寡黙庵琉球・沖縄の地域史調査研究)(管理人:仲原)   

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▲今帰仁村崎山の神ハーサギ   ▲羽地内海(カンテナ湊)      ▲今帰仁村仲尾次の神ハサ―ギ

山原のシニグ  今帰仁阿応理屋恵
沖永良部島を往く   ・嘉味田家の墓調査
・徳之島を往く
喜界島阿伝(あでん)(東間切)
北山の時代と沖永良部島2016年11月5日沖永良部島講演)
沖永良部島(2022年4月)
今帰仁村崎山のハサ―ギ(葺き替え作業)
国頭村過去記録
徳之島と琉球へ
奄美大島―瀬戸内町―加計呂麻島
本部ミャークニーを辿る
・2005年8月の記録から「ドイツ・オーストリアを往く」 ・本部町嘉津宇
(講座用)
本部町の神アサギ(工事中) ・本部町健堅 ・本部町浜元
本部町具志堅  ・具志堅  ・本部町瀬底  ・本部町謝花
本部町嘉津宇  ・本部町備瀬 ・本部町崎本部 ・伊野波・並里・満名
中南部のグスク・ウタキ
国頭村安田のシニグと辞令書
  ・(山原のノロドゥンチ参照
加計呂麻島1  加計呂麻島2
沖永良部島の和泊のムラ  知名町のムラ 2003年4月伊平屋島
写真に見る今帰仁 ⑧  ・2008年祭祀調査 ・今帰仁のろ墓2
オナジャラ墓  ・土帝君(浜元)

北山・琉球・薩摩から沖永良部島



2022年11月30日(水)

北山・琉球・薩摩から沖永良部島

 今帰仁阿応理屋恵に関する資料を引っ張りだしてみた。祭祀そのものは出ていないが、印判(辞令)の発給や知行地を賜り、廃止、復活したことは確認できる。聞得大君が100石~500石賜っているのに対し今帰仁阿応理屋恵は22石余なので、三十三君の一人ではあるが、1700年代には格下げされていたようだ。ガーナー位牌の一基に「順治十五年戊戌六月二拾九日去」(1658年)とあり、今帰仁按司(監守)六世縄祖の位牌である。

『女官御双紙』
  一 今帰仁あふりやい代合之時言上ハ御自分より御済めしよわちへ御拝日撰ハ三日前ニ
     今帰仁あふりやいより御様子有之候得共首里あむしられより大勢頭部御取次にてみお
     みのけ申御拝の日ハ首里大あむしられ為御案内赤田門よりよしうて按司下庫裡に控居
     大勢頭部御取次にてみおみのけ申今帰仁あふりやいよりみはな一〆御玉貫一封作事
     あむしられ御取次にておしあけ申按司御坐敷御呼めしよわれハよろしろちへ美待拝申


  天かなし美御前おすゑんミきよちやにおかまれめしよわれハ御持参の御玉貫真壁按司かなし
  よりおしあけめしよわる相済御飾の御酒より今帰仁あふりやいに美御酌給御規式相済按司御
  座敷にて首里大あむしられ御相伴にて御振舞給申相済みはい御暇气大勢頭部御取次にてみ
  おミのけておれ申


   一 同時御印判ハセと親雲上よりみはいの日早朝首里殿内へ持来らる首里あむしられよりミ
     はいの時早朝今帰仁あふりやいへ上申

 今帰仁あふりやゑの1701年の知行高は以下の通りである。 
   地方高 田方六石ニ斗一升三合三勺四才  (与那嶺按司朝隣夫人)
          畑方十六石五升九合三勺六才   (与那嶺按司朝隣夫人)
    俸 米  二石(米一石 雑石一石)
          倅 者 二 


 宮城栄昌氏は今帰仁阿応理屋恵について『沖縄ノロの研究』(422頁)で、

   「三山分立時代山北の最高神女であった「あふりやゑ」の後を継承した第二尚氏王統時代
   の今帰仁あふりやゑは、山北監守が首里に移った1665年以後は知行地も今帰仁間
   切に給せられ、地方ノロ的存在と化した。1701年に就任した与那嶺按司朝隣夫人のこ
   の石高・・・(略)・・・1731年に廃止された。廃止しても前任関係者があふりやゑ御殿を
   管理して祭祀を継続していたので、1768年六月に至り、今帰仁親泊村兼次親雲上の女
   蒲戸を任命し、三十三君の一人として復活した」

とある。そのあたりの流れは、もう少し資料を吟味してみる必要がありそう(要調査確認)。


2005.02.03(木)


【今帰仁阿応理屋恵の祭祀の復元】

 
今帰仁阿応理屋恵の継承についていくつか研究があるが、その継承もまだ不明の部分が多い。ましてや今帰仁阿応理屋恵の祭祀については皆目わからない。残念なことに今帰仁阿応理屋恵が廃止されていた時期に『琉球国由来記』(1713年)に編集されているので、阿応理屋恵の祭祀の記録がほとんどない。

 辛うじてあるのが『琉球国由来記』(1713年)における阿応理屋恵按司火神(親泊村)の記録である。

  阿応理屋恵按司火神 親泊村
   麦稲四祭之時、仙香、肴一器、蕃署神酒一完(百姓)
    大折目・柴指・芋ナイ折目之時、仙香、花米五合完、五水二合完、肴一器(百姓)供之。
    同巫・居神、馳走也

とあるが、同巫は今帰仁阿応理屋恵の可能性もあるが、流れから見ると同巫は今帰仁巫の可能性もある。他の今帰仁グスク内での祭祀は今帰仁巫の祭祀となっている。

 今帰仁グスク内の今帰仁里主所火神、グスクの近くにあるコバウノ御嶽は今帰仁阿応理屋恵の祭祀ではなかったかと考えている。今帰仁阿応理屋恵の祭祀は消えてしまっているので久米島の君南風の祭祀からいくらか復元が可能ではないか。そんな期待を持っている。まだ、見通しはまったくナシ

 『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会)や『久米のきみはゑ五〇〇年』(久米島自然文化センター)で「久米島の君南風」の二枚の辞令書が紹介されている(鎌倉芳太郎ノート)。今帰仁阿応理屋恵にも辞令(印判)の発給がなされているが、その現物や辞令の写しなどは確認されていない。久米島の君南風と同様な内容に違いない。

 君南風の大阿母知行安堵辞令書1566年)
    しよりの御ミ事
      くめのくしかわまきりの
      にしめのうちま人ちもとハ
      あまかちの内より
     一かりや三おつかたに六十九まし
      ひらちしやはる又□□□はるともニ
     又七十ぬき〔ちはた〕け〔おほ〕そ
      はゑはる又はなうはる?
    〔又〕おち□□〔はる〕〔又〕□□はるともニ
     このちのわくそこの大あむかめはたまてハ
     御ゆるしめされ候
    一人きミはいの大あむに
      たまわり申〔候〕
    しよりよりきミはいの大あむか方へまいる
   嘉靖四十五年十月八日

 君南風の大阿母知行安堵辞令書1595年)
    しよりの御ミ事
      くめのくしかわまきりの
      あらかきちもとのきミはいの
      大あむかのろち
    一 せちよくたに十四ましこミなとはる
    又 十にきちたけ〔おほそ〕
      きし□□□
      このちの□□かり(しまくにの人の?)〔て〕ま
      つかいハ御きんせい(にて)候
      一人きミはいの大あむに
      あまわり申〔候〕
   しよりのきミはいの大あむか方へまいる
   万暦二十三年正月十二日 


 今帰仁按司(監守:阿応理屋恵)が首里に引き揚げる1665年まで
 今帰仁間切(今の本部町含む)の番所は今帰仁グスク内にあった?!

 今帰仁間切から伊野波(本部)間切が分割されると今帰仁間切は運天に、本部間切は渡久地に番所が置かれた。


2022年11月29日(火)

2018年5月1日(火)ベトナムを往く
(4年前)
 
 ベトナム(ホーチミン市・ミドー・メコン川デルタ・タイソン島)、ベトナム国内空港でハノイ市へ(フランス植民地時代の街並み)、ハロン湾クルーズ、チェエンクン洞、ベトナム陶磁器の発祥地ハッチャン村へ。川沿い(ホン川)にはレンガや陶磁器の壊れたものが積まれているのが目立つ。

 ベトナム国の全体像がわからず、機内のガイドブックの地図を拝借。地図で確認すると南部のホーチミン市から入り、三日目は一気に北部のハノイへ。伽羅(キャラ)や沈香、香料、ベトナムの大河を往来しているジャンク船や小舟、ハイホン、バロン湾の船、15、6世紀の大交易時代の日本人町や琉球との関わり、ベトナムの陶磁器など。伽羅(キャラ)や沈香などの香辛料を手に触れたが画像に納めることができなかった。
(キャラはこの店の最高品だという。樹液の固まり)

 ベトナムの日本人町と船につていの関心。ジャンク型の船(現在エンジン付)、かつての帆船の帆は形だけか。ベトナムにも登り窯があったようだ。ミニの登り窯が置かれていた。歴史文化センターに青磁(ベトナム)が展示してある。ハロン湾の奇怪な島々、2000近くあるという。その一島に上陸、洞窟の中へ。

   
 
▲機内で地図を        ▲フランス植民地時代の中央郵便局内    ▲ホーチミン市外(水田) 

    
▲メモコン川流域(水上市場:ミトーで乗った小舟) ▲メコン川を往来する船

     
▲ハロン湾の奇岩と渡しの船(タウゴー島)             ▲バチャン焼きの街(店内の工場)

2016年7月3日(日)
 
 ムラ・シマの形をみていく場合、そこに住む人たちが地人寄留の人達の比率、そのムラの祭祀の中心となるのが地元か、あるいは他地からの人々かでムラの個性が見えてくる。『沖縄旧慣地方制度』に「住民」の項目がある。首里、那覇、久米村、泊村、島尻、中頭、国頭、離島(宮古島、八重山島)と詳細な取り決めがあり、そのことが、ムラの形(内部)や祭祀の形に影響を及ぼしている。本部町に神アサギのない行政ムラが多く見られる。その多くが中南部から寄留人からなるムラである。

【住 民】

 首里
 住民に二類あり。士及町百姓とす。士に四種あり。王子、按司家(総地頭の領地を有す)、親方家(総地頭または脇地頭あり。その総地頭なるものは特に親方家に非ざれば任せず、品位はは終身に止まるて以て、其の子孫に至り勤功ばじゅ非は親方の品位は帯うなしと雖も知行領地を供給を併給する間は之を親方家と称す)平士これなり。王子、按司、親方は地方吏員を不勤、各村中の頭衆と称し、学事上及び所俗に(冠婚葬祭の礼式喧嘩口論男女の節義道路清掃等を云う)、救助(悪疫流行飢饉災難等の際補助するの類の如し)等に関する事件を監督し、其の他内法執行又は集会協議に関する事採決し、協議調はざるときは多数を以て決す。
 平士は村学校中取、筆者、村地頭を勤むることを得、而して平士以上は他所(首里内は此限にあらず)へ転籍するを許さず、町百姓は筑登之座敷位以上を有する者頭相勤め、中取、筆者の指揮を受け前顕集会等の節町百姓中監督し、而して町百姓は縦令勢頭坐敷、筑登之坐敷、位を有する者と雖とも坐無位の平士に対するときは随従するの義務あり。


 那 覇
 住民に平士、町百姓の二種あり。平士は主取以下吏員となることを得。且物城、総横目、渡清協筆者親見世大筆者等の役職を勤めたる者は年齢六十以上の老人は頭衆と称し、権利義務都て首里頭衆に仝じ。亦平士転籍並町百姓権利義務も首里に仝じ。


 久米村
 住民総て士にして総役以下吏員を勤むることを得而して総役、長吏を勤めたる者その他中儀大夫以上の位を有する者は権利義務、都て首里頭衆と仝じ、転籍も又仝じ。


 泊 村
 住民は平士、町百姓とも首里に仝じ。


 島尻、中頭、国頭
 島尻、中頭、国頭、各間切住民に地人居住人の二種あり。地人(本村百姓を云う)は村方に於いて百姓地の分配を受け、之を耕作し貢租負担の義務あり。且つ他村他間切等へ転住を許さず居住人(首里、那覇、泊村、久米村人寄留するを云う)は百姓地を叶掛り(小作を云う)耕転するに付貢租負担の義務なし。然れども民費は人頭割の分は負担す。又間切、村吏員は地人に限り居住人は任用せらるるの権なし。


【山原の御嶽と神アサギの神社化】

2011
1021日(土)メモ

 「北山神社 許可願書」(昭和18年)の資料である。「目次」に 一、北山神社創立願書(同添附書類) 
  一、土地寄附之証並ニ土地収益調 
  一、創立後一ヶ年ノ予算書 
  一、創立予想後ノ神社明細帳、神社地図 
  一、神社見取図 
がある。今回の企画展を「琉球のノロ制度の終焉」とする理由は、「北山神社 許可願書」から、グスクやウタキを神社化することで、ノロ制度を終わらせる政策がとられる。首里城に県社沖縄神社の創立を見たのは大正151020日である。昭和に入ると各地の村(ムラ・シマ)に神社が造られる。昭和5年今帰仁グスクに鳥居が立てられるが神社化されるに至っていない。

 今帰仁グスクに「北山神社」(昭和18年)を創立しようとしたのが、この資料である。それと「ノロ制度の終焉」とどう結びつくかは、六、維持方法で「社禄ノ国債(但シ明治四十三年ノロクモイ職ニ給与セラレタルモノ)金一、五〇〇円及土地山林壱万五百八拾四坪ヲ神社ノ基本財産トシ之ヨリ生ズル利子及寄附ヲ受クルベキ土地ノ収益並ニ氏子崇敬者ノ負担金ヲ以テ維持スルモノトス」とある。ノロ職に与えられていた社禄の国債を取りあげ、神社の基本財産に組み込むことにしたのである。それはノロ制度の実質的廃止である。

 昭和18年に神社建設に向けて、生
徒達が動員されているので、この書類は「内務大臣 安藤紀三郎殿」に提出されたと見られる。この許可願書を作成された方は、宮司の資格を取得され、「北山神社」の宮司の予定だったであろう。ところが、昭和19年沖縄本島も爆撃され、神社建設も中断していまう。戦後北山神社が建設されることはなかった。それと戦後ノロ制度の復活はなかった。ノロ制度は法的な根拠がなく、うやむやのうちに現在に至っているのではないか。



2018 年11月末、神社の件で島根県の出雲大社、大神山神社を訪れる。


2022年11月28日(月

本部の神アサギ

 通りすがりに神アサギ(ハサ―ギ)を撮影する。ムラ・シマの形を見ていく場合、神アサギがあるか無いか。それはムラ・シマの歴史を見ていく手がかりとなる。移動ムラが移動先で神アサギをもうけ祭祀を行う必要があるのか。それは国の仕組みにつながる。旧暦で行われる祭祀(神行事)は農耕暦であること。祭祀日はムラ・シマの休息日(神遊び)である。移動先で祭祀を行うことは休息日の確保である。神人の祈りはムラの繁盛、五穀豊穣、健康願いなどである。神人の祈りは王府への納税と結びつく。神アサギは祈りの場でるが、かつての納税は穀物が中心、ムラ内の納税の穀物を集積する場でもあった。

 神ハサ―ギは、茅葺屋根の壁のない柱の建物であった。内部にはタモト木とよばれる丸太があり、神が座とみられる。神ハサーギの大きさを誇り、またムラの勢いをみせる(穀物を大量)。

 本部町の神アサギのあるムラは、崎本部・瀬底・石嘉波・健堅・辺名地・渡久地・浜元・浦崎・謝花・備瀬・具志堅・嘉津宇・伊野波・並里・伊豆味にある。それらのムラの神アサギは『琉球国由来記』(1713年)から300年余たった今に伝えている。

 本部町には神アサギのない字(アザ)がある。それらのアザは大正以後に分字したアザである。明治36年以後、土地整理以後に成立したアザで、神アサギを必要としなくなった事による。
  (以下のアザには神アサギなし)

  ・新里 ・北里 ・石川 ・山川 ・野原 ・古島 ・山里 ・大堂 ・大浜 ・当山 ・塩川

  
      ▲浦崎の神アサギ            ▲ヌルヤーとウドゥン

 
      ▲謝花の神アサギ                  ▲島の草分けの家(スンペーヤー:玉城家)


 
 ▲備瀬の神アサギ(拝殿)と神殿(右手)


     ▲渡久地の神アサギ(拝殿)と神殿(後方)


...
    ▲正面手前が神アサギ         ▲ハサギンクワー
 
 
    ▲シニグイ当日の神アサギ             ▲強飯(粟のはいたおにぎり)


 
    ▲神アサギの上の方にある祠へ            ▲神アサギ内でのウガン 

  
   ▲大典禮記念の碑      ▲伊豆味の神アサギ(右の建物)

 
▲瀬底島(石嘉波の神アサギ)          ▲瀬底の神アサギ(大城家の屋敷内にあり)

2007年3月17日(土)撮影

 
      ▲本部町辺名地の神アサギ          ▲神アサギ内のタモト木

 
      ▲本部町浜元の神アサギ            ▲浜元の神アサギのタモト木


 ▲嘉津宇の神ハサーギ                ▲ハサ―ギ内のタモト木

 
   ▲具志堅の神ハサーギ               ▲神ハサーギ内にあるタモト木

2022年11月27日(

2008年阿嘉島に渡っている。

 阿嘉島へ渡る。それは粟国島で戦後復活した祭祀がある。その祭祀を復活したのか。復活に時間を必要としたようである。復活するかどうか、躊躇があったように見受けられる。それが何故なのか。今では神人(女性)が中心となっている祭祀は、男性も役割があった。その様子が粟国島の祭祀によく残っているような気がする。そのことと連動させて座間味村の阿嘉島へ渡ってみた。それと明治18年の知事事務引継の「一村一社建立」のとき、座間味村で神職候補者をだした例があるのでその確認も。

 阿嘉島へ渡るの理由の一つは、明治末から昭和にかけての宗教改革の流れを座間味島と阿嘉島で見てみたいとの思いがあってのこと。
 
 粟国島で、戦後祭祀を復活するのに躊躇している部分がある。それは、どうも明治43年の「社録処分」、そして昭和初期の各地の神社の建立、さらに昭和18年の「沖縄県知事事務引継」が大きく影響していると見ている。つまり、国策として部落の御嶽や拝所を廃止しようとする動き、部落レベルで根強く継承されてきた沖縄の祭祀。神社建立とノロクモイ廃止に向けての動きは、現在根強く継承されている祭祀の流れが読み取れる。

 今帰仁村上運天のお宮、本部町伊野波のお宮、国頭村辺土名ヌルドゥンチなどにある「敬神」の変額は、「一村一社建立」によるものに違いない。それとは別に、昭和初期に神殿と拝殿を建立した時期がある。その動きについて確認の必要。昭和初期に建設された神殿と拝殿。昭和18年の「一村一社建立」による建立があるようだ。 
 
・昭和18年 全県的に「一村一社建立」を目的とした「神社建立調査会」によるウタキ・
  ウンガンジュ調査あり。
・県当局は沖縄県神社創立計画書を作成、ウタキを神社に移行することにする。

・昭和18年知事事務引継書類に「一村一社建立ニ関スル事項」として以下のように記してある。
   県下ニ於ケル神社ハ官幣小社波上宮、沖縄県護国神社、県社沖縄神社、郷社世持神社
   ノ外無格社ニ琉球八社(略)ノ十三社ニシテ、尚外ニ固有ノ神祇ヲ祀ル御嶽、拝所アルモ、前記
   ノ如ク正規ノ神社少キ為、時局下敬神崇祖ノ実ヲ挙ゲ国民精神ノ昂揚ヲ図ル要切ナルモ之ガ
   普及徹底ニ障碍トナル点少カラズ、就テハ神社ナキ五十町村ニ対シテ五年計画ヲ以テ一村少ク
   トモ一社ヲ建立セシメ県民斉シク祭祀ヲ厳修シ、敬神ノ本義ヲ完フシ・・・・神国郷土ノ基礎ヲ築
   カシメントスルモノナリ(『県史料近代Ⅰ』(552頁)。

 『座間味村史』(上)によると、「こうした方針に基づいて各町村の古来からの民間信仰の対象である御嶽が、1944年(昭和19)3月を期して神社に移行させられることになったのである。それによって、県内に900あまり存在する御嶽が村社60社、未社(部落)150社を目標に統合されることになり、そしてそれまで神事を司ってきたノロらは当分傭人として用い、次いで正規の神職に切り換えることになった。ただその前に神職候補者を町村長に推薦させ、那覇の世持神社か護国神社で講習を受けさせ、神職として新たに養成することになった。」(326~327頁)

  (以下画像略)
 
     ▲阿嘉の上殿(クサトゥの殿)     ▲阿嘉島の「ひ おんたち原」の原石

       ▲イビガナシのお宮                 ▲御殿(木下の建物) 

      
 
▲神社と一体化された阿嘉ノロドゥンチ(ヌル宮)       ▲阿嘉ヌル宮
 
     ▲阿嘉の上殿(クサトゥの殿)     ▲阿嘉島の「ひ おんたち原」の原石
  
    
▲阿嘉のウフガー           ▲シムンダカリの獅子 


2022年11月26日(

 今帰仁村内の公民館(ムラヤ―)1975年は、全て建て替えられる(令和3元年)。公民館の名称は消え「・・・センター」などに変わる。その名称も、ユレヤ―、ムラヤー、事務所、・・・センター・公民館などと呼ばれていた。セメント瓦屋根、コンクリート造りへ。( )は現在の呼称。呼称の違いは予算の出所)






2011年9月16日(金)

【玉城のろ】
(今帰仁村玉城)

 「玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書」(明治35年:今帰仁村字玉城)は玉城のろ(のろくもい)の継承に関わる文書である。そこから、ノロの継承や養子や他家に嫁いでいくが、それを元の血筋に戻そうと働きが見られる。ノロ地ではないが、玉城における神役地(ニブサジ畑)を区に返還する書類もある。昭和49年と50年である。玉城ノロの管轄村は『琉球国由来記』(1713年)から変わらず玉城・謝名・平敷・仲宗根の四ヶ字である。

   ・ノロの継承の様子
   ・ノロの継承は血筋でもっていこうとする
   ・ノロの在地はノロの名称と同名の村にあるべきとする
   ・そこに戻そうとする理念が働いている
   ・ノロ殿内をカネイ神社(ノロ神社)としている(それは座間味島でも見られる)。
   ・玉城ノロは玉城村内にあるべとの理念がある
   ・ノロに神社を掌握させる
   ・それらの書類の提出は親類中の連名が必要

  
   
 ▲玉城の杜にあるノロドゥンチ     ▲玉城野呂(ノロ)位牌



        ▲ノロと関わる文書(
「玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書」(明治35年)

 玉城村ノカネイ跡職願い之儀ニ付理由書

 今般玉城ノカネイ職願之義ニ付理由

 奉陳述抑々玉城ノカネイ職タルヤ先々

 我先祖へ御下命相成リ其の後代々吾ガ

 血統内ヨリ継承セシ所タリ然ルニ百百年

 前之事ハ口伝而己ニテ旧記等モ無之候ニ付

 先ツ中古我ガ六代ノ先祖ヨリ順次陳述仕候

  一、先祖武太平良(武太平良ハ六代先祖当)妹ウトへ継承シ

    談跡職ハ 

  ニ、平良筑親雲上(平良筑親雲上ハ二代ノ先祖ニ当)

    姉玉城村松田方へ婚嫁セシマカへ継承シ談跡職ハ 

  三、平良筑親雲上(平良筑親雲上ハ四代ノ先祖ニ当ル) 

     妹カナヘ継承シ談跡ハ 

  四、本家血統内ニ敬称スルベキ人物

   ナキニテ以テ不心得己ニ前記五代ノ先祖平良筑親

 雲上姉マカ婚嫁松□方ノ外孫与那嶺村内間

 方ヨリ松田方へ養女ニナリシナベへ仮ニ継承セ

 シメ談跡職ニ於テ尚ホ我ガ血統内ニ相当ノ

 人物ナキヲ以テ前職ナベ養妹即チ松田方養

 二女マツ(前職松田マツノコト)へ継承セシメタリ然ルニ其後チ

 談マツ在職中我ガ血統ニ相当ノ人物相出来

 候ニ付此際更代ヲ以テ血統ニ相当ノ人物相出来

 各村(玉城、平敷、謝名、仲宗根四ヶ村ヲ云)並松田マツ方ヘ申出候処

 種々協議ノ未遂ヒ跡職継承ノ事ニ別紙証

 携書並日記書之通相没シ去ル明治廿七年五月

 ヨリ跡職見習(俗ニ□据ト云フ)トシテ現ニ本職者同様

 相勤メ居候事ハ別紙関係村証明書ノ通リニ

 御座候且ツ談ノカネイ神社(ノロ殿内)ノ位置ハ古来

 玉城村境界ニ設置セラルゝ慣例ナルヲ以テ従テ

 神職ノカネイ住家モ必ズ神社敷内ニ一定セラレシガ

 前職者松田マツハ後来自分ノ血統ヨリ継承セ

 ラザル理ヲ悟リ住家モ去ル明治三拾一年ニハ生家

 仲宗根村山城方ヘ引移シタルヲ以テ其跡ヘ私方

 ヨリ新ニ住家ヲ建テ談跡職ト定メタルツルヲ現

 住セシメ神社□管掌セシメ居候然ルニ前職故

 松田マツ方ニ於テハ談親類中ヨリ推挙セントノ考

 案ヨリ拙者ヨリ提出致候採用願ニ連書セザ

 ル次第ニ御座候間何前件ノ次第披□御

 洞察道ツルヘ御下命被成下度此段理由奉開陳候也

 

 明治三十五年  国頭郡今帰仁間切玉城村拾七番地

                      平良 幸通

            親戚仝郡仝間切仝村拾六番地

                     平良 幸誠

            仝上 仝郡仝間切仝村廿一番地

                     平良 幸佐

            仝上 仝郡仝間切仝村拾九番地

                     平良 幸貴

            仝上 仝郡仝間切仝村廿二番地

                     平良 幸宗 

【神地返還の証書】(昭和49、50年)
 

 




2008年1月23日(水)過去記録
  『馬姓家譜』(小禄家)の九世馬亮功(仲里里主)の乾隆29年(1764)の12月6日に「同初六日蒙賜盛宴及看操」とある。馬亮功は乾隆26年(1761)12月9日に徳川十代将軍大樹家治公が前年父将軍家重公の跡を継いで将軍になったときお祝いの儀礼のために慶賀使として尚氏読谷山王子朝恒を派遣が決まると楽正を命じられる。同29年(1764)4月19日に江戸上りの無事を祈って三平等で祈りをする。6月9日に那覇を出港し6月13日に山川に到着、20日に鹿児島に到着する。鹿児島でいろいろあるが、7月23日に鹿児島を出発し、10月11日に大阪につく。13日に大阪で踊り狂言を観覧する。
 8月15日に大阪を出発して16日に伏見につく。19日伏見を出発して11月9日に江戸につく。その日に太守公(島津26代重豪公)に拝謁する。・・・乾隆29年12月6日「盛大な宴会があり、操りを拝見」している。がどのようなものか。操り人形や人形芝居かと思われる。昨年から調査している山原の名護市川上、今帰仁村謝名、本部町伊豆味の操り獅子(アヤーチ)の導入に結びつくのではないか。
 音正を命じられた馬亮功は「操」だけでなく、半能や伊勢神楽、能楽、狂言なども拝見している。琉球側からは琉球音楽演奏琉球舞踊唐踊りなどを披露している。

 12月11日に江戸を出発して乾隆30年(1765)正月1日に伏見に到着。3日大阪、同13日大阪を出発して2月28日に薩摩の京泊、2月4日に鹿児島に到着。2月28日に乗船し3月3日鹿児島を出港して16日に帰国している。後に工能と能楽を演ずる踊奉行に任じられている。

 琉球側から江戸までいき、大和の芸能と接し、それらを琉球にももたらしたとみられる。そのことと操り獅子の導入と直接結びつけることはできないが、大和の芸能の琉球への導入の道筋が見えてきそうである。「操」についての記事は、まだこれだけしか目にしていないが、他の資料にも目配りしてみることに。

  
 ▲名護市川上           ▲今帰仁村謝名               ▲本部町伊豆味


山北王怕尼芝攀安知の時代(再考)

山北王怕尼芝が進貢を開始した洪武十六年(1383)から攀安知王の最後の進貢永楽十三年(1415)までの三二年間までの三山の交易の回数を『明実録』によると、中山が52回、山南が26回、そして山北は17回である(小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』)。山北17回のうち怕尼芝王が5回、珉王が1回、攀安知王が11回である。北山だけで渡航した進貢は五回である。山北の多くは中山と同じ年に渡航している。進貢が同時期なのは明国の国情によるのであろうが、山北は十二月から四月にかけてである。当時の状況を『明史』に「北山は最も弱く、これ故朝貢もまた最も稀」だと記してある。北京に遷都したのは永楽十九年(1390)なので、それまでの目的地は南京である。

冊封関係を持つ山北王は怕尼芝・珉・攀安知と続くが、怕尼芝についての出自と珉との関係は全くわからない。『中山世譜』と『球陽』(洪武二九年条)に「山北王珉薨じ、其の子攀安知嗣辰し、封を朝に受け、以て遣使入貢に便す」とあり、珉と攀安知とは親子関係にある。

もちろん山北王は、他の二山同様中国皇帝による王の地位を認めてもらう冊封と貢物を献上し忠誠を示し、それに対して冠帯や衣服、紗・文綺・襲衣などを賜ることを最大の目的としている。それと同時に、各地のグスクから出土している中国製の陶磁器類を輸入する貿易関係の確立でもあった。今帰仁グスクの麓にトーシンダー(唐船田)やトーシングムイ(唐船小堀)などの地名があり、明国と交易した名残りを示すものなのか。

冊封体制の確立は、明国との主従関係もあるが、山北内部での支配関係を明確にするものである。山北王の冊封は山北のクニ的儀礼であり、貢物の硫黄や馬や方物を準備するのに各地の按司(世の主)を統括する必要がある。山北王は冊封や朝貢の名で国頭・羽地・名護・金武などの按司を支配関係に置き、山原全域を統治していく役割を果たしたとみてよい。

具体的な貢物に馬と硫黄鳥島で採掘した硫黄がある。その他に方物がある。その中身について具体的に記されていないが夏布(芭蕉布?)もその一つである。貢物とは別に貿易品の調達もあり、その取引で移入されたのが各グスクから出土する陶磁器類であろう。

今帰仁グスクの基壇と翼廊のある正殿の建物で、山北王が明国から賜った冠服をまとい衣冠制度による身分を示す衣服をまとった各地のグスクの按司達が儀式に参列している風景は、まさにクニの体裁が整い、身分制度による支配形態が髣髴する。

怕尼芝から開始した冊封も、永楽十三年(1416)攀安知王で終わりを告げた。『明実録』で三名の王の出現があり、三名の中では冊封の回数が多いのが攀安知王である。しかし中山や南山と比較すると少ない。そのことが国頭・羽地・名護などの按司が中山に組みした理由の一つであろう。北山王を中心としてクニの形をなしているものの、内部では内紛の兆しがあった。

さて、山原の五つのグスク関係について『明実録』で全く触れられていないし、それと琉球側の『中山世譜』や『球陽』などの文献でもそうである。そのため、グスクの立地や発掘あるいは表採されたグスク系土器や中国製の陶磁器などの遺物や堀切、現在見えるグスク内の祭祀と関わる御嶽やカー、神アサギなどを手がかりにみていく方法しかない。与論島や沖永良部島もしかりである。

伝承の域をでることはないが、例えば根謝銘グスクは北山系の人々が根謝銘グスクを頼りに逃げ延びていった。親川グスクは、羽地地域を統括した按司の居城であったが、築城途中でやめて今帰仁グスクへ移った。名護グスクは中北山の時代、今帰仁世の主の次男が派遣され築城。名護按司を名乗るようになり、代々名護按司の居城だと伝えられる。

『明実録』に山北王が記されるのは洪武十六年(1383)からである。洪武十六年の頃、『明実録』に「山王雄長を争いて」とか「琉球の三王互いに争い」とあり、琉球国は三王(山北・中山・南山)が争っていた様子が伺える。三山鼎立時代といわれる所以はそこにあるのであろう。
 『明実録』に登場する山北王は、怕尼芝、珉、攀安知の三王である。明国と冊封された時期、琉球国は三山が鼎立しており、すでに山北王怕尼芝の存在が確認される。それ以前から山北王は当然いたであろう。
 山北王怕尼芝は洪武十六年(1385)に「駱駝鍍金銀印」を賜っている。掴みところが駱駝(ラクダ)の形の鍍金(メッキ)をした銀の印を賜っている。「山北王之印」あるいは「琉球国山北王之印」とでも彫られていたのであろうか。「山北王之印」の印を賜わり、その印でもって政治を掌ることは何を意味しているのか。それは国(クニ)の体裁を整えようとしたのか、あるいは整えていた可能性がある。

 それと、山北王怕尼芝は衣一襲(一揃いの衣装)・文綺(模様を織り出した絹)・衣服など布や衣装を賜っている。身にまとうものであるが、儀式に衣服をまとって出席するのであるから、そこから当時身分制度が確立していたと見られる。「鈔」は紙幣のようである。紙幣を賜ったことは何を意味しているのだろうか。後に銀が実質的な貨幣になったようである。
 中山王や山南王は、明国に胡椒・蘇木・乳香など東南アジアの品々が散見できる。山北王の貢物に胡椒や蘇木などの品々一回も出てこない。また、中山王と南山王に海舟をそれぞれに賜っているが、山北にはあたえていない。すると、山北は東南アジアに出かけての中継貿易の役割は担っていなかった可能性がある。山北王の明国への貢物は、馬と硫黄と方物のみである。そこに三山の違い(力の差)が反映していそうである。勿論、交易の回数においても。

 このような状況で与論島や沖永良部島に北山がどのように統治していたのか。再度かんがえてみたい。

北山滅亡後に山原各地のグスクが機能を失ったわけではない。今帰仁グスクは首里から派遣された今帰仁按司が代々監守をつとめ1665年まで続く。ところが尚真王が各地の按司を首里に集居させたため按司地頭や火神を残すのみとなった。その名残が『琉球国由来記』(1713年)のグスクでの祭祀に按司や惣地頭が首里から来て祭祀へ参加する姿である。

 山原の各グスク間の関わりは、文献史料をはじめ発掘された遺構や遺物などの成果を持っても、言い伝えらる伝承の域はでない。グスクとグスクとの関係と与論島と沖永良部島の北山の次男、三男について述べておく必要がありそう。

 1500年代以降は、北山と与論島・沖永良部島を念頭にいれるが、首里王府との関係を視野にいれて見ていく必要がある。(辞令書やのろ制度、おもろなど含めて)

  (工事中)


2022年11月24日(木

渡久地矼を架設した時、数名の間切役人が関わり、蔡温から表彰を受けたことから、本部間切役人達 共同で墓地ではないか。この墓の最も古いのは「乾隆十四年寅十四日辺名地村辺名地親雲上」(1749年)であり、橋を架けた人物達、あるいは間切役人をした人物を葬る慣習になったか。

 それと浜元村に具志川のろ家があり、そののろの夫が間切役人、唐旅をしたようで「土帝君」を移入し、後に村で祭祀を行っている。
 其後三司官具志頭親方巡視の砌速矼にを架設すべきを命ぜらる.

されど同港は潮水の出入烈しき場所にして工事困難なるを以て延引せしが、後年に至り浜元村

前辺名地親雲上、辺名地村故辺名地親雲上、備瀬村小浜親雲上、具志堅村前健堅親雲上、

並里村前渡真理親雲上等相譲り、木杜を造りて往来に便ぜり。之より人馬の往通公用の調

度、田畑の手入等滞りなく頗る便利となれり。然れども木材は漸次朽廃し三年毎に掛替を

要し、多分の経費及夫役を費すが故に此に又一同申合わせて永年の策を立て農閑を利用

して付近の浦々より板干瀬を収集めしめ、之にて土台を築き宝暦八年(1758年)三月起工

翌春四月竣工せり。是れより後渡久地橋大風雨にも破損あることなし。依って其翌年より

漕番を全廃せり。王府其功労を嘉賞し安永九年(1780年)に尚穆王三十年五月十七日付

を以て各人に褒美を賜へり。今浜元村ノロ家仲村渠氏所蔵の表彰文左の如し(略)
  


2022年11月23日

2016年6月6日(月) 鹿児島ゆき(過去記録)

 鹿児島市をゆく。今回の鹿児島市行きの目的は姪っ子の結婚式。もちろん結婚式に参列したが、市内を歩いたのは、結果的には薩摩と琉球jと関わる遺跡や人物であった。到着した日は天気がよかったのでツレに合わせて市内まわり。

【6月3日】
 ・天文館で二枚のマップを入手。マップを手にまわる。
 ・照国神社(三日目に立ち寄る、島津斉彬像))
 ・県立博物館(山川石加治木石の確認)
 ・県立美術館
 ・黎明館(鶴丸城跡)
 ・城山周辺
 ・天保山公園(松並木・調所広郷像・砲台跡)
    琉球館は薩摩の琉球口を通じての唐貿易を取り扱うための役所。調所広郷が家老の
    身で「琉球館聞役」に任ぜられ,調所の死後は家老島津久宝を琉球掛に任じられ貿易
    事務の重要性を教えている。 

 ・琉球館(長田中学校)
 ・琉球人松碑
    藩政時代、琉球からの船が入港した。ここに停泊したので、琉球人松とも呼ばれ、
    磯浜の名物であった。

     戦後、枯れてしまい、鹿児島市の植えた姫松と、那覇市から復帰一周年(昭和48年)
    を記念として贈られて植えられた松だという。


【6月4日】(午前中:雨)
 
   ▲城山展望台から市街地と桜島をみる              ▲天保山の薩英戦争の説明版より    

  
▲山川石と加治木石の説明を受ける    ▲天保山の砲台跡           ▲調所広郷(笑左衛門)の像

2022年11月22日

 パソコン不調中(フリーズ)

2016年6月26日(日)メモ

 富山市→糸魚川(新潟県)→富山城(富山市郷土博物館)→高岡古城跡(高岡市立博物館)→石川県立博物館→兼六園→金沢城公園を踏査する。目的地までは「北陸新幹線」や「あいの風とやま線」(在来線?)を使う。それでも歩く時間が一日、5~6時間あり疲れの残った踏査であった。

【2016年6月24日】(富山市内→糸井川(新潟県)→富山城

 新潟県糸井川行きは、28年前から目で確かめたいと頭の片隅にあった場所である。平成三年の暮れに「極める―神秘の勾玉」のテレビ番組(東京テレビ)で今帰仁村の中城ノロ家の勾玉やノロさんの出演や今帰仁部分のナレーションの校正に関わったことがあり、その時、糸井川(姫川)が勾玉(ヒスイ)の産地であることをしり、いつかは訪れたいと。奈良岡朋子さんの「ヒスイの勾玉はどのように造られて各地に運ばれたのでしょうか。そして勾玉の形は何を意味するのでしょうか」と、最後に問いかけられた言葉が思い浮かぶ。「長者ケ原遺跡」(考古館)に同様な文章が展示パネルにあり、「30年間勾玉の研究の進歩がないですね」と談笑。

 翌日石川県立歴史博物館へ。そこで絵図から馬場の形、そして「馬旗」について伺う。それは、沖永良部島と与論島で行われていたシニグ(両島のシヌグ旗)とダブる所があったからである。沖縄本島北部のシニグと両島のシニグを比べてみると、両島でもシニグの原義は?の課題を残しているものの、シニグ旗に描かれいる武将や松竹梅などは、大和化(薩摩化?)しているのを確認しているからである。

 同歴史博物館で「韓国文化への誘い」の図録(平成18年)に目を通してみた。そこにはノロ殿内の遺品としてみてきた頸飾や勾玉の模造品(いろいろな石材)などが紹介されている。何年前になるだろうか、韓国の釜山の博物館や古墳から出土した勾玉などを拝見したことが思い出される。

 奄美から琉球、そして宮古・八重山に分布する勾玉(特にヒスイの勾玉)が琉球に移入してきたのか、ノロ家に残る遺品の一つに勾玉がある。移入の時期は各地のグスクから出土し、ノロ家の遺品として残る勾玉について関心を持ち続けている。そのことがあっての糸魚川の「長者ケ原遺跡」(考古館)とホッサマグナミュージアム)踏査である。

 糸井川へは「あいの風とやま線」に富山駅から乗車。東富山→水橋→滑川→東滑川→魚津→黒部→久善→泊(乗継)→越中宮城→市振→親不知→青海→糸井川まで左手に日本海を眺めがら(梅雨の雨でもやっていた。冬の日本海は通過したことがある)。

 「糸井川世界ジオパークの石」のパンフをいただきパンフでヒスイの確認。これまで見てきた勾玉は必ずしもヒスイのみではなさそう。沖縄ではヒスイの方が数少ない印象である。勾玉は黒曜石が目につく。「ノロ制度の終焉」(一部紹介)や「やんばる(山原)のノロ祭具と継承儀礼」、沖永良部島の「沖永良部島のノロ家の遺品」などで報告。シニグ旗は沖縄のミチジュネ―やシニグの旗頭と同類のものか?

 
     ▲長者原遺跡              ▲加工技術の説明版

沖永良部島に遺るシニグ旗、和泊町

202211月19日(

 下の画像は本部町渡久地へ流れている満名川である。「本部間切浜元村辺名地親雲上等渡久地橋を架設す」とある。その表彰文が浜元のノロ家に所蔵してあると。浜元村の辺名地親雲上は具志川のろ家の旦那方とみられる。表彰の「言上写」が浜元の「土帝君」の祠内に板に書き写してある。

 一帯に歴史と関わる話や墓などがあり、本部間切の歴史が描くのに尽きない出来事がいくつもある。
  ・本部間切の番所跡
  ・1665年伊野波間切が分立した時の伊野波
  ・按司墓
  ・ヲナジャナ墓
  ・具志川村から分立した渡久地村と浜元村
  ・浜元に具志川のろ家がある。
  ・具志川のろくもいの辞令書などが遺る(1500年代)
  ・具志川村と関わる具志川御嶽(グスク)
  ・具志川のろ家の男方(元辺名地親雲上)と土帝君
  ・「渡久地橋架設の表彰状態

 以前から、これまで墓調査の依頼をうけて見てきた墓で腑に落ちない一基がある。石棺六個陶製角形六個、厨子五十七個が葬られていて、銘書は本部間切全域に村の間切役人が葬られいる。中には三名がのろくもいの娘を妻にした人物(のろは葬られていないがのろを嫁にした夫が葬られているのでヲナジャナ墓と呼ばれているのでは)。この墓は他地域で類をみない例である)

 
渡久地矼を架設した時、数名の間切役人が関わり、蔡温から表彰を受けたことから、本部間切役人達の共同で墓地ではないか。この墓の最も古いのは「乾隆十四年寅十四日辺名地村辺名地親雲上」(1749年)であり、橋を架けた人物達、あるいは間切役人をした人物を葬る慣習になったか。

 それと浜元村に具志川のろ家があり、そののろの夫が間切役人、唐旅をしたようで「土帝君」を移入し、後に村で祭祀を行っている。

  ・御夫人御墓の状況(をなじゃら墓)(按司墓とは別) 
   ※渡久地橋の架設に関わった間切役人を表彰を賜り、顕彰された人たち、
    それと間切役人をした人物達を葬った墓か。

 その位置は国頭郡本部村渡久地志なきらゑ原という山の麓にあり、渡久地川に面し未申の中に向かい阿さたび御墓とは梢差向かふの方に1檀あり。阿さたか御墓と比し堅牢にして且つ結構なり。外部を高地にして好景色の感あり。墓内は逗子以て充満し、少も余地なし。石棺六個陶製角形六個、厨子五十七個あり。火葬して数人混合して大壺に入れたるものあり。上檀の中央に安置せらるる石棺に二人合納せらるるも銘書判然せざるは最も遺憾とする所なり。下の中央にある石棺には具志川のるくむひと銘書あり。或いは大米須の御妾たりし具志川のるくむひと推察せらる銘書不明のもの十一個ありて、御夫人の御骨を確実に認むる能はず嗚呼。

【本部間切浜元村辺名地親雲上等渡久地矼を架設す】(球陽)
  言上写
  一 上布弐疋
    (原文略)

 「沖縄県国頭郡志」に以下のように。
 渡久地港は長さ八十歩以前は橋梁の備へなく渡舟を以て往還に供し公夫四人間切夫二人都合六人の漕番を置き昼夜一人宛勤務せしめたり。然るに渡久地は番所の所在地にて風波荒き時公用に差支を来すこと少からず且耕地多くは川向ふにあるを以て其不便一方ならざりき。

 其後三司官具志頭親方巡視の砌速矼にを架設すべきを命ぜらる。
されど同港は潮水の出入烈しき場所にして工事困難なるを以て延引せしが、後年に至り浜元村前辺名地親雲上、辺名地村故辺名地親雲上、備瀬村
小浜親雲上、具志堅村前健堅親雲上、並里村前渡真理親雲上等相譲り、木杜を造りて往来に便ぜり。之より人馬の往通公用の調度、田畑の手入等滞りなく頗る便利となれり。然れども木材は漸次朽廃し三年毎に掛替を要し、多分の経費及夫役を費すが故に此に又一同申合わせて永年の策を立て農閑を利用して付近の浦々より板干瀬を収集めしめ、之にて土台を築き宝暦八年(1758年)三月起工翌春四月竣工せり。是れより後渡久地橋大風雨にも破損あることなし。依って其翌年より漕番を全廃せり。王府其功労を嘉賞し安永九年(1780年)に尚穆王三十年五月十七日付を以て各人に褒美を賜へり。今浜元村ノロ家仲村渠氏所蔵の表彰文左の如し(略)




2022年11月18日(金)

 新型コロナが発生してから、調査をすることを怠っている。それで過去に報告してきた動きを振り返ることが多い。昭和63年福岡県内の博物館や資料館を視察している。その後、鹿児島県内の博物館など踏査している。その年の4月(平成元年)から、今帰仁村へ。その頃、大学の非常勤(三大学)。10~12コマ(三教科)をこなしている。今帰仁村へ職を移したときは、天国でした(名護市から高速は石川まで)、一日五時間の車の運転。長い夏・冬の休暇は名護市史に入り浸っていた。その頃から沖縄県地域史協議会を関り、運営委員から代表も。地域史の会誌の14号?まで、手作りの編集・製本。『なきじん研究』1~19巻発行。調査・研究、ムラ・シマ講座など。いつも原稿締め切りに追われていた。「広報なきじん」で2頁の「写真にみる今帰仁」をシリーズ(100回)お願いされていた。後に「なきじん研究」11号に。楽しく忙しくやっていたのだと思い出す。以下の視察報告は「資料館建設」に向けて、見える形で動き出した行政をしらない者の村民をはじめ行政への予算とり、職員確保の記録である。(馬鹿だと揶揄されていた)





2022年11月17日(木)

 本部町渡久地から浜元まで踏査する。来週のムラ・シマ講座の下調べでもあるが、大きく変貌するシマの形を記録に遺して置きたいと無意識にある。ムラ・シマの形は時代とともに変貌している、そのことを確認するためでもある。講演や講座などの前に現場を確認しておかないと20年前の姿は様変わりしていることが多々あり、「公民館はないよ」「学校は統合されて無いよ」「その道、かわっているよ」「スクミチって何?」「あの松並木はどこ?」「ムラって何」などなど。渡久地も浜元の歴史的な出来事だけでなく、変わりゆくムラ・シマの姿を見ていくことに。(その一部を紹介)

 渡久地村と浜元村は今帰仁間切の内であり、どうも両村は具志川村が渡久地村と浜元村に分かれたようである。そのことを示すのが、具志川のろの辞令書、そして分離した後の渡久地村内にある具志川御嶽(グスク)の祭祀は具志川のろ管轄。辞令書の頃は、両村は具志川村、『琉球国由来記』(1713年)を見ると、二つの村独立しているが祭祀は以前のまま具志川のろが行っている。祭祀でみると、その痕跡が今でも遺っている。具志川御嶽(グスク)は渡久地地番にあり、渡久地のシニグの祭祀の一日目(旧7月17日)のカーザライの時、具志川御嶽も拝む。同日、浜元ではシニグ行事の始まりウガンで殿・アサギ・周辺の清掃あをする。具志川のろは浜元の仲村家(仲村渠)から出自する家系で大正から戦後昭和27年頃までだしていた。後継者がなく那覇へ転居。(工事中)
  
 ▲具志川御嶽(イベへの通り)         ▲御嶽内のイベ        ▲具志川御嶽近景


 
今帰仁間切具志川ノロ職叙任辞令書(萬暦35年:1607年)
            (辺名地の仲村家所有、役人(目差・掟の二枚の辞令あり)
  しょりの御ミ事
    ミやきせんまきりの
    くしかわのろ又ちともニ
    五十ぬきちはたけけ四おほそ
    くしかわはる又によはる又はまかわはる又ほきはるともニ
      もとののろのくわ
   一人まかとうに
   たまわり申候
 萬暦三十五年七月十五日


2022年11月14日(月

「寡黙庵」のまわりが大きく変貌する。晴れ間をみて花畑の草刈り。草におわれたの所に花が咲いている。木陰か人目につかない場所が好むようだ。花はカタツムリの餌。しばらくそのままにしておくか。
 

 

2022年11月13日(

 古琉球の奄美へ発給の辞令から、奄美の島々の様子、任命された人物は派遣、あるいは在地の人物を任命したのか、首里に戻ったのか、あるいは島に居住していったのか。そのあたりの疑問が解けたら。えらぶ阿応理屋恵按司(のろ)は沖永良部島ののろ全体を統括するのろか。その下に複数のシマクラスののろがいる。大島に二つののろに統括されたシマクラスののろがいたようだ。琉球側の資料(家譜)から拾ってみる(工事中)。(与論島と沖永良部島には辞令書の発給が確認されていない。ただし、のろ関係の遺品はあり)。

 ※「古奄美諸島社会史―14世紀から16世紀の奄美」石上英一氏(東京大学史料編纂所教授)
                 黎明館特別講演会


 上の石上教授の講演会の論文。強烈な印象をうける。

・成化二年(1466)尚徳王鬼徳王喜界島を伐ちて帰国の時聖舟泊の港に到る。
・馬姓家譜に「稽祖は大島の酋長与湾大湾大親これなり。時に大島は酋長数人あり。
  1537年頃、与湾大親は忠孝唯是を務む。同僚の首長◇を好み与湾大親と睦しからず。
  在地の酋長。
  尚清王により大親に任命された。琉球国に忠誠を誓う。
    ・大島には数人の酋長がいる
    ・与湾大親は大島在地の酋長で尚清王に任命
      宮古・八重山にも酋長がいて首里王府から任命
      久米島は?

・毛姓五世盛埋(国頭親方)
   隆慶二年(1568)自奥渡上の捌理に任ず。
     ・この年同日の首里大屋子宛の二枚の辞令書があり、琉球側の「自奥渡上の捌理に   
      任命された人物か?

・万暦五年(1577年)阿手津大屋子となる。

・万暦24年(1596年)大島湾?の首里大屋子を務める。
   万暦30年大島より帰国して後西原間切我謝地頭職に任ず。
・穆氏具志川親雲上昌◇の女えらぶ阿応理屋恵按司と称す。

沖永良部のノロ制度参照

2010(平成22)年10月28日(木)メモ

 以前紹介した記憶があるが、新聞の切り抜きが出て来たので再度のその記事を掲げておく(昭和□年□月14日新聞記事)。

   古琉球の遺寶
      水晶の曲玉  県外流失を免れ 郷土参考舘へ所蔵

  県教育会郷土参考舘では日本夏帽沖縄支部松原熊五郎秘蔵の永良部阿応恵の
  曲玉を今回三百円で譲り受け、永く郷土参考資料とすることになった。本晶は元小
  録御殿の伝寶にかかり同家大宗維衝(尚氏大王長男)より四世に当る大具志頭王子
  朝盛の室永良部阿応理恵職の佩用したものとみられている。これに関し県教育会
  主事島袋源一郎氏は語る。

   此曲玉は永良部阿応理恵職の佩用したものらしいもので同人は穆氏具志川親雲上
  昌けんの女で童名思戸金と称し天啓三年に亡くなった人で永良部阿応理恵なる神職
  は苧禄御殿の家譜及び女官御双紙にも同人以外には見当たらないから慶長十四年
  島津氏琉球入の結果大島諸島は薩摩へさかれたので其の後廃官になったものと思
  われる。

   しかし同家では尚維衝が王城を出られた時に持って出られたのだと伝えてい
  る中でこの曲玉は前年京大に送って調査の結果何れも硬玉で石の原産は南支地方で
  あろうとのことで曲玉は三箇で水晶玉(白水晶と紫水晶)百一箇が一連になってをり又と
  得がたき寶物であるが松原氏は数箇所より高価をもって所望せらるるにもかかわらず、
  その県外に流出を遺憾とし県教育会へ原価で提供されたもので、その心事は頗る立派
  なものだ。

 
      ▲永良部阿応理恵の曲玉         ▲右が永良部阿応理恵の佩用の曲玉

2022年11月12日(

 昭和30年代まで今帰仁村内のスク道(宿道)沿いに松並木があった。文化財指定のための調査データ(新城徳祐氏調査ノートより)。今帰仁街道(宿道)は一時県指定の文化財となるが松食い虫の被害で指定解除される。下の前田原(平敷)は明治の平敷村全図字前田原(手前が崎山前田原、中央部の川(ジニンサガーラ)の様子である。

 
 仲原馬場の松並木(1960年頃)▲1950年代(平敷から謝名)、前田原 ▲兼次校前の宿道沿いの松並木

 
   ▲仲原馬場の老松42本(村内約1000本)        ▲兼次学校沿いの松

2022年11月11日(金)

 奄美大島の西側の集落を踏査したことがある。その記録が不明で、その一部が見つかる。その記録を見つけたいのは、名越左源太の『南島雑話』の記録のことである。彼が住んでいた名瀬市の宇宿(住居跡)を訪れているからである。

【名瀬間切の三枚の辞令書

 下の三枚の辞令書(写)(あさとおきて、さとぬし、たいくまのろ)は、『南島雑話』2 幕末奄美民俗誌(東洋文庫)より。 
  
  
(萬暦35年:1607年)   (萬暦37年:1609年)      (萬暦15年:1577年)

  【首里之印】あり。

① しよ里の御み事 なせまきりのあさとおきては   首里の御ミ事
  一人いしゆもいてこくにたまわり申候
  しよ里よりいしゆもいてこくの方へまひる
 萬暦三十五年閏六月六日

② しよ里の御み事 なせまきりのさとぬしは
  一人あさとおきてにたまわい申し候
  しよ里よりあさとおきての方へまひる
  萬暦三十七年三十七年二月十一日

③ しよ里の御み事 なせまきりのたいくまのろは
  一人もとののろくめい まくもにたまわり申し候
  しよ里よりまくもか方へまひる
  萬暦十五年十月四日

2008年1月16日(水)


 13日~15日まで奄美大島と瀬戸内町の加計呂麻島へ。加計呂麻島はほぼ踏査する。奄美大島側は宇検村は宇検からスタートして焼内湾岸沿いの集落を。佐念から平田辺りまではどうにか回る。最後の屋鈍は日が暮れトボトボ集落内を散歩。屋鈍(宇検村)から西古見(瀬戸内町)に回り込む予定にしていたが、車の通れる道ではなかったので断念して戻ることに。そこから瀬戸内町古仁屋までは相当な距離。それも曲がりくねった道。空港から一気に宇検村に向かうつもりが、途中の集落に立ち寄ってしまう。

 二日目加計呂麻島からの戻りに瀬戸内町の清水・嘉鉄・久根津・油井までは踏査できたが阿鉄で日が暮れ、そこから名瀬市街まで。2時間近くの夜道の山越え道のドライブ。二度と来るまい、そしてレーサーになるつもりかと一人言。

 15日名瀬市街から奄美空港まで、途中のムラへ足を運ぶ。龍郷町の秋名・嘉渡・円・安木場・龍郷、その後は古琉球の辞令書に登場する旧笠利町の喜瀬、笠利まで。そこで時間切れ。その後、大きなハプニングに遭遇。飛行機の出発時間を遅らせるハメになりかけた。到着便が遅れていたためセーフ。空港で足止めされるとは。逃亡者か。収穫の多い奄美大島行きでした。

 
   ▲ショチョガマが行われる場所(龍郷町秋名)      ▲平瀬マンカイが行われる岩場の一つ

 
      ▲西郷南洲謫居跡(龍郷)                  ▲西郷隆盛上陸の跡地と西郷松(久場)


2022年11月10日(木)

 石灯籠や銘の刻まれた石の香炉を近世の歴史で扱っている。石灯籠は按司クラス、銘の刻まれた石の香炉(奉寄寄進)は奉公人が按司と薩摩や江戸立に同行(上国)し、無事帰国、帰郷した奉納のようである。(数多くの香炉調査をしてきた、一部紹介)

【石灯籠や石香炉】

 向氏具志川家の十二世鴻勲(朝郁)(17831804年)は嘉慶元年(1796)に楽童子として江府(江戸)に赴いている。楽童子は江戸上の時、琉球音楽や躍りを演じる若者で鴻勲は13歳の時である。江戸上の詳細は『具志川家家譜』の十二世鴻勲のところに記されている。鴻勲が今帰仁間切の村の村踊(ムラウドゥイ)に影響及した可能性は少ない。どちらかと言えば、これまで見てきた間切からの御殿や殿内などへ奉公人や奉公した後の間切役人などが中央の芸能を村踊の演目に取り入れていくことに影響を及ぼしているとみている。また按司や脇地頭などの「初地入」は、按司や脇地頭などを歓迎する演目としたのではないか。

 今帰仁グスク内の石灯籠もそうであったが、今帰仁阿応理屋恵火神の祠(今帰仁グスク近く)の後側にある四基の「奉寄進」(年号部分は判読できにない)は、今帰仁王子や按司などの薩州や江戸上と無関係ではなかろう。香炉の向きは、伊是名島や辺戸などへの遥拝と言われるが、香炉は伊是名島と辺戸岬との中間に向いて置かれていて、それは薩摩や帰国への航海安全の祈願とみていい。今帰仁阿応理屋恵火神の祠の手前右側にも数基の銘の刻まれた石の香炉があったが不明。
(近くに放置されているかもしれないので探してみるか。その中には年号はっきりしているのもあるかもしれない)

【『中山世譜』(附巻)より薩州や江戸上の親方・按司・王子など】


 ・天啓6年(1626) 孟氏今帰仁親方宗能、薩州へ(月日不明)
 ・康煕2年(1663) 高氏今帰仁親雲上宗将
 ・康煕15年(1676) 向氏今帰仁親方朝位、年頭使として627日薩州へ、翌年114日帰国する。
 ・康煕25年(1686) 向氏今帰仁親方朝位、年頭使として526日薩州へ、翌年117日帰国す
る(翌
             年病で没)。

 ・康煕35年(1696) 向氏今帰仁親雲上朝哲、鷹府城の回録で824日薩州へ、116日帰国する。
 ・康煕45年(1706) 向氏今帰仁親雲上朝哲、710日薩州へ、119日帰国する。
 ・康煕48年(1709) 向氏今帰仁按司朝季、尚益王の即位で912日薩州へ派遣、116日に帰国する。
 ・康煕51年(1712) 向氏今帰仁親方朝哲、84日薩州へ、翌年1114日帰国する。
 ・康煕60年(1721) 向氏今帰仁親方朝哲、年頭頭として621日薩州へ、翌年1022日帰国する。
 ・乾隆5年(1740) 向氏今帰仁按司朝忠、吉貴公妃(霊龍院)の弔で閏527日薩州へ派遣、1025
            帰国する。
 ・乾隆12年(1747) 向氏今帰仁王子朝忠、慶賀で611日薩州へ、翌年3月帰国する。
 ・乾隆17年(1752) 向氏今帰仁王子朝忠、正史として613日薩州へ、122日江戸へ、翌年31
              薩州へ、49日帰国する。

 ・乾隆52年(1787) 向氏今帰仁按司朝賞、太守様元服で82日薩州へ、翌年311日帰国する。
 ・嘉慶25年(1820) 向氏今帰仁按司朝英、前年薩州へ赴く(慶賀)前に船は風に遇い、八重山・与那国
            島に漂着する。
 ・同治9年(1870) 尚氏今帰仁王子朝敷、622日薩州へ、1011日帰国する(明治3年)。
 ・光緒元年(1875) 尚氏今帰仁王子朝敷、924日薩州へ、1024日東京へ、翌年129日帰る。

http://yannaki.jp/kakogazou/9he03.jpg .http://yannaki.jp/kakogazou/9he04.jpg 
 今帰仁阿応理屋恵火神の祠(グスク近く)       後ろにある四基の石香炉

 
  
   ▲グスク内の火神と石灯籠(現在)         ▲石灯籠に「今帰仁王子」とある。

2022年11月9日(水)

 知人が外国へ旅するという。もう遠旅することは諦めている。それで、過去の記録を辿る。ちょっと関西まで。

2008年5月1日(木)

 神戸や兵庫、大阪などが登場してくると「江戸上り」が被さってくる。「江戸上り」について研究書もあるが、沖縄県史が発刊された「江戸上り琉球使節の江戸参府」(ビジュアル版)があり非常にわかりやすい。有り難い。

 これまで、按司や王子や親方などの薩州行きや参府(江戸)に赴いた正使や福使をはじめ儀衛正・楽童子・楽師・与力などが琉球からの物や出し物(歌や踊りや音楽の演奏など)を持っていくが、向こうで能や武田操(からくり)や手妻(手品のこと)や人形芝居などを見る機会があった。それに随行していった地方の奉公人なども、そのような芸能を鑑賞する機会があった。

 江戸上りで大坂まで来ると、江戸堀と土佐堀の間の島に薩摩藩蔵屋敷(大坂公館)があり、そこに招かれ、宴を賜り竹田操(からくり)や手妻と人形芝居や狂言などを鑑賞している。薩摩藩蔵屋敷と薩摩藩中屋敷は中の島の隣りの島である。中の島と薩摩藩蔵屋敷のあった島には、数多くの蔵屋敷が並んでいたようだ。

 「中の島」までいく。大坂の港が知りたくて「築港」や「天保山」など案内していただいた。使節を乗せた川舟は淀川をさかのぼり伏見で荷揚げをし陸上で江戸へ向かったという(「中の島」あたりの画像がみつかりません)。

 これまで確認してきた沖縄本島の石灯籠や銘のある香炉、それと関わった王子や親方、そして地方の奉公人。薩摩や江戸上りへお供していったメンバーは地方への芸能など文化を伝えていく伝道者としての役割もはたした姿が見えてくる。
  
    大阪城の内堀       大阪城の天守閣       大阪城の内堀

   
  中の島と堂島に架けられた難波橋           何回も架け替えられた太平橋

   

200855日(月)

 「江戸上り」(参府)の使節の中に儀衛正(ぎえいせい)がいる。儀衛正(路次楽の総監督:路次楽奉行)について、宮城栄昌氏は『江戸上り』で5つの史料から以下の記事を拾っている。路次楽は1477年の尚真王の母オギヤカモイが路次楽を奏でながら首里の大路を行進している様子を描写しているという。路次楽が中国音楽だったため久米村出身者が選ばれたという。

 ここで路次楽を掲げているのは、今帰仁村の湧川で路次楽が豊年祭で行われているからである。首里王府や江戸上りの時に演奏された路次楽が、どのような経路で今帰仁村湧川に伝えられたのか。もちろん、寄留士族によって村踊(豊年祭)に組み入れられているのであるが、継承している與儀家が久米系なのか、そして江戸上りでの使節の一員であった可能性が大である。一族の家譜から探せるか。中央の芸能が地方へ伝播され、そこで継承されているのがいくつかある。「組踊」もそうであるが、薩摩藩屋敷で行われた「しゅんどう」(男女の面かぶり:舞楽図)(沖縄県史ビジュアル版所収の図)は古宇利島の豊年祭の最終演目で行われている。

    ・中官ノ内ニテ路楽ノ頭ニテ御座候、此上ニテハ物頭恰合ノ官ニテ御座候
    ・中官之内路次楽の頭之者頭恰好の者也
    ・右行列方并路次楽司申候、於琉球国ハ諸衍
(ママ)奉行格式ニ而御座候
    ・路次楽人相携候、尤久米村より被仰付唐字方相勤候
    ・中官之内路次の頭也、者頭恰好の者也

  
   今帰仁村湧川の路次楽(現在)        今帰仁村古宇利の「しゅんどう」

2022年11月8日(火)

『南島雑話』(名越左源太)から奄美の野呂久米(のろ)事情が読み取れる。奄美ののろ制度
加計呂麻島 加計呂麻島2 参照 北山(琉球)と沖永良部島

【南島雑話】
(名越左源太)
 慶長18年(1613)、始めて法元仁衛門を以て大島代官職被仰付、年貢を収、島民を皆土人に準じ、諸事頭取者を一等揚て下士に準じ、頭長は大親を以て長とす。其次与人とす。大島に始めて法令を建てることは、元和九年癸亥(1623悉被定、同十年の二月十八日(嘉永元年此年改元)法令之帖に、冠簪衣服楷品を本琉球に受ける事を禁制す。
 此時より能呂久米年々印紙を本琉球官僚に請ることを止らる故に、寛永十九年(1642)迄之免官印を伝て今其三四枚を蔵め伝う。大熊村安加那納置書付なり。大熊村にて富統より内々にて、能呂久米安加那本書押付に為写す間、本書の儘也。本書唐紙也。文面如此かな書也。始と終に朱印、首里之印と云文あり。首里の里の子寮より出ものにて候由。上包の紙の上に里之子寮と有之候。

【神 事】
 能呂久米、祝主神之祭惣名女子迄也。男子あずからず。能呂久米の中に役名あり、船頭と云。那留古国より神、毎年ニ月初の壬に渡来す。是を御迎祭と云。
 同四月之壬の七ツメに帰り去る、是を御送祭と云。
 大神祭、島の山神海神を祭る。
 御印加那之能呂久米は頭にて、島中に雨人あり。真須知、須多共に此支配也。享保以前は、能呂久米一世一代一度ヅツ本琉球にいたり、国主に御目見あり。免許の御印を頂戴して在所に帰る。尤此免文は首里の里の子より出、里之子寮の支配の者也。海頭は御印加奈之よりは下官なり。然共国主免許文は里之子よりいだす。寛永七年(1630)戌五月代官新納用之進禁止す。
 ・・・・・・能呂久米二流に分る。大和浜より屋喜内、西東方迄は真須知組と云、名瀬より笠利までは須多組と云。・・・・・・・
【死葬】能呂久米葬式の法
 始死る者を穴蔵に入処、是をとうふろと云。今笠利間切の宇宿村、又同間切手花部村にも有之。島中所々にとふろあり。桶共に納め置く。とふろの奥の方、南京焼の蓋のある壺、幾所にも並有之、又石櫃に納るもあり。昔は島中なべて如此なりしを、今は大和風に習いて土葬なり。・・・・・

(工事中)

【辞令書等古文書調査報告書】(沖縄県教育委員会:昭和53年発行)

 ・鬼界(喜界)の東間切の阿田のろ職補任辞令書(隆慶141569年)(喜界島)
 ・屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(万暦111583年)(奄美大島)
 ・名瀬間切の大熊のろ職補任辞令書(万暦151587年)(奄美大島)
 ・徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦281600年)(徳之島)
 ・瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書(万暦301602年)(奄美大島)

 以下の二枚の辞令は『かけろまの民俗』で須子茂のノロへの辞令として扱っている。ノロへの辞令ではないのではないかと見ていたが、ノロ辞令書とみてよさそうである。これらの辞令書はノロ家が所蔵しているようである。ノロ家の男方は知行を受ける役人を勤めている例がいくつもある。例えば今帰仁間切の「くしかわのろ」(3枚の内ノロ辞令は1枚)や今帰仁間切の中城のろ(9枚のうち2枚がノロ辞令で他は男方の役人)など。のろへの辞令の場合は多くは「・・・・のろの」とあるが、「ねたち」と「たる」など名前の場合もある。「ねたち」はすこものくちのうなり(妹)、あかひとうかの子へ引継なので、ノロ引継による知行安堵である。それを勘案するとノロへの辞令書とみてよさそうである。阿田のろ職補任辞令書(1569年)が沖縄本島も含めても、今のところ一番古い。

・瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの知行安堵辞令書(万暦21574年)(奄美・加計呂麻島)
・瀬戸内西間切の巣古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦21574年)(奄美・加計呂麻島)


2022年11月7日(月

 各地を踏査した記録を残している。まだ、デジカメは持っていない頃である。そのため画像が少ない。電池切れやフイルム切れも度々。

2011年1月記録

 「烽火制と琉球―近世の沖縄―」をテーマにして、八重山(波照間島)から宮古島、そして久米島・慶良間の島々、さらに伊江島、伊平屋島、沖縄本島北部から南に下り、弁ヶ嶽(首里王府)まで辿ってみた。烽火制を手掛かりに近世の沖縄の全域をみてみた。今回は「江戸参府」(江戸上り)を手掛かりに近世の沖縄についてみていく。「江戸参府」(江戸上り)を意識していたわけではないが、奄美から鹿児島、熊本、長崎、福岡、門司、山口、広島、岡山、兵庫、大阪、京都、名古屋、静岡、神奈川(小田原・箱根)、川崎、東京へと足を運んでいる。これらの地を「江戸参府」(江戸上り)のコースを重ねながら見て行くことに。「江戸参府」(江戸上り)を手掛かりに「近世の沖縄の歴史」を見て行くことにする(今回は「沖縄県史ビジュアル版)をテキストにして)。

  
     ▲松原城(長崎県)                                       ▲平戸(長崎県)

 
       呼子(佐賀県)                  名護屋城から玄界灘を望む


     ▲唐津城(別名舞鶴城、佐賀県:肥前)        ▲唐津城からみた虹の松原


   
開門岳(鹿児島県)             
▲山川港(鹿児島県)


20091211過去記録

 福岡県にゆく機会があった。目的はNHK福岡放送局でのテレビ生出演であった。その前後に博多から太宰府、九州国立博物館、福岡城跡を訪れる。二日目、番組終了後無意識に志賀島に向かっていた。志賀島に向かっていたのは、飛行機が福岡空港へ侵入していくとき機内から見えた島である。それと、九州国立博物でみた志賀島出土の金印が脳裏にあったからなのかもしれない(電車は西戸崎までしかなく、志賀島の手前まで)。

 「博多は中世の日本最大の貿易都市」と言われているようで、そのことも頭の隅にあったのであろう。福岡空港に降り立つと、向かったのは太宰府跡である。博多も、しかと見たいと。
 

 

 

 

 


2022年11月6日(

 本部町についての話をする機会が多くなっているので、過去の記録が目につき、記憶を呼び起している。先月、水納島(本部町)までゆく。風景が変わっていました。これから「寡黙庵」で、締め切り原稿の整理でもするか。

2005.04.08(金)メモ

 本部町渡久地港までゆく。渡久地のマチ、もう少し正確にいうなら谷茶の港付近のマチのことであるが、かつて勢いのあった頃のマチの風情が残っている。旅館やさしみ屋、食堂、雑貨店、かまぼこ工場、鰹節工場など。そして繋留されている船(かつてはサバニ)。港付近のマチに漁港独特の匂いがあり、それが好きだ。

 明治の新聞記事(『本部町史』(資料編1)から船に関わる記事(タイトルのみ)を拾ってみた。それらの記事から港や船について拾っていくが、船にまつわる興味深い出来事がある。

 ・公私往来(明治3411月)
 ・難破船(明治36年8月)
 ・朝日丸の無事帰着(明治3611月)
 ・難破船二艘(明治38年5月)
 ・国頭郡の鰹節製業(明治38年8月)
 ・暴風雨と遭難船(明治3911月)
 ・暴風雨と溺死人(明治3911月)
 ・美人海中に溺死す(明治40年6月)
 ・名護硯滴(明治4010月)
 ・貨物の停滞(明治4011月)
 ・瀬底島の一日(明治41年1月)
 ・漁業者間の紛議(明治4111月)
 ・名護の商業と運輸交通(明治42年4月)
 ・鰹漁業並に鰹節製造法(明治42年6月)
 ・本県と鰹節(明治43年9月)
 ・金沢丸擱礁詳報(明治44年4月)
 ・渡久地丸の試運転(明治44年4月)
 ・渡久地丸(明治44年5月)
 ・渡久地丸と福山運送店(明治44年7月)
 ・本部村の難破船(大正元年12月)
 ・山原船の遭難(大正2年3月)
 ・難破船一隻(大正2年4月)
 ・本部だより(大正3年11月)
 ・山水行脚(大正4年8月)
 ・鰹漁及帆船及発動船(大正5年7月)
 ・遠漁と帆船(大正5年10月)


 

 


2022年11月5日(

 2015年6月1日、「寡黙庵」にシーサーを設置した。来客に時々、どなたの作品? 何故置いたの?と質問がある。

 火事よけか、災難よけかなど、いろいろ質問が飛んでくる。設置した本人は、「嘉味田家」の墓調査の整理をしたことがあり、その墓の移葬に祭応瑞(唐栄地理官:風水見)が関わっており、そのことが頭にあったころである。シーサーの設置の理由も。シーサーの作製は奄美出身の画家の治(はる)氏である。

 その頃、10年近く頭にあったのは祭応瑞(大田親雲上)なる人物である。10年前に嘉味田家(向氏家譜)の墓を調査したことがある。向氏家譜に同家の東風平間切富盛にあった墓の風水をみた(1687年)人物が祭応瑞(唐栄地理官:風水見)である。同家譜の「墓誌」によると、東風平間切富盛にあった同家の墓は唐栄地理師阮超陞の風水の見立てで「安里村の東大堂松尾」へ乾隆辛未(1751年)秋に工事をはじめ翌年三月吉日に移葬したようである。それと東風平間切富盛の大石獅子を造らせた(1689年)のも彼である。

 蔡応瑞は伊平屋諸島の風水見(1685年)、1688年の伊是名玉陵の改修、修復、1686年に護佐丸の墓の見聞などをしている。最近伊是名島の伊是名玉陵や内間御殿、東風平間切(現八重瀬町)の大石獅子などのことがあったので、シーサーを設置したのであろう。そのようなことが脳裏にあり、1700年前後の墓の改修や移動は風水師蔡応瑞の影響が大きかったのではないか。わが家のシーサーを設置はそんな理由?。

1685年 蔡応瑞が王命により伊平屋諸島の風水を見聞する。
1686年 蔡応瑞が護佐丸の墓の風水を見聞する。
1687年 伊是名玉陵が改修される。
1688年 伊是名玉陵が修復される。風水にかなった景観であると判断された。
1688年 喜屋武按司向殿柱が東風平間切富盛に風水にかなった墓地をみつける。
1689年 蔡応瑞が風水判断で東風平富盛に石造獅子を建て、火災を防がせる。
1689年 内間東殿が瓦葺きになる。
1689年 蔡応瑞が風水判断で東風平富盛に石造獅子を建て、火災を防がせる。
1751年 地理師阮超陛の風水判断で7世喜屋武按司向棟、富盛の墓地を安里に移動する。

  
▲4月30日に台座が設置される        ▲クレーンで持ち上げて慎重に
 
   ▲治氏がシーサーに魂を入れる                ▲エイ!どうじゃ様になっているか?

2022年11月4日(金

 今月の「ムラ・シマ講座」の日程の連絡あり(11月21日月)。場所は本部町浜元。2017年に行ったノートが見つかったので、再利用。その時には使用しなかった「ぐしかわのろくもひ」の辞令書とノロ墓と呼ばれている墓室内の様子、それとシニグの様子を「流れ」とウシデーク(舞い)を入れて紹介することに。(準備ほぼオッケー)
2017年6月24日(土)(デジメは当時のまま)(今回用に改めます。歴史は生き物なり)

 6月22日墓調査あり、ちょっと時間があったので本部町渡久地、浜元を回る。浜元は来月のムラ・シマ講座の踏査地にすることに。渡久地と浜元は具志川村から分離した村である。具志川村時代に任命された「ぐしかわのろくもい」の辞令書が残っている。2008年に以下のテーマで浜元を踏査している。本部町渡久地にあるオナジャラ墓(ノロ墓と呼ばれる)墓を開ける機会があったので、前回の講座で崎山の按司墓などについた紹介した。按司墓やノロ墓と呼ばれる墓が今帰仁はテー港、今回は満名川の河口の渡久地港周辺に主要な墓があることの理由づけ。17世紀の伊野波間切の創設と士族の寄留が一つの墓づくりの特徴を示している。浜元には葬制の変貌を示す過渡期の墓が今も残っている。

・浜元(はまもと)の概況(がいきょう)

 ・浜元はハマムトゥと呼ばれ本部町の字である。
 ・字名は集落が海に面していることに由来する。
 ・浜元は本部高校近くの具志川ウタキ(グシチャーウガン)付近にあった。
 ・1700年代に具志川村の一部が移動して浜元村をつくる(一部は渡久地村へ)。
 ・神行事を行う神人は具志川ノロである。(具志川のろ家跡の確認)
 ・旧暦5月と9月にウフウガンがあり、ウタキまで行ってウガンをする。
 ・浜元の集落はアガリンバーリとニシンバーリに分かれる。
 ・具志川ノロの男方は間切役人をつとめ唐旅をして「土帝君」をもってきて祭っている。
 ・具志川ノロはニシンロウヤから出ていたことがある。今は辺名地の仲村家(カラマヤー)
  から出ている。
  具志川ノロの辞令書が残っている。(浜元にあったノロ家跡と唐帝君)
 ・今帰仁間切と本部間切の番所(役場)をつなぐスクミチが通る。
 ・泊原に集落があり、そこはハルヤーと呼ばれ旧士族の人たちが住んでいる。
 ・旧6月25日の夜に毎年綱引きが南(ペー)と北(ニシ)に分かれて行われる。
 ・むかしはミージナ(メス綱)とヲゥージナ(オス綱)があったが、今では一本綱。
 ・海岸にリュウグウの神を祭ってある祠がある。

 
    ▲浜元の旧公民館               ▲神アサギと並んで殿(トゥン) 

 
   ▲過渡期の墓の様相をみせる      ▲神社化されたが元の配置を残している

2022年11月3日(

 2008年1月奄美大島瀬戸内町加計呂麻島を訪れている。真冬に訪れた理由がわからない。ハブに出会わないため? 苦い体験を思い出した。飛行機の出発を15分遅らせたことがあったような!目的は「神アサギ」の確認であったような。それと私にとって意外な発見が。その発見は最南端の竹富町波照間島と石垣島間に適応してみた記憶がある。加計呂麻島の東方と西方では文化が違うことに気づかされた島である。行政の区分が長く続くと、そこに異なった文化を見ることができる。沖永良部島でも「まきり」(間切)、方、されに和泊町と知名町へと行政が名g九つづくと、それぞれ同時の文化(個性)が造られている。

 加計呂麻島の西方に「古琉球の姿」を遺している印象である。沖永良部島では??

加計呂麻島1
加計呂麻島2(神アシャゲ参照)

奄美瀬戸内町 加計呂麻島 須子茂】(すこも)
 
 須子茂は古琉球の二枚の辞令書(1574年)に登場する村名である。二枚の辞令書で「瀬戸内間切西間切」の「すこむ」とあり、「正保国絵図」では「西間切之内 すこも村」とある。辞令書のタイトルでは「須古茂」と表記されているが、そのように表記された時代があったのか。③の辞令書も須子茂にあった辞令書のようである。三点の辞令書が同家に所蔵されていたのであれば、ノロ家の男方は間切役人を勤めていたことになる。それは今帰仁間切の中城ノロ家に戦前まで12枚の辞令書が残っていて、二枚がノロ辞令書で他の10点は男方(役人)の辞令書である。そのことは、ノロ家の男方は役人を務める人物が出た家筋であることがわかる。

①瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの安堵辞令書(万暦2年:1574年)
②瀬戸内西間切の須古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦2年:1574)

③瀬戸内西間切の西掟職補任辞令書(万暦23年:1595)

③の辞令書
   志よ里の御ミ事
    せんとうちにしまきりの
    にしのおきてハ
    一人いんほし大さちに
   たまわり申候
  志よ里いんほし大さちの方へまいる
 万暦二十三年九月廿二日 
 

▲須子茂分館               ▲須子茂のアシャギ

 
 ▲アシャギの近くにあるイベガナシ          ▲トネヤ


2022年11月2日(水)

 大北墓(按司墓)の内部の調査はされていないが、島袋源一郎先生は明治41年に簡易の調査をしている。銘書の判読と厨子甕の配置を記してある。『沖縄国頭郡志』(大正8年発刊)にその様子が記されている。

 嘉味田家の墓調査を平成12年11月12日に行った。その墓は乾隆15年(1750)頃東風平間切富盛から安里村松尾原に移葬している。嘉味田家は尚真王の四男で越来王子で、今帰仁王子尚威は尚真王の三男で兄弟である。

 大北墓内の石棺や厨子甕の配置が、嘉味田家の墓(下の図)と類似している。(両家とも「家譜」あり)

2009
85日(水)メモ

 『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に以下のように記されている。

   「此墓(運天の大北墓)は元北山城城下なる親川の東方今俗に「ウツリタマヒ」とい
   へる所にありて玉御墓と称せしが墓の天井崩壊せしを以て百数十年前地を運天に
   相し堅牢なる墓所を作り之れに移葬せりといふ」(430頁)

 大北(ウーニシ)墓のあったウツリタマヒの墓地跡を訪ねてみた。19年前にも訪れている。墓の場所は大方知っていたが、再度確認のため足を踏み入れることはしなかった。写真に撮ってあったので崩落の様子は記憶にある。墓跡の内部の様子や周辺については記憶がほとんどない。記憶に留めておいたのは福木の木があったこと、それを目安にすればいいと念をいれていた。あちこち探し回って、見つけることができた。墓の全面が崩壊していたことは写真で何回も見ていたので記憶にある。崖を横に彫り込んだ墓である。

 今回、墓の上部まで上がってみた。すると真上から墓が崩落している。そこは隣の墓だと見ていたのだが、中央部の墓は両側の墓へと内部でつながっているようだ。真上から崩落しているのは隣の墓のようだ(内部でつながっている)。崩壊した土砂の下に、石棺や甕などの一部が残っている可能性がある。墓石に使われていた石が、僅かであるが散見することができる。もう少し、墓内部の様子を調査する必要あり。

 大北墓の石棺に「雍正十一年癸丑三月十六日移」(国頭郡志)とあり、ウツリタマヒから運天の大北墓に移葬したのは1733年とみられる。大北墓の造営は今帰仁按司(王子)十世宣謨である。首里王府へ家譜を申請した頃である。但し、大北墓の拝領願は乾隆26年(1761)である。その時、一族の墓が西原間切末吉村に造ったので、同時に提出したと見られる。大北墓の碑や『具志川家家譜』の「乾隆廿六年辛巳十二月」(1761)は西原間切末吉村の墓と同時に出した拝領願の年とみてよさそう。

 今帰仁按司家(具志川家)同様、士族の墓の修復は家譜の申請と時期を同じくすると見られる。今帰仁按司三世(和賢)の墓の修復は、これより古く康煕17年(1678年)である。

 今帰仁グスクで監守を勤めた今帰仁按司や今帰仁アオリヤエなど、一族は運天に移葬されるまでは、この墓に葬られていたということになる。

「ウツリタマヒ」の墓跡を確認」(『なきじん研究』2号所収:1990年)としてまとめてある。同行した方々(今泊字誌編集委員の上間政春氏、新城繁夫氏、嘉手納典一氏、親川繁氏)、皆さん他界されている。いろいろ力になってくれたことが思い出されます。

 
 ▲今泊のウツリタマヒにある玉御墓の跡 ▲今泊のウツリタマヒの玉墓の跡(崩落) 

 
   墓の上部から見ると落盤している。        真上から丸く落盤している。

 今帰仁城の麓のウツリタマヒから運天の大北墓(按司墓)へ移葬(1761年)された。


  
  運天にある大北墓(1761年に拝領墓となる)  拝領願で出された絵図    大北墓にある碑(再建)

・大北墓の石棺・陶棺・甕の配置図(明治41年)「国頭郡志」より

   

                               ―嘉味田家の墓正面―(石棺や厨子甕の配置図)
2017年5月18日(木)メモ


2022年11月1日(火

 久米島は具志川村と仲里村が合併して久米島町となる。両村合併(平成14年:2002年)前の踏査記録である。(村の表記は当時のまま)
 


①久米具志川グスク

     具志川グスクは久米島町仲村渠(具志川間切仲村渠村)にある。具志川間切具志川村ではなく、同間切仲村渠村の場所にある
ことから、歴史をひも解いてみないと。多くのグスクがその村名や地名と同一である例が多くみられる。そうでないのは何故だろう
かとの疑問。その答えを引き出す方法の一つに歴史をひも解いていく方法がある。

 久米具志川グスクが近世の具志川村の場所ではなく、仲村渠村である。にそこから、具志川グスクの歴史をひも解く面白さが
ある。具志川グスクは動かすことができないので、グスク近くにあった集落が移動していったとの仮説が立てられる。

 古くは具志川村の集落は具志川グスクのすぐ近くにあったはずである。仲村渠村のクシメ原にあるのは何故だろうか。具志川
グスクが造られてた頃、仲村渠村があり、その地にグスクを築いたのであれば仲村渠グスクと名づけられたはずである。少し、文
献資料の整理をしてみる。

 仲村渠は具志川村(行政村)の一部ではなかったか。具志川グスクの周辺に前兼久と後兼久があったと言われ、その地名
が今でも伝えられている。具志川村の中に前兼久・後兼久・仲村渠・上村(上村渠か。仲村渠村の古村?)など複数のマキ、
マキヨ規模の集落があり、それが具志川村となり、さらに分割して仲村渠村の創設となったとみてよさそうである。



③伊敷索城

 

・具志川村嘉手刈小字西新田にあり、チナハグシクと呼ぶ。

・グスクの背後崖下を白瀬川が流れる。

・野面積みの石垣が廻らされている。

・郭があり、基段がある。

・正面の石垣は直線に伸びる。

1415世紀の伊敷索城の城主伊敷索按司は島外から来た人物だという。長男は中城按司として宇江城城(以前の中城城)へ、次男は具志川城へ、三男は登那覇城に配置する。久米島全島を納める。尚真王が派遣した中山軍に中城と具志川の按司は滅ぼされる。伊敷索按司は病死したという(久米具志川旧記)。

・伊敷索城の港は兼城湾と大みなとの良港を抱える。

・「おもろさうし」に「いしけなわ」と謡われる。

・『琉球国由来記』(1713年)に「仲里間切儀間村 いしきなは御嶽」

 とある。

   ・神名:久米ノ世ノ主御イベ

   ・アフライサスカサ御イベ

   ・トヨムスノキミ御イベ

      ・旧暦5・6月のウマチーには儀間ノロ及び神人達が城外

       の祭祀場でウガンを行う。

 

 伊敷索城は嘉手刈にあり、儀間は隣にある(儀間と嘉手刈

   は隣接。しらとう村は儀間の一部。儀間は玉城家(アガリ)

   を中心とした村、しらとう村は白道家を根所とするマキヨ)。

 嘉手刈に伊敷索城がある。嘉手刈の集落は浜にある。


【具志川グスクと具志川村】(グスクと移動集落)(2009年2月4日メモ)

 現在の久米島具志川間切具志川村は、具志川グスクから離れた場所にある。古くは具志川村の集落は具志川グスクのすぐ近くにあったはずである。字仲村渠のクシメ原にある。字具志川は具志川グスクとの間に字仲村渠を挟んでいる。具志川村(集落部分)が、現在地に移動していく過程は、他のグスクでもグスクの機能と集落の移動の関係を見ていく手がかりを与えてくれそうである。

 昭和30年代の具志川グスク一帯の写真をみると、棚田がありグスクが機能していた時代の地形を保っている。それからすると、グスクの手前の斜面に集落があったのではないか。

 ・旧具志川部落(集落)は具志川グスクの南側の窪地(前兼久・後兼久)にあった。
 ・具志川グスクの麓の海岸(大和泊)
 ・『琉球国由来記』(1713年)に「具志川城内御イベ」は具志川村(城内に三つのイベ)(具志川ノロ)
   (仲村渠村はでてこないが仲村渠掟と仲村渠目指は出てくる。1700年代には具志川城は具志川村地内)
 ・仲村渠村は具志川城の東側の米須原に上村渠・仲村渠・前村渠の集落があった。それらが一つ
  になって中村渠村となるか。
    (具志川村だけでなく、仲村渠村も具志川グスクと密接にかかわっていた集落ではないか)
 ・具志川グスクは元はウタキ
 ・グスクは青名崎に造りかける。
 ・按司の入った棺に「正徳元年丙寅」(1506年)とあり。 
 ・築城者は他からきた者
 ・城内に転がっている切石に「天正八年」(1580年?)とある。.
 ・今帰仁按司十世宣謨は乾隆22年(1757)に久米具志川間切総地頭職を賜る。
 ・1750年に具志川集落は「松の口」(現在の字具志川地内)に移動する。
 
  
 
   ▲現在の久米島具志川グスクの様子    ▲昭和30年代の具志川グスクの様子

 
  ▲グスク内にある「天正九年」と掘られた石        ▲修復されている外壁の様子

久米島調査(2009年1月31日)

 2009年1月27日~29日まで久米島調査。調査の目的はノロ関係の勾玉や水晶玉(ガラス)など。久米島自然文化センター寄託品、儀間ノロ関係遺品などの調査報告は別にされる。合間をぬって久米島の何カ所かを訪ねる。

  ①久米島仲地の君南風殿内
  ②久米島具志川グスク跡(仲村渠)
  ③島尻集落と板門墓(島尻)
  ④島尻のウティダ石(島尻)
  ⑤ソナミの烽火台(宇根)
  ⑥上江洲家(西銘)
  ⑦泰山石敢當(1733年)建立(西銘)
  ⑧登武那覇城跡(宇根)
  ⑨具志川間切蔵元跡
  ⑩石塘根(イシトーネ)(嘉手刈)
  ⑪兼城御嶽(兼城)
  ⑫ウティダ石(太陽石)(比屋定)
  ⑬宇江城グスク跡(宇江城)
などなど。

 久米島の君南風については、今帰仁阿応理屋恵同様、三十三君の一人である。ノロ制度は、首里王府がクニを統治する手段の一つだと捉えている。久米島の君南風をクニを統治する手段とする視点でとらえてみたい。久米島には「君南風(チンベー)の配下に①具志川ノロ ②仲地ノロ ③西銘ノロ ④兼城ノロ ⑤儀間ノロ ⑥山城ノロ ⑦比嘉ノロ ⑧宇根ノロ ⑨城ノロ ⑩比屋定ノロの10名のノロがいた。今回勾玉や水晶玉などを入れる櫃の大きさに注目したい。

 「君南風が果たした役割」と、その男方(太氏氏・美済氏・和州氏)と首里王府との関わりについて見ていくことに。首里王府と関わる烽火台や蔵元や湊などを手がかりとする。その手がかりがつかめたらと。

 
   ▲君南風がグスクヌムイをする具志川城跡      ▲海岸側からみた具志川グスク跡

 
        ▲久米島具志川城跡                  ▲グスク登り口のトートー石     

 
    ▲久米島君南風殿内(久米島仲地)    ▲君南風殿内の屋敷にある雨乞い石

 
 ▲島尻のウテゥダ石から東に渡名喜と座間味島が見える。ウテゥダ石(割れ目は東西)

 
  ▲ソナミの烽火台(宇根)から奥武島方面を望む         ▲烽火台の頂上部

久米島具志川グスク(2005.1.29 メモ)


 琉球新報に「球美のグスク展」(久米島自然文化センター)開催の記事がある。期間中に訪れたいと思う。

 入院中に「久米島ゆきノート」を作成していた。「久米島に行くと何故か山原的だなあ」と、なんとなくではあるがそう思う。ノートには「山原的だと奥深く感じるのは、わたし一人なのかもしれない。それは、なんだろう? そのことを体でつかみたいし、島の人たちの眼や声を通して見つけたい。他人の眼を通したら見えるかもしれない。そんな期待がある・・・」と記してある。そのキーワードはグスクだろうか。それとも集落だろうか。グスクと集落との関わりで見ていく。

 以前から久米島の具志川グスク内にある「天正戌□・・・」の石が気になっている。天正(1573~1591年)戌□と刻まれているのは日本年号である。削られた石なので入口あたりに積んであったものであろうか。当時、琉球は中国年号を使うのが常識である。それも大和年号を使っての記載は何を語ろうとしているのだろうか。天正年間に戌□は戌寅(1578年)と戌子(1588年)があり、どちらだろうか。
  
【具志川グスク周辺の地名と集落】
 具志川グスク周辺の小地名を拾ってみる(『久米島の地名と民俗』仲村昌尚著)
 ・具志川グスク(グッチャーグシク)
 ・ナーグシク(中城か)
 ・メーガニク(前兼久)
 ・シリガニク(後兼久)
 ・ジョーンタ(門の田)
 ・ミーフガー(トゥーシともいう)
 ・グッチャーガー(具志川井)
 ・オーナジ(青名崎)
 ・大和泊
    
 このグスクには「具志川間切城主由来之事」(『琉球国由来記』:1713年)があり、具志川グスクについて以下の築城伝説がある。

   具志川グスクのあった場所は、昔は御嶽であった。仲地仁屋がこの所にやってきた。その折、
   真ダブツ按司が青名崎という所にグスクを立てる計画である。石垣を築きかけた頃、仲地仁屋
   が見立てたところ、此地にグスクを立てることは適当である。グスクを普請し成し遂げ移すこと
   になった。その年号は伝わらず。

   具志川城、昔ハ嶽ニテ有ケルニ、仲地ニヤト申者、楫作ニ、彼所ヘ参ケル。其折節、
    真ダフツ按司、青名崎ト申所ニ、城立ノ企ニテ、石垣築キ掛ケル砌、仲地ニヤ、見立
    ニ、此地、城立可然由ニ付、當城普請、成就イタシ、移徒セラレケルトナリ。其年ノ年
    号、不相伝、世話物語有之也。
 
 具志川グスクと関わるムラは具志川ムラであろう。集落の動きを『具志川村史』で整理してみると数回に渡って移転している(現場確認してみたいものである)。
  ①具志川グスクの麓の前兼久・後兼久
  ②具志川グスク落城後(16世紀初め頃)南側の田尻原へ移転(段丘地)
  ③18世紀頃仲村渠村に接した田尻に集居する。
  ④乾隆15(1750)年に松の口原へ移転する。
  ⑤1800年代になって疫病で村人の過半数が病死する。再び仲村渠村の西側へ移転する。
  ⑥狭いので松の口原へ移転するを願いでて明治27年から大正時代にかけて移転する。

【具志川グスクの築城】  
 私は上の具志川グスクについての記録(18世紀初期)に関心を持っている。
  ・グスクの場所は御嶽であった
  ・グスクを築いた人物(集落出身者ではないこと)
  ・グスクの場所の選定
  ・グスクと集落との関わり
  ・グスクは自然発生的に築かれたものではない事例
  ・御嶽と集落は自然発生的な関係にある


 
   ▲久米島の具志川グスク遠景            ▲グスクからみたミーフガーあたり