2016年2月     
              
沖縄の地域調査研究
(もくじ)                                      



2016年2月26日(金)

 大宜味村には各字にマク(マキ)名がある。「わーけーシマの宝物」(新大宜味村史)でまとめられている。かつての村(ムラ)内にマク名が見られる。それは近世以前のムラの形の遺跡、現在の字(アザ)や明治41年以前の村(ムラ:行政村)以前(古琉球)のムラの形を示しているのではないか。古琉球の時代は「まきり」(間切)の境界線はあるが、ムラの境界線は近世の村の境界線は不十分。マク、その周辺の耕作地が古琉球のムラの範囲。

 大宜味村や国頭村で現在でも意識されるマクは、『沖縄の古代部落マキョの研究』で唱えられるマキョやマキュウ、国頭村や大宜味村でいうマクである。古代部落(近世以前の部落)のことである。歴史を描いていく場合、近世の村(ムラ)と古代部落の形を背景にしていく必要がありそうである。マクの意味が何かの議論でストップしているような。国頭村、大宜味村の各字に分布してことは、マク→近世の村(ムラ・シマ)→字(アザ)への変遷から、マクの時代と行政村(ムラ)へ移行したときの要素は。祭祀は変化しにく要素であった。すると土地制度(山原では地割)か?

 ・同一族(血族)の人々だけが居住している場合
 ・数ヶ所の門中(血族)でなしている例
 ・血族の人々の集落

 17世紀の『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』などに登場する村の形と、それ以前のムラの形の違いを描くことができればとの作業である。『琉球国由来記』(1713年)の村の内部にはウタキや祭祀、ノロ管轄など、古琉球のムラを形づけていた要素が引き継がれている。近世の村との違いを解き明かすことが必要である。時々、「祭祀は歴史の変化しにくい部分を担っている」との主張のねらいは、そこにある。(果たして説明はつくか?)

 近世の村の形を作り出したのは、慶長15年の検地であろう。検地の時、土地の持人の名を記したとある。その時の検地で原名をつけている。また村位を定め田畑からの上納の取り高を定めている。それと税の品目なども定め、人々を税の品目や土地にしばりつける制度を敷いている。それが近世の村を形づけている。それ以前と以後では村やムラの形は大きく変わる。その後、二回の増高が行われ、さらに蔡温の元文検地で間切境界、村境、原境界などの検地が行われ、村の境界、原の境界など調査され、近世の村(ムラ)の形が整ったとみられる。それは税のとりたての確保である。

【大宜味村のマク
 【現田嘉里】
  ・クイシンヌマク(屋嘉比村)
  ・アラクイヌマク(親田村)
  ・ユフッパヌマク(見里村)
  ・ウチクイシンヌマク(野国・野国ナー)
  ・フーシンヌマク(潮原)
  ・ハニマンヌマク(福地)
 【現謝名城】

  ・クガニマク(城村)
  ・ユナハマク(根謝銘村)
  ・ユダヌマク(一名代村)
 【現喜如嘉】
  ・クガニマク
 【饒波】
  ・ユアギマク
 【大兼久:旧大宜味村】
  ・ユアギマク
 【旧大宜味村】
  ・ユアギマク
 【根路銘村】
  ・ハニ(金)マク
 【上原:旧根路銘村】
  ・ハニ(金)マク
 【塩屋村】
  ・ユアゲムイ
 【屋古・前田村】
  ・シララムイ
  ・シララダキ(シジャラムイ・シジャラダキ
 【田港村】
  ・スクムイ・スクダキ
 【現押川、塩屋村から分離】
  ・スクムイ、スクダキ
 【現大保、旧田港から分離】
  ・サンマク
 【現白浜:渡野喜屋村】
  ・ユラヌウラマク
 【現宮城・津波村の一部】
  ・アラムイ
 【津波村】
  ・アラハブヌマク

       ▲大宜味のマクの分布図(想定)

【国頭村のマク】
 ・浜 ユアゲマク  ・比地 マツガネマク ・奥間 カネマンマク ・辺土名 イチフクノマク
 ・宇良 スウトクマク ・与那 チャンチャンノユアゲモリノマク  ・謝敷 チイルサカルマク
 ・佐手 コウボウマク  ・辺野喜 チャンチャンノクイジマク    ・宇嘉 ニシムイニダケノマク  
 ・辺戸 アシモト(アシモリ)ノマク ・奥 ヌアグニウウブシルウジョウノ前マク  ・楚洲 オウジマク 
 ・安田 アダカモリマク  ・安波 オウジマク


2016225日(木)

 午前中、兼次小の3年生(29名)やってきました。鍬(三つ歯、平ぐわ、ツルハシ、ミミチチブ(耳つぼ)、みのがさを中心に。道具ひとつひとつの名前や使い方、スケッチ、そして発表まで。ひとりひとりのスケッチと説明文、ひとこと感想を入れた道具。ひとりひとり異なった道具を分担して30人×3項目とすると、短期間でクラスの身近な道具辞典ができる。その試みでやっいくと、その成果成で大きく成長するのだが。(それは歴史文化センターの夢)

 辞典になるようなスケッチや感想を報告してくれました。道具の名前の方言がでてくると、足が地についた今帰仁人(ナキジンチュ)になっていました。ありがとうさん。

 

 

 今帰仁村歴史文化センターに大阪在住の那覇士族の仲宗根宗新氏(昭和8年)より寄贈された辞令書を紹介。寄贈されました仲宗根宗新氏一族が歴史文化センターを訪れます。辞令書の修復ができ、ここで展示し一般に公開します。仲宗根宗新氏には心からお礼と感謝申しあげます。




   首里之御詔
   今帰仁間切仲宗根  
   里主所者黎氏嫡子
   平良筑登之親雲上宗睦
   給之
 
  咸豊十一年辛酉十月十日

 この辞令書は咸豊十一年((八六一)十月十日に首里王府から黎氏嫡子平良筑登之親雲上宗睦に、今帰仁間切仲宗根里主所を給わったものである。黎氏は那覇士族で名乗頭は「宗」をもつ。辞令書を給わった平良筑親雲上も宗睦である。

 今帰仁間切仲宗根村には『首里・那覇に住む(脇)地頭の領地(里主所・所得地・田畑)が置かれていた。地頭になった時、今帰仁間切仲宗根村にあった里主所を給わったことを示すものである。

 仲宗根里主所を給わったとき宗睦は平良筑登之親雲上であるが、(脇)地頭になったことで平良姓から仲宗根姓となり、一族が仲宗根姓を名乗るようになったのは、辞令書が示す通りである。

 

 一枚の辞令書から、脇地頭が今帰仁間切の仲宗根の地を給わったことを手がかりに首里・那覇との関わりや歴史の一面を垣間見ることができる。

「辞令書」の寄贈は、大阪府八尾市在住の仲宗根宗新氏(昭和8年生)

 仲宗根家では「黎氏世系図」や「黎氏平良家」など関連する資料でもって、系図を作成され、一族の歴史が子々孫々へ伝えられ、継承されていくであろう。寄贈をうけた歴史文化センターでは、辞令書をとおして「仲宗根村にあった領地(里主所・(所得地・田畑)が見つける、あるいは伝承地がないか、耳を傾けてみたい。



今帰仁間切の脇地頭は、以下の9名である。上の平良筑登之親雲上は仲宗根村脇地頭を賜ったときに、平良姓から仲宗根姓にした例である。謝名村の脇地頭を賜った平田親雲上の場合は、謝名村を平田村とした場合もある。今帰仁間切の按司地頭は今帰仁按司、総地頭は福久山 である。
  ・謝名村・平田親雲上
  ・中城村・仲尾次親雲上
  ・運天村・運天親雲上
  ・上運天村・上運天親雲上
  ・岸本村・岸本親雲上
・ ・崎山村・崎山親雲上
  ・平敷村・平敷親雲上
  ・仲宗根村・仲宗根親雲上
  ・勢理客村・豊村親雲上


※旧地頭は廃藩と共にその職廃止され、その所得地に代へ明治13年金録を下賜せられたるを以って、
 旧地頭は地頭地の所領を離れたるも、当時同地に付き別に処分あらざるより、その際の耕作者継続して
 所持することとなり。爾来今日に至る迄尚ほ旧地頭に於いて自作し、質取り主は拾掛り主において耕作す
 るものあるに至れり。

 


2016224日(水)

 先週授業(210日のクラス:22名))を行った天底小の生徒達、22名からおたよりがとどきました。ふしぎに思ったこと、びっくりしたこと。妹とおにいさんとで、おもいものをかついだとき、やさしいか、いじわるがわかったとか。せんごのヤカンがジュラルミンでできていること。石油ランプにガソリンをいれるとおぶないこと。

 サギジョウキ(つるしカゴ)のやくわりなどなど。多くのことにきづかされたようだ。じぶんたちがすんでいるところや、身近なものから知恵ややさしいこころを学ぶといいですよ。電気がなかった頃と今とを比べての感想。むかしの大切なものは、大事にひろっていきましょう。








2016223日(火)

 
田村浩著の『琉球共産村落之研究』(昭和2年発行)に「竿入帳と名寄帳」の基帳から土地の種類を37揚げてある。例えば、百姓地・浮掛地・叶掛地・地頭地・地頭自作地・地頭拾掛地などである。その他に地頭質入地・オエカ地・根神地・ノロクモイ地・仕明地・請地・屋敷地・墳墓地・山野などである。

 山野には百姓地山野・仕明山野・浜山野・山林など7つある。杣山に籔山・仕立敷・御物松山・・唐竹山・間切保護山・仲山の七つある。やっとたどりついた「仲山」についてである。そこに「仲山」として「国頭郡大宜味間切ノミニアル地ニシテ居住人ノ耕作地を保護スル為山野ヨリ仕立テタルモノナリ。杣山同様ノ性質ヲ有シ、其ノ保管並ビニ其ノ地杣山ト同ジ。外ニ村山里山ノ称アルモ村ニアル山林ヲ仲山トイフモノニシテ種類ニ於イテ別段異ナルモノナキガ如シ」と説明されている。


 大宜味村塩屋に「中之山公園」があり、忠魂碑がある(大宜味村には二つ忠魂碑があることも気になっている)。そこは塩屋のウタキ(御嶽)である。小字からすると「大川」である。なぜ、そこが中之山なのか、山の種類の中に「仲山」があることで、その疑問が解けたような気がしている。大宜味村の一つの忠魂碑が、塩屋にあるのは番所があったからだろうと推測してきた。そのことについては、以前に言及したことがある。しかし「仲山」や「中之山公園」と呼ばれる理由が、小字名でもなくウタキでもなく、杣山の一つの「仲山」であったことに気付き、それは、私にとって大発見である。名護市の中山もそうかもしれない。(そこは杣山の払い下げで朝武士山(国頭郡長)と呼ばれている)。

  
      ▲大宜味村塩屋の中之山公園にある忠魂碑(塩屋の中之山拝所は塩屋のウタキである)

以前に記した塩屋のウタキや忠魂碑(霊魂の塔)などのメモを紹介。(杣山に仲山があり、書き改めるところがあるが、
  そのままとする)、

塩 屋

 『琉球国由来記』(1713年)に塩屋村の御嶽は「ヨリアゲ嶽」と出てくる。現在の中之山公園」である。大正12年に竣工した碑(セメント)に「當拝所ハ狭隘ニシテ腐朽甚ダシキニヨリ改築移転ノ計ニ定メ大正十一年十一月二十八日在郷軍人塩屋班員起工ヲ手始ニ戸主青年会青年団婦女会処女会各員一致協力ト有志ノ後援ニヨリ六十有余日ノ日子ヲ費シ大正十二年一月二十八日竣工 塩屋中之山拝所 中之山公園」とある。

 それは御嶽のイベを祠にし、御嶽そのものを中之山公園にしたものである。イベまでを階段にし、八合目あたりからイベ、さらに頂上部まで桜が植樹してある。

 
   ▲塩屋湾に突き出たハーミジョウ         ▲塩屋の御嶽(イベ)へイベの祠

 
    ▲鳥居のある拝所            ▲塩づくりの拝所       

 
  ▲ハーミジョウから眺めた塩屋の御嶽      ▲塩屋御嶽に対峙したハーミジョウ



▲ハーミジョウから学校(番所跡)を眺める

大宜味村の霊魂之塔について2002116メモ

 大宜味の「霊魂之塔」(戦後の建立)は前から気にしていた塔である。というのは、塔の石は今帰仁村運天にある「源為朝公上陸之跡」の碑と同質の花崗岩である。明治7年国頭間切の宜名真沖で座礁したイギリス商船の船底に敷いたバラストだという。座礁したイギリス船員の墓地が宜名真にありオランダ墓と呼んでいる。霊魂之塔の向かって右横に「大正十年十一月大宜味村立之」とあり、忠魂碑建立の年である。裏面はセメントが塗られ「忠魂碑」の文字が刻まれていた跡がある。

 大正十一年に忠魂碑が建立され同年十二月十三日に忠魂碑の除幕式を行っている。向って左横に「元帥公爵山縣有朋」(下線部は埋まっている)とあり、揮毫は山形有朋である。因みに源為朝上陸之跡碑は元帥東郷平八郎である。その忠魂碑を利用して「霊魂之塔」を建立(戦後)してあるが、「忠魂碑」を再利用して「霊魂之塔」を。どんな議論がなされたのだろうか?

 そのことは、本部町と名護市(旧羽地村)の忠魂碑の揮毫者部分が、同じように削られている。その側に戦後慰霊塔が建立されている。今帰仁村の場合は忠魂碑そのものが失われ、「チュウコンヒ(忠魂碑)」の地名と残り、そこに慰霊塔がある。今帰仁村の忠魂碑はどなたの揮毫か不明であるが、元帥東郷平八郎の可能性がある。(元帥東郷平八郎揮毛の碑が「北山今帰仁城址」の碑と「源為朝公上陸之址」碑がある)



 大宜味村の塩屋の中山公園にも忠魂碑がある。それは塩屋に役場があったことからか。塩屋の忠魂碑の建立は、拝所の建立(ウタキを神社化)と連動しているようだ。ちょうどその頃、塩屋にあった役場が大兼久に移動したことである。(資料の確認が必要)

 
  

 
「塩屋中山之山拝所」の祠の向って左側の碑の裏面に以下のように記してある。
      記

  當拝所ハ狭隘ニシテ腐朽甚ダシキニヨリ改築拡張ノ計
  ニ定メ大正十一年十一月二十八日在郷軍人塩屋班員ノ起工ヲ手始メニ
  戸主青年会各員青年団婦女会処女会各員ノ一致協力ト有志ノ
  後援ニヨリ六十有余日ノ日子ヲ費ヤシ
  大正十二年一月二十八日竣工
   塩屋中山之山拝所
   中之山公園
      区長 宮城秀吉書ス


2016220日(土)

 「2002年の動き」を振り返ってみると、興味深いことをいくつも書き留めてある。その頃は運天港についてまとめるために各地を踏査している。北山(今帰仁)の歴史や運天港の歴史、そして大宜味のムラムラの歴史をまとめている。以前(10年前)に書き記したのを思い出すために。

2002.1.4(金)の動きより

  今年の歴文センターは、どんな動きをするのか。しばらくは、一つひとつ積み上げていく作業になるかと思います。昨年暮れに予告してありましたシリーズものは、これまで博物館づくりや企画展の調査で、あるいは研修会などで訪れた各地での調査記録ノートを公にしていくものです。すでに公にしたものもありますが、過去のメモ書きのノートを整理する形でまとめていきます(結構なボリュームになりそう。月に2本程度)。

 現在進行している調査ものは、この「動き」で報告する形になります。その時、その時のメモやノートから歴文センターが何を考え、何を目指しているのか。さらに将来に向けて、公の財産として何を引き継いでいこうとしているのか。渦中の中から飛び出して第三者的に見ていければと思います。

 さて、1230日から元旦にかけて長崎・福岡を訪れた。家族全員揃っての旅は久しぶりである。ここでは歴文に関わる部分について、福岡・長崎の順で一部報告することにする。福岡では「蒙古(元寇)襲来の痕跡」、そして長崎訪問は琉球側にオランダ墓(1846年)と呼ばれている仏人の墓があり、その当時屋我地島と古宇利島を出島にする計画があった(実現しなかったが)。琉球にあるウタンダー(墓)や出島計画を「長崎の出島」を通して見ていきたい。

■博多(福岡県)を訪ねる

 198712月(15年前)に福岡県(特に北九州)を訪ねている。その時、10軒余の博物館などの施設を訪ねている。それは「福岡県内の博物館・資料館視察から」(上・下)として報告している(広報なきじん147148号)。その前書きで「今回の視察の主な目的は、これまで積み重ねてきた(仮)歴史資料館設立準備委員会の調査研究を踏まえ、さらに県外の博物館や資料館を視察することで、広い視野から今帰仁村の今帰仁らしい特徴ある歴史資料館の建設に向けて反映」させたい。さらに「活動する・活動している資料館」を目指している(歴史資料館は現在の歴史文化センターのことである)。15年前の福岡ゆきは、資料館(現在の歴史文化センター)づくりのためであった。歴文センターは開館して足掛け8年目をむかえるが、どうだろうか。

■蒙古(元寇)襲来の痕跡

 今回の福岡県を訪れた目的の一つに蒙古襲来(元寇)の痕跡を確認しておきたかった。文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の痕跡である。というのは、時代は違うが1609年に「琉球国」が薩摩軍の侵攻にあった時の琉球国側の対応があまりにも貧弱すぎる。国力や武力などの大差があったにしろ、琉球国の国情を知る手がかりになりはしないだろうか。そんな思いで福岡市博多区の東公園の一角にある「元寇史料館」を訪ねた。明治37年に「元寇記念館」として遺品が陳列されたようである。昭和61年に新たに「元寇史料館」(現在)として開館している。開館後の史料館の元寇の調査研究が進んで いるのであろうか。そうであればありがたい。

 薩摩軍の琉球侵攻との比較研究をしていくために長崎県の「鷹島町立歴史民俗資料館」まで足をのばしたかったが、その願いは、今回果たせなかった。弘安の役(1281年)の主戦場が鷹島で、近年周辺の海底から見つかった元軍の遺品の数々が展示されているという。元軍が遺していった石の砲弾や石臼、元船の大きなイカリなどなど。それらの展示物から元の兵力の規模、当時の日本の兵力、そして時代は下るが琉球の兵力の規模。その違いが体感できたにちがいない。薩摩軍の兵力、そして琉球国の兵力や国情などを視野に入れながら「薩摩軍の琉球侵攻」をみ、さらに今帰仁間切における薩摩軍の「今きじんの焼きうち」など、もう少し踏み込んで考える手がかりしていきたい。

【上杉県令日誌】(1216日動きより) 
 明治141128日(午後140分)上杉県令の一行は屋我地島(済井出か運天原あたり)から舟で運天港にある今帰仁番所と首里警察分署の前の海岸に到着するが、番所と分署に立ち寄らず集落を抜けて坂道をいく。一つの洞窟があり、そこに鍛冶屋が設けられている。フイゴを据え、カナドコも置いてあるが人の気配がない。

 道は曲折盤回して登る。山の中腹に奥深い洞があり、白骨の髑髏があり、洞の中に堆積している。あるいは腐朽している。鎧櫃の中にあるのもある。地元の人は「百按司墓」と言っている。今では弔いや祭もされず、精魂はどこあるのだろうか。この髑髏は今より(明治14年)468年前に中山王の尚思紹が兵を起こし、北山王攀安知を滅ぼした時、北山の士が戦死した屍とも、あるは今から(明治14年)273年前、薩摩の島津義久、樺山久高を大将として琉球を攻めたときの戦死者の髑髏とも伝えられている。

 はっきりとした文献がまだないので両説のいずれが是なのかはっきりしない。近年本(県)庁では百按司の遺屍を埋める議論があるようだ。

 百按司墓から今帰仁分署に至る。門は南西に向いカジマルの木が陰をなし、四、五百年前のもの。傍らにはりっぱな福木がしげり、港の入口には日本型の船が二艘碇泊している。

【その後の様子】

 運天は日常的に訪れる地であるが、1220日の午前中、日本航空の写真撮影の案内があったので同行した。その時に番所(分署)跡から百按司墓まで散歩してみた。

 今では首里警察分署があった場所がどこか確認できていないが、番所内に置かれたようである。この首里警察分署は明治13622日に羽地分署を運天の番所に移し今帰仁分署とし森寿蔵が分署長心得となった。所管は羽地・名護・今帰仁・本部・久志・大宜味・伊江・伊平屋・鳥島の広範囲に及ぶ。鳥島は明治1410月に那覇署の管轄となる。明治151月に今帰仁分署は名護大兼久移し名護分署となる(『今帰仁村史』)。

 今帰仁番所は運天港の近くの福木の大木が数本ある場所である。運天に今帰仁番所が置かれたのはいつかはっきりしない。伊野波(本部)間切が分割した時には運天に番所があったとみていい(それ以前から運天にあった可能性もある)。番所が警察分署と同じ建物であれば、明治14年には門が南西に向かいガジマルの木が陰をなしていた様子が記されている。また現在ある福木がりっぱに繁り、当時の様子が浮かんでくる。

 集落の中を通り、現在のトンネル近くに出たのであろう。その近くに鍛冶屋をした跡と見られる洞窟が今でも残っている。その洞窟は物入れに使われている。所々に焼けた跡や鍛冶屋があった雰囲気が今でも漂っている。鍛冶屋跡から登る道は現在遊歩道として整備されているが、草ぼうぼうである。大正13年に建てられた源為朝公上陸之跡碑にたどり着く。

 さらに行って百按司墓を訪れている。半洞窟に白骨の髑髏がたくさんあり、鎧櫃に人骨が堆積している様子が記している。人骨の多さから北山が滅ぼされた時の戦死者の屍であるとか、薩摩軍が琉球を攻めた時のものであろうとか議論があるが、まだどっちとも言いがたいとしている。

 本(県)庁で百按司の遺屍を埋める義ありと聞くとあるが、それは明治158月に「白骨埋エイ之儀ニ付伺」を太政大臣宛に伺っているが、それは県庁費の中から流用支弁するべしと判断が下されている。明治21年頃に百按司墓は第一墓所から三墓所まで石垣が積まれ現在に至っている。

 運天港周辺の集落はムラウチと呼ばれている。古宇利島への発着場所にはコバテイシの大木があり、またムラウチには大川や神アサギや地頭火神の祠などがある。また、東がわの森の麓に今帰仁(北山)監守を勤めた今帰仁按司とその一族を葬った大北墓、それと大和人の墓塔二基もある。 

200215日(土)の動きより

 長崎県は二度目である。4年前だと記憶しているが定かではない。その時は長崎市内から平戸市(平戸市切支丹資料館・オランダ商館跡など)まで足を延ばした。今回はハウステンボスと長崎市内が中心。

 ハウステンボスや長崎の出島を散策していると、司馬遼太郎の「街道をゆく」(オランダ紀行や肥前の諸々街道)の視点がかぶさってくる。「日本が鎖国していた間、清国(中国)とオランダの商船が長崎での通商が許されていた。日本国じゅうが暗箱の中に入って、針で突いたような穴が、長崎だけあいていた。そこから入るかすかな外光が、世界だった。」(「オランダ紀行」) その後に展開するオランダをみていく歴史の視点には、何度も身震いしたことが昨今のように思い出される。

 暗箱に射し込んだ光が、まさにオランダだったわけである。200年近い歳月射し込んだ光が明治の文明化へ展開し、また琉球で西洋人をオランダーと呼んでいることにつながっている。

 もう一つ「国土」についてである。「オランダ人のやり方は、単に自然を破壊し征服することによって国土を築いたわけではなかった。干拓地や堤防を見ても、日本のそれらのようにコンクリートで固め尽くすという情景は見られない。大地の上にはふんだんに緑があふれ、牛や馬が群居して草を食んでいる。この光景を目にするだけで、オランダという国が自然と敵対せずに、むしろ自然とうまく折り合い、自然を大切にしながら発達してきたということがわかる」(NHKスペッシャル「オランダ紀行」)。干拓という国土づくりのオランダをみると、歴史は未来を展望する指針となる学問だと実感させられる。現在、沖縄県でも各地で埋め立てをしている(あるいは計画がある)が、百年あるいは二百年後の国土がどうなっているのか、どのような国土をつくっていくのか。その認識が欠落しているのではないか。国土が投機の対象になっているかどうかの違いがあったにしろである。自然との折り合いについてもしかりである。

 「運天港や屋我島、古宇利島の出島計画」。それは18466月フランス艦船サビーヌ号、クレオパトール号、ビクトリューズ号が運天港に入港したことに始まる。三隻の艦船は約一ヶ月運天港に滞在し首里王府と交易の交渉をするが、目的を達することなく長崎に向かって去っていった。翌1847年薩摩の在番奉行が今帰仁間切にきて屋我地島と古宇利島の地形や水深などの実施検分を行っている。その目的は運天港を貿易港にして古宇利島と屋我地島を出島する準備であったという。滞在している間に二人のフランス人の乗組員がなくなっている。その二人を葬った墓がオランダ墓と呼んでいる。

 ここで長崎の「出島」について述べないが、運天港・オランダ墓、そして古宇利島と屋我地島の出島計画。それらのキーワードを通して歴史を紐解くと同時に将来に向けてどう取り組んでいく必要があるのか。長崎・オランダ、そして琉球という枠で考えさせられる旅であった。(詳細については『なきじん研究11』の運天港部分)

【大宜味をゆく】より2002.1.16(水)

 15日(火)大宜味村の北寄りの根路銘・大宜味・大兼久・謝名城をゆく。拘束されずの調査は楽しいものがある。天気は曇。ときどき小雨。11時頃から国道58号線を北上する。大宜味村の安根(アンネ)のバス停に車を止め、今帰仁からの道筋を振り返ってみた。安根から名護方面を見て、まず左手に大宜味村の山、旧羽地、そして名護の山が幾重にと重なって見える。名護の市街地から伊差川に至る部分は低く平らとなっている。そこから右手に本部半島が伸びる。しばらく台地状の地形となっている。嵐山一帯である。嵐山の丘陵地の後方に嘉津宇岳と八重岳が一段と高くみえる。再び低い丘陵地があり、その右手に本部半島の満名川を挟んで本部町の今帰仁よりの山々と今帰仁村のパサンチヂやタキンチヂ・乙羽山の山並みへとつづく。さらに右側にいくとクボウの御嶽と馬鞍山(マンクラヤマ)の山並みが識別できる。クボウの御嶽の手前に今帰仁グスク、そして歴史文化センターがある。さらに右手に目をやると運天、手前の屋我地島の島がある。そして運古海峡(古宇利大橋の架設中)、古宇利島へと続く(写真の方が一目瞭然だが)。

 さて、長くなったがその風景は国頭や大宜味の人達にとって今帰仁グスクがどう写るのか。国頭地方の人々の内面やその言葉にある時代を映していやしないだろうか。時々、そんなことを考えながら北のムラへ足を運ぶ。「沖縄の歴史」の三山鼎立時代の話をするのだが、具体的に今帰仁グスクを拠点にした1215世紀の北山(山北)王が国頭や羽地、名護、金武地方をどのように支配し統治していたのか。まだ、その姿が見えてこないのである。もし、国頭や羽地地方のムラやグスクが今帰仁グスクの北山王に物を献上したり、貢租を納めていたのか。あるいは今帰仁グスクへの勤めがあったのか。そういうことがあったとしたら国頭地方の役人(?)や人々は、今帰仁グスクへの勤めを果たしての帰路、大宜味の安根あたりから今帰仁グスクをあたりを振り向きながら、役目を果たして満足感を味わっていたのか、それとも重い貢租や暴君などに怒りや涙していたのか。

 普段、今帰仁グスクのすぐ側で業務していると、三山鼎立時代の今帰仁以外の人々の動きや今帰仁グスクをみる視点がどういうものであったのか気になるところである。そういうこともあって、大宜味や国頭地方へと調査の足を向けているのである。

 神アサギの調査は別に報告するので、大宜味村大宜味の「霊魂之塔」と「根謝銘グスク」について報告することにする。

 大宜味の「霊魂之塔」(戦後の建立)は前から気にしていた塔である。というのは、塔の石は今帰仁村運天にある「源為朝公上陸之跡」の碑と同質の花崗岩である。明治7年国頭間切の宜名真沖で座礁したイギリス商船の船底に敷いたバラストだという。座礁したイギリス船員の墓地が宜名真にありオランダ墓と呼んでいる。霊魂之塔の向かって右横に「大正十年十一月大宜味村立之」とあり、忠魂碑建立の年である。裏面はセメントが塗られ「忠魂碑」の文字が刻まれていた跡がある。大正十一年に忠魂碑が建立され同年十二月十三日に忠魂碑の除幕式を行っている。向って左横に「元帥公爵山縣有朋」(下線部は埋まっている)とあり、揮毫は山形有朋である。因みに源為朝上陸之跡碑は元帥東郷平八郎である。その忠魂碑を利用して「霊魂之塔」を建立(戦後)してあるが、「忠魂碑」を再利用して「霊魂之塔」を。どんな議論がなされたのだろうか?


2002117日(木)動きより

 (前日から続)大宜味村の役場のある大兼久から喜如嘉を通り、急ぎで謝名城へと車を走らせた。途中、国道沿いの芭蕉畑でウーハギ(荢剥ぎ)をしていた。剥いだウーを束ねたのが所々に置いてある。ウーを剥ぎ取る時期なのだろうか。夏場ウーを剥いでいる場面に立ち会ったことがあるので、必ずしもウーハギの時期は決まっているわけでもないのかもしれない。冬場が質のいい糸がとれるのかもしれない。そんな勝手なことを思い浮かべながら喜如嘉の集落を抜けて謝名城へと向った。

 かつての一名代と根謝銘もゆっくりと歩いてみたいのだが、天気と夕暮れの時間もあって根謝銘グスクへと急いだ。根謝銘グスクは大宜味村謝名城にある。根謝銘グスクは国頭地方(後の間切)の中心となったグスクである。謝名城は明治36年に根謝銘・一名代・城の三つの村から一字づつとって名付けた字名である。

 まず、ヌンドゥンチ(ノロ家)を訪ねた。とは言っても無人の建物である。各地から訪ねてくる人がいるのであろうか、お賽銭箱や芳名録が置いてあり、火神を祀ってある壁に親切に「のろ御神」と張り紙がしてある。

 根神人をなさっていた大城茂子さんが元気な頃、ヌンドゥンチで二、三度お会いしたことがある。また、歴史文化センターにも来館されたことが思い出された。ヌンドゥンチの側に「奉寄進」と彫られた香炉(二基)が置いてある。年号と寄進した人の名もある。しかし磨耗しているため判読しにくい。確か、その年号は『球陽』の記事と一致した人物と年号だったように記憶している。二、三の香炉の年号と『球陽』の記事と一致しているため「奉寄進」の香炉は旅をするときに御嶽などの拝所に寄進し、航海(旅)の安全を祈願したのではないか。帰ってきたら、無事に帰国できたことへの感謝で寄進したにちがいないと考えるようなった。その発想を授かった香炉であるため、いつも感謝している。

 
ヌンドゥンチから細い道を通り、根謝銘グスクへ登った。途中に「ゑ くすく原」の原石があったが、二、三年前からその場所からなくなっている。(どこかに保管してあればいいのだが......)しばらく行くとコンクリートの祠がある。内部は二分され火神が祀られている。コンクリートの壁に「トンチニーズ」と「ウドンニーズ」とある。また「一九五二年八月改築」とある。そこから喜如嘉の集落とかつての水田地帯、その向うに大兼久の海岸が見通せる場所である。海神祭のとき、この場所から喜如嘉の海岸に向って両手をあげて御願(神送り?)をする場所でもある。

 さらにグスクの中心部への急な坂道を登っていくと神アサギへたどり着く。グスク内にある神アサギの一つである。山原には根謝銘グスクをはじめ、親川グスク(羽地)・名護グスク、そして今帰仁グスクなど代表的なグスクのいずれにもグスク内部に神アサギがある(あった)。それは神アサギやグスクを考える重要なキーワードの一つである。山原の村々の神アサギを追いかけている目的はそこにある。さらにグスクで行われている祭祀から国家成立後、国家成立以前について考える手がかりとなる(そのことについては別に述べる)。 

 さて、グスクや神アサギについては深く述べないが、根謝銘グスクは歴史文化センターの根幹に関わる考え方を生み出した場所である。「現在の祭祀や出来事を記録していくこと、その記録は歴史史料になりうる」ということ。「学問は物事をひもといていく目的ではなく、手段である」ということへつながっていくスタートの場所である。根謝銘グスクを訪れるたびに調査研究の原点に引き戻される。

 もう17年前なるだろうか。初めて謝名城の海神祭へ誘われた。調査や研究をするというものではなかった。当時、歴史を中心にまとめていたので自分自身の中で民俗学とは一線を画していた。そのため海神祭の参与観察記録をしようなど全く考えていなかったし、感心もなかったように思う。海神祭の祭祀を見学したのであるが、全く意味を解していなかったし、多分記録もとっていないであろう。根謝銘グスクでの祭祀を見学し、全く理解できなかったことがずっと頭にこびりついていた。そのことが平成元年四月からスタートした資料館(博物館)づくりへと連動していく。そのころまとめたのが「古宇利の海神祭―歴史的な視点から―」(1990年)、「今帰仁村今泊の海神祭」(1991年)である。

 17年前の根謝銘グスクでの海神祭(ウンガミ)の体験が後々の歴史文化センターの柱となる考え方や方針へと結びついていった。この頃、よく知る人は「そんなに急いで.....」と言ってくれる。有り難い言葉である。これまでいただいたものは、その地(ムラ)に人に一つ一つ返していく作業である。返すどころか、それ以上にいただくものが多い.....


2016217日(水)

 30年前に「北山の歴史」と「運天港の歴史」についてまとめたことがある。そこだけに没頭することができずにきた。「北山(今帰仁)」や「運天港(津)」と関わる記事を目にしたら、コツコツと集めていくことにする。

【康熙40年辛巳、今帰仁間切先年より旱災の憂いありて人民漸く衰え缺貢甚多し】
 鳳彩惣地頭向氏今帰仁親雲上朝哲と與に此の事を議禀す。・・・・鳳彩等に論し今帰仁は首里を離るる事甚だ遠し。親しく彼地に至り然して事済すべし。又運天在番を奏乞す。・・・(向姓家譜 大宗韶威)。

【康熙49年庚寅七月、今帰仁間切運天村に在りて貢船造葺のため奉行職に任ず】(向氏家譜 一世朝春)
 本年十月、華人船今帰仁間切運天港に漂到し調理の事のため、横目稲津源左衛門殿、御付衆名越與右衛門殿、御双紙庫毛氏友寄親雲上安乗、正議大夫弘良大嶺親雲上と倶に彼地に赴き輪流して公務を励む。勤職方竣り本月二十七日回家す。

【康熙49年辛卯の冬福州商船一隻今帰仁間切運天に漂到す】(1711年)(郭姓家譜 三世正親)
 検見として御横目伊集院市佐衛衛門殿、大和横目栢氏平安山親雲上良次、運天に在り。壬辰春、栢氏病ありて暇を告ぐ。此に就き二月五日正信栢氏に代り運天に到る。十五日御鎖之側向氏石嶺親雲上朝理、通事高良親雲上蔡文河と同に飄船開洋して二十六日帰宅す。

【康熙50年辛卯七月、唐船破損検見となり鳥島に到る】1712年)
 是より先丑年帰船伊平屋島に於いて破損し其の貨物或るは鳥島に漂至す。此れに依り高奉行毛氏伊豆見親雲上安重小船二隻に乗りて辛卯七月那覇を開船して、国頭に到り阻風し、三十日与論島に到り又阻風し、九月四日沖永良部島に到り又阻風す。十月三日帰船して四日鳥島にい到る。即日村中を改めたるも別状なし。六日出船し八日那覇入津す。


2016217日(水)

 大宜味村の近世の杣山やムラ、そして小地名などを読み取っていくのには地形図に境界線を入れていく必要がある。各ムラの形を見ていくの、どうしても地形図に字(ムラ)境、ムラ内の小字、さらには小地名のポイントを落としていく作業がなければならない。境界線を落とす作業をしてみた。このムラや小字の境界線を入れることで、地形図からムラの形が描けそうである。土台ができたので、文章化していく作業にはいる。そして150の小字図の地形図〔2600分の1)を手に足が地についた踏査がはじまる。昨日から来客がつづき、やっと完成。

  


2016216日(火)

 『那覇市史』(近世那覇関係資料 資料篇 第1巻9)に「産物方日記」(道光30年)と「異国日記」(同年)が収録されている。まずは、登場する産物をあげてみる。進上物や御用物、唐物21種と出ているが、その中身については記されていない。当時としては、それぞれの目的に合わせた品々があったのであろう。馬場での件bつの

 ・正婦 ・百田紙(ももたかみ) ・はせふ紙 ・綿紙 ・達摩墨 ・高野墨 ・三之筆 ・鬱金 
 ・海人草(かいにんそう)  ・牛馬皮 ・煮海鼠干鮑 ・昆布 ・赤島芭蕉 ・絺桐板斉 ・太平布・

 鬱金についてのやり取りがあるので一部紹介。
    鬱金方就御用、来る十七日未明出立、恩納差入に而鬱金作場之間切江右人数被差越候
    間、右之通人夫手当可有之候、以上
           戌正月十日                 琉球産物方掛寄
                                         松本十兵衛
       親見世

「日記」(玉城親雲上)(道光9年~翌10年)

 【お奉行様の潟原馬場見物の時】
 ・お茶菓子  ・吸い物 ・焼酎 ・白砂糖  ・肴  ・散砂糖 ・白米 ・小ゑひ ・白干いか ・小てんふら
 ・いりこ ・染川茸 ・房海月 ・氷砂糖 ・小串焼しし ・桜タイ ・あけしらず ・貫花生 ・地漬大根 ・玉子
 
 【垣花馬場での見物の時の献立】
  ・かまぼこ ・焼とり ・舞たけ ・てんぷらたい ・ささゐ ・所天酢入
 鉢(湯引屋久貝 生姜酢) 椀(味噌煮たい 水山枡)
    数々の品あり

 行事ことの品々(略)


2016212日(金)

 今帰仁小32組の「むかしの生活」の勉強です。ハガマと斧と角ランプをつかって。ハガマ(ジュラルミン)の釜でおいいしごはんを炊いてみましょう。ハガマの形、支え部分(スカート)、重めの鍋蓋、火の回転。斧(ウーヌ)はまさかりと異なり角がついています。その角部分はどんな役割を果たしているのかな? 角ランプ、今の懐中電灯。外灯のない時代、道を歩くとき、頭を空に向けて歩いたことがある話。電気のなかったころと今との比較をしながら、そして体感をしてもらう勉強でした。
 一人ひとりの発表から、発見や驚きがきかれました。そのあと、満開中の今帰仁グスク内の満開の桜見学へ。花見の案内はガイドの桜咲かせジジイ(仲嶺さん)にお願いしました。桜も楽しめたかな。ごくろうさんでした。

 
      ▲ハガマを前にスケッチ             ▲斧(ウーヌ)を目前にしてスケッチ

 
                ▲楽しい一人ひとりの発表です


2016210日(水)

午前中、天底小学校から3年生が「道具とむかしの生活」をテーマでやってきました。今日使う道具は、アイロン、サギジョウキ、三本の鍬(クワ)使っての勉強。説明を聞いて書き、そのあとスケッチ、最後に一人ずつ発表。

 足を地につけ、道具からいろいろな発見をしてもらう。同じ道具の話ではあるが、最後の一言に一人ひとりの個性がみえてくる。スケッチや発表をききながら、二、三回つづけると飛躍するのであるが。楽しい勉強でした。

 

 


201629日(火)

 午前中、今帰仁小3年生の道具の勉強。その後、今帰仁グスクの桜見学まで。道具は三つ(ヤカン・サギジョウキ・ランプ)。話を聞き、書き留め、スケッチをし、そして一人ひとりがスケッチを見ながら発表。道具を通して、工夫や知恵を学ぶ。一人ひとり、電気があった時代、むかしの食べ物の保存と今の冷蔵庫。明かりとりのランプと蛍光。便利さをもののない頃の違いなどの感想を発表してくれました。とてもいい発表でした。頑張りました。

 
      ▲丁寧にスケッチ               ▲道具をみながらスケッチ

 
       ▲一人ひとりの発表です           ▲最後の発表のグループ


201626日(土)

 山林制度について目を通していると、「杣山開墾の件」の記事がある。これまで「杣山開墾地針竿帳」(明治30年1月16日)は、杣山開墾の件としてより「針竿帳」の「針図」から印部石(土手)がいつまで使われたのであろうかの視点で見てきた。「針竿帳」の第一号に「丑未下中 但同村杣山字ウバシ又山開墾地久志間切山界ニアル第弐拾壱号土手ヲ以テ本ト定ム」とあり、竿本は「大宜味間切屋嘉比村外二ヶ村(親田・見里)杣山字ウバシ又山」にあり、印部石(土手)を使っての測量している。その「針竿帳」(副本)には竿本に「字ウバン又山」とあるが、現在の田嘉里にはその小字は見られない。それは小字や印部石(土手)だけのことでなく、杣山の国有化や払い下げに関わってくる。

 「明治26年から30年にかけて旧士族の救済の名目で国頭郡の山林の4000千余町が払いさげられ、開墾に拍車がかかった」とある。「杣山開墾許可及び国有林払下の件」(明治30年、首里士族10名)、大宜味村田嘉里の国有林払下(明治41年)(那覇区6名)、「国有林払い下げの件」(首里・美里村)(大正8年)は、明治の国有林払い下げの一連の流れにあるものであろう。

 それは今帰仁村の平良新助、金武町の當山久三などの「杣山処分問題」に関わるものである。
また、大宜味口説と毬つき唄に大宜味村津波を「禿たる禿山津波城」、「平南なんなん津波禿げ山」と謡われる。津波の禿山は明治26年から30年にかけて旧士族の救済の名目で国頭郡の山林の4000千余町が払いさげられ、開墾に拍車がかかったことと無縁ではなかろう。

明治28年~明治32年の間に以下のように開墾が許可された。
  ・地元間切村   8,972,306
  ・他府県人     8,581,000坪(国頭郡長朝武士干城のが数万坪含まれていた)
  ・首里那覇人   3,69,300
  ・首里華族     1,892,975
  ・地元個人     1,653,700


 ▲「杣山字ウバシ又山開墾針図」(明治30年)(『大宜味村史』(資料編所収)


201625日(金)

 山原(やんばる)をテーマにしたとき、どうしても視点におかなねればならないのが山林である。山林は蔡温の時代以前から山林保護について努力を払っている。「山林制度」について詳細について触れることはできないが、大筋のみ。 
  
  ・尚真王の時代中央集権の制度をしく。各地の按司が首里に定住。そのことで材木の需要が増えた。
   (首里城、地頭家などの邸宅など改築などで材木が大量に必要とした。大和やシナ貿易の造船)
  ・尚豊王時代の山奉行の設置(林務を掌る)
  ・尚質王時代の総山奉行を設置し林務を掌る。
  ・尚質王時代(寛文6年)、羽地朝秀が国相になったとき、森林保護の布達を発する。
      御用木(杉・樫(イヌマキ)の二種を指定)
  ・1666年 森林保護に関する令達(以後何回か出されたようあ)
   一、諸間切より唐竹持夫、此中は山奉行より手間分(賃銭)被相払候得共、此節より進直夫に引
     合可然由相定候事
   一、樫木(いぬまき)松木用木にて候間、奉行所無手形、私に切取致商売儀、堅停止之事
   一、於諸在郷松樫木にて候間事

  ・560年後の蔡温の時代
    山林巡視をし、造林方をしき、杉・広葉杉・イク(モッコク)・ユス(イス)・イジュ・樟・センダンなどを
    仕立(造林・植栽)
    (国内造林をもって建築材、船材、橋梁材、器具材など、需要がみされたと)
    風水が導入され、風水林(禁伐林)、水源涵養林、防風林、風致林、村や山野の周囲の抱護林
    など。海岸では潮垣、山野では猪垣の施設をなす)
    山奉行所の職員
      総山奉行 三名  大屋子 三名
        山奉行 三名  仮筆者 三名
      仮山奉行 三名  加勢筆者 二十名
  ①杣山法式帳〔1737年) 造林、保護、利用等の大要を規定
  ②山奉行所規模帳(1737年) 山奉行の処務、杣山管理、営林の方法、犯則者の罰則を規定
  ③杣山法式仕次(1747年) 杣山法式仕次の追加
  ④樹木播植方法(1747年) 造林方法を指示
  ⑤就杣山総計条々〔1751年) 杣山犯罪に対する将来の方針規定
  ⑥山奉行所規模仕次(1751年)杣山犯罪に対する罰則の追加
  ⑦山奉行所公事帳(1751年) 山奉行以下杣山関係吏員採用法並びにその権限等を規定
  ⑧御差図控(1869年 明治2年) 山林に関する「御差図控」を加えたもの
  ・廃藩置県でこれまでの制度の改廃(林政が緩み、乱伐が為された)
     (①~⑧までを「林政八書」という)
  ・明治17年に旧制度の一部を復活する。
  ・明治32年からの沖縄県土地整理法の発布で、杣山(旧藩時代の公林林)を官有林に編入する規定)
  ・明治26年から30年にかけて旧士族の救済の名目で国頭郡の山林の4000千余町が払いさげられ、開墾
   に拍車がかかった。
  ・明治39年杣山整理処分規定を発布。杣山を存置林と不在置林とに区分し、後者を従来の保護管理の
   慣行を有する間切(村)に払い下げ、明治41年に整理調査し、5万余町歩の杣山は公有林として経営
   される。
  ・明治42年県制施行と同に保安林調査をおこない、三ヵ年で林業の基礎を確定する。
  ・明治40年に沖縄県に森林法を施行される。
  ・大正5年森林法施行細則を制定。法規に準じての指導がなされたが、乱伐は後をたたなかった。
 
   (工事中)

 「樹苗養成」
 沖縄県では民有林野造林助成のため、明治43年依頼大正9年まで樹苗を養成して、苗木の無償配布を行っている。対象10年以降、一時中止して、町村樹苗養成費に補助し、その成績が良好ではなかったので、昭和3年再び県樹苗圃を復活し、名護と小禄の二ヶ所に設置。低価格で以下の苗を配布。
  ・相思樹 ・木麻黄 ・杉 ・樟 ・琉球松 ・センダン

 昭和3年 45000
 昭和4年 27万本
 昭和5年 32万本
 昭和6年 36万本
     (計80万本)

 その頃、水源涵養造林、農地防風林、災害保安林復旧などの


【昭和初期の今帰仁村運天港】

 運天港の護岸は運天番所の石垣を使ったという。間切番所は大正5年に今帰仁村中央部の仲宗根に移転。番所の前にあるコバテイシ(モモタマナ)は今の残っている(左側の大木)。海上には二隻の山原船と前後に舟底のあさいテンマーがある。そのテンマー舟は山原船(本船)と岸を岸を人や荷物を運ぶ。山原船の右手は屋我地島、左手の森の上の方(展望台)はウッパジ(大きな端)である。


 ▲『沖縄案内』所収 島袋源一郎 写真は比嘉昌氏


201624日(木)

 『郭姓家譜』(郭姓四世正信赤嶺親雲上)(16621738年)に以下の記事をみる。康熙50年(1711)に福州商船が今帰仁間切運天に漂着している。

 康熙50年(1711)辛卯の冬、福州商船一隻今帰仁間切運天に飄到す。検見として御横目伊集院市左衛門殿、御付衆名越興右衛門殿、大和横目栢氏平安山親雲上良次、運天に在り。壬辰春、栢氏病ありて暇と告ぐ。此に就き二月五日正信栢氏に代り運天に到る。15日御鎖之側向氏石嶺親雲上朝理。通事高良通事親雲上蔡文河と同に飄船を護送して慶良間島に到り、三月25日飄船開洋して26日帰宅す。

 『尚姓家譜 一世朝春』、向姓二世朝資 東風平按司(16801746年)に、以下の記事がある。
 康熙49年条庚寅七月、今帰仁間切運天村に在りて貢船造茅のため奉行職に任ず。
 本年十月真和志間切亀田地頭職に転ず。十月名を嘉味田と改む。
 康熙4910月、華人船今帰仁間切運天港に剽到し調理の事のため、横目稲津源左衛門殿、御付衆名越興右衛門殿、御双紙庫理毛氏友寄親雲上安乗、正議大夫鄭弘良大嶺親雲上と倶に彼地に赴き輪流して公務を勤む。勤方竣り本月27日回家す。

康熙18年(1679年)
 毛氏八世盛平は、諸地頭を巡監して鬱金、甘蔗を栽植する事のため大宜味、国頭、久志、金武、勝連、具志川六ヶ間切に至り巡監の事畢る。

康熙40年(1701年)
 毛姓九世盛時、嘉陽親雲上を御城中の大美御殿はじめ、以下の絵図や指図奉行に任命している。時の同僚に向氏伊佐親雲上朝僑、筆者は恵氏久高筑登之親雲上友忠、隆氏平安名筑登之親雲上基昌、毛氏澤岻里之子親雲上安盁、王氏眞栄城筑登親雲上徳實などがいる。それらのスタッフを揃えているので「絵図並びに指図奉行職」は、それらの「絵図」は描かれたであろう(当時の「絵図」が残存しているだろうか)。

  ・大美御殿 ・内間御殿 ・内間御殿東御殿 ・西原間切嘉手刈の内間御殿 ・同東御殿 
  ・首里殿内 ・真壁殿内 ・儀保殿内 
  ・平等所 ・玉御殿 ・浦添ヨウドレ ・今帰仁城 ・高嶺城 ・知念城 ・玉城城 ・久高島 ・上天妃 ・下天妃
  ・館屋 ・天尊廟 ・親見世 ・通堂 ・三重城 ・円覚寺 ・天王寺 ・天海寺 ・崇元寺 ・安国寺 ・慈眼院
  ・龍福寺 ・七宮 ・金武寺

 上の「絵図並びに指図奉行職」と直接関係ないであろうが、乾隆8年(1743 3月に「今帰仁城旧城図」(旧針図)が描かれ、同年4月に差し上げられている(図は『具志川家家譜』所収)。

 

            ▲『具志川家家譜』所収より


201623日(水)
 
 今帰仁グスクの桜(カンピザクラ)は間もなく満開となります。他府県から来られる方々は、河川の1kmあるいは、それ以上の桜並木をイメージしてこられます。沖縄のカンピサクラは、それなりの見方があるような。
 

 


201622日(火) 

 数多くの植物を目の前にしているのであるが、その分野では全くの素人。尋ねられても結びつかない。植物について、代表的なものだけでも。説明文の多くは借用である。

・アカギ(カタン) ・リュウキュウマツ 

・コバテイシ
 熱帯や亜熱帯の原産といわれている。梢の頂に叢生した大きな葉は、熱帯的である。古くから墓地
 や広場、馬場などの陰木用として植えられる。材質は強靭なため荷車の車輪、轆轤(ロクロ)細工、柱、
 板などに使われた。

・レイハボク 
・フクギ 
・デイゴ 
・アマキ 
・クロヨナ

・リュウキュウガキ 
 クロボウと呼ばれる喬木である。葉は革質、樹皮は暗黒色。果実はひらたいような球形。熟すると柿の
 実ににている。

・ガヂマル 

・アコウ
 カヂマルに似て、気根が垂れる巨木となる。葉は長さ15cmの大きさで、時々落葉する。落葉の後に
 新芽が出る。黄白色の苞につつまれているが間もなく落下する。ガジマルについで器具や玩具作製
 の材料となる。

・ユウナ(オホハマボウ)
 インドから東南アジアに広く分布し、沖縄に至って生育している。夏になると黄色い美しい花を咲かせ
 る。樹皮は灰色で葉は円く若芽には白柔毛が密生している。材は軽く軟らかいが芯材はしょうしょう丈
 夫で伐採時は鮮紅色をしているが、暗緑色に変色する。樹皮の繊維は縄用にしているが、太平洋諸島
 では魚網に利用し、パラオ群島では婦人の腰巻に利用。セイロン島では綺麗な敷物を造っている。古
 琉球でも衣類の原料になったのではと。 
 

・サキシマハマボウ(タムウリノキ) 

・ハスノハギリ(トクナシ)
 方言でトクナシ、沖縄各地に点々と生育している。よく知られているのは名護市宮里(もと海岸)。
 蓮葉桐林。桐葉のような大形の無毛の葉がしげり、樹皮は灰褐色である。材は桐の代用として
 下駄材となり、嫩葉や種子は下剤に用い、種子の油は燈(ともし)用、石鹸の原料にもなるという。

  ・オホバギ ・クロキ ・オキナハキウチクトウ(ミフクラギ) ・アカバナヒルギ(ヲヒルギ) 
 ・リュウキュウカウガヒ(メヒルギ) ・オホバヒルギ(シロバナヒルギ) ・トウヅルモドキ(サントウ)
 ・リュウキュウカネブ(ワタエビ) ・アダン ・ツルアダン ・ナンテンカヅラ ・ハブカヅラ ・ツキイゲ 
 ・ソテツ ・ヘゴ ・ヤブレサウラボシ