山原(やんばる)再び踏査
 トップへ             ―大宜味村―

 2002年に大宜味村を踏査しています。10年余が経っており、変貌したものがいくつもあるが、ここにそのまま掲載し、振り返ってみます。そこでも物事は変わっていくものだとつくづく実感させられています。

2002.1.8(火)

 昨日(7日)、沖縄県北部(山原)にある大宜味村の津波・塩屋・屋古・田港、そして白浜の順で回ってきた。一時、雨に降られたが調査に支障なし。今回の大宜味ゆきは、「大宜味村の神アサギ」をホームページで立ち上げるための撮影と確認調査でもある。過去の調査ノートもあるが、それは別にして報告する。山原のムラ・シマを歩いていると、その「土地」や「人」がいつも何か語りかけてくる。それがなんであるのか、まだしっかりとつかんでいるわけではないが、不思議と楽しいものがある。と、同時に厳しく、時には鋭くに胸に突き刺さる場合がある。楽しみと厳しさに誘われて大宜味村の南側の字(ムラ・シマ)歩いてみた。それは昨日のメモです(スケッチや図や写真は略)。

 ・津波......神アサギ(平成10年に新築)・旧県道・公民館・石垣のある屋敷・根神屋
       (オハイフ屋?)・原石(井 つは原)・山道・ウイバルガー・原石(ユ あさ
       加原)など。(津波は平成10年のムラ・シマ講座で訪ねたことがある)
       (まとまった報告をしたいが別に譲ることにする)
 ・塩屋.....神アサギ・アサギナー・鳥居のある祠など。
 ・屋古......神アサギ(タモト木あり)・ハーリー小屋(ハーリーは修理中か。小屋にナ
       シ)神アサギの後方に祠あり。アサギ庭に礎石らしい石あり。屋根裏に
       先の尖った棒が数多く置かれている(クムーを張るのに使う棒か)。
 ・田港......神アサギ・回りに桜の木あり。タモト木ナシ。屋根の棟木に「紫微鑾駕」
       (シビランカ)あり。神アサギの建立年1958年?タモト木、香炉ナシ。ヌルド
       ゥンチ・根神屋(平成12年6月改築)
 ・白浜......新しく神アサギが建立されている(1999年建立)戦後、渡野喜屋から白浜
       へ改称。『琉球国由来記』(1713年)には登場しない村。 

 大宜味ムラの南側の字(ムラ)を上に掲げたキーワードを手にムラの成り立ちをみてきた。まずはムラの方々の目の高さで。御嶽(ウタキ)―神アサギ―集落という軸線に歴史を噛み合わせ、さらに俯瞰的に見ていきたい。その一つ一つはシリーズで報告する。(写真や図も取り込みたいが、パソコンの容量が十分でないため、もうしばらくお待ち願いたい)。


2002.1.16(水)の動き

 15日(火)大宜味村の北寄りの根路銘・大宜味・大兼久・謝名城をゆく。拘束されずの調査は楽しいものがある。天気は曇。ときどき小雨。11時頃から国道58号線を北上する。大宜味村の安根(アンネ)のバス停に車を止め、今帰仁からの道筋を振り返ってみた。安根から名護方面を見て、まず左手に大宜味村の山、旧羽地、そして名護の山が幾重にと重なって見える。名護の市街地から伊差川に至る部分は低く平らとなっている。そこから右手に本部半島が伸びる。しばらく台地状の地形となっている。嵐山一帯である。嵐山の丘陵地の後方に嘉津宇岳と八重岳が一段と高くみえる。再び低い丘陵地があり、その右手に本部半島の満名川を挟んで本部町の今帰仁よりの山々と今帰仁村のパサンチヂやタキンチヂ・乙羽山の山並みへとつづく。さらに右側にいくとクボウの御嶽と馬鞍山(マンクラヤマ)の山並みが識別できる。クボウの御嶽の手前に今帰仁グスク、そして歴史文化センターがある。さらに右手に目をやると運天、手前の屋我地島の島がある。そして運古海峡(古宇利大橋の架設中)、古宇利島へと続く(写真の方が一目瞭然だが)。

 さて、長くなったがその風景は国頭や大宜味の人達にとって今帰仁グスクがどう写るのか。国頭地方の人々の内面やその言葉にある時代を映していやしないだろうか。時々、そんなことを考えながら北のムラへ足を運ぶ。「沖縄の歴史」の三山鼎立時代の話をするのだが、具体的に今帰仁グスクを拠点にした12〜15世紀の北山(山北)王が国頭や羽地、名護、金武地方をどのように支配し統治していたのか。まだ、その姿が見えてこないのである。もし、国頭や羽地地方のムラやグスクが今帰仁グスクの北山王に物を献上したり、貢租を納めていたのか。あるいは今帰仁グスクへの勤めがあったのか。そういうことがあったとしたら国頭地方の役人(?)や人々は、今帰仁グスクへの勤めを果たしての帰路、大宜味の安根あたりから今帰仁グスクをあたりを振り向きながら、役目を果たして満足感を味わっていたのか、それとも重い貢租や暴君などに怒りや涙していたのか。

 普段、今帰仁グスクのすぐ側で業務していると、三山鼎立時代の今帰仁以外の人々の動きや今帰仁グスクをみる視点がどういうものであったのか気になるところである。そういうこともあって、大宜味や国頭地方へと調査の足を向けているのである。

 神アサギの調査は別に報告するので、大宜味村大宜味の「霊魂之塔」と「根謝銘グスク」について報告することにする。

 大宜味の「霊魂之塔」(戦後の建立)は前から気にしていた塔である。というのは、塔の石は今帰仁村運天にある「源為朝公上陸之跡」の碑と同質の花崗岩である。明治7年国頭間切の宜名真沖で座礁したイギリス商船の船底に敷いたバラストだという。座礁したイギリス船員の墓地が宜名真にありオランダ墓と呼んでいる。霊魂之塔の向かって右横に「大正十年十一月大宜味村立之」とあり、忠魂碑建立の年である。裏面はセメントが塗られ「忠魂碑」の文字が刻まれていた跡がある。大正十一年に忠魂碑が建立され同年十二月十三日に忠魂碑の除幕式を行っている。向って左横に「元帥公爵山縣有朋」(下線部は埋まっている)とあり、揮毫は山形有朋である。因みに源為朝上陸之跡碑は元帥東郷平八郎である。その忠魂碑を利用して「霊魂之塔」を建立(戦後)してあるが、「忠魂碑」を再利用して「霊魂之塔」を。どんな議論がなされたのだろうか?
 


2002.1.17(木)の動き

 (前日から続)大宜味村の役場のある大兼久から喜如嘉を通り、急ぎで謝名城へと車を走らせた。途中、国道沿いの芭蕉畑でウーハギ(粕高ャ)をしていた。剥いだウーを束ねたのが所々に置いてある。ウーを剥ぎ取る時期なのだろうか。夏場ウーを剥いでいる場面に立ち会ったことがあるので、必ずしもウーハギの時期は決まっているわけでもないのかもしれない。冬場が質のいい糸がとれるのかもしれない。そんな勝手なことを思い浮かべながら喜如嘉の集落を抜けて謝名城へと向った。

 かつての一名代と根謝銘もゆっくりと歩いてみたいのだが、天気と夕暮れの時間もあって根謝銘グスクへと急いだ。根謝銘グスクは大宜味村謝名城にある。根謝銘グスクは国頭地方(後の間切)の中心となったグスクである。謝名城は明治36年に根謝銘・一名代・城の三つの村から一字づつとって名付けた字名である。

 まず、ヌンドゥンチ(ノロ家)を訪ねた。とは言っても無人の建物である。各地から訪ねてくる人がいるのであろうか、お賽銭箱や芳名録が置いてあり、火神を祀ってある壁に親切に「のろ御神」と張り紙がしてある。

 根神人をなさっていた大城茂子さんが元気な頃、ヌンドゥンチで二、三度お会いしたことがある。また、歴史文化センターにも来館されたことが思い出された。ヌンドゥンチの側に「奉寄進」と彫られた香炉(二基)が置いてある。年号と寄進した人の名もある。しかし磨耗しているため判読しにくい。確か、その年号は『球陽』の記事と一致した人物と年号だったように記憶している。二、三の香炉の年号と『球陽』の記事と一致しているため「奉寄進」の香炉は旅をするときに御嶽などの拝所に寄進し、航海(旅)の安全を祈願したのではないか。帰ってきたら、無事に帰国できたことへの感謝で寄進したにちがいないと考えるようなった。その発想を授かった香炉であるため、いつも感謝している。

 ヌンドゥンチから細い道を通り、根謝銘グスクへ登った。途中に「ゑ くすく原」の原石があったが、二、三年前からその場所からなくなっている。(どこかに保管してあればいいのだが......)しばらく行くとコンクリートの祠がある。内部は二分され火神が祀られている。コンクリートの壁に「トンチニーズ」と「ウドンニーズ」とある。また「一九五二年八月改築」とある。そこから喜如嘉の集落とかつての水田地帯、その向うに大兼久の海岸が見通せる場所である。海神祭のとき、この場所から喜如嘉の海岸に向って両手をあげて御願(神送り?)をする場所でもある。

 さらにグスクの中心部への急な坂道を登っていくと神アサギへたどり着く。グスク内にある神アサギの一つである。山原には根謝銘グスクをはじめ、親川グスク(羽地)・名護グスク、そして今帰仁グスクなど代表的なグスクのいずれにもグスク内部に神アサギがある(あった)。それは神アサギやグスクを考える重要なキーワードの一つである。山原の村々の神アサギを追いかけている目的はそこにある。さらにグスクで行われている祭祀から国家成立後、国家成立以前について考える手がかりとなる(そのことについては別に述べる)。 

 さて、グスクや神アサギについては深く述べないが、根謝銘グスクは歴史文化センターの根幹に関わる考え方を生み出した場所である。「現在の祭祀や出来事を記録していくこと、その記録は歴史史料になりうる」ということ。「学問は物事をひもといていく目的ではなく、手段である」ということへつながっていくスタートの場所である。根謝銘グスクを訪れるたびに調査研究の原点に引き戻される。

 もう17年前なるだろうか。初めて謝名城の海神祭へ誘われた。調査や研究をするというものではなかった。当時、歴史を中心にまとめていたので自分自身の中で民俗学とは一線を画していた。そのため海神祭の参与観察記録をしようなど全く考えていなかったし、感心もなかったように思う。海神祭の祭祀を見学したのであるが、全く意味を解していなかったし、多分記録もとっていないであろう。根謝銘グスクでの祭祀を見学し、全く理解できなかったことがずっと頭にこびりついていた。そのことが平成元年四月からスタートした資料館(博物館)づくりへと連動していく。そのころまとめたのが「古宇利の海神祭―歴史的な視点から―」(1990年)、「今帰仁村今泊の海神祭」(1991年)である。

 17年前の根謝銘グスクでの海神祭(ウンガミ)の体験が後々の歴史文化センターの柱となる考え方や方針へと結びついていった。この頃、よく知る人は「そんなに急いで.....」と言ってくれる。有り難い言葉である。これまでいただいたものは、その地(ムラ)に人に一つ一つ返していく作業である。返すどころか、それ以上にいただくものが多い。


 これまで山原(沖縄本島北部)の踏査を20年余り続けてきた。三、四年に一度は訪れないと、変貌に驚かされる。訪れたムラ・シマを紹介することに。

 源河(現名護市:旧羽地間切)から入り、@源河に合併したA瀬洲へ。かつての大宜味間切(現大宜味村)の@津波、津波に統合されたC平南へ。それから塩屋湾岸のD白浜(かつての渡喜屋)、E大保、F田港、G屋古、H宮城まで。

【2013年3月17日】

 名護市(旧羽地間切)の源河から入る。現在の源河に、瀬洲村が統合されている。その痕跡を見つけることができるのではないかと。

【名護市:旧羽地間切】

 『琉球国由来記』(1713年)での羽地間切の村は、@瀬洲村 A源河村 B真喜屋村 C中(仲)尾次村 D川上村 E中(仲)尾村 F田井等村 G伊指(差)川村 H我部祖河村 I古嘉知(古河知)村 J振慶名村 K呉河(我)村 L我部村 M屋我村 N饒辺(平)名村 O済井出村 P谷田村 Q松田村 である。今回は源河と瀬洲の二つの村のみ。


@【源河】
 『琉球国由来記』(1713年)の源河村に、上城嶽、野国ニヤ嶽、源河巫火神、神アシアゲが登場する。現在のお宮のある森はクーグシク。そこに拝所が合祀されているようだ。お宮の内部の区分は源河村と瀬洲村の統合を示しているのか。この拝所は昭和2年と同3年に建立されている。その時に合祀したのであろうが、元の拝所も残されている。しかし、源河の神アサギの痕跡が遺されていない。




A【源河(瀬洲)】
 『琉球国由来記』(1713年)の瀬洲村に源河之嶽?、掟神火神、神アシアゲが出てくる。瀬洲村は1689年に源河村に統合されたという(球陽)が、由来記では、まだ瀬洲村と源河村が独立して登場。瀬洲の集落は現集落の山手中腹から下に移動しているという。



【大宜味村】

 大宜味間切(現在の大宜味村)は国頭間切と羽地間切の一部を割いて創設される。当初田港間切、後に大宜味間切となる。『琉球国由来記』(1713年)段階の大宜味間切の村は、城村、根謝銘村、喜如嘉村、大宜味村、田湊村、塩屋村、津波村、平南村、平良村、屋古前田村、川田村、饒波村、根路銘村の12村である。『琉球国由来記』(1713年)の頃、川田村と平良村が大宜味間切であるが、康熙58年(1719)から久志間切りへ。両村は久志間切が創設される(1672年)までは名護間切の村であった時代もある。

 大宜味間切で注目を引くのは、他の間切では按司や惣地頭が参加する祭祀の村は間切名と同じ村や間切番所のあった村であるが、大宜味間切は異なっている。大宜味間切で按司や惣地頭が祭祀で参加する村は、城村、喜如嘉村、屋古前田村、田湊村(ノロ火神)である。城村と喜如嘉村は城ノロ管轄の祭祀の村、屋古前田村と田湊村(ノロ)は田港ノロ管轄の村である。

 大宜味間切の番所があった村は、田港村(田港間切)、大宜味村(大宜味間切と改称)、塩屋村(間切名の改称なし)である。その影響か。城村に按司や惣地頭が祭祀と関わるのは、田港(大宜味)間切が国頭間切からの分割でり、分割以前の国頭間切の番所があった村は城村(根謝銘グスク:ウイグスク)であった痕跡なのかもしれない。


@津波
 津波村は1673年以前が羽地間切、その後大宜味(田港)間切の村。『琉球国由来記』(1713年)にテクフ嶽、津波城嶽、石城嶽がある。また津波巫火神と神アシアゲがある。津波城嶽(津波グスク)と石城嶽、津波ノロ火神、そして神アシアゲは特定することができる。テクフ嶽はオハイフ拝所のある後方の森か。

 オハイソ屋(旧家跡か)の前の斜面に「井 つは原」の印部石(原石)が現存する。石城嶽の前にお宮(イベ)があり、その右手の下方に神アシアゲ(アサギ)がある。現在の神アサギは平成11年に再建されている。

 津波村は平南村が統合された村で、神アサギの建物は一つであるが、内部で津波神アサギと平南神アサギで分かれている。平南神アサギは移動してきたので、故地から礎石を四個移してきたという。


     ▲津波公民館           ▲お宮(石城嶽のイベ)と神アサギ、お宮の内部(イベ)


  ▲津波(左)と平南(右)の神アサギ         ▲津波のヌルガー      ▲「井 つは原」の印部石

A津波(平南)
 『琉球国由来記』(1713年)に「アザカ森」(平南村)が登場するが、神アシアゲは出てこない。現在の津波域にアザカ原があり、そこに「ユ あさ加原」の印部石(原石)があり、アザカ森やアザカ原の場所は平南村域だったことがわかる。


   ▲津波(左)と平南(右)の神アサギ     ▲平南村神アサギの礎石  ▲「ユ あさあ加原」の印部石 


B白浜(渡野喜屋)



E大保




F田港







 ノロに関する興味をそそる資料がある。明治36年の土地整理でノロのノロクモイ地も処分されたが、そのかわり一種の年金で補償した。昭和10年でもまだ継承されていることが確認できる資料である。今帰仁村の玉城ノロや中城ノロ、岸本ノロ、それと羽地間切仲尾や真喜屋などにも同様な資料がある。ここでは大宜味村『塩屋・ウンガミ』所収の田港ノロの「ノロクモイ襲職届(写)」を掲げておく。いずれ詳細な解説を加えることにする。

      
ノロクモイ襲職届(写)
        字田港六百八十七番地戸主
          前ノロクモイ(亡)当山ウシ
           安政六年一月一日生
        字田港六百七十二番地
          戸主勇三郎二女
        現ノロクモイ襲職者松本トヨ
          大正九年十一月二日生

    前ノロクモイ当山ウシ儀昭和八年一月丗
    一日死亡ニ付キ同人兄ノ孫トヨヘノロク
    モイ就職致シ候ニ付前ノロクモイウシノ
    死亡届旧ノロクモイノ戸籍謄本並ニ新
    旧ノロクモイ系図相添ヘ此段及御届候也
       
       昭和十年三月十二日
         字田港六八七番地同居者
         届人当山ウト
           明治二拾八年五月十九日生
       字田港六二七番地戸主勇三郎二女
       届出人ノロクモイ就職者松トヨ
          大正九年十一月二日生



G屋古


     ▲屋古の神アサギ          ▲屋古のハーリー舟       ▲屋古の集落外れのビジュル

H塩屋
 『琉球国由来記』(1713年)に塩屋村の御嶽は「ヨリアゲ嶽」と出てくる。現在の中之山公園」である。大正12年に竣工した碑(セメント)に「當拝所ハ狭隘ニシテ腐朽甚ダシキニヨリ改築移転ノ計ニ定メ大正十一年十一月二十八日在郷軍人塩屋班員起工ヲ手始ニ戸主青年会青年団婦女会処女会各員一致協力ト有志ノ後援ニヨリ六十有余日ノ日子ヲ費シ大正十二年一月二十八日竣工 塩屋中之山拝所 中之山公園」とある。

 それは御嶽のイベを祠にし、御嶽そのものを中之山公園にしたものである。イベまでを階段にし、八合目あたりからイベ、さらに頂上部まで桜が植樹してある。


▲塩屋湾に突き出たハーミジョウ     ▲塩屋の御嶽(イベ)への階段とイベの祠


   ▲鳥居のある拝所       ▲塩づくりの拝所       ▲塩屋の神アサギ


  ▲ハーミジョウから眺めた塩屋の御嶽      ▲塩屋御嶽に対峙したハーミジョウ


▲ハーミジョウから学校(番所跡)を眺める

I宮城



  (工事中)