2015年1月調査記録
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2015年1月31日(土)
やんばる(山原)の旧家に刀があったことが『沖縄県国頭志』に記されている。また、現在何ヶ所かに刀を散見することができる。ただし、現存している刀について詳細な調査がなされているわけではない。まずは調査から。(時間がないので頭にあるのを)(改めて画像で)
①国頭村安田屋号川口
一尺一寸五分位の短刀一振り
②久志村(現東村)川田の根謝銘屋
絹地の衣類、古刀、黄金かぶの簪など(大正以前に焼失)
③本部村(現本部町)並里上の満名殿内
按司位牌、古櫃の中に古刀三振(大一本二勺七寸、小二本一勺五寸宛)
④今帰仁村謝名の神社
短刀(現存)
⑤諸志の内間御殿の祠
大刀(現存)
⑥大宜味村謝名城
現存
2015年1月27日(火)
午前中、村立兼次小学校6年生(26名)が「北山の歴史」の発表をしてくれました。今帰仁グスクの本丸でやる予定が雨のためグスク交流センター内での発表でした。グスクが出来る前の時代、北山王の時代、監守時代、そして世界遺産、村内の文化財などを26名で分担しての発表。一人ひとりの発表に耳を傾けて聞いてくれました。少しでも自分のものにできたのであればいいですね。これは社会にでてからの宝物です。
沖縄本島北部の東海岸沿いの有銘→慶佐次→平良→川田→宮城→魚泊→高江まで。一番の目的は川田
yannaki.jp-20151memo.html
2003.2.13(木)メモ
2003年2月9日(日)沖縄タイムスで「北山城主」末えいの証し 装飾具勾玉を公表の記事がでた。問い合わせが歴文にもあったので紹介します。北山城主末裔については久志村(現在東村)の川田だけでなく大宜味村田港、名護市の屋部などにもあります。
大正8年に発行された『沖縄県国頭郡志』に次のように紹介されている。
口碑伝説に依れば同家(東村川田の根謝銘屋)の始祖はヒギドキ
(ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして本部村(町)満
名上の殿内の次男なるが、ある事変に際し、一時名護城に移り、こ
より大宜味根謝銘城に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び
伊地村後方の窟に隠遁し更に山中を横切りて川田の山中イエーラ
窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に千五百坪ばかりの畑ありて
当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の
精強く住みよからずとて道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地
に移転せりという。
川田は八十戸数中十数戸を除きたる外皆同家の裔孫にして根謝銘
屋及びその分家なる西の屋(イリヌヤ)、西の根神屋、東の殿(東の比
嘉)、新門(ミージョー)、金細工や、大川端(元ニーブや)の七煙より
分かれたり・・・・・・以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金
かぶの簪等の遺物を保存せしが火災の為め消失して、今は類似の
品を以て之に代へたり。・・・・」
とある。今帰仁城主の末裔の伝承は古くからあり、また旧暦の元旦に行われるタマガワラユエーも行われてきたものである。大正8年以前に絹地の衣類や古刀や黄金の簪などが火災で焼失して、類似の品に代えてある。現在残っている勾玉(水晶玉では?何個か勾玉もあるのか?新聞の写真でははっきりしない)は、『沖縄県国頭郡志』で述べられているように消失し、大正8年頃のものは類似の品だということ。その品物が戦争をくぐりぬけ現在に伝わっているのかもしれない。北山の時代からのものとするには、慎重を期する必要があろう。
もちろん、今帰仁城主の末裔としての伝承を今に伝えていることや一族が大事にしてきた遺品や祭祀も貴重なものである。外にも、そのような伝承や遺品を遺している旧家があり確認してみたいと思う(Y新聞から、記事の勾玉は今帰仁城主(北山王)の末裔のもの?)。
2015年1月23日(金)
大正頃の古宇利島の海神祭について『沖縄県国郡志』(285頁)にある。下の記述と近年行われている海神祭を対比することで、海神祭の変貌が見えてくる。
古宇利島海神祭も同期日にしてノロ、内神、神女十三人の外に男四人、神アシャギに集まり、各戸より一個宛奉げ来れる黍(きび)餅と外に玄米二升とを御膳に供へ、白衣の装束に大弓を持ち七回程廻りたる後、船漕ぎ真似をなし(七回)一人の神女オモロを奏して祈祷を行い(当時オモロは記憶せず)海岸に下り、地頭代掟(代理似ても可)及びノロを舟にのせ縄を寄せては舟を沖へ押しやり、押しやりては又縄を引き寄せかくすること七回に及ぶ。而して後舟を被覆せしめノロ地頭代の一行を苦しめる。これ却って漁獲の多きを祝いせんgな為なりという。而してその翌日より村踊りを行う(七月これを行う故に此村盆踊なし)古来此の島にありては村芝居に際し、東方に向かいて神迎えをなし、また御送りをなすの例あり。
2015年1月22日(木)
根謝銘屋の伝承は史実かどうかについては不明である。しかし、「旧藩丁系図座出仕首里長浜氏の記録」とあるように17世紀中ごろ系図座に提出したが、王府は家譜に認めなかったのではないか。その頃に根強く伝わっていた伝承があったと見られる。根謝銘屋の一族は、それを踏まえて一族の歴史をつづっている。旧正月には一族の神行事があり参加してみたい。近々調整してみる。北山の系統としての根謝銘屋に山原的な祭祀がどう継承されてきているか確認しておきたい。以前「北山と関わる村」として、まとめかけたことがある、それをきっかけに調査をすすめてみる。(正史と言われる歴史、それから外れた野史と言われる歴史。山原を視野に入れて歴史をなぞっていると、正史とは別に首里王府を支えた間切や村々の歴史が非常に面白くなってくる)。
間切名や村名やオモロの世界の話題の多くが、野史(伝承)をベースになっていることに気づかされる。川田の根謝銘屋の調査が出来れば、野史に登場する人物やその生誕地が間切名や村名になっていることがわかる。そのために沖縄の間切や村名の語義の多くが解明できないのはその為ではないか。英雄伝承が間切名や村名になっている(具体的な事例は改めて報告する予定)。今帰仁や大宜味や湧川や運天などの地名の語義が解明できないのは、そのため。
仮に『応氏家譜』や「長浜系図」と言われるものが、首里王府の『家譜』の一つになっていたら、琉球(沖縄)の歴史は大幅な広がり、そして深化したであろうと考えている。
【東村川田屋号根謝銘屋】
『沖縄県国頭郡志』に久志村(現東村)川田の根謝銘屋について以下のように記してある。
口碑伝説に依れば同家の始祖はヒギドキ(ヒゲドキ)と綽名せられ、仲今帰仁城主の子孫にして(前記)本部村満名上の殿内の次男なるが、ある事変に際し一時名護城に移り、これより大宜味根謝銘城に避難し、後国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び伊地村後方の窟に隠遁し、更に山中を横切りて川田の山中イエーラ窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に千五百坪ばかりの畑ありて、当時の開墾に係ると伝う。然るにこの所は昼なお薄暗き森林にて山の精強く住みよからずとて、道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地に移転せりという。
川田は八十戸中十数戸を除きたる外皆同家の後胤孫にして根謝銘屋及びその分家なる西の屋内(イリヌヤ)、西根神屋、東の殿内(東りの比嘉)、新門(ミージョー)、鍛細工屋、大川端(ニーブ屋)の七煙より分かれたり云々、故に村内浜下りには、必ず右の七家より炊き出しをなすの旧例ありしという。以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀および金かぶの簪等の保存せしが、火災のため焼失して、今は類似の品を以って、之に代えたり。同家客間の右方に特に神壇を設けて祖霊を祀る(普通仏壇は次の間にあり)。同家等の由来につきて旧藩庁系図座出仕首里長浜氏の記録によれば以下の如し(略)。
2015年1月21日(水)
『南島覚書』(須藤利一著)の口絵に「氏子算を持つ神人」(国頭具志堅)として具志堅の神ハサーギの写真がある(昭和12年頃)。具志堅は具志堅・上間・真部の三ヶ村の合併である。合併したのは昭和17年である。合併まで具志堅・上間・真部にそれぞれ神ハサーギがあり、合併したときに現在の神ハサーギの場所に神アサギを置いた。写真の神ハサーギは具志堅の神ハサーギである。その場所は今ではウシデークの時の道ジュネーの出発地点となっている(そこでもウシデークをする)。三ヶムラの合併以前の具志堅の神ハサーギである。
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▲合併以前の具志堅の神ハサーギ ▲ハサーギ跡でウシデーック ▲そこからからミチジュネースタート
2015年1月20日(火)
「大正三年十二月二十六日国頭郡長朝武士干城 内務部長永田亀作殿」の文書がある。県立図書館所蔵のようである。戦前の県史編纂史料のようである。「今帰仁村ノ部」に、以下の文書がある。『沖縄県国頭郡志』と『鎌倉喜太郎ノート』にも花ノモウシについて紹介してある。
1、遺物
イ 今泊王代御殿ニ代々伝フモノ
曲玉廿四個内一個ハ大形
水昌百十六個
冠一個、切レギレニナリテ不充分ナリ
玉ノ草履
ロ 今泊ノン殿内ニ伝フルモノ
曲玉大形一個
水昌九十八個ノ内二個ハ旧藩時代鹿児島奉行玉ノ調査ノ名ヲ以テ持チ去りタリト云ヒ伝ヘ
今ハ九十六個アリ
カンザシ一個若按司時代ノモノナリト云ヒ伝フ
ハ 今泊比嘉某宅ニアル馬具
北山王ノ用ヒタルモノナリト云フ伝フ落城ノ際受妾 花ノモウシノ持チ逃ゲシモノト伝ヘ
屋敷内ニ小屋ヲ建テテ祭レリ
2015年1月17日(土)
「今帰仁グスク桜まつり」がスタート。今帰仁グスクの夜景を紹介します。夜のグスクもいいですよ。
2015年1月15日(木)
大正5年の今帰仁諸志の「人口簿」がある。他村から移住してきた人達は旧村(字)が記してある。一部興してみたが、通してみると村(ムラ)内側(当時の世帯主や世帯の人口、門中、他地域から居住した家など)が見えてきそうである。
字諸志 内間□□
字諸志村 石嶺嘉次郎 人口 四人
仝 石嶺嘉助 仝 四人
仝 内間□□ 仝 二人
(〆十人)
字諸志村 内間拇之丞 人口 五人
仝 山城幸重 仝 六人
(〆十一人)
字諸志村 内間又六郎 人口 三人
仝 内間嘉三郎 仝 五人
仝 与那嶺孫三郎 仝 七人
仝 内間マカ 仝 三人
仝 内間貞吉 仝 三人
仝 内間又七郎 仝 五人
(〆二十六人)
字諸志村 内間孝太郎 人口 六人
仝 内間孝松 仝 五人
仝 内間孝保 仝 三人
仝 内間孝喜 仝 三人
屋部村字宮里 内間ウシ 仝 五人
(〆二十一人)
字諸志村 金城武五郎 人口 九人
仝 金城文平 仝 十二人
(〆二十一人)
(15丁分略)
後ろの方には門中の人口もまとめてある。
人口 二十八人 内間蒲三郎門中
仝 五人 孝次郎門中
仝 五人 仲宗根徳盛
仝 三人 与那嶺平助
仝 三十八人 大城藤次郎
仝 二十四人 島袋幸吉
仝 十七人 島袋盛助
仝 八十二人 城間忠太郎
仝 二十一人 比嘉善太郎
(〆二百二十三人)
2015年1月14日(水)
『会計出納簿』(昭和18年8月以降昭和19年12月まで)(今帰仁村西部耕地整理組合)がある。その出納簿を興してみる。書き出しの一部を紹介するが、昭和19年3月26日には「昭和18年食糧増産隊ノ作業ノ時支払い明細別帳に仍る」などの農兵隊の記事が見られる。(食糧増産に関する帳簿が他に二冊ある)
この記事を掲げているのは昭和19年の10・10空襲前後の様子を知るためである。
http--rekibun.jp-201308tyusa.html(参照)
昭和18年7月31日
前会計島袋操氏より繰越金409円
仝人へ会計給料七月分(20円)
帳簿検査の時イカ代内間正茂へ(1円)
8月1日
上間一正へ小使給料七月分(10円)
島袋ナベへ借家料七月分(4円)
平良久保氏へ督励手当並勘定手当(4円80銭)
当間蒲二氏へ現場監督日給
諸志組合へニブ一個代(35銭)
仝上へ茶代現場用(50銭)
金城店へ茶代(30銭)
当間蒲二氏(督励並勘定手当)(4円80銭)
当間蒲二氏へ七月分現場監督手当金(5円)
仝人へ六月分仝上
比嘉徳次郎氏(現場監督日給)
仝人事務加勢三日分(4円50銭)
仝人(4月ヨ7月迄)四ヶ月分現場監督手当(20円)
当間蒲二氏へ字与那嶺人夫賃(17円94銭)
平良久保氏へ字兼次人夫賃(78円92銭)
仲宗根秋幸氏(監督手当並勘定手当)(4円80銭)
仝人へ字今泊人夫賃(70円25銭)
島袋カマダへ布団借受賃(2円60銭)
仲宗根小次郎氏へ七月分給料(35円)
玉城栄松氏諸喜田徳平氏二人よりセメント借受保証金(182円)
内間利吉氏へ、諸志代表人夫賃(86円27銭)
宮城仙三郎氏(七月分給料)(40円)
8月11日
平良久保氏(字与那嶺代表人夫賃)(9円65銭)
当間蒲二氏(与那嶺代表人夫賃)(15円35銭)
仝人へ崎山青年団代理人夫賃(30円60銭)
前会計島袋操氏現会計与那嶺蒲吉二人送迎会の時諸費(昭和19.11.2
島袋ナベより受入、玉城栄松より仝年9月24日受入)(28円80銭)
諸志内間利吉氏(工事人夫賃)(16円10」銭)
8月21日 新聞代六、七月分(2円)
9月1日
山釜排水路補助金(受高 938円60銭)
(以下工事中)
2015年1月10日(金)
今帰仁村謝名について「操り獅子調査報告書」(沖縄県教育委員会:平成21年)で報告したことがある。そこでのまとめから、ムラ・シマの形をみていく。改めてムラの形を見ていくが、古層の集落(ウプシマ)、分離拡張した集落部分、寄留人で形成された集落部分などで謝名ムラ全体が形成されている。
今帰仁村謝名の概況
今帰仁村字謝名は今帰仁村の中部地区にありジャナと呼ばれる。『絵図郷村帳』(1649年)や『琉球国高究帳』(17世紀前半か)で「謝名村」と出てくる。謝名の大島原に御嶽があり、そこは遺跡となっている(ウンジョウヘイ遺跡)。御嶽の後方はグスクンシリー(グスクの後方)と呼ばれ、御嶽がグスクの呼び方がなされる。御嶽の南斜面はグスク系の土器や中国製の陶磁器類が出土している。集落も御嶽の内部から次第に南斜面に発達した痕跡がみられる。現在の集落部分は大島原(ウブシマ)と呼ばれ、御嶽を背にした古島タイプの典型的な集落を形成している。『琉球国由来記』(1713年)にも「謝名村」とあるが、同由来記の「諸間切諸島夫地頭訯ヲエカ人之事」で平田掟がでてくる。後に平田掟は謝名掟となる。平田掟は首里に住む脇地頭でもある。『琉球藩雑記』(琉球藩臣下禄記)をみると「今帰仁間切謝名村作得七石余 平田親雲上」とある。謝名村と首里に住む脇地頭との関係が密接である。そのことが、謝名にアヤーチ(操り獅子)を導入した可能性はありはしないか。
昭和12年に越地が謝名と仲宗根の一部をとって分字する。分字した越地の祭祀は、謝名から分字した住民は謝名、仲宗根から分字した住民は仲宗根の祭祀とかかわる。ただし、謝名も仲宗根も玉城ノロの管轄村である。越地は出身地の祭祀や豊年祭に参加する。
▲上空からみた謝名の大島(ウプシマ)周辺
2.謝名の集落区分
謝名は『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』から「謝名村」と記され、また大島原にはグスク時代以降の複合遺跡があり、集落の発生は極めて古くからある。現在の集落は①ウプシマ、②メーボロ ③ナーボロ ④ウイジャナ の四つに分かれる。分字した越地はフイジである。僅かな人家のあるスーダはウプシマに含まれる。謝名は①東仲原 ②西仲原 ③頭原 ④伊佐那覇原 ⑤大島原 ⑥東大棚原 ⑦謝名俣原 ⑧前田原 ⑨西大棚原 ⑩上手名原 ⑪大久保原 ⑫真良地原 ⑬迫田原 ⑭美謝原 ⑮前原 ⑯乙羽原の16の小字からなる。
集落があるのは、東仲原と西仲原でナーボロ(ナカバル)、大島原にウプシマ、前原にメーボロ、そして上手名原にウイジャナの集落がある。ウプシマは御嶽や神アサギなど拝所があり、謝名村の発祥と関わる古島タイプの集落である。ナーボロ(ナカバル)はウプシマからの移動や分家筋の人々が集落を形成している。集落は整然とした区画がみられる。格子状(あるいは碁盤状)の形をした部分があり、近世の移動集落である。集落の形成は近世になされたようで、フイヤーやメーフイヤー、フイチヤーなどの屋号の家があり、地頭代や間切役人を勤めている。メーボロはウプシマやナーボロからの移住者で形成された分散型の集落である。ウイジャナは山手から降りてきた寄留人が形成した散在型の集落である。
明治13年の人口は平民が642人、士族が230人で士族の比率は26.4%である。今帰仁間切の士族の比率が19.9%なので、今帰仁間切全体より士族が多い村である。明治36年の『砂糖消費税法改正之儀ニ付請願』の謝名村の我那覇・伊是名・幸喜・宮里の姓は士族である。宮里姓は分字した越地に多い。謝名のアヤーチ(操り獅子)の謝名への導入がいつのことがはっきりしない。平田村掟(謝名村掟)の脇地頭の平田親雲上のこと、そして明治36年にすでに地割に参加できた寄留士族、それら士族の方々がアヤーチ(操り獅子)を持ち込み、村踊(ムラウドゥイ:豊年祭)に組み入れたのではないか。その可能性が大である。因みに湧川の路次楽は寄留士族によって村踊(ムラウドゥイ:豊年祭)に導入されたものである。
2015年1月9日(金)
『沖縄県国頭郡志』(大正8年発行)に「花の真牛」について紹介してある。
真牛も乙樽と同じくその年代を詳にせずと雖も、王妃となりし才媛なりきという。城内祭礼には今も猶ほ花の真牛とて絢爛なる七つ重ねの礼装をなして式典に臨む一の神職あり。乙樽と共に今帰仁ノロクモイに伴従す。その祭典に用いし馬具一式は古筐に納めて字今泊比嘉某の家に保存せり。右の神職は即ちその一族同姓中より出づ、之を以て考ふるに真牛も亦当時の神職の一人ならん」(363~64頁)。
花真牛について『鎌倉喜太郎ノート』に旧八月十日(城折目)の神役の中に「花真牛以下四名」とあり、花真牛の存在は明らかである。これまで比嘉某家について手がかりをつかむことができなかった。30年前家譜調査をしたことがある。その家譜を見せていただいた家が比嘉家のようである。その新参家譜の系統と比嘉家とどう結びつくのか全体を通してみないとわからないが、比嘉家の家譜の一部を掲げてみる。馬具の一式や古筐などが遺っていないか確認してみたい。
2015年1月8日(木)
昭和40年代に体験した今帰仁村謝名の大島(ウプシマ)周辺での祭祀を思い起こしてみる。謝名での年中祭祀をあげてみる。祭祀を流れで押さえてみることに。謝名の祭祀を管轄するノロは玉城ノロ。玉城ノロが四ヶムラの祭祀と関わるのはウプユミのみである。その流れは玉城→(謝名を通過)→平敷→謝名→仲宗根→玉城の順である。謝名の他の祭祀は謝名の神人を中心とした祭祀である。
1月(初ウガン)
根神殿内→オミヤ(謝名神社・ウタキ)→桃原家→仲原家→世神殿内→シカ→区民館
2月(ウマチー)(旧暦2月15日)
神アサギ
3月(ウチマチ)旧暦3月15日
神アサギ
4月(タキヌウガン)(旧暦4月15日)
玉城のスムチナウタキ→サンケーモー
麦御願(旧暦4月の大安の日)(旧暦5月15日)
オミヤの後(イベ)→桃原家の東側→仲原家の門の側の石→神アサギの東側→神アサギ
5月(ウマチー:稲穂のウガン)
神アサギ
6月(ウチマチ)(旧暦6月15日)
神アサギ
ウユミ(旧暦6月25日)
神アサギ→世神殿内
7月(大折目:ウプユミ)(旧暦7月の後の亥の日)
桃原家の庭→桃原家の東門→神アサギ
8月(八月十日のウガン)(旧暦8月」10日)
桃原家の庭→桃原家の神門側からオミヤへ遥拝(下の画像)→神アサギ
十五夜(旧暦8月15日)
根神ドゥンチ→オミヤ→桃原家→仲原家→神アサギ→世神殿内→シカー→公民館
9月(九月のウガン)(旧暦9月の最後の大安の日)
オミヤの後(イベ)→桃原家の東側→仲原家の門の横→神アサギの東側
10月神行事なし
11月(ウンネーウガン)(旧暦11月15日)
桃原家→神アサギ
12月(フトゥチウガン)(旧暦12月24日)
年神殿内→オミヤ→桃原家→仲原家→世神殿内→公民館
▲オミヤ(謝名神社:ウタキ・グスク)へのウガミ ▲根神殿内でのウガミ(神人は祠内)
▲根神殿内でのウガミ
2015年1月5日(月)
20151のうごきメモ
あけましておめでとうございます。12月28日から1月4日まで、実家の竹垣(チニブ?)の設置作業。そこには住んでいないので竹垣で名所にでもしようかと。周辺に神アサギ、旧家の火神の祠が4軒、そして旧集落(ウプシマ:大島)の後方(北側)にウタキ(グスク)がある。ウタキを背に南斜面に集落が発達する。少なくjともグスク時代から現在までの複合遺跡の地域である。ウタキの中に謝名神社(昭和9年)に建立される。オミヤと呼んでいる。オミヤに各所にあった拝所を合祀したのであるが、それまでの拝所も復活、あるいはそのまま拝まれている。
今帰仁村謝名では今年豊年祭の当り年である。老朽化した神アサギを造りかえるとの話が耳にはいる。神アサギの側にある実家(仲原家)もムラのために少しは貢献しなければならない。そのこともあっての竹垣(チニブ)設置である。完成までもう少しですが、通る人たちの声がおもしろい。「アサギの側にある家が元気があると嬉しくなるさ」、「写真とっていいですか」とか。先輩方からいろいろご指導も。(すみません、時間と材料の都合で・・・)
手作業なので両手は二回、三回と皮がむけ、豆だらけ。
▲女竹で設置中 ▲チンブク竹の残り物で
▲完成間近の様子