【今帰仁グスクと親泊】
今帰仁グスクの麓に親泊がある。現在今泊となっているが、今帰仁と親泊が統合して今泊となっている。その親泊は今帰仁グスクが機能していた頃の港(津)だったに違いない。泊はトゥマイのことで舟が碇泊することであろう。親はウェーやエーなどと発音され、「りっぱな」な「大きな」の意がありそう。すると親泊は「りっぱな碇泊地」あるいは「大きな碇泊地」だったと見られる。
それが村名(ムラメイ)として親泊と名付けられたのではないか。親泊集落の東側にチェーグチ(津屋口)の地名があるが、津口(港)に由来している。そこには今帰仁グスクで監守を勤めて第三世和賢が葬られている津屋口墓がある。
現在の今泊集落の西側にシバンティーナの浜近くのナートゥ(港)、そして東側にナガナートゥ(長い港)があり、そこも港として使われたのであろう。今帰仁グスクから出土する中国製の陶磁器類がどのような経路で搬入されたのか。この親泊という港と結びつけて考える必要はある。しかし大型の船の出入りは狭いリーフの切れ目のクチから不可能にちかい。ならば、どのような経路で搬入されたのか。考えて見る必要がありそう。あるいは、今の常識を超える搬入の経路や方法があったのか。考えさせられることが多い。
これらの港地名の着く場所が港として機能したことは間違いなかろう。ただし、小さな舟が発着した程度の津だったのではないか。海上はリーフが広がり、一部にクチが開いているにるにしぎない。その小さなクチから進貢船や冊封船などのような大型の船の出入りは不可能である。大型の船は運天港や那覇港など他の港に停泊し、そこから小舟で荷物の運搬をし、その発着場としての役割を果たしていたと見られる。
▲志慶真川の下流域(ミヂパイ) ▲津屋口付近
▲東側から見たナガナートゥ(長い港) ▲西側から見たナガナートゥ
【千代金丸と志慶真川】(水はり:ミヂパイ)(『琉球国由来記』 1713年)
「折節、山北王、本門の向敵、過半討ふせぎ、殿中に入て見れば、妻子悉く、自害せり。依之、城内の鎮所、カナヒヤブと云う盤石あり。夫れに向て申様は、代々守護神と頼しに、今我於敗亡には、汝と共に亡んとて、千代金丸と云う。刀を抜て、彼の鎮所を十文字に切刻、其刀を以て、自腹を切らんとすれば、誠に名刀とかや。主を害するに忍ばず、釖鈍刀と成て、敢彼膚に立たず、然故、志慶間(真)川原と云う所に釖捨、別刀を以て釖自害す。
その後千代金丸、志慶真川原より流下、親泊村の東、水はりと云川原に流止、夜々光輝天に。伊平屋人、是を見て、不思議に思へ、態々渡来、見るに、水中釖あり。則捕揚げ、持ち帰りければ、従此光止ける。名釖たることを知て、中山王に献上す。干今、王府の宝物、テガネ丸御腰物、是なり。但千代金丸と云つつ、替への由、申也。干今、カナヒヤブと云鎮所者、差渡五尺計の黒石にてありけるを、千代金丸を以て、十文字に切刻たる旧跡、有之也。