寡黙庵琉球・沖縄の地域史調査研究)(管理人:仲原)   

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2022年8月
                    
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▲今帰仁村崎山の神ハーサギ   ▲羽地内海(カンテナ湊)      ▲今帰仁村仲尾次の神ハサ―ギ

山原のシニグ  今帰仁阿応理屋恵
沖永良部島を往く
・徳之島を往く
喜界島阿伝(あでん)(東間切)
北山の時代と沖永良部島2016年11月5日沖永良部島講演)
沖永良部島(2022年4月)
今帰仁村崎山のハサ―ギ(葺き替え作業)
国頭村過去記録
徳之島と琉球へ
奄美大島―瀬戸内町―加計呂麻島
本部ミャークニーを辿る
・2005年8月の記録から「ドイツ・オーストリアを往く
本部町の神アサギ(工事中) ・本部町健堅 ・本部町浜元
本部町具志堅  ・具志堅  ・本部町瀬底  ・本部町謝花
本部町嘉津宇  ・本部町備瀬 ・本部町崎本部 ・伊野波・並里・満名
中南部のグスク・ウタキ
国頭村安田のシニグと辞令書
  ・(山原のノロドゥンチ参照
加計呂麻島1  加計呂麻島2


【中城ノロが関わる祭祀】(ウチマチと五月ウマチー)(中間まとめ:仲原)
                      2011
722日(旧622日)の調査記録

 中城ノロの祭祀場を見て行くことは、崎山・中城(仲尾次)・(上間)のかつてのムラの位置やムラの領域をみていく作業である。例えば、崎山ノロドゥンチと呼ばれる祠は、現在崎山の地に位置する。それと中城ムラのウタキは崎山を越えた平敷地内にある。それを整理すると、崎山・仲尾次・上間の三つのムラが短冊状ではなく、海岸から並行にあったのではないか。崎山ノロドゥンチのある場所は、中城ノロが任命された頃(16世紀後半)は中城ムラの地であった。中城ムラの領域は現在の仲尾次あたりから崎山ノロドゥンチ、そしてスガーウタキ(ナカグスク)に延びていたとみられる。

 そのことは、拝所の位置と上間・中城・崎山(ヒチャマ)の関係が海岸から短冊状ではなく、並行にあったように見られる。それは古琉球の辞令書(戦前まであった中城ノロ家の辞令書)からも伺える。つまり、現在のムラの形(今帰仁間切の短冊状の形)は近世のムラの線引きであり、海岸から並行のムラの形は古琉球のムラの様子を示しているようだ。

【諸志の年中祭祀】(旧暦)(○は今回の調査)
  ・2月15日 二月ウマチー
  ・3月13日 ウカタビ
  ・3月15日 ウチマチ
  ・4月15日 アブシバレー
  ○5月13日 ウカタビ
  ○5月15日 五月ウマチー
   (同日)  ウガヌー
  ・6月23日 ウカタビ
  ・6月25日 ウンジャナシー
  ●7月後ろの亥の日 ウプユミ
  ・8月吉日 ウカタビ
  ●8月10日 トゥハヌウガン
  ・9月15日 ウガヌー
  ・10月1日 ピーマチガナシーヌウガン
  ・(新)12月24日 プトゥチウガン
    (同日)    ミチグイ 

 ※ここでは中城ノロ管轄の崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田(現諸志)・兼次の区長・書記、
  関係者がそろう。ここでの祭祀が終わると各字の拝所で祭祀を行う。以下、兼次の祭祀のみ
  紹介する。旧五月ウマチー、旧5月のウマチーはウカタビと呼び旧6月はウマチーと呼んでいる。
  ここでは、シニグやウンジャミ(海神祭)の呼び方はない。



2022年8月7日(

 奄美に目を向けることに。過去の記録を取り出し、再検討をすることに(来週あたりから)。その前に片づけなければならない原稿がある(450頁)。

2005.06.18(土)

 奄美地方が首里王府の支配下にあったことを示す史料に古琉球の「辞令書」がある。首里王府から発給された辞令書の分布(現存●および逸存●)を示してみる。首里王府から奄美地方に発給された古琉球の辞令書から、首里王府の奄美の統治の様子が伺える。

 大屋子・掟・首里大屋子・のろ・目差・里主などの職へ辞令の発給がなされている。それと土地があたえられているのもある。それは奄美が特別なものではなく、琉球内でも同様な内容の辞令の発給がなされており、奄美含めて首里王府の統治の配下にあったもので、奄美の古琉球の辞令書を紐解くことは沖縄本島以南の古琉球の統治を知ることでもある(詳細については別報告)。

 以下は『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会:昭和53年度から)。その後、確認された奄美の辞令書があったような。後で追加することに)。

●笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書(嘉靖8年12月29日)(1529年)(大島北東部笠利町)
●瀬戸内西間切の西の大屋子職補任辞令書(嘉靖27年10月28日)(1548年)
       (大島の南西部:瀬戸内町)
●喜界の志戸桶間切の大城大屋子補任辞令書(嘉靖33年8月29日)(1554年)(喜界島)
●屋喜内間切の名音掟職補任辞令書(嘉靖33年12月27日)(1554年)
       (大島中西部、大和村・宇検村)
●屋喜内間切の名柄掟職補任辞令書(嘉靖35年8月11日)(1556年)
       (大島中西部、大和村・宇検村)
●瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(嘉靖・・・)(大島の南西部:瀬戸内町)
●笠利間切の笠利首里大屋子職補任辞令書(隆慶2年8月24日)(1568年)
       (大島北東部笠利町)
●瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(隆慶2年8月24日)(1568年)(瀬戸内町)
●鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令書(隆慶3年正月5日)(1569年)(喜界島)
●瀬戸内間切阿木名目差職補任辞令書(隆慶5年6月11日)(1571年)
       (大島の南西部:瀬戸内町阿木名)
●屋喜内間切の先原目差職補任辞令書(隆慶6年正月18日)(1572年)
       (大島中西部、大和村・宇検村)
●屋喜内間切の屋喜内大屋子職補任辞令書(隆慶6年正月18日)(1572年)(大島中西部)
●瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの知行安堵辞令書(万暦2年5月28日)(1574年)
       (瀬戸内町須子茂)
●瀬戸内西間切の須古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦2年5月28日)(1574年)
       (瀬戸内町須子茂)
●瀬戸内西間切の古志のさかいへの知行安堵辞令書(万暦2年5月28日)(1574年)
       (瀬戸内町古志)
●□□□□□□□知行安堵辞令書(万暦2年5月28日)(1574年)
●屋喜内間切の部連大屋子職補任辞令書(万暦7年5月5日)(1579年)
       (大島中西部、大和村・宇検村)
●名瀬間切の首里大屋子職補任辞令書(万暦7年10月1日)(1579年)(瀬戸内町)
●屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(万暦11年正月27日)(1583年)
       (大島中西部:宇検村名柄)
●名瀬間切の大熊のろ職補任辞令書(万暦15年10月4日)(1587年)(大島名瀬市大熊)
●瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(万暦16年5月27日)(1588年)(瀬戸内町)
●瀬戸内西間切の西掟職補任辞令書(万暦23年9月22日)(1595年)(瀬戸内町)
●徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦28年正月24日)(1600年)(徳之島町手々)
●瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書(万暦30年9月10日)(1602年)(瀬戸内町)
●名瀬間切の朝戸掟職補任辞令書(万暦35年閏6月6日)(1607年)(名瀬市域)
●名瀬間切の西の里主職補任辞令書(万暦37年2月11日)(1609年)(名瀬市)









2007919日(水)メモ

 山原と関わる古琉球から近世にかけての「辞令書」の分布を確認してみた。現存するのは数えるほどしかないが、これまで確認されている辞令書の一覧と分布を展示(コピー)してみた。山原と関わる辞令書を整理しながら、そこから見えてくる古琉球、そして近世の姿がどう見えてくるのか。そして首里王府が地方をどう統治していたのかを見究めていく作業である。

 山原(沖縄本島北部:恩納・金武間切以北)と伊江島と伊平屋島(伊是名を含む)と関わる「辞令書」は30点余である。『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会:昭和53年)を中心に、同報告書に掲載されていない辞令書も含めてある。明治の「辞令書」は現物展示のため別のコーナーで展示する。

 17世紀初頭になると、地方の統治は地頭代制度となる。地頭代はその間切出身者がなり、それらの子弟は首里奉公をし、地元にもどって間切役人となる。社会の制度が多きく変わる。ここでの辞令書は、今日風に言えば国の役人、あるいは県庁職員レベルの辞令書ということになろうか。

 ・今帰仁間切与那嶺の大屋子宛辞令書(嘉靖42717日)(1563年)(今帰仁間切)
 ・今帰仁間切東の掟宛辞令書(嘉靖42717日)(1563年)(今帰仁間切)
 ・金武間切の恩納のろ職補任辞令書(万暦12512日)(1584年)(金武間切)
 ・今帰仁間切の浦崎目差知行安堵辞令書(万暦14591586年)(今帰仁間切)
 ・国頭間切の安田里主所安堵辞令書
(万暦15212日)(1587年)(国頭間切)
 ・国頭間切の安田よんたもさ掟知行安堵辞令書(万暦15212日)(1587年)(国頭間切)
 ・伊平屋の仲田首里大屋子知行安堵辞令書(万暦1578日)(1587年)(伊平屋島)
 ・今帰仁間切玉城の大屋子宛辞令書(万暦20103日)(1592年)(伊平屋島)
 ・今帰仁間切の与那嶺里主所安堵辞令書万暦20103)(1592年)(今帰仁間切)
 ・今帰仁間切の辺名地目差職補任辞令書
(万暦32年閏918日)1604年)(今帰仁間切)
 ・今帰仁間切の中城のろ職補任辞令書(
万暦33918日)1605年)(今帰仁間切)
 ・今帰仁間切の具志川のろ職補任并知行安堵辞令書
(万暦35715日)(1607年)(今帰仁間切)
 ・今帰仁間切与那嶺の大屋子叙任辞令書
(万暦40128日)1612年)(今帰仁間切)
 ・今帰仁間切の謝花掟職補任辞令書(
万暦4012月□日)(1612年)(今帰仁間切)

【参考文献】
・『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会:昭和53年度
・「古琉球期の奄美における給田の移動」高良倉吉 『日本文化の深層と沖縄』所収(1996年) 


2005.06.17(金)メモ

 与論島に古琉球(1609年以前)の琉球の痕跡が確認できないか。さらに三山の時代の北山の痕跡はどうか。そのような視点で与論島の資料を見ている。まず、古琉球の琉球の痕跡としてとらえることができるのに祭祀(ノロ制度)がある。第二尚氏尚真王の時代に制度化されたノロ制度の痕跡である。

 1512年に尚真王の二男大里按司尚朝栄(花城真三郎王子)が与論世之主として派遣され与論島を統治したという。与論島での古琉球の辞令書は確認されていないが、与論島以北では首里王府発給の辞令書が確認されているので、与論島のノロにも辞令書の発給がなされたとみてよさそう。与論島のノロが関わる祭祀をみることは、首里王府の統治下の与論島を見ることになる。

 与論島の「朝戸のユントクダークラの座元徳田氏宅にはノロの神衣と首飾りが保存されており、その家がノロ家であったとみられる」(『のろ調査資料』356頁、中山盛茂・富村真演・宮城栄昌共著)とある。与論のアンサリーは世之主の夫人や姉妹が任命されたという。その痕跡は近世の『東家系図』や『基家系図』に「西阿武」や「大阿部」、茶花ノル、内士(侍)ノル、大ノルなどが登場する。薩摩の琉球侵攻後、与論以北が薩摩へ分割されるが、以後も古琉球の祭祀を踏襲していることがわかる。

 『のろ調査資料』に「現在の根地、すなわちサアクラ=アシャゲ家は旧家系統のものとみてよい」とあり、アシャゲは山原の神アサギと同じ施設を言っているのなら非常に興味深い・・・。

【参考文献】
 ・『のろ調査資料』(1960年~1966年調査)中山・富村・宮城 1990年発刊
 ・『沖縄のノロの研究』宮城栄昌著 昭和54年発刊
 ・『与論町誌』与論町教育委員会 昭和63年発刊
 




2022年8月6日(土)

 2002年10月
竹富町黒島に渡っている。(画像は圧縮のため鮮明ではありません)


2002年10月19日(土 )

 
石垣市で沖縄県博物館協議会の研修会があり参加した。研修会の内容や報告については別で報告する。

(メモ書き)

 二日目の午前中の研修が終わり、黒島まで足を延ばした。これまで西表や小浜、竹富には何度か行っている。黒島は初めてである。黒島の情報を持たずに島に渡ってみたのであるが、なかなかイイ島である。12時30分の便であったので島での昼食。仲本にある食堂に車で連れていってもらった。車の中から「平坦な島だな」「牛が多いな」の第一印象。
 車の運転手さんが「南の北海道ですよ」の第一声。牧場が広がり牛があちこちに群れをなしている風景があった。なるほどと思いながら食堂へ。食堂で料理をつくっているのは若者達が三名。また食事に来ているのは大和風の数人の若者たちがほとんど。「ああ、歳だな」と内心思いつつそばを食べたのは私たち四名。那覇市歴史資料室のMさん、県博友の会のIさん、宮古博物館のOさん。千代金丸・千金丸サミットだなとのMさんの声。

 島の案内役は黒島観光の島仲さん。まずは小中学校のある島の中央部にできた展望台へ。頂いた簡単な地図を見ると仲本・宮里・東筋・伊古・保里などの集落がある。また、浮海御嶽・舟浦御嶽・迎里御嶽・南風御嶽・南風保多御嶽・南神山御嶽・喜屋武御嶽・比江地御嶽・北神山御嶽・阿名泊御嶽・仲盛御嶽・保里御嶽がある。御嶽はワンと呼ばれているようだ。どうも御嶽の発生と関わる重要な場所でり拝所となっている。沖縄本島の御嶽(ウタキ)に相当するものにちがいない。集落との関わりでは複雑な歴史を持っているようだ(古宇利島の七森七嶽と集落を考える上でヒントが得られそうだ)。黒島はハート形の島だとの説明。なるほど。道開通の碑はハート型(島の形)の石でした。あっ!!
   
  ・乾震堂(ブサドーと言っていた)
  ・イサンチャ(古い墓)(二基)
  ・伊古旧桟橋
  ・勤王流ゆかりの地(八重山民謡)
  ・比江地御嶽
  ・番所跡(宮里)
  ・フズマリ(タカムイ)
  ・ビジターセンター
の順で回ってみた。ビジターセンターでは宮喜 清(キヨ)さんが、「名前を書いて」と、呼び止められてしまった。「みやき壮」の民宿もやっているようで「次くるときは泊まっていってよ」と。そばにいた孫だという娘?とハイパチリ。 


 宮喜 清さんと娘さん?

・フズマリ(タカムイ)
 1644年尚賢王の時に烽火をあげる制度ができた。海上に現れる船の監視をし、首里王府へ伝達する場所である。先島の島々にあり黒島にもある。宮里にあるのがフズマリ(タカムイ)、学校の側にも同様なムイがある。それも火番所と説明していたが未確認。

・イサンチャ(古墓)
 古い墓のことをイサンチャと言うのだろうか?鉄条網を張られた牧場の中にあり、周辺は石積み。中に家の屋根を模してある。土を耕すのにヘラを使っていた時代に、島の役人高嶺首里大屋子が石垣から牛を連れてきて、それに鋤と鞍をつくらせ耕す訓練をした。牛は耕すことに慣れ、生産もあがったという。そのことに感謝したという。その人物の墓がイサンチャだという。隣にあるのは、高嶺首里大屋子の島での奥さんの墓。また黒島への牛の最初だともいう。

....
     ▲乾震堂の入口        ▲乾震堂の祠にある碑?

.
..
   ▲イサンチャ(古墓)              ▲イサンチャの墓室の入口

2022年8月5日(金)

 歴史は生き物だといつも考えている。今帰仁グスク入口の鳥居もそうである。鳥居のなかった頃、鳥居建立に向けての動き、そして建立、さらには北山神社建立の申請、戦争で実現せず。そして世界遺産登録の頃、撤去の移設(柱の一部)。国・県の政策、それを推進する役人、それに同調する人々。沖縄のグスクにそぐわないと主張した学問・研究者の主張。その意見が通り撤去、昭和4年の建立に関わった関西郷友会(資金の拠出)の遺してい欲しいとの意見。その鳥居の変遷を辿りながら、歴史を見ていく視点を学ばされたものである。(撤去の議論の渦中にいた一人として複雑な思いが今でもある)

2012
520日(日)過去記録

 今帰仁グスクの鳥居のある付近の様子(戦後)について以前「3.今帰仁(北山)城跡の正門付近(平成2年8月)したことがある。ここで紹介する鳥居のある二枚の写真は戦前のものである。鳥居の2本の柱の一部は歴史文化センターの前に移設してある(平成15年)。

 今帰仁グスク正門付近に鳥居が建設された直後と見られる(「関西今泊郷共会60周年記念」所収)。鳥居の竣工は昭和5年である。鳥居に「奉納大阪今泊共済会岡山支部」と「昭和五年十二月吉日竣工」とある。鳥居のセメントの白さから、建設間もない頃であろう。鳥居に左縄があり、燈籠も見られる。鳥居の右側に茅葺屋根の家、平郎門の石積みと大隅の石垣の様子がわかる。

 もう一枚は昭和15年撮影(三中のアルバム所収)である。鳥居の前の学生達は三中(現在の県立名護高等学校)の学生達が訓練で今帰仁グスクを訪れている。右手前に燈籠がある。左側後方に茅葺屋根の家がある。

 




2022年8月4日(木)

 今帰仁村の字兼次と字諸志に「村屋敷原」の小字がある。字誌の仕上げにはいているが、その原名が気になっている。過去の記録をみつけたので再検討することに。

2018
514日(月)

 今帰仁村字兼次と諸志に「村屋敷原」がある。兼次の「北村屋敷原」と「南村屋敷原」、諸志の「村屋敷原」はムラウチと呼ばれている。村屋敷原は村(字)の集落部分である。そこはムラウチとよばれ、字(村)の家々が集中した部分である。『琉球共産村落之研究』田村 浩 著(1927年)に「御當国御検地」帳から土地の種類を37あげている。その一つに「村屋敷」がある。「旧村屋敷ト称シテ村の所有ニ属ス」とある。「村屋敷」原の原名がつけられたと見られる。つまり地割制のころ、土地は共有地であり、集落部分は村有地であったことを示している。

 それとは別に当原(ハタイバル)に与那嶺や仲尾次、崎山、平敷(当江原)がある。それと字名が原名となっている字がある。親泊原(旧親泊村)、今帰仁原(旧今帰仁村)、大島原(謝名の旧集落)、岸本原(旧岸本村)、寒水原(旧寒水村)、古島原(旧玉城村)、仲宗根原(字仲宗根)、上運天原(上運天)、運天原(字運天)、古宇利原(字古宇利)がある。今帰仁村の「村屋敷原」だけでなく、村名の原、当原、古島原も村有であったことを示している。

 集落部分が「村有地」であったことは、土地整理以前の地割の痕跡を示すものである。
 
  (昭和60年頃、今帰仁村には字(村)の境界線の入った地形図はあったが、小字の境界線の入った地形図は
    ありませんでした。一筆ごとの境界線を引いて作成したのが下の小字図である。現在は今帰仁村の作成され
    ている。
    その頃からムラや集落、ウタキとイベの概念を明確にして議論をする必要性を説いてきた。古琉球の辞令書の
    まきり・ムラ・ハラについての分析をしきた(昭和62年)ことがある。)

  
 ▲今帰仁村兼次の(南・北屋敷原)   ▲今帰仁村諸志の「村屋敷原」

 以下の字兼次の二基の「か祢寸原」の記石(ハル石)は兼次の集落移動や村屋敷原とつながってくる史料である。か祢寸原から村屋敷原へ(原域の変遷)。

   

2022年8月3日(水)

 過去の記録を取り出しているが、兵庫県室津まで行っている。10年も経過すると目的がなんだったのか忘れている。20年前の画像を今のHPに取り込むことができずにいる。前の画像が横になったまま。パソコン時代の終末か。


20091125日(水)参照

 兵庫県室津までゆく。瀬戸内海沿いのいくつかの津(湊)の予定が天気やボケのため予定変更。姫路城・明石城・大槻城跡などへ。瀬戸内海沿いの湊への関心は、参勤交代や江戸参府や江戸上り(江戸立とか)のコースであること。琉球や薩摩から大阪へのコースが何故、九州の西海を通り、下関から瀬戸内海へ入るのか。そのことを体で知りたくて。

 山陽網干(アボシ)駅からタクシーに乗り賀茂神社の下で降りる。賀茂神社前の待ち合い場所?で、女将さんが、す~とお茶を出してくれた。神社では七五三のお参りが行われている。扁額がいくつもあり、一つひとつ読み解きたいのだが。琉球からの使者の墓でもないかと。「湊口御番所跡」の標があり、隆福寺跡ともある。その近くに大阪城築城のとき運ばれる途中の石が水没していたのを引き揚げてある。本陣薩摩屋跡や本陣肥前屋跡などに室津の江戸時代の様子が彷彿。多いとき6軒の陣屋があり、室津を本陣とした藩が63もあったという(室津の町並み)。

 「室津民俗館」と「室津海駅館」へ。館は「嶋屋」(三木家)と「魚屋」(豊野家)を資料館にしてある。「室津民俗館」では「宮本常一と瀬戸内海あるく巨人の見たふるさとの海」と特別展が行われていた。宮本常一氏が撮影された昭和20年代の室津の写真を何点か目にすることができた。「宮本常一の旅に学ぶ」の講演があったが、時間がなく聞くことはできなかった。そこで沖縄県恩納村の海岸線(湊・江)について書き記すことのヒントをいくつかもらう。参勤交代や江戸参府や朝鮮通使への饗応の品々が展示されていて興味深い。琉球からの使者も、そこを通過したのか。室津行きで瀬戸内海のイメージが変わってしまった。古くから瀬戸内海を船が往来していた理由がわかったような。
 



【今帰仁村古宇利島の御嶽(ウタキ)】2004724日記録)

 古宇利島は今帰仁村村にある離島である。この島に七森七嶽(ナナムイナナタキがある。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる古宇利(郡)島の御嶽は次の三つである。

  ・中 嶽       神名:ナカモリノ御イベ    (現在のナカムイヌ御嶽)
  ・サウ嶽御イベ   (神名不伝)           (現在のソウヌ御嶽)
  ・カマニシ嶽御イベ (神名不伝)            (現在のハマンシヌ御嶽)

 『琉球国由来記』に記載のないのがマーハグチヌ・プトゥキヌメーヌ・ハマンシヌ・マチヂヌの四御嶽である(郡巫の崇所の所に誤記があるのでそこは注意)。御嶽の議論をするとき、どの御嶽かを特定して論を展開する必要がありそう。

 島には七森七嶽(ナナムイナナタキ)がある。一島であると同時に一村である。そこに七つの御嶽がある。島の集落の発生と御嶽(ウタキ)との関係がどう位置づけられるのか。本島側の御嶽からするとマクやマキヨの小規模の集落と結びつけて考えられないか。さらに御嶽を担当する神人(神人をだす一門)との関わりでみていくとどうだろうか。かつてはタキヌウガン(旧4月と10月)のとき、島中の人たちが参加したという。


 古宇利島が複数の小集落の統合があり、さらに村の合併の痕跡がある。ただし、近世には一村になっている。村の統合の痕跡は神アサギが二つあったこと。現在の神アサギ(ウイヌアサギ)とヒチャバアサギ(下のアサギ)があること。ウンジャミのときウイヌアサギとヒチャバアサギで同様な所作を行っている。そしてソウヌウタキ付近にアサギマガイの地名があることなど、少なくとも二つの村レベルの集落の合併があったとみられる。

 古宇利島のウタキ(御嶽)と集落、集落を一つにした村(ムラ)との関わりで見ると、どうも島のいくつかの小さな集落(マクやマキヨ規模)から成り立っていた。それが、次第に村としてまとまっていく(あるいは、まとめられた)。その痕跡として七森七嶽のウタキを担当する神人があてがわれているのではないか。集落は村(ムラ)として一つにまとまったのであるが、別々の集団を一つの村にしたとき、それぞれの一門から神人をだし、ウタキを担当する神人として伝えているのかもしれない。その姿は国頭村比地のアサギ森(ウタキ)の中にある数カ所のイベに、各一門が集まる姿とよく似ている。古宇利の七森七嶽は島内に数個の集落の発生があり、それが一門のよりどころとして御嶽をつくり、祭祀に関わる神人の出自と御嶽が結びついている。古宇利島の七森七嶽は、そういった集落の展開と祭祀、さらに神人との関係をしる手掛かりとなりそうである。

 古宇利島の七つの御嶽は杜をなし、その中にイベに相当する岩場がある。岩場の半洞窟や洞窟を利用している。マーハグチは半洞窟部分に石を積み上げ内部に頭蓋骨や人骨がある。形としては墓である。かつては頭蓋骨を拭いたというので墓ではないのかもしれない。ナカムイヌ御嶽だけはコンクリートで祠をつくってある。

【古宇利島のタキヌウガン】

御嶽(ウタキ)名と概要

現在の御嶽の様子

ナカムイヌ御嶽

 古宇利の集落の中に位置し、中森御嶽の近くに神アサギやフンシヤー、そして南側に内神屋・ヌル屋・ヒジャ屋などの旧家がある。豊年祭や海神祭を行うアサギナーがある。年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンだけでなく他のウガンでも拝まれる御嶽である。御嶽と神アサギの間はミャー(庭)となっていて豊年祭やウンジャミが行われる。御嶽の中にイビがあり、そこに祀られている骨は人骨の認識がある。プーチウガンやナカムイヌ御嶽は古宇利子(フンシヤー)の扱いである。下の画像はナカムイヌ御嶽の中にある祠。イベにあたる


   ▲ナカムイヌ御嶽の遠景

 ▲ナカムイヌ御嶽のイベ

マチヂヌ御嶽

 古宇利集落の後方に位置し、年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンの時に拝まれる。マチヂのイベ部分は琉球石灰岩がズレ落ち三角の半洞窟状になっている。その内部に石がころがり、手前に香炉(比較的新しい御影石?)が置かれている。『宮城真治資料』によるとヤトバヤの扱いとなっている。拝む方向としては、現集落を背にして拝む形である。一帯は中原遺跡となっていて、集落があった痕跡がある。ヤトウバヤ(恩納ヤー)の担当の御嶽。(画像古宇利掟提供)

 下の画像はマヂヂヌ御嶽のイベにあたる部分。大きな岩の窪みに石がいくつも置かれている。




   ▲マチヂヌ御嶽の遠景

 
  
  ▲マチヂヌ御嶽のイベ

マ|ハグチヌ御嶽

 最近マーハグチまでの道が開けられた。神人達はタキヌウガンのとき、そこまで来ないで道路でお通しをする。大きな岩の下に石積みがあり、頭蓋骨をみることができる。現在は年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンで拝まれるが、根神の一門で正月・四月・七月・十月の年四回拝んでいたよだ。花米や御五水(酒)を供え、白い布を酒でひたし二つの頭蓋骨を拭くこともやっていたという。担当は根神である(マーグスクヤー)。

     ▲マ―グチヌ御嶽のイベ

トゥンガヌ御嶽

 道路から御嶽の中に入り進んで行くと岩がある。その下に線香を立てる石が置かれている。年二回のタキヌウガン(旧4月と10月)の時は道路で線香をたてお通しをする。ノロなど七名の神人が担当するという。

               

 ▲トゥンガヌ御嶽の遠景

ソ|ヌ御嶽

 古宇利島の東側に位置し、御嶽の近くの浜はソーヌ浜と呼ばれる。杜全体が御嶽になっていてイビがあるというが未確認。ウンナヤーは一帯から集落内に移動したという伝承がある。そのためかウンナヤー担当の御嶽だという。タキヌウガン(旧4月と10月)のときは、上の道路からお通しをしている。宮城真治資料ではノロなど七名の神人の担当になっている。ウンナヤーのここからの移動伝承は、御嶽と御嶽担当の神役との関係を示している可能性がある。

 ▲ソ―ヌ御嶽の遠景

プトゥキヌメ|ヌ御嶽

 島の一周線から御嶽に入ると半洞窟の岩屋がある。そこは御嶽のイビがあり線香をたてる。鍾乳洞の石が仏に似ていることに由来するのだろうか。タキヌウガン(旧4月と10月)のとき、神人達はイビまで行ってウガンをする。ノロ担当の御嶽のようである。付近に集落があったかどうかの確認はまだできていない。

 

  ▲プトゥキヌメーヌ御嶽のイべ

ハマンシヌ御嶽

 一帯の地名がハマンシ(浜の石)で、島の西側の浜は石が多いことに由来するようだ。別名ビジュルメーヌ御嶽ともいう。御嶽に入るとイビの奥に小さな洞窟があり、人形の形をしたビジュル(小石:石筍)がいくつもある。ここも年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンの時に拝まれる。二、三人の神人が洞窟内で石を持って吉凶を占う。内神の担当のようである。


  ▲ハマンシヌ御嶽のイベ


2022年8月2日(火)

 来月、沖永良部島と琉球(沖縄)を訪れる予定。それに合わせて原稿を仕上げることに。琉球(沖縄)側から沖永良部島を見てきたが、沖永良部島から琉球(沖縄)をみる視点に切り替えることに。これまで見てきた「おもろ」やグスク地名、シニグ、のろ制度、古琉球の辞令書など、北山の時代(三王の時代)、三山統一後の「おもろ」の編集、ノロ制度(三山統一後:中山)と沖永良部島など沖縄側の時代を明確にしていく。世の主が三王時代ハ二ジの時代ハ二ジの出自について検討が必要。次男が沖永良部島、三男が与論島へ。(その長男がハ二ジではないか。その検討をすることに。仲北山の時代の興亡の結末、そして尚巴志の北山攻めの時、羽地・国頭・名護按司の対応(北山のハンアンヂに加勢はしていない)などから・・・。


2016年7月10日(日)メモ

 「おもろさうし」から勢理客のろ(しませんこのろ)について、巻11、巻14、巻17、巻22は編集年次が不明のようである。他の巻、巻1は1532年、巻2は1613年、上の不明の4巻を除くと1623年である。「おもろ」が謡われた時代については、これから検討。「勢理客ノロ殿内」に焼けて二本のカブの簪がある。また徳之島のててのろの焼けた簪があり、焼けると簪は銀メッキ、あるいは金メッキがきえ銅色になっている。

 ここで考えたいのは、各地のノロへの辞令書の発給、勾玉(タマガーラ:頸佩)や簪や衣装の発給、そしておもろさうしの編集、おもろに謡われている内容、伝承。その関係をしる手がかりになりはしないかとの試みである。果たしてどうか?(歴史的伝承→活字化(おもろ)→伝承はつづく)
        (その流れを沖永良部島の世の主伝承とのことを検証してみることに)

 (これまで、調査してきた資料(画像)を取り出てみると、当時気づかなかったことが見え、興味深い)

(第11巻) 1027(編集年不明)

  一 せりかくののろの          勢理客のjのろの
     あけしののろの           あけしののろの
    あまくれ おろちへ          雨くれ 降ろちへ         
    よるい ぬらちへ           鎧 濡らちへ
  又 うむてん つけて           運天 着けて
    こみなと つけて           小港 着けて
  又 かつおうたけ さがる        嘉津宇嶽 下がる
    あまくれ おろちへ          雨くれ 降ろちへ
    よろい ぬらちへ           鎧 濡らちへ
  又 やまとのいくさ            大和の軍
    やしろのいくさ             山城の軍
    

(第17巻) 1204(編集年不明)

  一 せりかくの のろの       勢理客jののろの
     あけしのゝのろの        あけしのゝのろの
     おりあげるたる きよらや   おり上げたる 清らや
  又 いしへつは こので       石へつは こので
    かなへつは こので       金へつは こので

(第17巻) 1203 (編集年不明)(716)
  一 しませんこ             しませんこ
    あけしのゝのろの         あけしのゝのろの
    ももとひやし            百度拍子
    うちあがらうなさいきよ      打ち揚がる成さい人
  又 なかひやにやの        なかひやにやの親のろ
    せとひやにやのおやのろ    せとひやにやの親のろ

  
       ▲今帰仁村勢理客のノロ家の二竿の焼け残った簪

 
 ▲「手々のろの二竿の簪」(徳之島手々堀田(稲富)家資料)(画像は徳之島町郷土資料館提供)(2011.10)


▲焼け残った衣装(他に文書などもあり)


2016年7月19日(火)メモ

 17日~19日まで沖永良部島をゆく。目的はいくつかあったが、それ以外の収穫がいくつかあった。それとフェリーの中で手にした『江戸期の奄美諸島』―「琉球」から「奄美」へ―(知名町教育委員会編)に目を通す。緊張感が走った。島を踏査している間、帰りのフェリーのなかでも緊張が走りつづいていた。わたしに与えられた講演内容と関わる部分が多くあるからである。大城(おおじろ)小の生徒たちと世之主グスクで遭遇。案内は和泊町教育委委員会の伊地知さん。そこで二時から屋古母公民館で「えらぶ郷土研究会」の研究会(先田先生)があるというので飛び入り参加。

 今回の沖永良部島ゆきの目的の一つは、おもろで謡われた場所に立ってみると何が見えてくるのかということ。そのこともあって往復のフェリーからその場所を画像に納めてみた。

 辺留笠利(奄美大島)、喜世、瀬戸内には行かなかったが、沖永良部島から徳之島、(沖永良部島)、与論島、その後方に沖縄本島北部の辺戸、安須杜が遠望することができた。今帰仁グスクから沖之永良部島が見えることがある。徳之島や沖永良部島、与論島、伊平屋島、安須杜、伊江島などは島全体、特徴ある地形などがおもろに謡われて不思議はない。ところが、今帰仁グスク内の金比屋武は、今帰仁グスクの歴史上の出来事がしられていて謡われたとみるべきであろう。うむてん(運天)ややかひもり(屋嘉比杜)も。

 
巻13巻 868
 一 聞ゑ 押笠
   鳴響む押笠
   やうら 押ちへ 使い
 又 喜界の浮島       喜界島
   喜界の盛い島
 又 浮島にかゝら
   辺留笠利きやち     笠利(奄美大島)
 又 辺留笠利かち
   中瀬戸内きやち     瀬戸内(奄美大島)
 又 中瀬戸内から
   金の島かち        徳之島へ
 又 金の島から
   せりよさにかち      沖永良部島へ
 又 せりゆさにから
   かゑふたにから     与論島
 又 かゑふたにかち
   安須杜にかち      国頭安須杜
 又 安須森にかち
   金比屋武にから    今帰仁グスクの金比屋武 
 又 金比武にから
   那覇泊かち    
   
  
  ▲和泊町伊延港方面を望む    ▲世の主グスク(大城小)で歴史が学習

 
▲今帰仁グスク内のカナヒヤブ(イベ)        ▲嘉津宇岳(本部半島)


2016年7月20日(水)記録
 
 17日(日)沖縄本島の読谷村の残波岬、恩納岳などの地をフェリーから撮影し、さらに本部半島の嘉津宇岳、今帰仁グスク(かなひやぶ)、古宇利島、運天、伊江島、大宜味村の喜如嘉、田嘉里(やかひもり)、国頭村の赤丸崎、辺戸、安須もり、伊平屋島、与論島などの遠望を撮影。沖永良部島(和泊港)へ着くと、すぐ島まわり。スタートの場所が定まっていない。しかし伊延港へ向かっている。途中、和泊町喜美留へ。以下の件で。

  「世乃主由緒」に記された沖永良部島の世の主の終焉と北山の滅亡の筋書きが類似している。「北山王も落城、宝剣も被盗取傍々付気鬱被成居候折柄中山より数艘船海に付き、軍艦と御心得御自害の由申伝御座候。右の通り私先祖より代々申伝御座候」とあり、その筋書きに関心がむく。もう一点の「黄美留菜津久美と申候宝刀之申伝」の伝承である。青貝微塵塗腰刀拵( 北谷菜切:チャタンナーチラー)伝承との関係?

一、黄美留菜津久美と申候宝刀之申伝
   世の主時代、黄美留村へ扇子丈と申もの罷居しが引差越候処刀一腰つり上げ、宝刀の訳は
   不相分ものにて魚を切候得はまな板迄切込、夫より秘蔵いたし置き候処、其子右刀を以て怪
   我仕り夫故相果申候につき立腹し余りに古場野と申野原の真石を切り申候処夜々海中にて光
   をあらはし候を城より御見届、使者を以て御取寄せ秘蔵相成候由。

  
  
▲世之主城から喜美留方面を臨む    ▲世之主を神をとし、神社化

※世の主神社の鳥居を正面に見ると、左遠方に国頭と本部半島、右手に徳之島が望める。


2016年7月22日(金)

 知名町徳時の「四並蔵神社」、次に知名町新城の「花神神社」。徳時ではお寺跡に神社化、神社にしながら北山の時代の伝承を祭る。花神神社でも北山王との子真松千代。その母沖祝女を神として祭り、神社化している。沖縄の各字の本格的な神社化は大正から昭和の初期にかけてである。沖永良部島は?

 花神神社は沖永良部世之主の生母沖祝女
 グジの方を祭神として昭和三年五月創建され
 第一回祭礼が行われた。花沖神社由緒記によると
 十四歳のウキヌルに西目ヌルに付き添われ上納使
 として琉球北山王の元に赴いたウキヌルの美しさに目を 
 奪われた北山王はウキヌルの帰島を許さず名前を
 ヨイグジ(美御前)と改めさせた。その後ウキヌルは、
 王の子供を身ごもることになる。
 その子が永良部世之主真松千代といわれていた。
 ウキヌルは十六歳で帰島、数々の困難を乗り越えて
 世之主を出産した母の愛を受けて育った世之主は
 「水鏡の裁き」「宝刀」など、さまざまな伝承が残る傑物
 善政を施し島民に慕われたが、中山王の三山統一 
 に伴い妻子ともども自害との悲劇が今も語り
 継がれている。花沖神社はウキヌルの水鏡を
 御神体として旧暦の一月十四日、五月十四日
 大祭典を行っている。郷土住民の氏神様としてここ
 花木の丘に永久に鎮座ましますことを記念す
 ものである。
   平成十二年六月十五日(旧五月十四日)

 

  ▲知名町新城にある「花沖神社」    ▲神社化された鳥居(神は沖祝女)


2016年7月24日(土)

 
知名町下城に「世之主神社」がある。その説明版に以下のようにある。「世之主」伝承を色濃く伝えるムラである。北山の痕跡を遺している地である(詳細はまとめで)。

世之主神社
   世之主とは沖永良部島の領主のことで、
  琉球が三つの領地に分かれ争っていた十三世
  紀の頃、北山王の二男として生まれたと言い
  伝えられています。
   世之主神社は、当地下城と和泊町内城の二
  ヶ所にありますが、下城の世之主神社は、世
  之主が誕生した場所に建てた神社で、内城は
  居城跡だと言い伝えられています。
   下城世之主神社の御神体は、昔からニュウマ
  屋敷内(神社敷地)に「イビ」と呼ばれてい
  た小屋があり、その中に「ウヮマ石」という
  三つの石が大事に保管されており、この石は
  雨ざらしにしたりすると、たたりがあるとの
  言い伝えがありました。
   昭和二年十二月二十四日の建立の際に、そ
  ウヮマ石を御神体としていただき、翌年旧
  の正月十三日に初祭典を催し、又、神月と
  言われている一月、五月、九月の十三日を
  祭典の日と定めていましたが、現在は、字区長
  を中心に年一回一月の第二日曜に大祭典を
  行っている。

  「上城村の「ぬる久米」代り合ひの節年頃十四、五歳の娘召連琉球へ渡海致候処、右娘生付
  美々敷其上器量衆人に勝れ国王様の御目に立ち御所望被遊候に付差上申候処其後右腹
  に王子懐妊被遊御出生御成人の後沖永良部島被成下御下御渡海の後・・・・・・」

  ※上城、下城、新城はニシミと呼ばれる。ニシミはもともと上城のこと。三間切時代(1857年)以前、
    上城は喜美留間切、下城は大城間切にはいている。それ以前から分村していたか?
    上記の「上城村」は上城と下城が分離する以前。 新城の分離は昭和25年でニシミシンバル
    一帯を新城としたようである。

  
  ▲世之主神社の鳥居        ▲世之主神社の説明版      ▲御神体「ウヮマ石」を祭った祠

  
 
 ▲世之主生誕場所                ▲知名町下城集落集会所


四並蔵神社
  鎮座地 大島郡知名町徳時
  御祭神  四並蔵(ヨナミト)加那志
  祭礼日  一月二十日 八月二十日
  境内   七〇三七坪
  現等級  七級〇〇
 由 緒
  御祭神四並神は、琉球北山王の一族
  世之主加那志真千代が沖永良部島の領主として
  一三九五年渡海の際
 


(以下工事中)

 ・シニグの流路(北山文化圏)
 ・シニグと村名と人物
 ・ノロ制度と遺品(三山統一後:中山と沖永良部島)


 奉公人の勤職書

 はじめに

 琉球・沖縄における近世の「勤書」あるいは「勤職書というのは、現在の地方役人が上級の役職へ昇級していくとき、王府へ提出する個人の履歴書に相当するものである。

その多くが「口上覚」や「覚」などとあり、現在のところ近世末から明治三十年にかけてのものが十五点確認されている。その内容は、地方(間切)役人の役職への補職願いで、地頭代になるための願書や、総耕作当・総山当・西掟・掟などになるための願書、つまり履歴書である。それと同時に、地頭代や総耕作当や総山当などの「補職の通知」が含まれ、明治になると「辞令書」となっている。

 ここで琉球・沖縄としたのは、沖縄が明治五年に琉球濤となり、同十二年に廃藩置県により沖縄県となった。しかし、沖縄県になったからといって、廃藩置県ですべて本土と同一の法制度に組み入れられたわけではなかった。そのため、近世から続いた制度や慣習が沖縄県にかゴケい引き続き継続しており、この勤書もそうで、明治三~年頃まで近世の形式を踏襲していった。そのため、ここでは明治十二年以降の勤書も扱うことにした。「勤書」や「口上覚」を通して、地方(間切)役人が地頭代(現在の村長)や総耕作当など上級地方役人に昇級していく過役々、そこに見える当時の地方役人の世界を拙いてみることをねらいとするものである。

一、確認されている勤書

 これまで、このような「勤職書」を二、三紹介したり、活用してきたことがあるが、沖縄県全体でどのくらいあるのか十分把握していないが、今のところ十点余り確認されているにナぎない。見通しとしては、今後各地で発掘されてくる文書だろうと思われる。糸満市史編纂を担当している金城善氏が、「近世地方役人勤書関係資料」として出された沖縄県全体の中間報告があるので、そのタイトルをここに掲載させていただくことにした。

 ①羽地間切仲尾次村前夫地頭仲尾親雲上勤書
 ②豊見城間切嘉数村前大田親雲上勤書
 ③今帰仁間切勢理客村前兼次親雲上勤書
 ④伊平屋島諸見村前諸見親雲上勤書
 ⑤今帰仁間切勢理客村前湧川親雲上勤書
 ⑥羽地間切古我知村仲尾親雲上勤書
 ⑦読谷山間切座喜味村前与久田親雲上勤書
 ⑧美里間切の筆算の稽古方について
 ⑨美里間切楚南村下知人再設置訴書
 ⑩羽地間切仲尾次村仮文子喜納にや勤書
 ⑪羽地間切真喜屋村前振慶名掟ト‥里にや勣書
 ⑫今帰仁間切親泊村新城徳助勤書
 ⑬読谷山間切間切長松田平治勤書
 ⑭今帰仁間切兼次村諸喜田福保勤書
 ⑮羽地間切稲嶺村宮里清助御願及び履歴~

二、勤書への関心

 平成三年一月、私たちの沖縄県今帰仁村歴史資料館(現在準備室)で第二回目「今帰仁の歴史と文化」の企画展を開催したが、訪れた多くの人たちが関心を引いたり、質問が多かったのは「今帰仁間切の役人と役職」のところであった。間切役人の「辞令書」と「勤書」など関係資料を百点以上展示したこともあるが、自分たちの持つ「位牌」や 「覚(荼昆帳)」など、それにお墓の甕の銘書などにも役職が記されている場合があり、それが何だろうかとの関心があってのことと思われる。展示された「辞令書」や「勤書」に、位牌などにある役職を見いだしているのである。

 地域文書を調査し、そして研究をする。さらに歴史資料館の役目としては発掘・発見した資料を展示(公開)していくという、教育・普及活動の一環としておこなっている。

 地域の先輩方は「百姓が昇級できるのはサバクイ(捌理)まで」ということをよく口にされる。そのようなところか

   (以下 工事中)


2022年8月1日(月)

今帰仁村内の神アサギ(ハサギ)

2002.4.6(土)メモ

中・南部の神アシアゲ

 山原地方にある105ヶ所に神アシアゲ(アサギやハサギ、村数121)があるが、中南部には12ヶ所(村数301)と非常に少ない。神アシアゲは少ないが、対象的に殿とよばれる祭祀施設が数多くある。それは何を意味しているのだろうか。二つの仮説を考えている。これまで、山原の神アサギはほぼ踏査した。「本部の神アサギ」(別ページ工事中)は近々立ち上げる予定。ここでは「中・南部の神アシアゲ」を『琉球国由来記』(1713年)から拾ってみると、以下の8間切で11ヶ所(村数301)である。

  ①兼城間切波平村 神アシアゲ
  ②高嶺間切真栄里村 神アシアゲノ殿
  ③真壁間切新垣村 神アシアゲ
  ④真壁間切名嘉真村 神アシアゲ
  ⑤真壁間切真栄平村 神アシアゲ
  ⑥真壁間切真栄平村 (真栄平アシアゲ)
  ⑦喜屋武間切上里村 神アシアゲ
  ⑧南風原間切照屋村 (神アシアゲ之殿)
  ⑨知念間切安坐真村 神アシアゲ
  ⑩玉城間切奥武村 神アシアゲ
  ⑪西原間切翁長村 翁長神アシアゲ
  ⑫越来間切大工廻村 大工廻神アシアゲ

 山原では、105の神アシアゲであるのに対して、中南部では殿(神アシアゲは11ヶ所)がほとんどである。18世紀初期の山原の村数、そして中南部の村数と殿の数を比べて見るだけでも歴然とする(正確な数字は後で数えてみることにする)。もちろん、神アシアゲと殿は異なる祭祀施設であることを前提としている。その数字の意味することを紐解いてみると、興味深い二つの仮説を立てることができる(詳細については、「山原の神アサギ」のまとめで報告)。