調査記録
(2016年1月〜) 
                                     


2016年1月31日(

 1月30日(土)国頭村与那をゆく。与那公民館(よんな〜館)、アサギマー、神アサギ、与那ノロ殿内、売店前広場、穴川(アナガー)、チニブ(屋敷の竹垣)、集落の道筋、先御川、オンコイ(小広場)、上東門(大城家)と回る。

 与那のろを出したという上門(ウイジョウ:大城家)の位牌を拝見させていただいた。屋敷内に祠があり、ウイナイ・ウィーキの図像がかざられている。上門の位牌には以下の記載がある。

 ノロを出していた上門(大城家)とノロ殿内のノロ位牌、そして佐手にあるノロ墓との関係についての説明が必要。

   雍正四年丙午旧八月六日(1726年)
     一心田(?)禅定門
   帰真 
   大清雍正十五年丁巳旧一月十七日(乾隆二年:17237年)
     壽岳妙春禅女 当六六才


  

 現与那のろ殿内の位牌に、以下のようにある。「禅定尼」(ぜんじょうに)なので女性。18世紀以降の与那ノロの位牌とみられる。のろ家の遺品の簪には鳳凰が彫られている。これまで確認してきた鳳凰が彫られているノロ身分は三十三君クラスである。伊平屋のあんがなし、久米島の君風、宮古の大司などである。ムラクラスののろの簪が鳳凰は、三十三君クラスとなると与那のろが公義のろの一人として就任したとき重要な身分にあったとみることがことができそう。

   ・花岳妙清禅定尼(乾隆35年3月6日死亡 63のろくもい)(1770)
   ・花岳永松禅定尼(乾隆47年9月26日死亡)(1782)
   ・夏岳宗天禅定尼(乾隆59年5月15日死亡)(1794)
   ・唯妙心信女(道光15年12月20日死亡)(1835)
   ・のろくもい(同治11年 明治5年12月20日死亡)(1872)






2016年1月24日(日)

国頭村与那をゆく

 1月24日(旧暦12月15) である日。今冬最低気温(6℃)を示している。今帰仁村の庵の部屋から向かい乙羽岳をガラスの窓越しにながめながら。国頭村の与那についてあれこれ調べてみる。与那はユナと呼び、今帰仁村の与那嶺(ユナーミ)とおなじ意味をもつ地名であろう。

  国頭村与那について、いろいろ思い浮かべているのは1月30日(土)に「与那」について話をするからである。これまで与那の調査は夏場が多い。今回は真冬である。国頭の冬場の風景はどんなものか興味深い。与那は沖縄本島北部の西海岸に近い小さなである。最近西海岸の大宜味村へ足を運ぶことが多いが、西風や北風がまともに吹くときは、潮水が国道を濡らしている。車に潮水がかかり塩害(サビ)が気になる。すぐに洗車しなければ。

・与那の歴史
・与那の集落の形
・与那の海神
・与那ノロの遺品
・与那の神アサギ
・与那のカー
・与那のユアギムイ