神社の形の神殿と拝殿として改築したものとみられます。それとウタキ(嶽山)の入口に鳥居を建立し、御嶽を神社化しています。そこイベの前に「奉寄進」された香炉が置かれています。

 神殿の内部に三基の香炉があり、その一基に「奉納寄進 咸豊九年巳未九月旦日 本部按司内 松田仁屋」とあります。またウタキのイビにある香炉も同年とみられます。同様な香炉は並里にもあります。『中山世譜』(附巻)に本部按司が上国したことに連動します。

 辺名地の集落は台地上にありますが、昭和22年海岸沿いの大浜は辺名地から分区しています。正月の豊漁祈願や祭祀は辺名地と一緒に行います。『琉球国由来記』(1713年)では、辺名知(地)村の祭祀は瀬底ノロの管轄で、由来記に「根神火神」とあり、根神が祭祀の要になっていたようです。

また、辺名地一帯は昭和19年桃山(当山)に陣地構築の平山隊の「宿営配置並警戒区域」となります。どのような場所なのか、現在の様子を見て行きます。
 
  ①仲村家の辞令書など
  ②石垣のある旧家
  ③辺名地の公民館/根神屋
  ④神ハサギ/神社/拝所など
  ⑤ウタキ(昭和6年建立の鳥居)/ウタキのイベ(香炉)
  ⑥辺名地の集落(昭和19年の宿営配置)
  ⑦「奉寄進 本部按司内松田仁屋 咸豊九年」の香炉のある墓
  ⑧ウティラグンジン(洞窟)/崖中腹の墓

 咸豊9年(1859)は向氏本部按司朝章が順聖院様が薨逝されたので特使として薩州に派遣されています。その時の寄進とみられ、松田仁屋と渡久地仁屋は按司家に奉公していた辺名地村と並里村出身の屋嘉(ヤカー)とみられます。

 神アサギの屋根裏に桶があり、祭祀の時にお神酒をつくる容器です。内にはタモト木があります。

 辺名地の公民館あたりの集落は昭和19年「独立重砲兵第百大隊」(平山隊)の「宿営」となっています。いくらか確認できるでしょうか。

  
  ▲本部町辺名地の神アサギ              ▲拝殿改築碑         ▲神社改築記念碑
 テキスト ボックス:
  ウタキの入口の鳥居の台                      ウタキのイベと神殿内の高炉
 


  ▲平山隊辺名地附近(宿営配置並警戒区域要図)(『沖縄県史』(資料編23)より

 【本部監視哨跡】 

 監視哨は戦時中情報蒐集の目的で作られたもので、敵の飛行機や潜水艦などの監視、発見し、その位置や方向、機数、高度、敵味方などの情報を守備軍や警察などに報告、防衛に役立てるための施設。
 この監視哨の設置は昭和10年代、当初は谷茶の大瀬(谷茶公園のお宮)で立哨していたが、後に展望のよい、この場所に設置される。
   

 

「奉寄進 咸豊九年 本部按司内」の香炉と本部按司

 本部町の具志堅・伊野波・並里・辺名地に「奉寄進 咸豊九年己未」の香炉がある。これまで確認しているのは六基である。香炉が置かれているのはウタキのイベ、イベの前の祠、そしてお墓の前である。奉寄進の香炉と上国で報告してある。

   
 ▲辺名地のタキサンのイベ香炉   ▲神殿内の祠の香炉        ▲松田仁屋の墓の香炉


 上の香炉は本部町辺名地の三ヶ所にある香炉である。「咸豊九年己未九月吉日 奉寄進 本部按司内 松田仁屋」とあり、同一の人物である。咸豊九年は1859年で、「本部按司内」とあり、本部按司殿内のことではないか。そこに奉公していた人物が「松田仁屋」なのであろう。その年本部按司朝章が、順聖院様が薨逝なされたので薩摩に派遣されている。六月十日に薩州に到着し、十月六日に帰国している。薩州に赴いていた時、御殿奉公していた松田仁屋が寄進した香炉なのだろうか。他の事例からしても本部按司の上薩州と無縁ではなかろう。香炉は神アサギの後方の祠の中にある。シニグの時に、拝所の扉を開けるので拝見することができる。

 「奉寄進 咸豊九年己未九月吉日 本部按司内 …仁屋」である。人物は並里と伊野波は渡久地仁屋で同一人物とみられる。具志堅は具志堅仁屋である。他の香炉では並里仁屋や仲村渠仁屋などの人物名が見られる。崎本部のウタキのイベの香炉には年号は不明だが、「金城仁屋」とある。

  
▲本部町並里のウタキのイベ  ▲本部町伊野波の拝殿内   ▲本部町具志堅の拝殿の香炉


 本部町辺名地に仲村家に古琉球の辞令書が三枚ある(県指定文化財)。辺名地は1665年以前は今帰仁間切の村の一つである。『琉球国由来記』(1713年)に辺名地村のウタキとして西森(神名:コバヅカサノ御イベ)が登場している。また「年中祭祀」のところに神アシヤゲと根所火神(根神火神)がある。祭祀は瀬底ノロの管轄である。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)には「辺名地村・大辺名地村二ヶ所村 三ヶ所内 赤平ラノ御嶽・神アサギ・御火神所」とある。ここに出てくる大辺名地村は明治36年に辺名地村に統合される。

 大辺名地村は祭祀や神アサギなどから辺名地村から分かれ、再び統合したようである。辺名地村の存在は万暦32年(1604)の辞令書に「へなちめさし」(辺名地目差)とあり、へなち村の存在をうかがわせる。

 辺名地公民館の周辺はプシマ(大島)と呼ばれ根所火神の祠・神アサギ・辺名地地頭火神などの拝所や旧家などがあり、かつて村(ムラ)の中心地であった。神アサギの後方にウタキへの遥拝所なのか、いくつか拝所がつくられている。

 辺名地の御嶽(ウタキ)はウタキサンと呼ばれ、何度が移動しようでタキサン・フルウガミ・ナカヌウタキなどが地名として残っている。タキサンへの入口に小さな広場があり「昭和六年建設」「寄進」と刻まれた鳥居?がある。

      
 ①具志川ノロ叙任辞令書(1607年)  ②辺名地の目差職叙任辞令書(1604年)  ③謝花の掟叙任辞令書(1612年)

①具志川ノロ叙任辞令書(1607年)

   しよりの御ミ事
     ミやきせんまきりの
     くしかわのろ又ちともニ
     五十ぬきちはたけ四おほそ
     くしかわはる又によははる又はまかわはる
      又ほきはるともに
        もとののろのくわ
     一人まかとうに
     たまわり申候
   しよりまかとうか方へまいる
   万暦三十五年七月十五日 

 ②辺名地の目差職叙任辞令書(1604年)  

  しよりの御ミ事
   みやきせんまきりの
   へなちのめさしハ
   ミやきせんのあんしの御まへの
   一人うしのへはんのあくかへのさちに
   たまわり申候
  しよりよりうしのへはんのあくかへのさちの
       方へまいる
  万暦三十二年閏九月十八日

③謝花の掟叙任辞令書(1612年)

   しよりの御ミ事
     みやきせんまきりの
     ちやはなのおきてハ
    ミのへはんの□□に
   くたされ候
  万暦四十年十二月□□□日
  
▲仲村家の離れにある拝所   ▲辺名地の神アサギと神社       ▲墓地内にある香炉

  

▲屋敷跡の石垣           ▲ウヮンプル(豚小屋トイレ)     ▲大小堀川沿いの崖中腹の墓


・具志川のろくもい(戦後まで浜元にノロ家がある。辺名地の具志川ノロ辞令書をもつ仲村家との関係は?)

   社禄の給与額(明治43年) 150円(証券) 22円56銭(現金) 計172円56銭
 
 『琉球国由来記』(1713年)に具志川村や具志川巫(ノロ)が登場する。具志川ノロが管轄する村は具志川村と渡久地村である。祭祀場は仲之嶽、渡久地村のヨケノ嶽、アカラ森である。その他に具志川巫火神(具志川村)と神アシアゲである。具志川ヌルドゥンチは現在の浜元にある。浜元村はかつて具志川村である。本部町浜元にあるヌルドゥンチの男衆が唐旅をしたときトゥーティンクー(土帝君)象をお土産に持ち帰り祀ったという。今は字でまつりをしている。ヌルドゥンチの後方につながる森は、今は国道で分断されているが、かつてはつながっていて、そこはヌンドゥルチの所有だったという。

 本部町辺名地の仲村家(前は仲村渠)に古琉球(万暦35年:1607)の具志川ノロの叙任辞令書がある。その他に今帰仁間切辺名地目差職補任辞令書と今帰仁間切謝花掟補任辞令書(1612年)がある。同家にある辞令書からするとヌルドゥンチ家の男衆は役人を勤めていたことがわかる。古琉球のノロ制度の実態をしる手掛かりとなる。

    しよりの御ミ事
     みやきせんまきりの
     くしかわのろ又ちともニ
     五十ぬきちはたけ四おほそ
     くしかわはる又によははる又はまかわはる
             又ほきはるともニ
       もとののろのくわ
     一人まかとうに
     たまわり申候
  しよりよりまかとう方へまいる
  万暦三十五年七月十五日


▲今帰仁間切具志川ノロ叙任辞令書(1607年)

 
 ▲具志川ヌルドゥンチ跡(浜元)        ▲ノルドゥンチにある井戸(浜元) 

   
   ▲ウティラグンジン(洞窟)(拝所)         ▲洞窟の入口に鳥居?)がある。

 
     ▲辺名地にある古墓               ▲墓地内にある石棺と厨子甕


2022年9月1 日(木)

 今月から、しばらく沖永良部島と与論島に重きをおけそう。歴史的なことや両島にシニグがある(あった)ことが、シニグの元来の姿(『琉球国由来記』(1713年以前)が遺っているのではないか。それと、両島を踏査しているとグスクは高地性集落(2022.6.24参照)ではないか。与論島の城(グスク)集落、沖之永良部島の小城・玉城・大城・内城などの集落を踏査していると、そんな素朴な疑問が湧いてくる。古琉球の痕跡を両島で拾っていると。その上に薩摩の制度が覆いかぶさり、琉球的なものの廃止があったが。そこで、14世紀の山北王怕尼芝に繋がる人物の素性(仲北山の興亡)の歴史をみておく必要がありそうだ。

 台風は沖縄本島北部から逸れたようだが。再び接近するのか。

  ▲草刈り前            ▲草刈り後        ▲台風で倒れず無事

与論島と琉球 
2008927記録

 与論島に「初代与論城主 又吉按司 花城真三郎之 奥津城」と記された墓がある。「基家系図」や「東家系図」や「滝野家系図」に出てくる花城与論主(幼名:花城真三郎)の墓である。基家系図に花城真三郎は首里で生まれ育ち21歳に、いきさつがあって当地(与論島)に来たようである。『与論町誌』では1525年に「花城(旧又吉家)与論主となる(東・基・滝野家古文書)」と位置づけている。1525年ということは、花城真三郎は尚真王の第二子と見ている。また「1512年尚真王次男尚朝栄(大里王子)すなわち花城真三郎が、21歳の時に与論世之主又吉按司として来島し、この城(与論城)を築いたともいう」とある。それは北山王統の怕尼芝王の三男(王舅)とは別の話である。『与論町誌』では、怕尼芝王の三男とされるが怕尼芝王の兄弟ではないか。沖之永良部島では怕尼芝王の子ではなく弟ではないかと疑問が投げかけられている。

 1501年建立の「玉御殿の碑文」に三男の「みやきせんあんしまもたいかね」(今帰仁按司:尚韶威)や四男の「こゑくのあんしまさふろかね」(越来按司:龍徳)、六男の「きんのあんしまさふろかね」(金武按司:亮仁)などはあるが、二男の大里按司(朝栄)の名がない(玉陵に入ることができない人物の一人)ことと関係があるのかも。ちなみに五男の「中くすくあんしまにきよたる」(中城按司:尚清)は尚真王をついで王位につく。

 与論島の北山の三男や花城真三郎につていて史実かどうかの確認は困難である。それは与論や沖永良部に限らず、沖縄本島の「野史」と言われる部分である。北山だけでなく、中南部のグスクを調べていると、必ず野史がついてくる。それがまたグスクやムラなどの歴史、あるいは伝承として根強く息づいている。

 
       与論世之主又吉按司(花城真三郎)の墓(2007.8.4

 
     何年か毎に塗り替えられるようだ(2007.8.4